【創作大賞2026応募作品】君の横顔に触れるまで
あらすじ:おはようまでの距離
新宿三丁目の裏路地で、編集系の会社の後輩・小野寺紗月は、昼は距離を保つ先輩・朝倉悠人が夜だけ見せるやわらかな横顔に惹かれていく。終電前の路地、深夜のカフェ、雨の相合傘。手前で止まる会話が、二人の呼吸を少しずつそろえる。ホームの端で数える息、白いハンカチの折り目が、目に見えない合図になる。
やがて仕事の齟齬と沈黙が二人を離し、街の光が冷たくなる。数日後の深夜、届いた一行の呼び出しが、助けずに居合わせるという夜の倫理を思い出させる。階段の上で待ち、端に立ち、頼ると言い換える夜が静かに続く。
夜がひらく瞬間、紗月は放っておけないと告げ、悠人は夜明け前に「好き」を置く。おはようまで、と重なる二文字の余白に、体温がたしかに重なり、恋のかたちが静かに結ばれる。
第1章:街灯に触れる影
会社の蛍光灯が落ちてフロアが薄い影に変わるころ、エレベーターの鏡は昼間の顔を引きずる自分を小さく映した。鏡に触れれば冷たいだろうと思ったが、触れはしない。扉が開く音に背を押されるようにロビーに出る。自動ドアの先に溜まっている夜気は、昼間の余熱をどこかに隠して、代わりに湿りをひとすじ残していた。排気と古い木の匂い、焦がした醤油、遠くの油の匂い。それらが層になって鼻の内側に薄い膜をつくる。ビルを出て、歩道をひとつ渡る。信号は青で、歩き出す人の影が長く伸びる。夏の名残とも冬の手前とも決めきれない温度。ジャケットの薄さを少しだけ悔やむが、歩けば身体は思い出したように温まるはずだと知っている。
「駅、こっちから行きますか?」
朝倉先輩の声は昼よりも角が取れている。電話越しや会議室で聞くそれと違って、舗装の上で小さく跳ね、すぐに沈む。私はうなずいた。彼の黒いコートは肩で静かに形を保ち、手には薄い封筒が一つ。歩幅は大きいのに、私の速度に合わせる術を知っている足取りだった。
「表の通りは混んでます。裏のほうが速いです」
「裏、ですか?」
「新宿三丁目の細い道。看板が近いところ」
「行ったこと、あるような、ないような」
信号をもうひとつ越えると、喧騒は減り、音が細くなる。看板の明かりは目線の高さに降りてきて、金属のシャッターは昼の熱をすっかり落としていた。提灯の橙が雨粒のように並び、濡れているのか乾いているのか判断できないアスファルトが足裏でかすかに弾む。居酒屋の引き戸が開くたび、笑い声と焼き網の匂いが外に滑り出る。ガラス戸の内側で誰かが手を振り、名前を呼んでいる。私の名前ではない。
「さっきの入稿、助かりました」
「紗月さんの段取りがよかった。数字の並びもきれいだった」
「数字がきれいだと、心が落ち着きます」
「俺は、メールの文面が固くなった気がして、少し反省してる」
「固かったですか?」
「昼の俺は、どうしても四角くなる。言葉をつなぐ角が尖る。夜は……少し丸くなるのかもしれない」
歩道の端に置かれた空き瓶が、風の向きで小さく鳴った。私は笑いかけて、やめた。笑いはすぐに曖昧になる。代わりに息を吸う。消えかけた香水の匂いが通り過ぎる。見知らぬ誰かが通った余韻だけが、しばらく残る。
「昼の朝倉先輩、私は嫌いじゃないです」
「助かる。昼の紗月さんも、助かってる。電話の前の黙り方がちょうどいい」
「ちょうどいい黙り方ってあります?」
「ある。言い訳を挟む余地がないほど短くもなく、気まずさを連れてくるほど長くもない長さ。たぶん、癖なんだろうけど」
「癖、ですか?」
「悪い意味じゃない」
「いい意味で受け取ります」
角を曲がる。石の壁に沿って、細長い店が続く。階段を下りる扉の前から煙が上がり、低い音楽が漏れてきた。タクシーが一台、すぐそばを通っていく。ヘッドライトが看板の裏側の埃を照らし、紙の切れ端が少し浮いた。私のスカートの裾に風が触れ、ふくらはぎに夜の冷たさが滑る。
