この国を次の世代に渡せ――日本共和制論 4/5

All eyes on next generation…


1. 少子高齢化は、社会制度の問題である

前稿『複線型トラックをデザインしろ――日本共和制論 3/5』(以下、「複線型トラック論」)では、勤労の義務を個人の精神論にするな、と書いた。

働け。努力しろ。自己分析しろ。

そういう話ではない。人が働く世界へ接続されるためには、教育、測定、職業訓練、企業内教育、地域産業、ハローワーク、福祉接続まで含めた制度が必要である。だから、国家と社会は、勤労可能性を制度として引き受けなければならない。そう論じた。

少子高齢化も同じである。

結婚しろ。子どもを産め。家族で頑張れ。親の面倒を見ろ。地域を守れ。そういう個人への命令に戻してはならない。結婚するかどうか、子どもを持つかどうか、どのような家族を作るかは、個人の自由である。国家が個人の人生を管理し、結婚、出産、育児、勤労を模範生活へ押し込める必要はない。

だが、社会の側は「次の世代などなくてもよい」とは言えない。

子どもが生まれ、育ち、教育され、働き、ケアし、地域で暮らし、制度を引き継ぐ。その条件を作ることは、個人の美徳ではなく、社会制度の問題である。

出生数は減っている。厚生労働省「令和6年(2024)人口動態統計(確定数)の概況」によれば、2024年の出生数は68万6173人、合計特殊出生率は1.15である。これは単なる気分の問題ではない。若い人が根性を失ったとか、女がわがままになったとか、男が弱くなったとか、家族観が壊れたとか、そういう雑な道徳論で処理してよい数字ではない。

生まれる側が細っている。

まず、その現実を見るべきである。

一方で、高齢層は消えない。総務省統計局「統計からみた我が国の高齢者」(2025年9月)によれば、65歳以上人口は3619万人、高齢化率は29.4%である。内閣府「令和7年版高齢社会白書」によれば、2070年の平均寿命は男性85.89年、女性91.94年と見込まれている。高齢者が勝手に消えて、問題が自然に片づく社会ではない。

生まれる側は細る。死ぬ側は遅くなる。

これが少子高齢化である。

だから、少子高齢化は、単なる子育て支援論ではない。出生率だけを見ても足りない。社会保障費だけを見ても足りない。労働力不足だけを見ても足りない。若年層が減るなら、若年層をどう教育し、どう働く世界へ接続するかが問題になる。これは複線型トラック論で扱った。

だが、それだけでは足りない。

高齢層が残るなら、その高齢層をどう位置づけるかも問題になる。高齢層を、ただ医療と介護と年金を消費する存在としてだけ扱うのか。それとも、時間、経験、資産、生活知、地域知、技能知を持つ国内資源として、次の世代へ接続し直すのか。

ここで必要なのは、情緒的な家族回帰ではない。昔の三世代同居へ戻れ、という話でもない。親世代が育児と介護に挟まれて潰れる社会を、家族愛の名で美化してはならない。かといって、高齢層を単なる負担として切り捨ててもならない。

若年層は細る。高齢層は残る。

ならば、国内に残っている人間、時間、金、経験、地域知、技能知を、どう組み直すかを考えなければならない。

前稿では、勤労可能性を問うた。人を働く世界へどう接続するかを問うた。本稿では、その先を問う。

働けるだけでは、社会は続かない。子どもを育て、介護を制度へ逃がし、地域で暮らし、農地や海や食料供給能力を次の世代へ渡せなければ、社会は続かない。

ここで問うべきものは、社会の再生産可能性である。

2. 少子高齢化を盾に、外国人材へ逃げるな

少子高齢化を語ると、すぐに外国人材の話になる。

労働力が足りない。介護が足りない。建設が足りない。農業が足りない。水産が足りない。工場が足りない。外食が足りない。地方が回らない。だから、外国人材を受け入れるしかない。

その流れ自体は、すでに現実である。厚生労働省「『外国人雇用状況』の届出状況まとめ(令和7年10月末時点)」によれば、令和7年10月末時点の外国人労働者数は257万1037人、外国人を雇用する事業所数は37万1215所であり、いずれも過去最多である。出入国在留管理庁「令和7年6月末現在における在留外国人数について」によれば、令和7年6月末時点の在留外国人数は395万6619人であり、これも過去最高である。さらに、技能実習制度に代わる育成就労制度も準備されている。出入国在留管理庁「育成就労制度Q&A」では、実際に育成就労外国人を受け入れることが可能となるのは令和9年4月1日からとされている。

つまり、日本社会はすでに外国人材なしでは回りにくくなっている。

だが、ここで順序を間違えてはならない。

本稿で言いたいのは、外国人が悪いという話ではない。外国人を入れるな、という話でもない。外国人労働者個人を敵にする話ではない。日本に来て働き、税を払い、地域で暮らし、子どもを育て、日本語公共圏に参加していく人間がいるなら、その人々をどう成員として受け入れるかは、別に正面から論じなければならない。

だが、それは最初の答えではない。

少子高齢化で人が足りない。だから外国人材を入れる。その言い方は、一見すると現実的に見える。だが、その前に、日本社会は自分の中にいる人間をどこまで使っているのか。若い世代をどこまで教育し、測定し、職業世界へ接続しているのか。NEET、若年無業者、フリーター、非正規で漂っている層、職業訓練へ接続されていない層、地域産業と教育制度の間で宙に浮いている層を、どこまで見ているのか。働ける高齢層を、どこまで地域、育児、見守り、軽就労、技能継承へ回しているのか。

そこを問わないまま、外国人材へ向かうなら、それは再生産可能性ではない。

ただの穴埋めである。

複線型トラック論で書いたのは、まさにこの問題だった。大学へ行け。会社へ入れ。ホワイトカラーになれ。そこから外れたら自己責任だ。そういう単線をやめろ、と書いた。実業高校、高専、専門学校、職業訓練、企業内教育、地域産業、ハローワーク、福祉接続まで含めて、人を職業世界へ接続する複線型トラックを作れ、と書いた。

それをやらないまま、外国人材へ行くな。

大学に流し込んだ。ホワイトカラー幻想で現場を軽視した。実業高校を下に見た。職業訓練を軽く見た。企業内教育を弱らせた。地域産業を放置した。ハローワークと福祉接続を進路接続の中に組み込まなかった。その結果、介護にも、建設にも、農業にも、水産にも、製造にも人がいない。だから外国人材を入れる。

これは筋が悪い。

もちろん、国内人材を接続し直せばすべて解決する、という話ではない。そんな単純な話ではない。少子高齢化の速度は速い。地方の現場はすでに苦しい。介護や建設や農林水産の人手不足は、机上の理念で埋まるものではない。外国人材が必要になる領域はあるだろう。

だが、それでも順序がある。

まず、国内人材の適性を見ろ。国内の教育トラックを作れ。職業訓練を接続しろ。現場職の処遇を上げろ。地域で暮らせる生活圏を作れ。介護を家族へ戻さず、制度へ逃がせ。働ける高齢層を使え。未接続層を、可能な限り再度トラックへ乗せろ。

それでも足りない部分をどうするか。

外国人材は、その後に論じるべきである。

ここで誤解してはならない。未接続層を再度トラックへ乗せるとは、成人の人生を国家が白く管理するという意味ではない。全員を清潔な中流勤労者へ矯正する話ではない。成人後にどの世界へ行くかは、別の問題である。国家が潰すべきなのは、未成年の搾取、暴力、強制、詐欺、反社会的支配、制度からの完全逃避、公共秩序の破壊であって、成人の人生をすべて道徳的に消毒することではない。

本稿が問題にしているのは、標準的な接続回路が壊れていることである。

働ける人間が、働く世界へ接続されていない。職業訓練へ行けばよい人間が、そこへつながっていない。福祉へ接続すべき人間が、自己責任で放置されている。地域産業に向いている人間が、普通科から大学へ流され、低レベルホワイトカラー幻想の中で漂っている。高齢層が時間と経験と資産を持ちながら、医療、介護、年金の受け手としてだけ扱われている。

その状態で、人手不足を理由に外国人材へ逃げるな。

移民で穴埋めすればよい、という発想は、ホワイトカラー幻想の裏返しである。自分たちは大学へ行き、オフィスへ行く。現場は誰かにやらせる。足りなければ外国人にやらせる。それは、かなり醜い。

外国人材を受け入れるなら、労働力だけを買うことはできない。人間が来る。言葉が来る。家族が来る。子どもが生まれる。教育が必要になる。医療が必要になる。住宅が必要になる。地域との摩擦も起こる。公共参加も問題になる。日本語公共圏にどう参加してもらうのかも問題になる。

それは、安い労働力を補充する話ではない。

社会の成員を受け入れる話である。

だからこそ、軽く考えてはならない。介護が足りないから外国人。農業が足りないから外国人。水産が足りないから外国人。建設が足りないから外国人。そんなふうに、少子高齢化を外国人材受入れの盾にしてはならない。

