日本史|江戸幕府の15将軍まとめ(徳川家康~慶喜)
徳川家康 1(禁教令、武家諸法度)
│(大坂の陣)
├─ 秀忠 2
│ │
│ ├─ 家光 3(参勤交代、鎖国、島原の乱)
│ │ │
│ │ ├─ 家綱 4(由井正雪の乱、シャクシャインの戦い)
│ │ │
│ │ ├─ 綱重
│ │ │ │
│ │ │ └─ 家宣 6
│ │ │ │(新井白石・間部詮房:正徳の治)
│ │ │ └─ 家継 7(海舶互市新例)
│ │ │
│ │ └─ 綱吉 5(生類憐れみの令、柳沢吉保、赤穂事件、元禄文化)
│ │
│ └─ 保科正之
│
├─ 義直[尾張家]
│
├─ 頼宣[紀州家]
│ │
│ <略>
│ └─ 吉宗 8(享保の改革)
│ │
│ ├─ 家重 9
│ │ │
│ │ ├─ 家治 10(田沼時代)
│ │ │
│ │ └─ 重好[清水家]
│ │
│ ├─ 宗武[田安家]
│ │ │
│ │ └─ 松平定信(寛政の改革)
│ │
│ └─ 宗尹[一橋家]
│ │
│ <略>
│ ├─ 家斉 11(寛政の改革、化政文化、異国船打払令、大塩平八郎の乱)
│ │ │
│ │ ├─ 家慶 12(水野忠邦:天保の改革、蛮社の獄、薪水給与令)
│ │ │ │
│ │ │ └─ 家定 13(井伊直弼:日米修好通商条約、安政の大獄)
│ │ │
│ │ └─ 斉順[⇒紀州家]
│ │ │
│ │ └─ 家茂 14(桜田門外の変、薩英戦争、禁門の変、薩長同盟)
│ │
│ └─ 斉匡[⇒田安家]
│ │
│ <略>
│ └─ 家達 16
│
└─ 頼房[水戸家]
│
<略>
└─ 慶喜 15[⇒一橋家](大政奉還、王政復古の大号令、戊辰戦争)初代・家康(1603~1605年)
1543年、三河(愛知県東部)の戦国大名・松平広忠の子として生まれた。
幼少期には、戦国大名同士の争いの中で織田氏や今川氏の人質となったが、今川義元が討たれると独立して勢力を拡大していった。
1598年に豊臣秀吉が死去すると、五大老筆頭の家康は実権を強めた。
そして、豊臣家中心の政権を目指す石田三成らと対立し、1600年の関ヶ原の戦いで破った。
1603年には朝廷から征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開いた。
1605年には将軍職を3男・秀忠へ譲り、自らは大御所として駿府城(静岡市)で政治を主導した。
外交では、朱印状(海外渡航許可証)を与えて朱印船貿易を奨励し、東南アジアや中国商人との貿易を発展させた。
また、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスなどヨーロッパ諸国とも通商を行った。
一方で、キリスト教が外国勢力の拡大につながることを警戒し、1613年には禁教令を全国に拡大した。
1614、1615年の大坂の陣では、依然として大きな影響力を持っていた豊臣氏を滅ぼし、戦国時代を終結させた。
1615年には、大御所として武家諸法度を定めて大名を統制し、また禁中並公家諸法度(禁中=天皇の住む宮中)を定めて朝廷・公家の役割や行動を定めた。
また一国一城令を出して、本城(大名の居城)以外の支城を取り壊させることで大名の力を削いだ。
さらに、9男・義直を尾張藩、10男・頼宣を紀州藩(和歌山県)、11男・頼房を水戸藩に配置し、将軍家に跡継ぎが絶えた場合の体制を整えた。
これらは後に御三家(尾張家、紀州家、水戸家)と呼ばれた。
1616年に家康は病死し、遺言により久能山東照宮(静岡県)に葬られ、翌年に日光東照宮(栃木県)へ改葬された。
東照宮は、家康に贈られた神号「東照大権現」をまつる神社である。
2代・秀忠(1605~1623年)
家康の3男であり、1605年に将軍職を譲られて2代将軍となった。
大坂の陣では家康とともに豊臣氏を滅ぼした。
家康の政策を受け継ぎ、禁教政策では宣教師の追放や教徒への弾圧を進めた。
正室は、浅井長政とお市の方(織田信長の妹)の間に生まれた浅井三姉妹の3女・お江であり、彼女との間に家光などをもうけた。
1623年に将軍職を次男・家光へ譲って大御所となり、1632年に病死した。
なお、側室との間に生まれた保科正之は保科正光の養子となり、のちに会津藩主(福島県)となって3代将軍・家光や4代将軍・家綱を支えた。
3代・家光(1623~1651年)
2代将軍・秀忠の次男であり、1623年に将軍職を譲られて3代将軍となった。
この際、乳母の春日局が幕府中枢や大奥に働きかけることで、家光の将軍継承が確定した。
参勤交代を制度化し、大名が江戸と領国を定期的に往復する仕組みを整えた。
これにより、大名の財政負担を増やして軍事力を抑えるとともに、妻子を江戸に住まわせることで人質的な役割を持たせた。
対外政策では、キリスト教の流入や外国勢力の影響を抑えるために、ポルトガル、スペインの来航を禁止するなど鎖国体制を確立した。
ただし、布教を行わないオランダや中国との貿易は長崎の出島で続けられた。
また、対馬藩(長崎県対馬列島)を通じて朝鮮、薩摩藩を通じて琉球王国、松前藩を通じて蝦夷地(アイヌ)との交易が続けられた。