「この道、前にも通りましたよね」
「前か。いつだったかな」
「たぶん、雨のあと。水たまりに赤い灯りが落ちて、跳ねたしずくで靴が少し染まったとき」
「覚えてる」
「先輩が、白いハンカチを貸してくれた」
「返してもらってない」
「洗って返そうと持ち歩いてたら、いつのまにか鞄の奥のほうで冬を越してしまって」
「冬を越すのは、悪くない。ハンカチも四季を知った」
「夜は、そういうことを言う」
「昼なら言わない」
「昼の先輩は、言葉が必要な分だけ出てくる」
「必要じゃない分は、夜に回してるのかも」
自転車が後ろから来て、ベルがひとつ鳴った。狭い道だったので、私は壁のほうに身を寄せる。滑るように過ぎるタイヤ。すれ違いざまの風がコートの袖を揺らし、その端が私の指に触れた。生地越しの温度はすぐに消えたが、皮膚の内側で遅れて何かが反応する。
「危ない」
朝倉先輩が半歩だけ前に出る。前に出たというより、線を引き直したみたいだった。誰がどこを歩くのかはっきりすることで、見えないぶつかり合いが避けられる。私はうなずく。うなずきは暗がりでは見えにくい。だから、軽く息を吐く。息は音で伝わる。互いの速度が揃う。
「今日の校了、正直ぎりぎりでした」
「ぎりぎりで間に合わせたものは、ぎりぎりでしか評価されない。でも、間に合わないよりはずっといい」
「間に合わせたい気持ちと、崩したくない気持ちが、いつも肩で押し合ってる」
「それが仕事だと言ったら冷たいけど、事実でもある」
「冷たさは嫌いじゃないです。夜は、冷たさをそのまま冷たさとして受け入れやすい」
「昼は、冷たさに名前を付けようとするからね。まとめと言い換えと配慮で角を包む」
「包むの、得意です」
「知ってる。だから、頼りにしてる」
それきりしばらく、会話は歩幅と同じくらいの速度で間を空ける。冷蔵ケースの低い唸りが耳の奥に残り、店先に貼られたポスターの端が風にあおられて音を立てる。金属の匂いが強くなって、駅が近いのだと思う。改札の方角に向かう人たちの流れは細い。最後の列車に間に合わせようとする足取りは、迷わない。
「紗月さん」
「はい」
「夜の顔、というと大げさだけど、さっきの会議室から出るとき、ふと横を向いた瞬間の表情が、昼と違って見えた」
「違って見える?」
「視線の先に、空気が広がっていくような顔。昼は目の焦点が近くにある。スマホの画面とか、資料の一行とか。でも、夜はもう少し遠くに置いているみたいに見える」
「そんな顔、していました?」
「してた。嫌いじゃない」
「嫌いじゃない、の言い方が、夜の言い方ですね」
「昼は、もっと短く言う。よかった、とか」
「夜は曖昧さを残しても叱られない」
「その曖昧さに助けられることもある」
「たとえば」
「たとえば、少しだけ仕事の話から離れて、別の話を差し込む余地」
「別の話」
朝倉先輩は前を見た。視線の先に、小さなカフェがある。ガラス越しに柔らかい光が漏れていて、木のカウンターの上にはレモンの輪切りが入った瓶と、欠けた白いマグカップが並んでいる。スツールに腰掛けた女性が一人、文庫本を開いている。客の少ない時間帯の空気は薄く、奥の棚から流れてくる音楽が、ガラスに当たって微かに跳ね返る。
「あのカフェ、遅くまで開いてるんですね」
「終電の少しあとまで。たぶん、駅に人が吸い込まれるのを見届けてから閉めるんだと思う」
「見届けるために開けている感じ、あります」
「俺はまだ入ったことがない」
「私は、一度だけ。雨を避け損ねて、たまたま」
「どんな感じだった」
「静かで、熱すぎない。カップの縁が厚くて、持っていると落ち着く。店主は、目の高さを合わせて会釈するような人でした」