まず、国内で回る社会を作れ。

前稿では、勤労可能性を制度として問うた。本稿では、その先にある再生産可能性を問う。外国人材は、国内資源再配置の代替ではない。

3. 社会は、現在世代だけのものではない

ここで、少し抽象的な話をしておく。

社会は、現在世代だけのものなのか。

いま生きている人間が、いま便利で、いま快適で、いま損をしなければ、それでよいのか。子どもが減る。地域が痩せる。農地が荒れる。海の仕事が継がれない。介護で親世代が潰れる。若い世代が細る。高齢層は残る。それでも、いまの制度を少し延命し、いま足りない労働力を外から埋め、いまの生活水準を維持できれば、それで社会を運営したことになるのか。

ならない。

社会は、現在世代だけの消費物ではない。

このことは、思想史の中でも繰り返し問われてきた。

バークは、『フランス革命の省察』で、社会を現在世代だけの契約とは見なさなかった。社会は、いま生きている個人が自分たちの都合で結び、自分たちの都合で解散するだけの契約ではない。過去の世代、現在の世代、これから生まれてくる世代を含む連携である。もちろん、バークをそのまま保守主義の印籠として使う必要はない。伝統を持ち出せば何でも正しい、という話ではない。だが、ここで重要なのは、社会を現在世代の所有物として見ない視線である。

いまある制度は、いま生きている人間だけで作ったものではない。

言語も、法も、学校も、道路も、農地も、港も、地域の慣習も、職業の技能も、家族の形も、行政の仕組みも、過去から渡されてきたものである。もちろん、その中には壊すべきものもある。差別も、支配も、迷信も、家父長制も、過干渉な家族秩序も、そのまま残せばよいものではない。だが、壊すにしても、引き継ぐにしても、そこには時間の厚みがある。

現在世代は、ゼロから社会を作っているわけではない。

受け取ったものを、直し、捨て、組み替え、次へ渡す位置にいる。

ヘーゲルもまた、自由を抽象的な個人の内面だけでは考えなかった。ここでは『法の哲学』第三部「人倫」の線に限定して使う。自由は、単に誰にも邪魔されないことではない。家族、市民社会、国家という制度を通じて、現実に行使される。人は、制度の外で自由になるのではない。制度を通じて、初めて自由を現実化する。

家族がある。市民社会がある。職業がある。法がある。国家がある。そこで人は、働き、所有し、交換し、育て、学び、ケアし、承認され、責任を負う。もちろん、ヘーゲルを国家礼賛として安易に使うべきではない。国家が自由を壊すこともある。家族が人を支配することもある。市民社会が人を使い捨てることもある。制度は、人を自由にすることもあれば、人を押し潰すこともある。

だが、それでも自由は、制度なしには現実化しない。

ここが重要である。

子どもを育てることも、介護することも、働くことも、地域に住むことも、農地を守ることも、海の仕事を継ぐことも、単なる個人の内面や美徳では完結しない。家族だけでも無理である。市場だけでも無理である。国家だけでも無理である。制度の組み合わせが必要になる。

土地も、農業も、定住も、将来への備えも、抽象的な理念ではない。人倫の外的基盤である。人が住み、働き、子どもを育て、老い、死に、次の世代へ何かを渡すためには、生活の場がいる。職業の場がいる。食料供給の基盤がいる。地域がいる。家族を、単なる私的感情として放置するだけでは足りない。市民社会を、単なる市場として放置するだけでも足りない。国家を、単なる給付装置として扱うだけでも足りない。

デュルケームは、教育を成人世代による若い世代の社会化として見た。教育は、親の私的趣味ではない。子どもは、社会の中へ入っていく存在である。社会の規範、知識、技術、役割、判断力を身につけていく存在である。だから教育は、単に個人の自由を守るだけの話ではない。新しい世代を、公共世界へ接続する制度である。

この点は、すでに『義務教育とは、誰の義務なのか――日本共和制論 1/5』(以下、「義務教育論」)で扱った。

教育を、国家から個人を守る権利として読むことには意味がある。国家教育への警戒は必要である。だが、教育をそれだけで理解するのは狭い。自由な個人を作るためにも、公教育が必要になる。民主主義を担うためにも、公教育が必要になる。社会の成員として生きるためにも、公教育が必要になる。

ここでも同じである。

少子高齢化を、個人の結婚や出産の自由だけで理解するのは狭い。もちろん、結婚や出産は個人の自由である。国家が命じることではない。だが、新しい世代を社会へ迎え入れ、その世代が生きられる世界を渡すことは、社会の責任である。教育と同じく、再生産も単なる私事ではない。

アーレントは、出生性を重視した。人間の世界には、新しい者が生まれてくる。新しく生まれてくる者は、まだこの世界を知らない。世界の方も、その者たちを迎え入れなければならない。教育についてアーレントが問うたのは、子どもを世界へ導き入れる大人の責任である。子どもは、単なる未来の労働力ではない。単なる親の所有物でもない。世界へ新しく来る者である。

ならば、大人の側には責任がある。

世界を渡す責任である。

ここでいう世界とは、抽象的な人類愛ではない。いま生きている社会である。言葉である。制度である。学校である。職業である。地域である。法である。農地である。海である。食料供給能力である。生活の場である。もちろん、その世界は完全ではない。むしろ、壊れているところだらけである。だからこそ、直して渡さなければならない。

渡すとは、保存することだけではない。

そのまま残すことでもない。

古い家族秩序をそのまま戻すことではない。昭和の見て覚えろをそのまま復活させることでもない。地域共同体を美化することでもない。農業や漁業を情緒で守れと言うことでもない。壊れたものは壊れたものとして見なければならない。使えないものは更新しなければならない。だが、更新することと、捨てることは違う。

過去から受け取ったものを、現在の制度へ翻訳し直し、次の世代が使える形にする。

それが、次の世代へ渡すということである。

ルソーは、市民を作る教育の問題を立てた。自然人と市民、家庭教育と公共教育の緊張を扱った。ここでは深入りしない。ただ、人間は自然に放っておけば公共世界を担える成員になる、という単純な話ではないという点で、本稿の補助線になる。

ヨナスもまた、未来世代への責任を考える補助線になる。技術文明は、いま生きている人間だけで完結しない影響を持つ。未来の人間が生きられる条件を壊さない責任がある。この議論も、本稿の背景には置ける。ただし、本稿の主軸は、抽象的な人類の未来ではない。日本という具体的な社会を、次の世代へ渡せる状態に作り直すことである。

だから、ここで確認しておく。

社会は、現在世代だけのものではない。

過去から受け取った制度がある。現在を生きる人間がいる。これから生まれてくる者がいる。その者たちに、どのような世界を渡すのか。そこを問わずに、少子高齢化を語ることはできない。

少子高齢化を、年金や医療費の問題だけにするな。労働力不足の問題だけにするな。子育て支援の問題だけにするな。移民で穴埋めする話にするな。

問うべきことは、もっと大きい。

この社会を、次の世代へ渡せるのか。

渡すに値する形に、作り直せるのか。

その問いが、再生産可能性の問いである。

4. 再生産可能性とは何か

ここまでで、前提は置いた。

少子高齢化は、個人の結婚や出産や家族観の問題へ戻してはならない。外国人材による穴埋めへ逃げてもならない。社会は、現在世代だけの消費物でもない。

では、本稿でいう再生産可能性とは何か。

まず、誤解を消しておく。

再生産可能性とは、国家が個人に結婚や出産を命じることではない。

結婚するかどうか。子どもを持つかどうか。家族を作るかどうか。どのような生活を選ぶか。それは個人の自由である。国家が、個人の人生に入り込み、結婚しろ、産め、育てろ、親を見ろ、地域に尽くせと命じる話ではない。まして、成人後の人生を清潔な模範生活へ矯正する話でもない。

だが、そこから「社会は次世代などなくてもよい」とは言えない。

個人は、子どもを持たない自由を持つ。結婚しない自由を持つ。家族を作らない自由を持つ。標準的な人生から外れる自由も持つ。しかし、社会の側は、次の世代が生まれ、育ち、公共世界へ入り、働き、ケアし、地域で暮らし、制度を引き継げる条件を作らなければならない。

この区別が重要である。

個人に出産を命じることと、社会が次世代を迎え入れる条件を作ることは違う。

個人に家族を強制することと、家族形成が可能な生活条件を作ることは違う。

個人に地域奉仕を命じることと、地域で暮らし、働き、子どもを育てられる生活圏を作ることは違う。

再生産可能性とは、この条件のことである。

子どもが生まれる。育つ。教育される。働く世界へ接続される。親世代が育児と介護で潰れない。高齢層が医療、介護、年金の受け手としてだけでなく、時間、経験、資産、生活知、地域知、技能知を持つ資源として位置づけ直される。地域に住み続けられる。農地が荒れたまま放置されない。海の仕事が途切れない。食料供給能力が失われない。制度が次の世代へ渡される。

これらを可能にする条件が、社会の再生産可能性である。

だから、再生産可能性は出生率だけではない。

出生率は重要である。出生数も重要である。生まれる側が細っている以上、その現実を見ない議論は成り立たない。だが、出生率だけを見ればよいわけではない。仮に子どもが生まれても、その子どもが育たず、教育されず、働く世界へ接続されず、地域で暮らせず、制度を引き継げないなら、社会は再生産されない。

子育て支援だけでもない。

児童手当、保育、育休、時短勤務、住宅支援は重要である。だが、子育て支援だけを積んでも、親世代が介護で潰れ、地域に仕事がなく、教育から職業世界への接続が壊れ、農地や海や食料供給能力が次世代へ渡らないなら、社会は再生産されない。

