日本式経営批判序説――暗黙知、EQ、「腹落ち」と腹芸
はじめに
腹落ちさせる。
腹を割って話す。
相手の腹を探る。
腹に一物ある。
最後は腹芸でまとめる。
日本企業は、いったい何を腹で処理しているのか。
人間には脳がある。組織には、規則、職務、権限、予算、契約、議事録がある。意思決定の理由を説明し、誰が決め、誰が実行し、誰が責任を負うのかを明らかにするための制度もある。
それでも、日本企業は重要なことほど腹で処理したがる。
方針を理解しただけでは足りない。腹落ちしなければならない。
会議で意見を述べただけでは足りない。相手の腹を読まなければならない。
正式な権限を行使するだけでは足りない。根回しをして、関係者の感情を整えなければならない。
命令として実行させるのではなく、本人が自発的に納得したことにしなければならない。
腹とか、マジ知らんがな。
だが、これは単に日本語の身体比喩が気持ち悪いという話ではない。
「腹落ち」は、理解、納得、同意、感情的受容、実行意思、服従を一つにまとめる言葉である。本来なら別々に確認されるべきものを、説明不能な身体感覚へ圧縮する。
頭では理解している。しかし腹落ちしていない。
この文章が成立するということは、論理的な理解よりも、腹で感じる受容の方が上位に置かれているということである。
制度上の問題を理解した。方針の意図も分かった。だが、費用対効果が合わない。責任と権限が一致していない。現場の人員では実行できない。
そう説明しても、「まだ腹落ちしていない」と処理できる。
反対意見は論理として検討されず、反対者の内面に残された未処理の感情として診断される。
本稿で問うのは、この構造である。
日本企業は、職務、権限、責任、評価基準を十分に明文化しなかった費用を、なぜ成員の人格、感情、関係調整能力へ負担させてきたのか。
なぜ組織設計上の欠陥が、主体性、コミュニケーション能力、巻き込み力、EQ、「腹落ち」の不足として個人へ帰責されるのか。
この問いは、日本的経営論、組織論、労働社会学、感情労働論、知識社会学、職業教育論にまたがる。
それぞれの領域には豊富な研究がある。
だが、組織が形式化しなかったものを、個人の人格と感情に負担させる一つの過程として、それらは十分に統合されていない。
本稿は、その空白地帯を示すための序説である。
1960年代から80年代にかけて、書名に「序説」を掲げる本は珍しくなかった。
好意的に見れば、まず研究計画と基本概念を提示し、博士論文やその後の研究生活を通じて本論を積み上げるという意思表示だったのかもしれない。
本稿も、その程度の大言壮語はしておく。
ぼくが続きを書いてもよい。
誰かが研究として引き取ってもよい。
重要なのは、まず対象を発見することである。
1 日本式経営は何によって動いてきたのか
日本式経営を、日本人の精神性や民族的性格だけで説明してはならない。
戦後の日本企業は、複数の制度を相互に組み合わせることで成立していた。
長期雇用。
新卒一括採用。
年功的な昇進と処遇。
企業内訓練。
配置転換とジョブローテーション。
職務範囲の曖昧な総合職。
企業特殊的な技能。
企業別労働組合。
長期的な人間関係。
部署や職位を越えた非公式な情報共有。
これらはばらばらの慣行ではない。
職務内容を限定せず、人を企業へ採用する。企業が必要に応じて配置し、長期間かけて内部で育成する。労働者は企業内で幅広い経験を積み、企業独自の技術、手順、人間関係、意思決定の癖を学ぶ。
その代わり、企業は長期的な雇用と昇進を提供する。
職務が明確でなくても、誰が何を知り、誰に話を通し、どこまで事前に調整すれば物事が進むかを、成員が経験によって学習する。
この構造は、何も考えない前近代的集団ではなかった。
中根千枝は、日本社会で人間が職業や資格などの「属性」よりも、会社や学校といった「場」によって編成されることを示した。
ロナルド・ドーアは、日本企業を文化的な奇習としてではなく、雇用、訓練、福祉、昇進、帰属を包括する制度的な企業共同体として比較した。