「今も、空いてる」
「でも今日は、間に合いそうです。終電に」
「間に合わなかったら、寄ろう」
「寄ったら、終電をひとつやり過ごすことになります」
「やり過ごすのも、悪くない夜がある」
「今日は、どっちでしょう」
「紗月さんは、どっちにしたい」
「今は、聞くだけにします」
「ずるい」
「夜は、ずるいを受け止める余白がある」
笑いの気配が横で揺れ、街灯の光が彼の頬に浅い影を作った。昼間の顔の線が柔らかくなる瞬間は、いつも不意にやってくる。私はその変化を見逃したくなくて、少しだけ顔を向ける。横顔という言葉が意識の表面に浮かんで、消えない。横顔は正面よりも親密さを持つことがある。真正面の視線よりも、少しだけ無防備だからかもしれない。
「メールの件、さっき言ってましたけど」
「うん」
「固いって自覚があるなら、少し崩すのはどうですか。言い換えよりも、間を入れるとか」
「間、か」
「文章にも息が必要です。読んでいる体が呼吸できるように」
「紗月さんの言い方は、よくわかるようで、少しだけわからない」
「少しだけわからないくらいが、夜の正解です」
「なるほど」
また自転車が通る。今度はベルは鳴らなかった。ハブの微かな唸りと、風切りの音だけが残った。路地の先でシャッターが下りる音がする。大きな金属の板が導軌に沿って降りていく鈍い響き。店内の灯りが細くなり、隙間から出た光が地面に長方形の薄い帯を作る。それがすぐに消える。消えたあとに目が慣れるまでの、短い暗さ。私たちはそこで少しだけ歩みを緩める。緩めた歩みの温度で、さっきの会話の温度が決まる。
「昼は、誰にどの距離で言葉を渡すかばかり考えてしまうんです」
「そういう仕事だから」
「そうですね。でも、夜は距離よりも温度で思い出すことがある。さっきの会議室で、先輩が資料を一枚めくったときに、紙の音が少しだけ高かった。急いでるときの音でした」
「そうか」
「それで、帰りに声をかけようと思いました」
「声をかけられて、よかった」
「よかったって、昼の言い方です」
「ありがとう。じゃあ、夜の言い方で言うと……助かった、かな」
「夜の助かったは、低い」
「低い声は、夜が似合う」
「紗月さんも、夜が似合う」
「似合うって、服みたいですね」
「似合うものは、姿勢をきれいにする。夜を着る姿勢がある」
「それは褒めすぎです」
「褒めるのも、夜の仕事」
前から来た男が電話をしながら歩いてきて、肩がぶつかりそうになる。朝倉先輩がひじで軽く線を描くように私の前に手を出し、進路をすこしだけ変える。触れたのは空気だけなのに、指先まで血が行き渡るのが遅れて分かる。私の手の甲が自分の身体ではないみたいに淡く熱い。触れていないのに触れた記憶が残るのは、夜のせいだろうか。
「駅、もうすぐですね」
「音が近い。レールの響きが足元から来る」
「終電の気配って、どうして少し焦らせるんでしょう」
「目に見えない締め切りだから。締め切りは、足音がないと怖い」
「でも、聞こえる。こういう夜は」
「聞こえるね」
ガードレールの向こうに降りる階段の入口が現れる。階段の上には黄色い明かりがあり、その周りだけ空気が浅く温かい。段差に沿って貼られた注意書きの文字は少し剥がれ、角が丸くなっている。そこを下りると改札の匂いが近づく。金属の匂い、風の通り道の匂い、パン屋の残り香。人の声の高さが変わり、足音が平たい音にまとめられていく。
「今日は、あのカフェに寄らないほうがいいかもしれない」
「どうして」
「寄ってしまうと、たぶん、終電をひとつやり過ごす。そのこと自体は問題ない。でも、今日に限っては、やり過ごさないほうがいい」
「判断が、夜のわりに実務的」
「実務は夜にもついてくる」
「じゃあ、実務に従いましょう」