労働力確保だけでもない。

人手不足を埋めることは必要である。介護、建設、農業、水産、物流、製造、外食、地域インフラには人がいる。だが、労働力を数として埋めるだけでは、社会の再生産にはならない。人は労働力だけではない。住む。話す。育てる。老いる。病む。地域で摩擦を起こす。制度に参加する。子どもを育てる。死ぬ。そこまで含めて社会の成員である。

社会保障だけでもない。

高齢者に医療、介護、年金を届けることは必要である。だが、高齢層を受益者としてだけ扱えば、少子高齢化社会は維持できない。高齢層が残るなら、その時間、経験、資産、生活知、地域知、技能知をどう使うかが問われる。高齢層を切り捨てるのではない。高齢層を崇拝するのでもない。国内に残る資源として、どう再配置するかを問う。

ここで、前稿の勤労可能性との関係が見えてくる。

勤労可能性とは、人が働く世界へ接続される条件である。教育、測定、職業訓練、企業内教育、地域産業、ハローワーク、福祉接続を通じて、働ける人間を働く世界へ接続し、すぐには働けない人間を支援へ接続する。複線型トラック論は、その制度設計を問うた。

再生産可能性は、その先にある。

働けるだけでは足りない。働く人間が、子どもを育てられるか。介護で潰れないか。地域に住み続けられるか。農地や海や食料供給能力を次の世代へ渡せるか。高齢層がただの負担にならず、次の世代への接続資源として使われるか。そこまで問わなければならない。

つまり、勤労可能性は再生産可能性の一部である。

働く世界へ接続されない人間が増えれば、社会は続かない。だが、人を働く世界へ接続しただけでも、社会は続かない。労働は、生活の中に置かれている。生活は、家族、地域、ケア、住宅、教育、交通、産業、国土の中に置かれている。その全体が壊れれば、勤労可能性も空回りする。

少子高齢化を考えるとは、この全体を見ることである。

子どもを産め、ではない。

移民を入れろ、でもない。

高齢者を切れ、でもない。

子育て支援を積めばよい、でもない。

若者に努力させろ、でもない。

必要なのは、社会を次の世代へ渡せる状態に作り直すことである。若い世代を教育し、測定し、職業世界へ接続する。親世代を育児と介護で潰さない。高齢層を単なる負担としてではなく、時間、経験、資産、生活知、地域知、技能知を持つ国内資源として位置づけ直す。地域で暮らし、働き、育てられる生活圏を作る。農地、海、食料供給能力、地域生産基盤を次の世代へ渡す。

それが、本稿でいう再生産可能性である。

ここで問われているのは、個人の徳ではない。

社会の設計である。

5. 勤労可能性だけでは、社会は続かない

複線型トラック論で扱ったのは、勤労可能性だった。

勤労の義務を、個人の精神論にするな。働け。努力しろ。自己分析しろ。そう言うだけでは、人は働く世界へ接続されない。教育がいる。測定がいる。職業訓練がいる。企業内教育がいる。地域産業との接続がいる。ハローワークがいる。福祉接続がいる。普通科高校から大学へ流し込み、そこから会社へ入れば何とかなるという単線をやめ、実業高校、高専、専門学校、職業訓練、企業内教育、地域産業、福祉接続まで含めた複線型トラックを作るべきだ。そう論じた。

その議論は、本稿でも維持する。

だが、本稿の立場から見れば、それだけでは足りない。

勤労可能性は、社会が続くための必要条件である。働ける人間が働く世界へ接続されず、教育から職業世界への回路が壊れ、職業訓練も地域産業も福祉接続もばらばらなら、社会は続かない。だから、複線型トラックは必要である。

しかし、勤労可能性は十分条件ではない。

人が働けるようになっても、その人が子どもを育てられなければ、社会は続かない。親世代が育児と介護に挟まれて潰れるなら、社会は続かない。地域に住み続けられなければ、社会は続かない。農地が荒れ、海の仕事が途切れ、食料供給能力が失われるなら、社会は続かない。働く世界への接続だけでは、次の世代へ社会を渡すことはできない。

ここで、複線型トラック論を、別の角度から見直す必要がある。

『Fラン廃止で終わらせるな――ホワイトカラー幻想後の職業教育とトラック分化』(以下、「Fラン廃止論」)では、大学進学万能論、低レベルホワイトカラー幻想、実業高校、高専、専門学校、職業訓練、情報系を舐めるな、職業教育は学校だけでは完結しない、という論点を扱った。

複線型トラック論では、それを日本共和制論の文脈に組み込み、15歳、18歳、18歳以後の複線型トラックとして再設計した。

本稿では、さらにそれを少子高齢化社会の再生産可能性へ拡張する。

複線型トラックは、単に「大学に行かない人間をどこへ置くか」という話ではない。人を、社会の中で機能する場所へ接続するための制度である。ならば、その接続先は、オフィスでも工場でも情報産業でもよい、という話では終わらない。社会を次の世代へ渡すために、どの職業世界を残し、どの生活圏を維持し、どの生産基盤を継承するのか。そこまで問わなければならない。

ここで、農業高校と水産高校が重要になる。

前稿でも、実業高校の一部として農業高校と水産高校には触れた。だが、本稿ではその意味が変わる。農業高校は、単に農業に就く若者を育てる学校ではない。農地、食料供給、地域農業、農業機械、加工、物流、販売、スマート農業を、次の世代へ渡す制度部品である。水産高校も同じである。水産高校は、単に漁業に就く若者を育てる学校ではない。海、水産資源、漁村、漁港、水産物供給、冷凍、加工、物流、沿岸地域の生産基盤を、次の世代へ渡す制度部品である。

農地は、抽象的な資産ではない。

土がある。水がある。水路がある。機械がある。作業道がある。天候がある。地域関係がある。共同作業がある。農協がある。販路がある。加工がある。物流がある。土地の癖がある。作物の癖がある。季節の癖がある。そこには、教科書に書かれた知識だけではなく、地域に蓄積された知識がある。

海も同じである。

漁場がある。潮がある。季節がある。港がある。船がある。漁具がある。加工がある。冷凍がある。流通がある。市場がある。資源管理がある。沿岸地域の関係がある。海の仕事は、単に魚を獲る仕事ではない。食料供給と地域生産基盤を支える仕事である。

この知識は、若者だけでは引き継げない。

もちろん、若者が入らなければ続かない。農業高校、水産高校、高専、専門学校、職業訓練、地方大学、地域企業、農協、漁協、自治体が接続しなければならない。スマート農業、スマート水産、省力化、データ、機械化、自動化も必要になる。若い世代が、新しい技術を持って入る必要がある。

だが、それだけでも足りない。

高齢農家や高齢漁業者が持っている土地感覚、作業知、水路や山林や漁場の知識、地域関係、失敗の記憶、季節の読み、身体で覚えた判断は、簡単には代替できない。それを単なる古い知識として捨てれば、農地や海は次の世代へ渡らない。

ただし、ここで勘違いしてはならない。

昭和の「見て覚えろ」OSは、もう動かない。

若い者は黙って見て盗め。先輩の背中を見ろ。親方に怒鳴られながら覚えろ。地域の空気を読め。家の都合に従え。そういう継承方法を、そのまま復活させることはできない。育児でも同じである。祖父母の経験を使う必要はある。だが、昔の子育てをそのまま押しつければ、迷信育児、過干渉、支配になる。農業や漁業でも同じである。高齢層の知識を使う必要はある。だが、それを「見て覚えろ」で渡そうとすれば、継承は失敗する。

必要なのは、復古ではない。

翻訳である。

高齢層が持っている経験、生活知、地域知、技能知を、若い世代が受け取れる形へ翻訳する。学校で扱える形にする。職業訓練で扱える形にする。企業内教育や地域研修で扱える形にする。スマート農林水産やデータ技術と接続できる形にする。親世代や若者の生活を破壊しない形にする。

これもまた、広い意味でのOSアップデートである。

リスキリングという言葉は、しばしばデジタル技能や成長産業への移動に寄りすぎる。もちろん、デジタル技能は必要である。だが、情報系を舐めてはいけない。短期講座を受ければ誰でも高付加価値IT人材になれるわけではない。情報リテラシーを全員が学ぶことと、情報専門職を育てることは違う。下位の情報処理は、クラウド、SaaS、自動化、AIによって削られる。だから、デジタルリスキリングを万能薬にしてはならない。

本稿で必要なのは、もっと広い社会のOSアップデートである。

若い世代を、教育から職業世界へ接続する。未接続層を、可能なら再度トラックへ乗せる。高齢層の経験を、現代の制度へ翻訳する。祖父母の子育て経験を、現代の安全基準と親世代の方針へ接続する。高齢農家や高齢漁業者の暗黙知を、農業高校、水産高校、職業訓練、地域企業、スマート農林水産へ接続する。地域で見守り、送迎、軽就労、技能継承を担えるようにする。

ここまで含めて、少子高齢化社会のリスキリングである。

複線型トラック論は、個人を職業世界へ接続する話だった。

本稿では、その接続を、社会の再生産可能性へ拡張する。誰を、どの仕事へ接続するか。それだけでは足りない。どの仕事を、どの地域に残すのか。どの知識を、どの制度を通じて渡すのか。どの高齢層を、どの形で使うのか。どの若者を、どの地域産業へつなぐのか。どの生活圏で、育児と介護と労働を両立させるのか。