青木昌彦は、日本企業の情報構造を、単純な上意下達ではなく、現場の単位が水平的に情報を共有し、上位者が調停する仕組みとしてモデル化した。
野中郁次郎は、個人と組織に蓄積された暗黙知が、共同経験、対話、概念化、実践を通じて組織的な知識へ変換される過程を描いた。
これらの議論には、それぞれ違いがある。
だが共通しているのは、日本企業が明文化された職務記述と契約だけではなく、長期的関係、企業内技能、文脈共有、非公式な調整によって動いてきたという認識である。
そして、その仕組みが機能した時代は確かにあった。
安定した製造業。
長期にわたる設備と技術の改善。
現場に蓄積される微細な技能。
同じ企業内で繰り返される共同作業。
製品品質を高める継続的な改善活動。
こうした条件では、職務境界を越えて問題を拾い、明文化されていない異常を発見し、現場同士で情報を調整する能力が競争力になり得る。
その時代の日本企業を、後からすべて無意味だったと断じる必要はない。
問題は、日本式経営が一度も機能しなかったことではない。
何が、どの条件で機能していたのかを限定しなかったことである。
2 強みはどこで硬直性へ反転したのか
暗黙知は強みである。
そう言われる。
だが、必ずしも強みではない。
共有された文脈は、説明の手間を減らす。
しかし、その文脈を持たない外部人材には参入障壁になる。
柔軟な職務範囲は、部署間の隙間を埋める。
しかし、失敗時に誰が責任を負うのか分からなくなる。
水平的な情報共有は、現場の知識を意思決定へ反映する。
しかし、決定権者が判断を避け、関係者全員の納得を待つ仕組みにもなる。
長期的な企業内育成は、熟練を蓄積する。
しかし、外部で育成された専門家を正当に評価できない制度にもなる。
ジョブローテーションは、企業全体を理解する人材を作る。
しかし、何の専門家なのか分からない管理職を大量生産することもある。
暗黙知は、言葉や手順書にできない高度な知識である場合がある。
同時に、単に誰も説明してこなかっただけの慣行である場合もある。
「言語化できない」と「言語化していない」は違う。
「現場でなければ分からない」と「体系的に教育する仕組みがない」も違う。
企業特殊的な知識が、特定条件の下で高い価値を持つことはある。
しかし、外部へ移転できず、比較できず、監査できず、他社から入った専門家にも説明できないなら、それは競争優位であると同時に、閉鎖知でもある。
野中の暗黙知論を否定する必要はない。
問うべきなのは境界条件である。
暗黙知は、いつ競争優位で、いつ企業特殊的な閉鎖知になるのか。
水平的調整は、いつ柔軟性で、いつ責任回避になるのか。
長期育成は、いつ技能蓄積で、いつ外部専門性の排除になるのか。
組織への包摂は、いつ安定した共同体で、いつ労働者を企業内部へ閉じ込める装置になるのか。
この問題は、コア・コンピタンス論にも共通する。
成功企業を調べ、その企業に特徴的な能力を見つける。
それをコア・コンピタンスと呼び、その企業が成功した原因と説明する。
しかし環境が変化し、同じ能力が適応を妨げると、今度はコア・リジディティと呼ばれる。
成功したときには中核能力。
失敗したときには中核硬直性。
それでは、結果を見た後に名前を付け直しているだけではないか。
成功も失敗も説明できる。
だが、事前には何が能力で何が硬直性なのか分からない。
経営学の概念には、このような事後的な物語化が入りやすい。
日本企業の暗黙知も、Japan as Number Oneの時代には強みとして語られ、その後の停滞期には閉鎖性や意思決定の遅さとして語られる。
必要なのは、呼び名を変えることではない。
反転条件を明らかにすることである。
もちろん、日本経済の長期停滞を組織論だけで説明することはできない。
金融政策。
財政政策。
人口動態。
為替。
国際競争。
デジタル化。
産業構造。
設備投資。
これらを無視して、日本企業の腹芸だけで失われた数十年を説明するのは無理である。
