見出し画像

組織論・経営学はどこでスピるのか――学習する組織、デザイン思考、ニューロマーケティング

All eyes on 経営スピ。

少し前、noteでスキが飛んできた。

どんな人だろうと思って見に行くと、ピーター・センゲの「学習する組織」をまとめた記事があった。

システム思考。自己マスタリー。メンタルモデル。共有ビジョン。チーム学習。

紹介としては、よく整理されていた。

そこで、心理的安全性との関係が気になった。

心理的安全性も、組織が学習するための条件を扱う。失敗、懸念、異論、不明点を口にしても、対人関係上の不利益を受けないと成員が信じられる状態である。

だが、調べていくと、心理的安全性と「学習する組織」は、同じ方向を向いているようで、知識としての身分がかなり違った。

心理的安全性は、定義され、測定され、効果量と限界が示される。

一方、センゲの「学習する組織」は、組織の情報処理から、個人の生き方、共有された未来、精神的変容までを含む。

これは、どこまでが組織理論で、どこからがスピなのか。

そこで、須原一秀の枠組が使える。


1. 経営学に「学問」はない

須原一秀の学問論については、前稿「須原一秀は四半世紀前に何を見抜いていたのか――人文学と衒学、『真理と正義の理論』、そしてぼくがしていること」で詳しく扱った。

ここでは繰り返さない。

要点だけ示す。

須原は、「学問的」という言葉を、①自然科学的文脈、②人文科学的文脈、③衒学的文脈に分けた。

その上で、①と②の差は広大であるのに対し、②と③の距離は限りなく近いから、「学問的」という語を安定して使うには、①へ限定するしかないとした。

この区分を使うなら、組織論・経営学に①はない。

これは、組織論・経営学への悪口ではない。

企業経営という対象の本質である。

企業は、一定条件の下で同じ結果を繰り返す閉じた物理系ではない。

顧客が変わる。

競合が反応する。

規制が変わる。

技術が変わる。

経営者が変わる。

従業員が理論を知れば、その理論を前提に行動を変える。

ある会社で成功した施策を他社が模倣すれば、競争条件そのものが変わる。

同じ企業が同じ施策を行っても、五年前と五年後で結果が違う。

したがって、企業経営について、ニュートンの運動方程式に相当する安定した法則を作ることはできない。

経営学ができるのは、せいぜい②である。

特定の条件の下で、何が、なぜ、どのように機能したかを説明する。

複雑な現実を整理するための補助線を引く。

制度や意思決定の選択肢を示す。

成功だけでなく、失敗の機構を記述する。

それでよい。

問題は、②であることではない。

②の理論が①のような顔をすること。

限定された理論や技法が、組織、人間、社会のすべてを説明し始めること。

制度、権限、資源、責任、因果の問題を飛ばして、ビジョン、共感、創造性、無意識、変容へ逃げること。

そこから組織論・経営学は③、すなわちスピへ落ちる。

2. 心理的安全性を規準点にする

「スピる」の定義自体は、前稿「スピるとは何か――批判語彙としての『スピ』」で示した。

ぼくの定義では、スピるとは、現実の制度・身体・責任・因果を飛ばし、抽象的で大きな意味や理念へ逃げることである。

今回、その反対側の規準点に置くのは、心理的安全性である。

心理的安全性が完全に①へ到達した、とまで言うつもりはない。

自己申告尺度への依存がある。

因果方向の問題もある。

個人の認識をチームレベルへ集約する方法にも論点が残る。

それでも、組織論に接続する心理概念としては、かなり①へ近い。

心理的安全性研究には、限定された定義がある。

尺度がある。

多数の研究を集約したメタ分析がある。

前掲のぼくの心理的安全性論でも引いたFrazierらのメタ分析は117研究、136の独立標本をまとめ、心理的安全性と情報共有、職務満足、組織コミットメント、イノベーション、タスク・パフォーマンスなどとの関連を比較した。特に重要なのは、心理的安全性が業績を直接生み出す魔法の変数としては示されていないことだ。直接的なタスク・パフォーマンスとの関連は、情報共有や職務満足などとの関連より小さい。