勤労可能性だけでは、社会は続かない。

勤労可能性を、再生産可能性の中へ置き直さなければならない。

6. 人が足りないのか、接続が壊れているのか

人手不足という言葉は、便利である。

介護に人が足りない。農業に人が足りない。水産に人が足りない。建設に人が足りない。物流に人が足りない。地方に人が足りない。現場に人が足りない。そう言えば、問題は分かりやすくなる。

だが、分かりやすくなる分だけ、雑にもなる。

本当に、人が足りないのか。

それとも、接続が壊れているのか。

もちろん、必要な場所に人が足りないのは事実である。厚生労働省「第9期介護保険事業計画に基づく介護職員の必要数について」(2024年7月)によれば、介護職員の必要数は2026年度に約240万人、2040年度に約272万人と見込まれている。2022年度の215万人から見れば、2040年度には約57万人の上積みが必要になる。

農業も同じである。農林水産省「2025年農林業センサス結果の概要(概数値)」(2025年11月28日公表、2025年2月1日現在)によれば、個人経営体の基幹的農業従事者は102万1千人で、5年前に比べ34万2千人、25.1%減少している。農業に人が足りない、というのは印象論ではない。

水産も同じである。水産庁「令和6年度水産白書」によれば、2023年の漁業就業者数は12万1389人であり、前年から1.4%減少している。漁業就業者数は一貫して減少傾向にある。

介護に人が足りない。農業に人が足りない。水産に人が足りない。

これは否定できない。

だが、ここで止まってはいけない。

人が足りないという言葉だけで止まると、次の答えはすぐに決まってしまう。人が足りない。だから外から入れる。介護が足りないから外国人材。農業が足りないから外国人材。水産が足りないから外国人材。建設が足りないから外国人材。外食が足りないから外国人材。

その前に見るべきものがある。

国内には、十分に接続されていない人間がいる。

厚生労働省「若年者雇用対策の現状について」(2025年)によれば、フリーター数は2024年で136万人である。労働政策研究・研修機構「ユースフル労働統計2025」によれば、若年無業者数は2024年で61万人である。もちろん、この数字をそのまま「余っている労働力」と見なしてはならない。フリーターにも事情がある。若年無業者にも事情がある。病気、障害、家庭、精神状態、地域、学歴、職歴、職場経験、対人関係、本人の選好がある。数字を見て、ここに人がいるから介護へ行け、農業へ行け、水産へ行け、と命じるのは粗雑である。

だが、見ないのも違う。

必要な場所には人が足りない。一方で、社会に十分接続されていない人もいる。ならば、まず問うべきは、人数の総量だけではない。

接続である。

教育から職業世界への接続が壊れていないか。普通科高校から大学へ流し込み、低レベルホワイトカラーへ向かわせる古い回路を、まだ惰性で残していないか。実業高校、高専、専門学校、職業訓練、企業内教育、地域産業、ハローワーク、福祉接続が、一本の制度としてつながっているか。働ける人間が、向いている職業世界へつながっているか。すぐには働けない人間が、医療や福祉へつながっているか。地域産業が、若い世代を受け取る出口を持っているか。処遇はついているか。住む場所はあるか。移動手段はあるか。

人手不足は、人数だけの問題ではない。

接続の問題である。

複線型トラック論で言ったのは、まさにそこだった。人は、放っておけば自分に合った職業世界へ自然に接続されるわけではない。本人の自己分析だけでは足りない。教師の人生訓だけでも足りない。親の期待だけでも足りない。偏差値だけでも足りない。教育、測定、職業情報、職業訓練、企業内教育、地域産業、ハローワーク、福祉接続を組み合わせなければならない。

このOSを作らないまま、人手不足を語るな。

介護に人が足りないなら、なぜ介護へ人が行かないのかを見なければならない。賃金か。身体負荷か。夜勤か。社会的評価か。キャリアの上がり目か。資格制度か。地域の居住条件か。介護を家族の愛情労働の延長として扱ってきた文化か。介護を専門職として受け取る制度と処遇が弱いのか。

農業に人が足りないなら、なぜ農業へ人が行かないのかを見なければならない。所得か。土地か。初期投資か。機械か。販路か。法人化か。地域関係か。技術継承か。農業高校や農業大学校から地域農業への接続か。スマート農業への移行か。高齢農家の知識を若い世代へ渡す仕組みか。

水産に人が足りないなら、なぜ水産へ人が行かないのかを見なければならない。所得か。危険か。船か。漁業権か。資源管理か。漁港か。加工か。流通か。水産高校から漁業や水産業への接続か。高齢漁業者が持つ海域知や漁場知を、若い世代へ渡す仕組みか。

どの領域でも、単に「人がいない」で済ませると、制度設計が消える。

そして、制度設計が消えると、外国人材が便利な答えになる。

だが、外国人材は接続不全の代替ではない。

国内で、働ける人間を働く世界へ接続する。すぐには働けない人間を支援へ接続する。向いていない場所で潰れている人間を、別のトラックへ移す。現場職の処遇を上げる。職業教育を出口側の企業や地域産業とつなぐ。高齢層の時間、経験、資産、生活知、地域知、技能知を、次の世代へ接続し直す。

そこまでやったうえで、なお足りない部分を考える。

順序はそこにある。

ここで、高齢層も見る必要がある。

少子高齢化社会では、若い人間だけを見ても足りない。働ける高齢層がいるなら、働ける範囲で働けばよい。もちろん、若者と同じように長時間働けという話ではない。重労働に戻れという話でもない。年金受給者を罰する話でもない。だが、地域には、送迎、見守り、軽作業、子育て支援、生活支援、技能継承、農地や水路の維持、漁港や地域行事の補助、自治体や地域団体の事務的支援など、重すぎない仕事がある。

高齢層を、医療、介護、年金の受け手としてだけ見るな。

使える高齢層は使え。

ただし、ここでも昭和のOSへ戻ってはならない。高齢者だから偉い。若い者は黙って従え。経験は見て盗め。地域の掟を読め。家族の都合に従え。そんな形で高齢層を戻せば、若い世代は逃げる。親世代は潰れる。継承は失敗する。

高齢層を使うには、高齢層自身のOSアップデートが必要である。

子育て支援に入るなら、現代の育児、安全基準、親世代の方針を学び直す必要がある。技能継承に入るなら、見て覚えろではなく、若い世代が受け取れる形に翻訳する必要がある。地域維持に入るなら、支配ではなく役割として関わる必要がある。高齢層を活用するとは、高齢層をそのまま戻すことではない。高齢層の経験を、現代の制度へ接続し直すことである。

同じことは、若年無業者やフリーターにも言える。

全員を同じトラックへ乗せる必要はない。全員が正社員になる必要もない。全員が清潔な中流勤労者になる必要もない。成人の人生には、グレーな選択も残る。夜職へ行く者もいる。標準的な勤労世界から外れる者もいる。そこまで国家が道徳的に消毒する必要はない。

だが、標準的な接続回路が壊れていることを放置してよいわけではない。

教育を受けた。だが、職業世界へつながらない。働ける。だが、向いている場所が分からない。訓練を受ければ動ける。だが、訓練へつながらない。福祉が必要である。だが、自己責任として放置される。地域に仕事がある。だが、学校もハローワークもそこへつながっていない。そういう状態を放置して、人手不足だけを叫ぶのはおかしい。

人が足りないのか。

接続が壊れているのか。

本稿の答えは、どちらか一方ではない。

必要な場所には、人が足りない。介護にも、農業にも、水産にも、建設にも、地域インフラにも、人は足りない。そこは見なければならない。

だが同時に、接続も壊れている。教育から職業世界への接続が壊れている。地域産業への接続が壊れている。高齢層の経験を次世代へ渡す接続が壊れている。介護を専門職と制度へ逃がす接続が弱い。育児を親世代だけに背負わせない接続が弱い。福祉と勤労の接続が弱い。

だから必要なのは、単なる人数合わせではない。

接続の再設計である。

外国人材を入れる前に、国内の未接続を見ろ。若年層を見ろ。フリーターを見ろ。無業者を見ろ。高齢層を見ろ。地域産業を見ろ。農地を見ろ。海を見ろ。介護を見ろ。職業訓練を見ろ。ハローワークを見ろ。福祉接続を見ろ。

人手不足を、人数だけで語るな。

人手不足とは、社会の接続不全でもある。

7. ぼくのかんがえたさいきょうの政策パッケージ

ここで、一度、床屋政談を置く。

ぼくのかんがえたさいきょうの政策パッケージである。

もちろん、これは完成された政策案ではない。予算、法制度、自治体実務、既存制度との整合、現場の反発、家族関係の複雑さ、高齢者側の能力差、地域差、産業差、全部ある。どこまで実現できるかは正直分からない。

だから、これは床屋政談である。

だが、床屋政談であっても、ここまで論じてきたことから自然に出てくる一つのグランドデザインではある。複線型トラック論では、人を教育から職業世界へ接続する制度を考えた。本稿では、その発想を少子高齢化社会全体へ広げる。若い世代を育てる。未接続層を可能なら再度トラックへ乗せる。働ける高齢層を使う。介護は家族へ戻さず、制度へ逃がす。育児は親世代だけに背負わせず、使える祖父母を使う。地域で暮らし、働き、育てられる生活圏を作る。農地、海、食料供給能力を次の世代へ渡す。