だが、外部環境が変わったとき、日本企業がなぜ専門性、職務、経営責任を明示する方向へ十分に移行できなかったのかは、組織論の問題として残る。
成功した制度は、それを支えた環境が消えた後も残る。
そこに経路依存性がある。
そして、制度を変更できない組織は、制度上の矛盾を個人へ負担させ始める。
3 経営学は、輸入される前からスピっている
ここで一つ、単純な日本特殊論を避けなければならない。
合理的で明晰な英米経営理論を、日本企業が日本文化によって歪めた。
そういう話ではない。
輸入される経営知の側も、最初からかなり歪んでいる。
この点は、前稿「組織論・経営学はどこでスピるのか――学習する組織、デザイン思考、ニューロマーケティング」で論じた。
経営学ができるのは、特定の条件の下で、何が、なぜ、どのように機能したかを説明することである。
複雑な現実を整理する補助線を引く。
制度や意思決定の選択肢を示す。
成功だけでなく、失敗の機構を記述する。
それでよい。
問題は、限定された理論が普遍法則のような顔をすることだ。
企業経営には、物理学のような安定した閉鎖系がない。
顧客が変わる。
競合が反応する。
規制が変わる。
技術が変わる。
従業員が理論を知れば、その理論を前提に行動を変える。
ある企業の成功法則を他社が模倣すれば、競争条件そのものが変化する。
それでも経営者、学生、コンサルタントは、「条件次第です」では満足しない。
成功する組織の法則が欲しい。
優れたリーダーの条件が欲しい。
イノベーションを生む方法が欲しい。
そこで、限定的な知見が大きな物語になる。
成功企業を集め、共通する文化、理念、行動を抽出し、その特徴が成功を生んだと説明する。
同じ特徴を持ちながら失敗した企業は見ない。
成功したから、経営者が賢く、企業文化が強く、従業員が主体的に見えている可能性も検討しない。
失敗研究も同じである。
失敗した後では、あらゆる出来事が失敗の兆候に見える。
中央集権的だったから失敗した。
分権的すぎたから失敗した。
現場を重視しすぎた。
現場を無視した。
壁があったから失敗した。
壁を壊したから失敗した。
どちらでも物語を作れる。
限定された技法も万能化する。
デザイン思考は、製品やサービスの設計に利用できる技法である。
だが、付箋とワークショップで、組織文化、社会問題、行政、教育まで変革できるかのように膨張する。
アジャイルは、ソフトウェア開発における具体的な開発規律を持っていた。
だが、やがて開発手法から組織文化へ、組織文化から人間の在り方へ拡張される。
doing agileではなくbeing agileだと言い始める。
何を開発するかではなく、存在様式の話になる。
心理概念も経営化する。
EQ。
心理的安全性。
マインドフルネス。
エンゲージメント。
限定された構成概念が、優れたリーダー、良いチーム、創造的な企業、幸福な人間を一括して説明する語彙になる。
学習する組織、ティール組織、パーパス経営のような変革論は、失敗しても傷つきにくい。
本当に理念が浸透していなかった。
十分に内面化されていなかった。
経営者の覚悟が足りなかった。
組織がまだ変容の途中だった。
理論ではなく、実践者の精神状態が原因にされる。
科学的権威も借用される。
ニューロマーケティングでは、限定された刺激に対する視線、皮膚電気反応、脳波、脳活動を測定する。
ここまではよい。
だが、それが「消費者本人も知らない本音」「脳が示す真の欲望」へ膨張する。
脳が無意識の背後世界になる。
このように、限定された理論、技法、測定結果が境界条件を失い、組織や人間全体を変容させる世界観へ膨張する。
制度、権限、資源、責任、因果関係の問題を飛ばし、意識、共感、文化、ビジョン、創造性、無意識、変容へ逃げる。
これを、ぼくは経営学がスピると呼んでいる。
今回の問いは、そのようにしてすでにスピった経営知が、日本企業へ輸入されたとき、何が起きたかである。
4 歪んだ経営知は、日本でさらに人格と腹へ落ちる