つまり、

心理的安全性
→発言・情報共有・助力要請・失敗報告
→学習と改善
→条件がそろえば成果

という、限定された因果経路が想定される。

ここには、人間の魂も、組織の覚醒もない。

優しい職場を作れば成功する、という話でもない。

誰が発言権を持つのか。

悪い情報を出した人間がどう評価されるのか。

異論を出したとき、会議や人事でどのような不利益が生じるのか。

リーダーが自分の誤りを認めるか。

問題を報告する経路があるか。

そうした制度と行動へ戻る。

これを規準点にすると、経営理論がどこでスピるかが見えやすくなる。

3. 学習する組織はどこまで理論で、どこからスピか

ピーター・センゲを、最初からインチキ経営思想家として処理するのは正しくない。

むしろセンゲは、②の経営理論としてかなり頑張った。

センゲの「学習する組織」は、五つのディシプリンから構成される。

  • システム思考。

  • 自己マスタリー。

  • メンタルモデル。

  • 共有ビジョン。

  • チーム学習。

中核にあるのは、システム思考である。

組織の失敗を、誰か一人の無能や悪意へ還元しない。

各部門が局所的には合理的に行動していても、その相互作用が全体として悪い結果を生むことがある。

施策の効果には時間差がある。

今日の問題解決が、明日の問題を作ることがある。

目に見える出来事だけでなく、その背後にあるフィードバック構造を見る。

この部分は堅い。

少なくとも、「成功するリーダーは情熱を持っている」といった経営者人生訓より、はるかに強い。

メンタルモデルも理解できる。

人間は、現実をそのまま見ているわけではない。

何が重要か。

何が可能か。

誰が信用できるか。

顧客が何を欲しているか。

そうした前提を持って組織内で判断する。

その前提を言語化し、相互に検討することには意味がある。

チーム学習も同様である。

個人が賢いだけでは、組織が賢くなるとは限らない。

情報を持つ人間が発言できなければ、組織はその情報を利用できない。

異なる専門性が統合されなければ、各自が正しくてもプロジェクトは失敗する。

ここまでは、心理的安全性とも接続できる。

センゲは、組織を個人の能力の総和としてではなく、相互作用するシステムとして扱おうとした。

②の理論として有力である。

だが、五つのディシプリンを一つの体系へ統合するところから、話が膨らみ始める。

なぜ五つなのか。

なぜ四つでも六つでもないのか。

すべてが必要なのか。

どれがどの成果に、どの程度影響するのか。

自己マスタリーと企業業績は、どのような因果経路でつながるのか。

共有ビジョンがなくても高性能な組織は存在しないのか。

この問いに対し、センゲの体系は、心理的安全性研究のように効果量や境界条件を返してこない。

代わりに、個人と組織の変容を語り始める。

センゲは、自己マスタリーを単なる職務熟練として扱っていない。

自分が人生で本当に望む結果を創造する能力を継続的に拡張することとして語る。自己マスタリーは、学習する組織の「精神的基盤」とも位置づけられる。

さらに、学習を単なる知識獲得ではなく、メタノイア、つまり根本的な心の転換として捉える。

優れたチームについて、自分より大きなものの一部となり、つながり、生成的になり、生をより完全に生きる経験として語る。

ここで、組織論は制度論を越える。

権限をどう配分するか。

評価制度をどう変えるか。

研究予算を誰が握るか。

情報がどの会議で止まるか。

異論を出した人間を誰が守るか。

どの能力が不足しているか。

そうした問いから、成員の内面的成長、共有された願望、集合的な学習、全体との接続へ重心が移る。

これは、ぼくの定義ではスピである。

センゲは、システム思考という比較的堅い②から出発した。

しかし、組織の問題を、人間と集団の精神的変容へ接続した地点で③へ足を踏み入れた。

だから、「学習する組織」を全部捨てる必要はない

むしろ、どこまでが使える②で、どこからが③なのかを切り分ければよい

システム思考。

フィードバック。

時間遅延。

局所合理性と全体結果の不一致。

メンタルモデルの明示。

チーム内の情報統合。