これくらいのことは、素人でも考えつく。

ならば、この床屋政談に、国の政策が負けていてよいのか。

第一の柱は、介護と育児の組み替えである。

ここで重要なのは、介護と育児を同じ「家族ケア」として扱わないことである。

介護と育児は、似ていない。

どちらも家族の中で発生する。どちらも時間を食う。どちらも身体を使う。どちらも感情を削る。どちらも金がかかる。だから、まとめて「ケア」と呼びたくなる。

だが、介護と育児には決定的な非対称性がある。

介護は、ほとんどの人間にとって未経験から始まる。親が老いる。倒れる。認知症になる。要介護になる。排泄、移乗、服薬、通院、認知症対応、夜間対応、医療との接続、施設探し、介護保険の手続きが突然のしかかる。そこで必要になる知識は、家族の愛情だけでは足りない。専門知識、制度知識、身体介助の技術、医療との接続、施設との接続がいる。しかも、相手は自分より上の世代であり、かつての親である。権力関係も感情も重い。

だから、介護を家族へ戻すな。

親の面倒は子どもが見るべきだ。家族だから支えるべきだ。そういう情緒に戻してはならない。親世代を介護で潰してはいけない。育児と介護に挟まれた現役世代を、「家族愛」の名で壊してはならない。介護は、できる限りプロ、介護保険、地域包括ケア、施設、在宅サービス、訪問介護、デイサービス、医療と福祉の接続へ逃がすべきである。

もちろん、家族がまったく関わらないという話ではない。家族には家族の関与がある。だが、介護の主戦力を家族に戻してはならない。そこに戻した瞬間、親世代のキャリア、時間、身体、精神が削られる。育児もできない。仕事も続かない。地域にも残れない。社会は再生産されない。

介護はプロへ。

これは冷たい話ではない。むしろ、冷たく見える制度が、人間を守る。家族の情緒に任せる方が、よほど残酷になる。

一方で、育児は介護とは違う。

育児にも専門性はある。保育士、幼稚園教諭、小児医療、発達支援、学校、心理、福祉の専門性は必要である。育児を家庭の愛情だけでやれと言うつもりはない。保育園も必要である。学童も必要である。病児保育も必要である。一時預かりも必要である。

だが、育児には、家族側に既存経験がある場合が多い。

祖父母は、自分の子どもを育てた経験を持っていることがある。甥や姪の世話をした経験を持っていることもある。近所の子ども、親族の子ども、地域の子どもと関わってきた経験を持っていることもある。もちろん、全員ではない。経験があっても古い場合もある。経験が毒になっている場合もある。だが、介護のように、ほぼ全員が未経験から突然放り込まれる領域とは違う。

ここに、介護と育児の非対称性がある。

介護は、家族に経験がないまま重い専門対応を迫られることが多い。だから、プロと制度へ逃がす。

育児は、祖父母世代に一定の経験がある場合がある。だから、更新したうえで使う。

これを経済学っぽく言えば、比較優位の原則と言ってもよいのかもしれない。介護は専門職と制度に比較優位がある。育児の一部、特に送迎、見守り、生活補助、遊び相手、地域接続、急な穴埋めには、使える祖父母に比較優位がある。だから、介護はプロへ逃がし、育児は使える祖父母を投入する。

情緒ではない。

合理的な役割分担である。

ただし、繰り返す。

使える祖父母は、である。

毒親はいらない。支配的な祖父母はいらない。親世代の方針を尊重できない祖父母はいらない。昔の育児を押しつける祖父母はいらない。嫁や娘を家事労働者扱いする祖父母はいらない。孫を自分の老後の慰みものにする祖父母もいらない。

必要なのは、使える祖父母である。

現代の育児を学び直す。親世代の方針を尊重する。安全基準を守る。過干渉しない。支配しない。送迎、見守り、家事補助、遊び相手、地域接続を役割として担う。金があるなら、孫へ移す。教育費、子育て費用、住宅費、移動費、体験費用へ回す。時間があるなら、孫へ使う。経験があるなら、現代のOSへ更新してから使う。

これが、祖父母の子育てOSアップデートである。

第二の柱は、三世代同居ではなく、三世代近住である。

三世代同居を美化する必要はない。

同居は危ない。もちろん、うまくいく家もある。だが、一般論としては危ない。距離が近すぎる。家事分担が崩れる。嫁姑問題が起こる。親世代の自律性が削られる。祖父母が家庭内権力を持つ。子育て方針が衝突する。介護が同居家族へ流れ込む。逃げ場がなくなる。

だから、基本は近住でよい。

歩いて行ける。車で行ける。電車やバスで行ける。送迎を頼める。急な発熱に対応できる。夕方だけ見られる。土日だけ手伝える。だが、生活単位は分ける。財布も分ける。家事も分ける。親世代の家庭運営権を守る。祖父母は支配者ではなく、支援戦力として入る。

三世代近住とは、情緒ではない。

生活圏設計である。

住宅がいる。交通がいる。保育園がいる。学童がいる。病院がいる。介護サービスがいる。買い物がいる。公園がいる。学校がいる。地域の安全がいる。祖父母が動ける距離に住み、親世代が働き続けられ、子どもが育ち、高齢者が孤立しない生活圏を作る。

これは、家族政策であると同時に、住宅政策であり、交通政策であり、都市政策であり、介護政策であり、子育て政策である。

第三の柱は、複線型トラックの地域実装である。

複線型トラック論で論じた複線型トラックは、抽象的な進路多様化ではない。普通科高校から大学へ流し、低レベルホワイトカラーへ向かわせる一本線をやめるという話だった。実業高校、高専、専門学校、職業訓練、企業内教育、地域産業、ハローワーク、福祉接続を、制度としてつなぐという話だった。

本稿では、それを地域で実装する。

地域には、介護がある。建設がある。農業がある。水産がある。物流がある。製造がある。観光がある。自治体業務がある。地域インフラがある。学校がある。病院がある。福祉がある。中小企業がある。農協がある。漁協がある。

そこへ人をつなぐ。

高校で終わらせない。大学で終わらせない。職業訓練で終わらせない。ハローワークで終わらせない。福祉で終わらせない。地域産業が受け取り、企業内教育が育て、資格と処遇がつき、住む場所があり、移動手段があり、やり直せる回路がある。そういう地域の接続OSを作る。

NEETや若年無業者やフリーターも、可能なら再度トラックへ乗せる。

もちろん、全員がすぐ働けるわけではない。働けない者もいる。医療が先の者もいる。福祉が先の者もいる。成人後のグレーな選択をする者もいる。それを全部、国家が管理する必要はない。だが、働けるのに接続されていない者、訓練すれば働ける者、向いていない場所で潰れている者、地域産業へつながれば機能する者を、放置してよいわけではない。

可能な者は、再度トラックへ乗せる。

これが、複線型トラック論の発展である。

第四の柱は、高齢層の地域戦力化である。

働けるじじばばは、働かせる。

もちろん、若者と同じように働けという話ではない。重労働をしろという話でもない。死ぬまでフルタイムで働けという話でもない。年金受給者を罰する話でもない。

だが、動ける高齢層がいるなら、使う。

送迎。見守り。軽作業。地域清掃。公園管理。農地や水路の維持。漁港や市場の補助。子育て支援。学童補助。保育補助。生活支援。買い物支援。自治会や地域団体の事務補助。技能継承。学校や職業訓練での補助。地域企業での短時間勤務。

全部、ありうる。

高齢層を、医療、介護、年金の受け手としてだけ見るな。時間がある。経験がある。地域を知っている。金を持っている者もいる。技能を持っている者もいる。人間関係を持っている者もいる。それを、ただ余生として消費させるのか。あるいは、次の世代へ渡すための資源として再配置するのか。

ただし、ここでも昭和のOSへ戻ってはならない。

高齢者だから偉い、ではない。若者は黙って従え、ではない。見て覚えろ、ではない。地域の空気を読め、ではない。孫育てに口を出せ、ではない。昔のやり方を押しつけろ、ではない。

高齢層を使うには、高齢層を更新しなければならない。

子育て支援に入るなら、現代の育児を学ぶ。安全基準を学ぶ。親世代の方針を尊重する。技能継承に入るなら、暗黙知を言語化する。若い世代が受け取れる形にする。農業や水産なら、スマート農林水産、機械化、データ、学校教育、職業訓練と接続する。地域活動なら、支配ではなく役割として関わる。

シルバー活用とは、年寄りをそのまま戻すことではない。

高齢層のOSアップデートである。

第五の柱は、農地、海、食料供給能力の継承である。

本稿で、農業高校や水産高校にこだわるのは、そのためである。

農業高校は、単に農家の子を育てる場所ではない。農地、土、水、機械、栽培、加工、物流、販売、スマート農業、地域農業を、次の世代へ渡す制度部品である。水産高校も同じである。漁業、養殖、海、漁港、冷凍、加工、物流、食品、水産資源、沿岸地域の生産基盤を、次の世代へ渡す制度部品である。

農地は、ただの土地ではない。

海は、ただの水面ではない。

そこには、食料供給能力がある。地域の仕事がある。技能がある。歴史がある。生活がある。行政がある。市場がある。インフラがある。高齢層の知識がある。若い世代の技術が必要になる。