英語圏の経営知と日本式経営は、対立したのではない。
互いの欠陥を増幅した。
英語圏の経営知は、制度上の問題を心理と内面変容へ置き換える。
日本企業は、それをさらに、主体性、巻き込み力、自分事化、浸透、人間力、腹落ち、腹芸、空気を読む力へ置き換える。
ここには三段階がある。
第一段階。
英語圏の学術研究で、特定条件下の限定的な関連や技法が示される。
第二段階。
ビジネス書、コンサルティング、企業研修を通じ、限定条件が落とされる。
第三段階。
日本企業のメンバーシップ型雇用、暗黙的調整、人格評価と結合し、日本固有の組織語彙へ再文脈化される。
たとえば、英語にはunderstanding、agreement、acceptance、commitment、compliance、buy-in、alignment、internalizationなどの言葉がある。
もちろん、英語圏の実務でも意味は混ざる。
だが、言葉としては区別できる。
理解したのか。
同意したのか。
受け入れたのか。
実行を約束したのか。
命令に従うのか。
日本語の「腹落ち」は、それらを一つの腹へ落とす。
方針を理解した。
だが反対である。
命令としては実行する。
しかし自分の価値観とは一致しない。
このような状態を、組織は認めたがらない。
決定を理解するだけでなく、自分の意思として感情的に受容することまで要求する。
命令ではなく、自発的な賛同だったことにしたい。
服従ではなく、本人が腹落ちしたことにしたい。
同じことは、能力概念にも起きる。
英語圏のコンピテンシー論自体が曖昧であっても、日本企業ではさらに、
主体性。
巻き込み力。
調整力。
傾聴力。
共感力。
人間力。
といった包括的な人格評価へ広がる。
日本企業は、輸入経営知のうち、職務分析、権限設計、責任分界、職業資格の標準化に使える部分よりも、共感、文化、内面化、変容を強調する部分を選択的に受容してきたのではないか。
なぜなら、その方が既存の組織構造と相性がよいからである。
職務を明示しなくてよい。
権限を明示しなくてよい。
命令であることを認めなくてよい。
制度を変更しなくてよい。
個人の意識と関係性を変えればよいことになる。
もともとスピりやすい経営知が、もともと暗黙性と内面調整へ依存する日本企業へ輸入され、相互にスピ化した。
これが、本稿の中心仮説である。
5 職務を定義せず、人格を測る
日本企業は、年功的処遇を修正し、能力や成果を評価しようとした。
方向だけを見れば、不自然ではない。
勤続年数が長いというだけで昇進し、賃金が上がる制度には限界がある。
しかし、成果を評価するには、まず職務を定義しなければならない。
どの権限を持つのか。
何を決定できるのか。
どの成果に責任を負うのか。
どの資源を使えるのか。
他部署との境界はどこか。
失敗した場合、誰の判断を検証するのか。
日本企業は、そこを十分に定義しないまま、「能力」や「成果」だけを測ろうとした。
測定対象がない。
一つの成果に、複数部署が関与する。
本人の努力と、市場環境と、上司の判断と、前任者の蓄積を分離できない。
管理職にも明示された決定権がなく、根回しと上位者の了承によって動く。
この状態で客観的な成果評価を導入しようとすれば、最後は人間そのものを評価するしかない。
コンピテンシー。
ポテンシャル。
主体性。
巻き込み力。
コミュニケーション能力。
リーダーシップ。
人間力。
EQ。
これは、年功制から成果主義への転換ではない。
年功的な人格評価を、疑似科学的な人格評価へ更新しただけである。
以前は、会社への忠誠、勤続、上司との関係、社内経験によって人を評価した。
その後は、主体性、共感力、対人能力、将来性といった項目を設け、点数を付ける。
外観は近代化した。
だが、職務ではなく人を評価する構造は変わっていない。
EQは、その象徴である。
詳しくは「EQの不都合な真実」で論じた。
EQは、学術的に一つの確立された指数ではない。
能力型EI、特性型EI、ゴールマン型の混合概念は、構成も測定方法も違う。