――ここまでは残す。

自己マスタリー。

メタノイア。

共有ビジョンによる未来創造。

集合的知性。

人間と組織の根本的変容。

――そこは疑う。

センゲは、②として失敗したのではない。

②としてかなり遠くまで行った結果、③へスリップした。

だから境界事例として面白い。

4. デザイン思考――技法が世界観になるとき

次は、デザイン思考である。

ぼくはデザイン思考を専門的に学んだことはない。

ただ、利用者を観察する。

問題の立て方を疑う。

アイデアを可視化する。

早くプロトタイプを作る。

試して修正する。

この程度なら、ITや業務設計に関わってきた人間には、特に神秘的なものではない。

ユーザーの話を聞かず、最初に決めた要件をそのまま実装するより、観察して試作した方がよい。

巨大な完成品を作ってから失敗するより、小さく試した方がよい。

解くべき問題そのものが間違っていないか検討する。

当たり前である。

デザイン思考の体系には、共感、問題定義、アイデア創出、プロトタイピング、テスト、反復といった原則が繰り返し現れる。近年の体系的レビューでも、人間中心性、共感、反復、試作などが主要原則として整理されている。

限定された開発技法として使うなら、問題はない。

スピるのは、そこからである。

共感すれば、本当の課題が分かる。

デザイン思考を導入すれば、誰でも創造的になれる。

付箋を貼り、ペルソナを作り、プロトタイプを作れば、イノベーションが生まれる。

企業文化も変わる。

行政課題も解ける。

教育も変わる。

地域も変わる。

複雑で正解のない時代には、デザイン思考が必要である。

いつの間にか、限定された技法が、万能の思考法になる。

さらに、組織変革の方法論になる。

組織変革へのデザイン思考適用を扱った近年の体系的レビューでも、2014年から2024年までの研究を検索した結果、採択基準を満たした研究は19件だった。組織変革への広範な期待に比べれば、実証的蓄積はまだ限定されている。

ここで重要なのは、デザイン思考が効く場面が一つもない、という話ではない。

問題は、適用するレイヤーである。

商品の画面を改善することと、会社の権限構造を変えることは違う。

利用者の不便を観察することと、利害が衝突する政策を決めることは違う。

プロトタイプを作ることと、法制度を変更することは違う。

あるサービスを便利にすることと、誰が費用を負担し、誰が責任を取るかを決めることは違う。

「共感」は、権力関係を解消しない。

利用者へ共感しても、予算は増えない。

異なる利用者集団の要求が対立したとき、両方に共感しただけでは決められない。

企業の目的と労働者の目的が衝突するとき、付箋を貼っても利害は統合されない。

デザイン思考は、制度、権限、資源、政治を、共感と創造性の問題へ置き換えやすい。

つまり、

何を作るか
から
どう考えるべきか
へ行き、
さらに
人間と組織はどう変わるべきか
へ膨張する。

技法が世界観になる

これがデザイン思考のスピである。

5. ニューロマーケティング――脳科学を着たマーケティング

三つ目は、ニューロマーケティングである。

これは、経営学スピの中でも構造が分かりやすい。

アンケートには限界がある。

人間は、自分がなぜ商品を買ったのかを正確に説明できるとは限らない。

他人によく見られる答えをすることもある。

言語化できない反応もある。

そこで、視線、瞳孔、皮膚電気反応、脳波、fMRIなどを使って、広告や商品への反応を測定する。

ここまではよい。

限定された刺激に対する注意、覚醒、記憶、報酬関連反応などを測る研究は存在する。

問題は、その測定結果をどう解釈するかである。

ある脳領域が活動した。

だから好感を持っている。

別の領域が活動した。

だから購入したいと思っている。

本人は否定している。

だが脳は本音を示している。

この推論は簡単ではない。

同じ脳領域は複数の心理過程に関与する。脳活動から一つの心理状態を逆算するリバース・インファレンスには、根本的な制約がある。ニューロマーケティングや消費者神経科学の初期から、研究者自身が、単一領域の活動から消費者心理を読むことの限界を指摘してきた。