だから、農林水産を情緒で語るな。

美しい田園を守れ。漁村を守れ。ふるさとを守れ。そういう話では足りない。必要なのは、食料供給能力と地域生産基盤の継承である。農業高校、水産高校、高専、専門学校、地方大学、職業訓練、農協、漁協、自治体、地域企業、スマート農林水産をつなぐことである。

若い世代だけでは継承できない。

高齢層だけでも継承できない。

若い世代の技術と、高齢層の経験を接続しなければならない。

第六の柱は、資産移転である。

金を持っている高齢層は、孫世代へ移せ。

もちろん、全員が金を持っているわけではない。貧しい高齢者もいる。年金だけでぎりぎりの人もいる。医療と介護で余裕のない人もいる。だから、高齢者を一括で「金持ち」と見るのは間違っている。

だが、資産を持っている高齢層がいるのも事実である。

その金を、死ぬまで寝かせるのか。葬式と相続争いへ回すのか。高齢者向け消費だけに流すのか。それとも、孫の教育費、住宅費、子育て費用、地域で暮らすための初期費用へ移すのか。

少子高齢化社会では、資産移転も再生産可能性の一部である。

金があるなら、孫へ移せ。

時間があるなら、孫へ使え。

経験があるなら、現代のOSへ更新してから渡せ。

このくらい露骨に言ってよい。

もちろん、国家が家族資産を勝手に徴発しろという話ではない。だが、政策としては、教育資金、結婚・子育て資金、住宅取得支援、近住支援、贈与税制、相続税制、地域定住支援を、再生産可能性の観点から組み直す余地がある。

ここまでを、一枚にする。

介護はプロへ逃がす。

育児は使える祖父母を使う。

三世代同居ではなく、三世代近住を設計する。

複線型トラックを地域で実装する。

未接続層を、可能なら再度トラックへ乗せる。

働ける高齢層を、地域、育児、見守り、軽就労、技能継承へ回す。

農地、海、食料供給能力を、若年層と高齢層の役割分担で次世代へ渡す。

資産を、死蔵せず孫世代へ動かす。

外国人材は、その後である。

これが、ぼくのかんがえたさいきょうの政策パッケージである。

繰り返すが、これは床屋政談である。細部は詰めていない。実現可能性も怪しい。制度の摩擦も大きい。現場はそんなに単純ではない。家族も地域も産業も、きれいには動かない。

だが、少なくとも、見るべき軸はある。

若い世代が細る。高齢層は残る。介護は重い。育児は孤立する。地域は痩せる。農地は荒れる。海の仕事は継がれない。未接続層はいる。外国人材は増える。

ならば、国内に残る人間、時間、金、経験、生活知、地域知、技能知をどう組み直すのか。

この問いを立てずに、少子高齢化対策を語るな。

次章では、この床屋政談を物差しにして、各省庁の部品を検品する。

8. 各省庁の部品を検品する

前章で、床屋政談を置いた。

介護はプロへ逃がす。育児は使える祖父母を使う。三世代同居ではなく三世代近住を設計する。複線型トラックを地域で実装する。未接続層を可能なら再度トラックへ乗せる。働ける高齢層を、地域、育児、見守り、軽就労、技能継承へ回す。農地、海、食料供給能力を、若年層と高齢層の役割分担で次世代へ渡す。資産を、死蔵せず孫世代へ動かす。外国人材は、その後である。

もちろん、これは床屋政談である。

だが、床屋政談であっても、物差しにはなる。

ここで見るべきなのは、各省庁に部品があるかどうかではない。部品なら、かなりある。むしろ、見れば見るほど、部品はある。こども家庭庁には子育て支援がある。国交省には住宅と生活圏がある。厚労省には介護、雇用、両立支援がある。地方創生には地域の受け皿がある。経産省には産業人材とミスマッチの地図がある。農水省には食料供給と農村がある。水産庁には海と漁村がある。入管庁と厚労省には外国人材政策がある。各党にも政策メニューはある。

部品があることは、悪いことではない。

むしろ、よいことである。

ぼくの床屋政談の方向に、省庁の官僚様もそれなりに近い部品を作っている、ということだからである。問題は、部品がないことではない。部品が、国内資源再配置としての再生産可能性の設計図へ束ねられていないことである。

複線型トラック論でも、同じことを書いた。文科省には専門高校、高専、専修学校、高校改革、キャリア教育がある。厚労省には職業訓練、ハローワーク、求職者支援、福祉接続がある。経産省には産業政策と人材育成がある。部品はある。だが、15歳から18歳、18歳以後、教育、職業訓練、企業内教育、地域産業、ハローワーク、福祉接続を貫く複線型トラックの設計図にはなっていない。そう論じた。

本稿でも同じである。

ただし、検品基準は違う。

前稿で見たのは、勤労可能性を作る制度設計だった。本稿で見るのは、国内資源を組み直して再生産可能性を作る生活圏設計である。

まず、こども家庭庁を見る。

こども家庭庁「こども未来戦略」(令和5年12月22日閣議決定)は、若い世代の将来展望、子育て世帯の悩み、所得、社会全体の構造や意識、ライフステージに応じた切れ目ない支援を扱う。2025年度から本格実施される加速化プランには、児童手当の拡充、妊婦のための支援給付、妊婦等包括相談支援、出生後休業支援給付金、育児時短就業給付金、高等教育の修学支援制度の拡充などが並ぶ。

ここには、部品がある。

子育て支援はある。所得支援はある。妊娠期からの支援はある。育休や時短への給付もある。高等教育支援もある。若い世代が希望どおり結婚し、希望する誰もがこどもを持ち、安心して子育てできる社会を目指す、という方向もある。

だが、足りない。

本稿の物差しから見ると、こども未来戦略は、親世代と子ども世代への支援が中心である。もちろん、それは必要である。だが、死なない高齢層をどう使うかが弱い。祖父母世代を、育児、送迎、見守り、地域接続、生活知の継承、資産移転へどう動員するのか。祖父母の子育てOSをどう更新するのか。親世代のキャリアを守るために、介護をどう制度へ逃がし、その一方で育児の一部をどう家族内資源として使うのか。そこまでの設計図は見えにくい。

ただし、自治体レベルには面白い部品がある。

さいたま市「祖父母手帳」は、祖父母が育児をしていた時代に比べて、情報が多く、育児方法が大きく変化していることを前提にして、現在の育児法を学び、父母との関係を円滑にし、地域における子育ての担い手になるきっかけを作る冊子である。孫育て講座もある。これは、かなり本稿に近い。

なぜなら、ここには祖父母OSアップデートの発想があるからである。

昔の育児をそのまま押しつけるのではない。祖父母世代を、現在の育児法、親世代との関係、地域の子育てへ接続し直す。これは、ぼくが第7章で書いた「使える祖父母」の部品である。

だが、これもまだ自治体の部品である。全国的な少子化対策の中核に、祖父母OSアップデート、三世代近住、育児支援、資産移転、地域接続を置く設計図ではない。こども家庭庁には子育て支援の部品がある。自治体には祖父母活用の部品もある。だが、死なない高齢層を育児支援の国内資源として使う設計図までは見えない。

次に、国土交通省を見る。

国土交通省「令和7年版国土交通白書」第II部第6章第1節「少子化社会の子育て環境づくり(こどもまんなかまちづくり等)」は、こどもや子育て世帯が安心・快適に日常生活を送るために、住宅を起点とした「近隣地域」という視点から、「こどもまんなか」の生活空間を形成することを掲げている。子育てにやさしい住まい、公営住宅、民間空き家の活用、住宅ローン、居住支援法人、移動支援なども扱う。

これは重要である。

本稿で言う三世代近住は、情緒ではない。生活圏設計である。住宅、移動、保育、学童、病院、介護サービス、買い物、公園、学校、地域の安全が必要になる。祖父母が動ける距離に住み、親世代が働き続けられ、子どもが育ち、高齢者が孤立しない生活圏を作る必要がある。

その意味で、国交省の部品は強い。

住宅を起点とした近隣地域という視点は、本稿の三世代近住にかなり近い。子育てにやさしい移動支援も、送迎、見守り、生活圏の設計と接続しうる。空き家の活用も、親世代と祖父母世代の近住、地域定住、地方移住、子育て世帯支援に使える可能性がある。

だが、足りない。

国交省の政策は、住宅とまちづくりから子育てを支える部品である。そこまではよい。だが、使える祖父母を育児へ動員する設計ではない。介護をプロへ逃がし、親世代を介護で潰さず、祖父母を育児支援へ回し、近住を生活圏として設計し、地域産業や職業トラックとつなぐ設計図ではない。

生活圏の器はある。

だが、世代間再配置の設計図ではない。

次に、厚生労働省を見る。

厚生労働省「第9期介護保険事業計画に基づく介護職員の必要数について」(2024年7月12日)は、2026年度に約240万人、2040年度に約272万人の介護職員が必要になると見込んでいる。2022年度の215万人から見れば、2040年度には約57万人の上積みが必要になる。厚労省は、介護職員の処遇改善、多様な人材の確保・育成、離職防止・定着促進・生産性向上、介護職の魅力向上、外国人材の受入環境整備などを挙げる。