特性型EIは、ビッグファイブなど既存の性格特性と強く重複する。
能力型EIにも、増分妥当性と正答決定方法の問題がある。
ゴールマン型EQは、感情を扱う能力、性格、意欲、価値観、対人技能、自己啓発的な徳目を混ぜたものである。
それにもかかわらず、EQという名前にはQが付いている。
IQのように、人間の能力を一つの数値で測定できるかのような外観がある。
ここが、人事にとって都合がよかった。
職務を定義できない。
成果を分解できない。
専門性を企業横断的に評価できない。
しかし、人材評価を客観化したように見せたい。
そこにEQが入る。
経営は、測定対象を定義しなかった。
人事は、定義されていないものを測定できるように装った。
コンサルタントは、コンピテンシーやEQという測定商品を供給した。
心理学と経営学は、それに学術的な外観を与えた。
企業人事の怠慢である。
そして、その人事制度を設計・承認した経営の過失である。
6 暗黙的組織の運営費用は、誰が負担したのか
暗黙的調整は無償ではない。
上司の意図を先回りする。
部署間の空白を埋める。
責任者のいない仕事を拾う。
正式な権限を持たないまま、関係者を説得する。
対立を表面化させず、相手の感情を損なわない形へ調整する。
経営方針を現場の言葉へ翻訳する。
現場の不満を経営側が受け入れられる言葉へ弱める。
誰も決めたくない問題について、全員が納得したように見える結論を作る。
これは労働である。
だが、正式な職務として認識されにくい。
「部署間調整に週十時間を要した」と記録されるのではない。
調整できる人は、コミュニケーション能力が高いと言われる。
相手の意図を先回りできる人は、EQが高いと言われる。
制度の穴を自発的に埋める人は、主体性があると言われる。
他人を感情的に受容させられる人は、巻き込み力があると言われる。
逆に、それをしない人は、能力不足とされる。
担当外だから対応しない。
権限がないから判断しない。
根拠がないから賛成しない。
職務記述と契約を基準にすれば正当な態度でも、日本企業では協調性がない、当事者意識がない、腹落ちしていないと評価される。
組織設計の欠陥が、個人の能力不足へ変換される。
そして、善意と調整能力のある人ほど制度の穴を埋める。
穴が埋まるため、制度欠陥は表面化しない。
補修者だけが疲労する。
組織は、その人を高く評価するかもしれない。
だが、評価だけで負担は消えない。
誰かが退職する。
休職する。
異動する。
その瞬間、それまで個人の善意で隠されていた仕事が噴き出す。
すると組織は、後任に同じ人格的能力を要求する。
仕組みを直すのではない。
次の「気が利く人」を探す。
ここで「腹落ち」は、特に重要な統治装置になる。
合理的な反対は、「まだ腹落ちしていない状態」と診断される。
方針の妥当性ではなく、反対者の感情的受容が問題にされる。
失敗した後には、「現場へ十分に浸透していなかった」と説明できる。
方針が間違っていたのではない。
経営判断が遅かったのでもない。
人員と予算が不足していたのでもない。
現場の腹落ちが足りなかった。
理論も経営者も無傷である。
傷つくのは、腹落ちできなかった現場だけだ。
7 ドイツは技能を企業内部に閉じ込めなかった
日本との比較対象として、ドイツはかなり使える。
もちろん、ドイツを理想国家として丸ごと輸入する話ではない。
学校段階でのトラック分化が早すぎ、家庭環境や社会階層を固定しやすいという批判はある。
この点は、日本共和制論の複線型トラック論でも留保した。
必要なのは、早期固定ではない。
戻れること。
移れること。
学び直せること。
その上で、ドイツの職業教育と労働市場には、日本が参照すべき構造がある。
企業横断的な職業資格。
徒弟、職人、マイスターといった技能認証。
企業と職業学校を組み合わせるデュアルシステム。
職種、資格、技能等級を基礎にした賃金。
産業別の労働協約。
企業を移っても失われにくい技能評価。