実験室で広告を見たときの反応と、現実の購買も同じではない。

現実には価格がある。

所得制約がある。

競合商品がある。

店頭在庫がある。

ブランド経験がある。

家族や同僚の意見がある。

購入時期がある。

一瞬の注意や覚醒が、実際の購買を安定して予測するとは限らない。

それでも、商業的な言説では;

  • 消費者本人も知らない本音が分かる。

  • アンケートでは取れない無意識が見える。

  • 脳は嘘をつかない。

  • 売れる広告を科学的に作れる。

――という物語になる。

脳が、無意識の背後世界になる。

精神分析は、本人の否定を「抵抗」や「抑圧」で処理した。

ニューロマーケティングは、本人の発言を「脳は別のことを言っている」で処理する。

しかも、脳画像やEEGがあるため、①自然科学的学問の外観をまとえる。

ここに強いスピがある。

測定装置が科学的であることと、そこから導かれるマーケティング解釈が科学的であることは別である。

fMRIが本物でも、広告効果についての物語は偽物かもしれない。

EEGが測定できても、購買動機を一意に読めるわけではない。

脳科学の権威を借り、消費者の「本当の心」を読めると語った瞬間、ニューロマーケティングは③へ落ちる。

6. 経営学はなぜスピりやすいのか

学習する組織、デザイン思考、ニューロマーケティング。

三つは違う。

センゲは、本格的な②を大きな組織変容論へ膨張させた。

デザイン思考は、限定された実践技法を万能の思考法へ膨張させた。

ニューロマーケティングは、測定技術と脳科学の権威を借りて、消費者の本質や無意識を語った。

だが、なぜ組織論・経営学では、このようなスピ化が繰り返されるのか。

第一に、企業経営には強い①がないからである。

何をすれば成功するか、安定した法則としては示せない。

しかし、経営者も学生もコンサルタントも、「条件次第です」では満足しない。

成功する組織の法則が欲しい。

優れたリーダーの条件が欲しい。

イノベーションを生む方法が欲しい。

そこで②が、①のような形で売られる。

第二に、成功例を先に選びやすいからである。

成功企業を集める。

経営者へインタビューする。

共通する文化、理念、行動を抽出する。

そして、その特徴が成功を生んだと説明する。

しかし、同じ理念を持って失敗した企業を見ていない。

同じ経営手法を導入し、何も起きなかった企業も見ていない。

成功したから、経営者が賢く、企業文化が強く、従業員が主体的に見えている可能性もある。

10社を調べても、成功企業だけを選んだn=10なら、生存者だけを集めた物語である。

第三に、失敗研究も後知恵になりやすい。

失敗した後では、あらゆる出来事が失敗の兆候に見える。

中央集権的だったから失敗した。

分権的すぎたから失敗した。

研究所と事業部門の壁があったから失敗した。

壁を壊したから失敗した。

現場を重視しすぎた。

現場を無視した。

どちらでも言える。

経営学では、成功研究も失敗研究も、物語の力に引っ張られる。

第四に、経営研究自体にも信頼性の問題がある。

経営学・戦略論では、追試の少なさ、出版バイアス、選択的報告、HARKing、データ非公開などが「信用性の危機」として内部から批判されてきた。経営研究の再現研究は、心理学や経済学と比較しても十分に多いとは言えない。