これは、現実を見ている。

介護は足りない。介護は重い。介護職員は必要である。処遇改善も必要である。生産性向上も必要である。外国人材の受入環境整備も、現実には議論せざるを得ない。

また、厚労省には仕事と介護の両立支援もある。介護離職防止のための制度整備、介護休業制度、事業主による周知、相談、雇用環境整備などは、親世代を介護で潰さないための部品である。介護を家族だけへ戻さず、制度へ逃がす方向とは接続できる。

ここも、部品はある。

本稿の第一柱「介護はプロへ」と、厚労省の介護保険、介護人材確保、介護離職防止、地域包括ケアはかなり接続する。家族介護を当然視しない。介護を制度へ逃がす。親世代の仕事を守る。ここは方向として近い。

さらに、シルバー人材センターにも部品がある。

厚労省のシルバー人材センター取組事例には、保育補助、園児の送迎、子どもの見守り、行事や会議での子どもの見守り、保育所での保育サポート、掃除、片づけ、買い物、高齢者の見守りなどが並ぶ。これは、第7章で書いた「働けるじじばばは働かせる」にかなり近い。高齢層を、地域、育児、見守り、軽作業へ回す部品は、すでに存在している。

だが、足りない。

厚労省の部品は、介護、人材確保、雇用、両立支援、シルバー人材センターとして、それぞれ存在している。だが、介護をプロへ逃がすことと、祖父母世代を育児へ回すことと、三世代近住を生活圏として設計することと、親世代のキャリアを守ることと、高齢層のOSアップデートを進めることが、一枚の設計図になっているわけではない。

介護の部品はある。高齢者就労の部品もある。子育て支援に関わるシルバーの部品もある。

だが、介護と育児の非対称性を踏まえて、介護は専門職と制度へ、育児の一部は使える祖父母へ、という役割分担の設計図にはなっていない。

次に、地方創生を見る。

内閣官房・内閣府「地方創生2.0基本構想」(令和7年6月13日閣議決定)は、今後10年間を見据えた地方創生の方向性を示している。若者や女性にも選ばれる地方、安心して暮らし続けられる地方、自立的で持続的に成長する稼げる地方経済、強い経済と豊かな生活環境、地域の働き方・職場改革、地域くらしサービス拠点構想などが出てくる。

これは、本稿とかなり近いところを見ている。

地方に仕事がない。若者や女性が地方を離れる。地方の生活環境が弱い。地域の働き方や職場が変わらなければ、人は戻らない。買い物、行政、生活必需サービス、物流、医療、福祉、交通が弱ければ暮らせない。そこを見るのは正しい。

地域くらしサービス拠点構想も重要である。スーパー、ドラッグストア、コンビニ等に行政機能を併設し、オンラインやドローン等のデジタル技術を組み合わせる発想は、生活圏の維持に関わる。これは、第7章で書いた三世代近住、地域で暮らせる生活圏、地方で働き育てる回路と接続しうる。

だが、足りない。

地方創生2.0は、地方を選ばれる場にするという方向を持っている。若者や女性の流出を問題にし、働き方と職場改革を掲げ、生活サービス拠点も出す。だが、若年層が細り、高齢層が残る社会で、国内資源をどう再配置するかという設計図ではない。

祖父母を育児支援へどう使うのか。介護をプロへ逃がして親世代のキャリアをどう守るのか。複線型トラックを地域の介護、建設、農業、水産、製造、自治体、地域インフラへどう接続するのか。高齢層の時間、経験、資産、地域知、技能知をどう次世代へ渡すのか。農地や海や食料供給能力をどう地域生活圏とつなぐのか。

そこまでは見えにくい。

地方創生には、地域の器がある。

だが、世代間再配置の設計図はない。

次に、経済産業省を見る。

経済産業省資料「2040年の就業構造推計(改訂版)について」は、2040年に十分な国内投資や産業構造転換が実現する場合、人口減少により就業者数は減るが、AI・ロボット等の利活用やリスキリング等により労働需要が効率化され、全体で大きな不足は生じない可能性を示している。一方で、職種、学歴、地域間では需給ミスマッチが生じるリスクがあり、事務職や文系人材が余剰になり、AI・ロボット等利活用人材を含む専門職、現場人材、理系人材が不足する可能性も示している。

これは、第6章の問いにかなり近い。

人が足りないのか。接続が壊れているのか。

経産省の資料は、総量だけを見ていない。職種、学歴、地域のミスマッチを見ている。事務職が余り、現場人材や専門職が足りなくなる。普通科高卒、工業科高卒、高専卒、理系大卒・院卒、文系大卒・院卒の需給差も見る。これは、複線型トラック論とかなり相性がよい。

部品はある。

経産省は、産業側から人材需給を見ている。職業教育と産業をつなぐには、こういう地図が必要である。文科省だけを見てもだめである。厚労省だけを見てもだめである。出口側の産業が、どの人材を必要とし、どの人材が余り、どの地域でミスマッチが出るのかを見る必要がある。

だが、足りない。

経産省の資料は、産業人材の地図である。そこまではよい。だが、生活圏の地図ではない。育児、介護、三世代近住、祖父母のOSアップデート、地域の見守り、資産移転、農地や海の技能継承を含む再生産可能性の設計図ではない。

さらに、リスキリングをデジタル技能やAI・ロボット利活用人材へ寄せすぎると危うい。

前掲のFラン廃止論で書いたように、情報系を舐めてはならない。情報リテラシーを全員が学ぶことと、情報専門職を育てることは違う。短期講座で誰もが高付加価値IT人材になれるわけではない。下位の情報処理は、クラウド、SaaS、自動化、AIによって削られる。デジタルリスキリングを、万人救済の魔法にしてはならない。

本稿で必要なのは、もっと広いOSアップデートである。

祖父母の子育てOSを更新すること。高齢農家や高齢漁業者の暗黙知を、若い世代が受け取れる形へ翻訳すること。地域の見守り、送迎、軽就労、技能継承を制度に接続すること。産業人材のリスキリングだけではなく、社会全体のリスキリングが必要である。

経産省には、ミスマッチの地図がある。

だが、再生産可能性の地図ではない。

次に、農林水産省を見る。

農林水産省「食料・農業・農村基本計画」(令和7年4月11日閣議決定)は、改正食料・農業・農村基本法に基づく初の基本計画である。食料安全保障、農業の持続的発展、農村の振興、農地、担い手、スマート農業、生産性向上などを扱う。

これは、第5章と第7章に直結する。

本稿で農業高校にこだわったのは、農業を単なる職業の一つとしてではなく、農地、食料供給、地域農業、スマート農業、地域生産基盤を次世代へ渡す制度部品として見るためである。農水省の基本計画は、食料供給と農村の部品を持っている。担い手の減少、農地の維持、スマート農業、省力化、生産性向上を見る。これは重要である。

部品はある。

しかも、かなり本筋に近い部品である。

食料安全保障は、再生産可能性の問題である。農地は、次世代へ渡すべき基盤である。農村は、単なる郷愁ではない。地域の仕事、生活、インフラ、環境、食料供給能力と結びついている。スマート農業も、単なるデジタル化ではない。若年層が減り、高齢層が残る社会で、農業を省力化し、継承可能にするための部品になりうる。

だが、足りない。

農水省の基本計画は、農業政策としてはかなり広い。だが、本稿の物差しから見ると、複線型トラックとの接続が弱い。農業高校、農業大学校、専門学校、地方大学、職業訓練、ハローワーク、地域企業、農協、自治体、スマート農業、そして高齢農家の土地感覚や作業知を、どのように一つの世代間継承システムにするのか。そこはまだ見えにくい。

農業は、若者だけでは継承できない。高齢農家が持つ知識がある。土地の癖、水路、作業道、山林、地域関係、機械、季節、失敗の記憶がある。だが、それを昭和の「見て覚えろ」で渡すことはできない。若い世代が受け取れる形に翻訳しなければならない。農業高校や職業訓練やスマート農業と接続しなければならない。

農水省には、農地と食料供給の部品がある。

だが、高齢層の暗黙知を若年層の職業トラックへ接続する設計図は弱い。

次に、水産庁を見る。

水産庁「水産基本計画」(令和4年3月25日閣議決定)は、水産資源管理、水産業の成長産業化、漁村の活性化などを扱う。水産庁「令和5年度水産白書」では、漁業就業者の減少と高齢化、若者に漁業就業の魅力を伝える必要性、水産高校生を対象とした漁業ガイダンスも扱われている。漁船乗組員確保養成プロジェクトでは、漁業者が水産高校へ出向き、漁法、漁師の生活スタイル、漁業の魅力を説明する取組が紹介されている。

これは、かなりよい部品である。

水産高校と漁業者をつなぐ。生徒に漁業の具体的イメージを持たせる。漁業就業へ働きかける。これは、複線型トラック論を水産へ実装する方向に近い。学校と職業世界をつなぐ部品である。

本稿で水産高校にこだわったのは、そのためである。水産高校は、単に漁業者を育てる学校ではない。海、水産資源、漁村、漁港、冷凍、加工、物流、食品、水産物供給、沿岸地域の生産基盤を次世代へ渡す制度部品である。

水産庁には、その部品がある。

だが、足りない。

水産高校へのガイダンスはある。漁業就業者確保の部品はある。海技資格や乗組員確保の話もある。だが、高齢漁業者が持つ海域知、漁場知、潮、季節、漁港の地域関係、漁具、加工、流通、市場の知識を、若い世代へどう制度的に渡すのか。そこは弱い。