重要なのは、技能と報酬が、一企業の主観的な人事評価だけに閉じていないことである。
日本の現場労働者にも、高度な技能を持つ者はいる。
その会社の設備を知り尽くしている。
異常音だけで故障箇所を推定できる。
品質上の微細な変化を発見できる。
熟練の価値は高い。
しかし、その技能が会社の外で共通言語化されていなければ、企業を離れた瞬間に評価を失う。
社内では不可欠である。
だが、企業に対しては弱い。
転職すれば、技能の証明からやり直さなければならない。
賃金も下がるかもしれない。
だから、理不尽な配置や処遇にも耐える。
これに対し、企業横断的に認証された技能は持ち運べる。
別の企業でも職業能力として通用する。
ポータブルな技能は、単なる転職の便宜ではない。
労働者が企業に対して持つ交渉力の基礎である。
年功的な報酬をすべて否定する必要もない。
技能は、経験によって高まる。
安定的に熟練を蓄積する仕事には、経験段階に応じた賃金上昇があってよい。
問題は、同じ会社へ長く所属し、上司に評価され、社内の空気へ適応したから賃金が上がることである。
技能職なら、資格、技能等級、経験段階で処遇する。
専門職なら、専門知識、成果物、外部資格、市場価値で処遇する。
管理職なら、明示された権限、予算、人員責任で評価する。
経営職なら、資本配分、事業成果、リスク管理、長期的な能力形成について責任を負わせる。
職人、専門家、管理者、経営者を、全員同じ総合職的な人間力で序列化するな。
異なる仕事には、異なる評価軸が必要である。
8 複線型トラックを企業の善意に委ねるな
前掲の「複線型トラックをデザインしろ――日本共和制論3/5」では、教育と勤労世界を何度も往復できる制度を提案した。
15歳や18歳で、人生を固定しない。
普通科高校から大学へ進む道だけを正規ルートにしない。
実業高校、高専、専門学校、職業訓練、企業内教育、大学、大学院を接続する。
働いてから大学へ戻る。
職業教育から高等教育へ移る。
失業後に職業訓練へ戻る。
企業内で学んだ技能を、外部資格や単位へ変換する。
そこまであって初めて、複線型トラックになる。
だが、教育側に入口だけ作っても足りない。
働いた後に大学へ戻り、新しい学位や資格を取得した。
それでも企業の職務と賃金が変わらないなら、学び直しは趣味で終わる。
職業訓練を受けた。
新しい技能を身につけた。
それでも採用時には年齢と前職の社名だけで評価されるなら、訓練制度は働いていない。
企業内教育を受けた。
高度な技術を獲得した。
だが、その技能が他社では認識されないなら、労働者は企業に囲い込まれたままである。
ここで、企業へ意識改革を求めても意味がない。
企業には、自社内でのみ通用する技能を育て、労働者を内部へ囲い込む誘因がある。
企業横断的な資格を認めれば、労働者は転職しやすくなる。
外部で取得した学位や資格を高く評価すれば、既存の社内序列が崩れる。
職務と権限を明示すれば、何でも対応する総合職を自由に配置しにくくなる。
技能と賃金を産業横断的に対応させれば、一企業だけが低賃金で熟練者を抱えることも難しくなる。
企業の善意を待つな。
国家が法制度を整備しなければならない。
職業資格と技能等級を企業横断的に標準化する。
職種と技能を賃金帯へ接続する。
企業内教育を、公的資格、大学、高専、専門学校、職業訓練の単位へ接続する。
就学のための離職と、教育終了後の再就職を制度的に保護する。
技能職、専門職、管理職、経営職のトラックを分離する。
外部資格と学位が、採用、職務、処遇へ反映される仕組みを作る。
産業別の労働市場と労働協約を育てる。
これは企業経営への不当な介入ではない。
勤労可能性を制度として引き受ける国家の責任である。
複線型トラックは、教育制度だけの話ではない。
教育と労働市場と企業統治を接続する国家制度である。
9 積極財政を、公金ちゅーちゅーで終わらせるな
政府はいま、AI、半導体、GX、バイオ、造船、防衛などを重点分野に指定し、複数年度の公的資金を投入しようとしている。