「明日は朝から会議だし」
「知ってます。資料、先ほど送っておきました」
「見た。ありがとう」
会釈みたいに短い会話が続く。階段の手すりは冷え切っていて、指を滑らせるのはやめる。代わりに、コートのポケットに手を入れる。布地の内側の温かさは、太もものあたりで止まり、そこから先が夜に残される。改札の手前で、少しだけ立ち止まる人たちがいる。誰かにメッセージを送り、返信を待つ人。乗り換え案内を確かめる人。切符の買い方を相談している観光客。言葉と言葉がぶつからないように、皆が方向を選んでいる。
「紗月さん」
「はい」
「さっき、横を向いたときに、思ったことがある」
「何を」
「横顔、という言葉の重さは、夜に増すんだなって」
「重さ、ですか?」
「真正面では伝わらないことが、横からだと伝わる。守ろうとしている線や、疲れが宿るところ、無意識の気配……そういうものが、横に置かれている」
「私の横顔に、何がありました」
「言葉にしにくい。だから、言葉にしないで持って帰るよ」
「持って帰るんですか?」
「落とし物にしたくない」
「落とされたら拾います」
「拾われるのは、少し恥ずかしい」
「私も、同じです」
会話はそこで短く切れる。切れたまま、悪くない。駅のスピーカーが低い音で何かを告げ、ホームで風が走るのが見える。改札機のランプが点滅し、通り抜ける人の顔に少しの焦りと安堵を交互に映す。私は定期を取り出し、朝倉先輩のほうを見る。彼は私を見る。視線がぶつかる前に、互いが少しだけ角度をずらす。正面ではなく、斜めから。
「今日は、助かりました」
「いえ。先輩が、夜に余白をくれたから、私は昼の固さをほどけた気がします」
「余白」
「余白があると、呼吸が合う」
「呼吸、か」
「歩幅と同じです」
「じゃあ、また」
「また」
同じ言葉でも、昼と夜では重さが変わる。同じ二文字なのに、置かれた場所が違うだけで意味が少し入れ替わる。改札の向こう側の空気は少し乾いていて、こちら側の空気はまだ湿りを残している。私は改札に吸い込まれる前にもう一度振り返る。路地の出口のほうに、朝倉先輩の姿がある。彼はその場に立ち、視線を少しだけ落としている。顔を動かすと、光が位置を変え、頬の線に沿って細い明るさが走る。彼の横顔が夜のなかに浮かぶ。昼間の線より柔らかく、でも消えていない線。
私の足は改札に向かいながら、意識だけがその横顔のあたりに留まっている。留まっている意識の影が、胸の内側に落ちる。熱くはないのに、熱がある。小さな種火みたいなものが、だれにも見えないところで静かに起き上がる。誰に見せるでもなく、当分は自分の持ち物として抱えるもの。恋という言葉を口にするには早すぎる。だから、言葉を付けないまま運ぶ。運ぶあいだに形が変わるものは、信じていい気がする。
改札を抜け、階段を降りる。風が上から下へと滑り、髪の毛の一本が頬に触れる。切符売り場の時計は見ない。時計は夜を平らにしてしまう。ホームに着くと、端のほうのベンチに人が少しだけ。線路の向こう側に来る風が黒く、鉄の匂いが濃い。電車の光がトンネルの奥で揺れ、やがて安定する。到着を告げる音が流れ、人が立つ。私は立たない。列はまだ短い。数歩分の余白が私の前にある。余白のなかに、さっきの会話の音が残っている。その音を聞き分けるように、呼吸を整える。
電車が滑り込む。ブレーキの音が床を伝い、足元に薄く振動が広がる。扉が開いて、暖かい空気が溢れる。私は一歩だけ踏み出し、振り向かない。振り向かないことが、今夜の唯一の選択かもしれないと思いながら。座席の端に腰を下ろす。広告の白がまぶしく、目を細める。車内の匂いは人いきれと洗剤の混ざったもの。窓の外にさっきの路地はもう見えない。見えないことは、なくなることと同じではない。消えたものは、体のどこかで違う形になる。