ここでも、昭和の「見て覚えろ」OSはもう動かない。

若い者は船に乗って覚えろ。怒鳴られて覚えろ。地域の空気を読め。親方に従え。そういう継承方法では、人は残らない。水産高校、漁業ガイダンス、乗船実習、資格、漁協、自治体、スマート水産、資源管理、加工・流通、地域生活圏をつないで、海の仕事を渡せる形にしなければならない。

水産庁には、海と漁業就業の部品がある。

だが、海を次世代へ渡す生活圏と職業トラックの設計図は弱い。

次に、外国人材政策を見る。

厚生労働省「『外国人雇用状況』の届出状況まとめ(令和7年10月末時点)」によれば、外国人労働者数は257万1037人、外国人を雇用する事業所数は37万1215所であり、いずれも過去最多である。出入国在留管理庁「令和7年6月末現在における在留外国人数について」によれば、在留外国人数は395万6619人であり、これも過去最高である。出入国在留管理庁「育成就労制度Q&A」では、育成就労外国人の受入れが令和9年4月1日から可能になるとされている。

外国人材政策にも、部品はある。

技能実習から育成就労へ移る。特定技能がある。日本語能力がある。育成就労計画がある。分野別の受入れがある。受入れ後の生活支援、共生、日本語教育、労働環境、子どもの教育も問題になる。外国人材を受け入れるなら、制度部品は必要である。

だが、本稿の物差しでは、これは最初の答えではない。

国内の未接続層を再度トラックへ乗せない。職業訓練を接続しない。地域産業の処遇を上げない。介護を家族から制度へ逃がさない。使える祖父母を育児へ回さない。三世代近住を生活圏として設計しない。農地や海の技能継承を作らない。そのまま、介護が足りないから外国人、農業が足りないから外国人、水産が足りないから外国人、建設が足りないから外国人、外食が足りないから外国人へ進むなら、それは再生産可能性ではない。

穴埋めである。

外国人材を受け入れるな、とは言わない。受け入れるなら、労働力ではなく人間が来る。言葉が来る。家族が来る。子どもが来る。教育、医療、住宅、地域、公共参加、日本語公共圏への参加が必要になる。それは5/5の本論に送る。

ここで言うべきことは、順序である。

外国人材は、国内資源再配置の代替ではない。

最後に、政党政策を見る。

政党にも部品はある。

自由民主党「総合政策集2025 J-ファイル」(令和7年7月2日)は、経済成長、賃上げ、給付、高校無償化、育休給付、子育て支援、社会保障、地方創生、産業政策、人材育成、農林水産、外国人材など、多数の政策メニューを持つ。政策の部品量は多い。

立憲民主党「政策集2025」も、自己責任への批判、セーフティネット、子育て支援、雇用、老後の安心、全世代対応型社会保障、地方分散、地域産業、外国人の子どもの教育、日本語教育、生活支援などを扱う。これも部品は多い。

日本維新の会「2025参院選マニフェスト」や「維新八策2025」も、社会保険料、医療介護改革、地方分権、道州制、規制改革、行政改革、教育無償化、成長戦略などの部品を持つ。市場原理、効率化、地方分権の方向ははっきりしている。

だが、ここでも同じである。

部品はある。

だが、設計図は見えにくい。

自民党には政策メニューが多い。だが、若年層が細り、高齢層が残る社会で、介護を制度へ逃がし、使える祖父母を育児へ回し、三世代近住を生活圏として設計し、未接続層を複線型トラックへ戻し、農地・海・食料供給能力を次世代へ渡し、外国人材を最後の手段として位置づける一枚絵は見えにくい。

立憲民主党は、自己責任批判、セーフティネット、子育て、外国人の子どもの教育などを見る。だが、福祉リベラル的な安心の側に寄りやすく、成人のグレーな自己決定を残しながら、未接続層を可能な限り再度トラックへ乗せ、高齢層を育児や地域維持へ動員し、農地や海の生産基盤を渡す設計図としては弱い。

維新は、効率化、社会保険料、医療介護改革、地方分権を強く出す。これは、負担の現実を見るという意味では重要である。だが、市場原理と効率化だけでは、祖父母の子育てOSアップデート、三世代近住、地域の職業トラック、農地・海の世代間継承までは作れない。

政党にも部品はある。

だが、再生産可能性の設計図はない。

ここまで見れば、結論ははっきりしている。

こども家庭庁には、子育て支援の部品がある。

国交省には、住宅と生活圏の部品がある。

厚労省には、介護、両立支援、シルバー人材の部品がある。

地方創生には、地域の器と生活サービス拠点の部品がある。

経産省には、産業人材と需給ミスマッチの地図がある。

農水省には、農地、食料供給、スマート農業の部品がある。

水産庁には、海、水産高校、漁業就業の部品がある。

入管庁と厚労省には、外国人材受入れと管理の部品がある。

政党にも、少子化、子育て、社会保障、地方、産業、外国人材の政策メニューがある。

部品はある。

しかも、かなりある。

だからこそ、問題は深い。

少子高齢化社会で必要なのは、部品の陳列ではない。再生産可能性の設計図である。

若年層が細る。高齢層は残る。介護は重い。育児は孤立する。地域は痩せる。農地は荒れる。海の仕事は継がれない。未接続層はいる。外国人材は増える。そのとき、国内に残る人間、時間、金、経験、生活知、地域知、技能知をどう組み直すのか。

この問いに、省庁縦割りの部品だけでは答えられない。

介護をプロへ逃がす。育児は使える祖父母を使う。三世代近住を生活圏として設計する。複線型トラックを地域で実装する。未接続層を再度トラックへ乗せる。働ける高齢層を地域戦力化する。農地、海、食料供給能力を次世代へ渡す。資産を孫世代へ動かす。外国人材は、国内資源再配置の代替にしない。

この一枚絵が必要である。

部品はある。

だが、設計図はない。

9. まず、国内で回る社会を作れ

第8章で見たように、部品はある。

こども家庭庁には子育て支援がある。国交省には住宅と生活圏がある。厚労省には介護、雇用、両立支援、シルバー人材がある。地方創生には地域の器がある。経産省には産業人材と需給ミスマッチの地図がある。農水省には農地と食料供給がある。水産庁には海と漁業就業がある。入管庁と厚労省には外国人材政策がある。政党にも政策メニューはある。

だから、何もないわけではない。

部品はある。

だが、設計図はない。

少子高齢化を、子育て支援だけで見る。介護保険だけで見る。人手不足だけで見る。地方創生だけで見る。産業人材だけで見る。農政だけで見る。水産政策だけで見る。外国人材だけで見る。そうすれば、それぞれの役所は、それぞれの部品を出す。

それ自体は悪くない。

だが、少子高齢化社会で問われているのは、部品の数ではない。若年層が細り、高齢層が残る社会で、国内にある人間、時間、金、経験、生活知、地域知、技能知をどう組み直すかである。

この問いに、省庁縦割りの部品だけでは答えられない。

必要なのは、国内資源再配置としてのグランドデザインである。

介護はプロへ逃がす。育児は使える祖父母を使う。三世代同居ではなく、三世代近住を生活圏として設計する。複線型トラックを地域で実装する。未接続層を、可能なら再度トラックへ乗せる。働ける高齢層を、地域、育児、見守り、軽就労、技能継承へ回す。農地、海、食料供給能力を、若年層と高齢層の役割分担で次の世代へ渡す。資産を、死蔵せず孫世代へ動かす。外国人材は、国内資源再配置の代替にしない。

これを、一枚の設計図にしなければならない。

その優先順位を決めることが、政治の仕事である。

外国人材を受け入れるな、とは言わない。現実に、外国人労働者は増えている。在留外国人も増えている。すでに多くの現場が外国人材なしでは回りにくくなっている。そこをなかったことにはできない。

だが、外国人材は、国内資源再配置の代替ではない。

国内の教育を組み直したのか。職業訓練を接続したのか。現場職の処遇を上げたのか。複線型トラックを地域で実装したのか。未接続層を見たのか。働ける高齢層を見たのか。介護を家族から制度へ逃がしたのか。使える祖父母を育児へ回したのか。農地や海の技能継承を作ったのか。三世代近住を生活圏として設計したのか。

それをやらないまま、外国人材へ行くな。

外国人を入れるなら、労働力だけを買うことはできない。人間が来る。言葉が来る。生活が来る。家族が来る。子どもが来る。教育が必要になる。医療が必要になる。住宅が必要になる。地域との摩擦も起こる。公共参加も問題になる。日本語公共圏にどう参加してもらうのかも問題になる。

それは、安い労働力を補充する話ではない。

社会の成員を受け入れる話である。

だからこそ、まず国内で回る社会を作れ。

この社会を、次の世代へ渡せる形に作り直せ。

次に問うべきことは、なぜそこまでして日本という社会を残すのか、である。

なぜ日本語公共圏を残すのか。なぜこの制度、この歴史、この国土、この国家を、次の世代へ渡す必要があるのか。国家とは何か。天皇制をどう位置づけるのか。共和制とは何か。日本は、どのような意味で「冠を戴く共和国」なのか。

それは、次稿で扱う。

本稿では、ここまででよい。

部品はある。

だが、設計図はない。

設計図を描け。

この国を次の世代に渡せ。

Word up.

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