ぼくは積極財政そのものには反対しない。
基礎研究。
計算資源。
エネルギー。
通信。
交通。
標準化。
防衛。
感染症対策。
人材育成。
市場へ任せているだけでは形成されない供給能力がある。
国家が長期投資を担うべき領域はある。
だが、企業へ金を配れば、国家の供給能力が形成されるわけではない。
公的資金が企業の設備費、学習費用、開発費を肩代わりし、その成果が自社商品、自社顧客、自社経済圏の強化へ閉じるなら、それは産業政策ではない。
企業補助である。
もっと露骨に言えば、公金ちゅーちゅーである。
この点は、別稿で楽天AIを具体例として批判した。
GENIACの公的支援によって学習費用の一部を賄った楽天AIへ、公的資金が投入されているかを質問すると、そのAI自身が「公式な発表や報道は確認されていない」と回答した。
楽天自身が公表している事実を、楽天自身のAIが否定したのである。
しかも、開発されたモデルは楽天の商品推薦や自社サービス、楽天エコシステムの改善へ利用される。
公金で学習費用を支援された企業AIが、その公金投入の事実を説明できず、成果は自社サービスへ吸収される。
この時点で一発アウトである。
楽天の商品推薦精度が上がった。
楽天内部のコストが下がった。
楽天経済圏の顧客囲い込みが強くなった。
それは楽天にとっての利益であって、国家的なAI基盤形成ではない。
公的支援によって何が公共的に残ったのか。
他社も利用できる計算基盤が残ったのか。
外部開発者が使えるモデルが残ったのか。
企業横断的な評価基盤が残ったのか。
技術標準が残ったのか。
人材育成制度が残ったのか。
技能資格が残ったのか。
研究成果が国内産業へ波及したのか。
新規参入が容易になったのか。
そこを示せなければ、公金を投入した意味はない。
個別企業が自社利益を追求するのは当然である。
企業に公共心を求めても仕方がない。
だからこそ、国家が制度条件を課すのである。
公的支援を受けた企業には、支援によって獲得した技術や技能を、企業横断的な資格や標準へ接続させる。
企業内教育を、公的資格、大学、高専、専門学校、職業訓練へ接続させる。
育成した人材の職務、賃金、技能、転職可能性を追跡する。
成果物のどこまでを、外部企業、研究機関、開発者が利用できるかを事前に定める。
自社サービスの改善と、産業全体の能力形成を区別して評価する。
支援終了後に、企業だけでなく国内産業へ何が残ったかを検証する。
これがなければ、重点分野投資は単なるバラマキになる。
企業は補助金を受け取る。
コンサルタントは申請書と評価資料を作る。
有識者は会議へ参加する。
官僚は執行額を成果として報告する。
全員に仕事が発生する。
だが、技能も、賃金も、標準も、企業横断的な知識も残らない。
補助金を受け取る能力だけが発達する。
それを産業育成と呼ぶな。
積極財政は、金を使う政策ではない。
国家能力を形成する政策でなければならない。
公金を入れて、楽天の商品推薦を賢くする。
それで終わるなら、何の意味もない。
10 研究の空白地帯
ここまでの議論を、一つの研究史へ戻そう。
日本式経営については、すでに多くの研究がある。
中根千枝は、場と所属と縦の関係を論じた。
ロナルド・ドーアは、日本企業の雇用関係を比較制度的に分析した。
青木昌彦は、水平的情報調整とインセンティブ構造をモデル化した。
野中郁次郎は、暗黙知と組織的知識創造を理論化した。
労働社会学は、能力主義管理、企業による人格的包摂、長時間労働、企業別労働市場を批判してきた。
メンバーシップ型雇用論は、職務ではなく人を雇い、企業が配置と仕事の範囲を決める日本型雇用の構造を整理した。
感情労働論は、組織が労働者の感情や自己表現を労働資源として利用することを示した。
コンピテンシー、キャリア自律、エンプロイアビリティ、EQについても、それぞれ研究がある。
職業教育、資格制度、産業別労働市場、ドイツのデュアルシステムについても、膨大な蓄積がある。