発車の音がして、電車が動き出す。ホームの柱が後ろへ流れる。見送りの人影が歪み、まっすぐに戻る前に視界の外へ消える。手の中のスマートフォンが震えた気がして、画面を見たけれど、何も来ていなかった。錯覚は夜に多い。錯覚は必ずしも悪くない。夜は、現実の輪郭を少しだけ柔らかくする。柔らかくなった輪郭の内側に、人の気持ちは隠れやすい。
私は目を閉じる。閉じたまぶたの裏に、横顔が残っている。横顔は正面の記憶より先に色を失うが、形は長持ちする。輪郭の線が頭の内側に細く描かれ、呼吸に合わせて微かに揺れる。揺れが落ち着いたころ、電車は次の駅に着く。人が乗ってきて、座席の温度が変わる。肩が少し触れ、触れたことに気づかないふりをする。ふりをしているうちに、本当になかったことになるかもしれない。ならないかもしれない。それでいいと思う。
夜は、終わる準備を始めている。街の灯りはまだ十分に残っているのに、空のどこかが薄く冷えていく。冷えの層の上に、明日の朝の気配が静かに置かれる。置かれた気配はまだ誰も背負わない。私は何も背負わずに、座席に身体を預ける。預けた身体の重さが戻ってきて、足先にたまる。今日の仕事の数字や文面が脳の端でぼやけ、別のものがくっきりする。彼の指先の軌道。私の呼吸の長さ。カフェのガラスの明るさ。階段の手すりの冷たさ。シャッターの音。どれも取りこぼしたくない。取りこぼしたくないものは、たいてい言葉になりにくい。
終点の手前で、私は軽く息を吐く。吐いた息はすぐに混じり合って、車内の空気に溶ける。電車は停まり、私は立つ。足元が確かめるように床を押す。降りた先のホームはさっきよりも人が少なく、明るさが均一だ。階段を上がり、改札を抜ける。地上に出る扉が開くと、夜は少しだけ薄くなっている。薄くなった夜に、私の横顔は溶け込みやすいのかもしれない。誰にも見られない顔を、誰にも見せないまま家へ向かう。歩くたび、胸の内側で小さな何かが形を変える。形が変わる過程を、私は今夜は見張らない。見張らないことが、見逃さないことにつながる夜もあるから。
鍵を回し、部屋の灯りをつける。空気は冷えていて、窓辺に置いた観葉植物の葉が静かに戻る。鞄を置き、コートを椅子にかける。靴を脱いで床に足を置く。柔らかさが足裏に広がる。冷蔵庫を開けるか迷って、開けない。水道の蛇口を少しひねって、コップに水を入れる。冷たい水が喉を通る。喉を通った冷たさが胃のあたりに落ちて、そこから薄く広がる。その広がりに、さっきの路地の気配が重なる。重なりは誤差みたいに小さいが、無視はできない。
テーブルの片隅に、白いハンカチがある。洗って畳んで、しばらく動かしていない。端に小さな糸のほつれ。手に取ると、布はきちんと冷えていて、紙よりも少しだけ柔らかい。返すタイミングはいつでも作れる。作らないことを選んでいるのは、私だ。選んでいることを認めるのは、夜のほうが楽だ。夜は、自分の選択に薄い光を当て、輪郭だけを見せてくれる。
窓の外に、電車が遠くを走る音がする。距離があるのに、はっきり聞こえる。線路は見えない。見えないものは、音だけで想像できる。想像は勝手に膨らむから、たぶん危険だ。危険が全部悪いわけでもない。私はコップを流しに置き、灯りを落とす。暗くなった部屋に目が慣れ、輪郭が戻る。ベッドに横になり、目を閉じる。横顔という言葉が、頭の中で静かに立ち上がる。私の横顔。朝倉先輩の横顔。どちらも、夜にしか見えない線を持っている。その線に触れるまで、私はたぶん、この街の夜を歩き続けるだろう。歩くことが、触れることの手前にある唯一のやり方だから。
-完-
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