つまり、大学で論文になっている段階でも不安定である。

それがビジネス書、研修、コンサルティングへ移ると、限定条件がさらに落ちる。

「この標本では弱い関連が確認された」が、

「これからのリーダーに必須である」

になる。

「一部のプロジェクトで有用だった」が、

「あらゆる組織に必要な思考法である」

になる。

「特定刺激への脳反応が観察された」が、

「消費者の無意識を読める」

になる。

これが経営学のスピ化である。

7. 数字を使えば学問になるわけではない

経営学に①がないというと、会計やファイナンスはどうなのか、と言われるかもしれない。

少なくとも、管理会計や財務会計の実務まで①に入れることはできない。

原価は、自然界に存在している数値ではない。

材料を何キログラム使ったか。

作業に何時間かかったか。

それは測定できる。

しかし、共通費をどの商品へ配賦するか。

固定費を製品原価へ含めるか。

設備費をどの期間へ配分するか。

稼働率をどう置くか。

どのKPIを経営判断に使うか。

これは目的に応じた制度設計である。

合理的な方式が複数存在するなら、須原の①ではない。

財務会計も同じである。

複式簿記には強い内部整合性がある。

だが、個別取引を資産とするか費用とするか。

修繕費と資本的支出をどう分けるか。

売上をいつ認識するか。

引当金をどこまで積むか。

業務用の高級車を経費と認めるか。

そこには会計基準、税法、通達、事実認定、証拠、リスク判断が入る。

税理士によって答えが違うのは、自然法則の測定誤差ではない

制度と法の解釈が違うのである。

数字があるから①なのではない。

数式があるから①なのでもない。

脳画像があるから①なのでもない。

数字や画像が、②や③の装飾になることもある

8. 経営学スピ診断レシピ

経営理論や組織論がスピっていないかを見るには、次のように問えばよい。

その理論は、何を説明するものなのか。

適用範囲はどこまでか。

成功事例だけを選んでいないか。

同じ特徴を持つ失敗事例を見ているか。

業績がよいから、文化やリーダーまで優れて見えているだけではないか。

相関を因果として扱っていないか。

施策を実施しなかった場合との比較があるか。

直接効果はどの程度か。

媒介経路と境界条件が示されているか。

失敗したとき、理論は修正されるか。

それとも「正しく実践しなかった」「本当に理解していなかった」「覚悟が足りなかった」と逃げるか。

限定された技法を、組織全体や人生全体へ汎化していないか。

制度、権限、予算、人事評価、技能、責任を飛ばしていないか。

組織の問題を、個人の意識、共感、情熱、創造性、成長へ押し込んでいないか。

科学の用語や測定装置を、経営物語の権威づけに使っていないか。

専門語を取り除いた後に、何か具体的な主張が残るか。

これを通らないものは、経営学ではない、とまでは言わない。

経営学風のスピである。

9. ①になれないからこそ、②には厳密さが必要である

組織論・経営学に①がないことは、敗北ではない。

企業経営は、人間、制度、市場、技術、歴史、偶然が絡む。

自然科学の法則に還元できない。

だからこそ、②の理論が必要である。

何が起きたのかを分解する。

意思決定時点で何が分かっていたかを復元する。

反対意見がどこで消えたかを見る。

誰が予算を握っていたかを見る。

どの評価指標が行動を歪めたかを見る。

短期利益と長期能力を分ける。

成功した施策が、何を毀損したかを見る。

別の条件では逆の結果にならないかを検討する。

これは難しい。

①のような強い外部拘束がないから、いくらでも物語を作れる。

だから、厳密さが必要になる。

センゲは、②としてかなり頑張った。

組織をシステムとして見た。

個人の責任へ還元しなかった。

情報と学習の構造を捉えようとした。

だが、人間と組織の根本的変容まで語ったところでスピった。

デザイン思考は、限定された技法としては使える。

だが、共感と創造性によって組織や社会を変える万能方法論になったところでスピった。

ニューロマーケティングは、測定技術としては研究対象になる。

だが、脳から消費者の本当の心を読み取れると語ったところでスピった。

組織論・経営学は、②であることを引き受ければよい。

万能法則を名乗らない。

自然科学の白衣を借りない。

成功企業の物語を真理へ変えない。

制度を理念で踏み倒さない。

人間の内面へ逃げない。

限定された補助線として、自分の外部を認める。

経営学がスピらずにいられる場所は、そこしかない。

Word up.

いいなと思ったら応援しよう!

kj aka ルサンチMAN よろしければチップお願いします。AI批評の各種経費に役立てます。