産業政策と公的補助についても、研究はある。
何も研究されていないわけではない。
だが、それらは別々の問題として扱われてきた。
暗黙知研究は、知識創造と競争優位を扱う。
労働研究は、雇用関係と能力主義管理を扱う。
心理学は、EIや能力測定を扱う。
感情労働論は、感情管理を扱う。
職業教育論は、学校と職業世界の接続を扱う。
産業政策論は、公的資金と企業投資を扱う。
これらを;
日本企業が職務、権限、責任、評価基準を形式化しなかった運営費用を、個人の人格、感情、関係調整能力へ転嫁してきた過程
――として統合する研究は、少なくとも十分には進んでいない。
さらに;
英語圏ですでに境界条件を失い、心理化・変容論化していた経営知が、日本企業の暗黙的・人格的運営と結合し、相互にスピ化した過程
――も解明されていない。
なぜ日本企業は、輸入経営知のうち、職務分析、決定権限、責任分界、職業資格、産業別賃金に関する部分ではなく、共感、内面化、ビジョン、主体性、エンゲージメント、腹落ちに関する部分を選択的に受容したのか。
なぜ、組織が明文化しなかったものが、個人のコミュニケーション能力として評価されたのか。
なぜ、企業内部に閉じた技能を外部資格へ変換せず、企業特殊的な人間評価を維持したのか。
なぜ、終身雇用が弱まった後も、会社への人格的適応要求だけが残ったのか。
なぜ、公的な産業支援が企業横断的な技能と標準を形成せず、個別企業の内部へ吸収されるのか。
これらは、別々の問いではない可能性がある。
今後必要なのは、少なくとも次の研究である。
英語圏の経営理論と日本語翻訳の比較。
翻訳ビジネス書、コンサルティング資料、企業研修資料の言説分析。
日本企業の人事評価項目の歴史的変化。
年功制から成果主義、コンピテンシー評価、EQ評価への移行過程。
「腹落ち」「自分事化」「巻き込み力」「人間力」といった組織語彙の成立と普及。
企業内技能のポータビリティと賃金、転職可能性、交渉力の関係。
日本とドイツにおける職業資格、技能等級、賃金制度、職業教育の比較。
公的産業支援が、企業横断的な知識、技能、標準、新規参入能力を残したかの検証。
この研究は、経営学内部だけでは完結しない。
組織社会学。
労働社会学。
知識社会学。
比較制度分析。
職業教育研究。
産業政策論。
心理測定論。
複数の領域を接続する必要がある。
シェーラーの知識社会学が問うたのは、知識内容の真偽だけではない。
どのような社会的布置が、どの知識を選び、どのように受容し、変形するのか。
EQが正しいかどうかだけでは足りない。なぜ日本企業がEQを欲したのか。
腹落ちが気持ち悪いというだけでは足りない。なぜ論理的理解と正式な服従を分けず、感情的受容まで要求する組織が成立したのか。
暗黙知が有効かどうかだけでは足りない。なぜ企業横断的な技能と資格へ変換されず、社内文脈へ閉じたのか。
そこを問わなければならない。
本稿で、日本式経営の問題を解明したとは言わない。
だが、何がまだ解明されていないかは示した。
暗黙知、EQ、腹落ち、能力主義、企業内技能、職業教育、公的産業支援は、別々の問題ではない可能性がある。
日本企業が制度化しなかったものを、誰の人格と感情へ負担させてきたのか。
その負担を企業内部へ閉じ込めず、どのように職務、資格、技能、賃金、国家制度へ戻すのか。
日本式経営は、英語圏の経営学によって合理化されたのではない。
もともとスピりやすい経営知と、もともと腹と空気で動く組織が出会い、互いの弱点を補強した。
制度の問題が心理へ移る。
心理の問題が人格へ移る。
人格の問題が腹へ落ちる。
そろそろ、腹から出した方がよい。
せめて脳で考えろ。
制度として書け。
責任を決めろ。
技能を持ち運べるようにしろ。
公金を国家能力へ変換しろ。
本稿は、そのための序説である。
※ちなみにClaudeが「空白地帯」について悪魔の証明を求めたのがこれ。
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