1637~1638年には、重い年貢や飢饉による領民の生活苦に加え、キリスト教への弾圧が重なったことで島原の乱が発生した(長崎県・島原半島、熊本県・天草地方)。
幕府はこれを鎮圧し、その後キリスト教への警戒をさらに強めるため、寺請制度と宗門改を整備して幕府が宗教を管理する体制を確立した。
寺請制度ではすべての人々をいずれかの寺院の檀家として登録させ、宗門改では役人が住民の信仰や所属寺院を確認した。
1651年に家光は病死し、将軍職は長男・家綱へと継承された。
4代・家綱(1651~1680年)
3代将軍・家光の長男であり、家光の死にともない1651年に11歳で4代将軍となった。
幼少であったため、叔父の保科正之をはじめとする老中らが補佐して政治を行った。
1651年の家光の死後、浪人が幕府転覆を企てた由井正雪の乱が起こった。
幕府はこれを鎮圧し、社会を安定させて再発を防ぐため、それまでの武力による支配を重視した武断政治から、法や政治を重視する文治政治への転換が進んだ。
また同年、家光の死に殉じようとする家臣が相次いだことから、殉死を禁止した。
1663年には末期養子の禁を緩和し、跡継ぎのいない大名が死の直前に養子を迎えることを認めて、大名家の断絶や家臣が浪人となることを防いだ。
また同年、大名の妻子を人質として江戸に住まわせる大名証人制度を廃止するなど、大名統制もより穏やかなものに改められた(参勤交代は引き続き行われた)。
1669年には、松前藩の支配に反発したアイヌの人々が蜂起したシャクシャインの戦いが起こり、幕府はこれを鎮圧した。
1680年に家綱は病死したが子がおらず、弟の綱重(家光の3男)もすでに亡くなっていたため、将軍職はさらに弟の綱吉(家光の4男)へと継承された。
5代・綱吉(1680~1709年)
4代将軍・家綱の弟であり、家綱の死にともない1680年に5代将軍となった。
儒教(朱子学)を政治の基本理念とし、1690年に湯島聖堂(のちの昌平坂学問所)を創建して儒学教育を奨励した。
朱子学は上下関係や秩序、忠義を重視する思想であり、幕府の支配体制を正当化するのに都合がよかった。
また、側用人(将軍の側近として命令の取り次ぎを行う役職)の柳沢吉保を重用し、文治政治をさらに発展させた。
1685年以降、仏教や儒教の思想を背景に、犬をはじめ生き物の命を大切にする生類憐みの令を発布したが、厳しい罰則から庶民や武士の反発を招いた。
また、1695年には勘定吟味役・荻原重秀のもとで、金の含有量を減らした元禄小判が発行された。
これにより幕府は一時的な増収を得たが、貨幣価値の低下による物価上昇を招いた。
1701年には、赤穂事件の発端となる、赤穂藩(兵庫県)の藩主・浅野長矩が江戸城内で吉良上野介に斬りかかる事件が起こり(理由は明らかでない)、その罪で切腹となった。
これに対し、浅野長矩の家臣の大石内蔵助ら、47人の赤穂浪士(四十七士)が江戸の吉良邸に討ち入りして吉良上野介を討ち取ったが、法を重視する幕府の命により切腹となった。
この事件はのちに、人形浄瑠璃や歌舞伎で「忠臣蔵」(蔵は建物でなく、宝庫・集大成などの意とされる)として広く知られるようになった。
また、1688年から始まる元禄年間には、天下の台所と呼ばれた大坂や、文化の中心地であった京都など、上方の町人文化が栄えた。
これは元禄文化と呼ばれ、井原西鶴(浮世草子)、松尾芭蕉(俳諧)、菱川師宣(浮世絵/美人画)、尾形光琳(装飾画)、近松門左衛門(人形浄瑠璃)、市川團十郎(歌舞伎)らが活躍した。
1709年に綱吉は病死したが、男の子がいなかったため、将軍職は兄・綱重の長男・家宣へと継承された。
6代・家宣(1709~1712年)
5代将軍・綱吉の甥であり、綱吉の死にともない1709年に6代将軍となった。
儒学者の新井白石や側用人の間部詮房を重用し、生類憐みの令を廃止するなど、綱吉時代の行き過ぎた政策を見直した。
また、朝鮮通信使の待遇を簡素化するなど、幕府の財政負担の軽減にも努めた。
こうした政治は正徳の治と呼ばれ、文治政治をさらに推し進めた。
1712年に家宣は病死したが、家宣の長男から3男は早世していたため、将軍職はまだ幼い4男・家継へと継承された。
7代・家継(1712~1716年)
6代将軍・家宣の4男であり、家宣の死にともない1712年に5歳で7代将軍となった。
幼少であったため、引き続き新井白石や間部詮房が政治を主導して正徳の治を進めた。
1715年には海舶互市新例を制定し、中国やオランダとの貿易量を制限して金銀の流出を防ぐなど、幕府財政の改善に努めた。
1716年に家継はわずか9歳で病死し、子もいなかったため、将軍職は御三家・紀州徳川家の吉宗へと継承された。
8代・吉宗(1716~1745年)
7代将軍・家継の死にともない、1716年に御三家・紀州徳川家から迎えられて8代将軍となった。
幕府財政の再建を目指して享保の改革を行い、質素・倹約を奨励するとともに、大奥を縮小して支出の削減を図った。
新田開発を進めて年貢収入の増加を図り、大名に一万石につき百石の米を上納させる上米の制を実施する代わりに、参勤交代による江戸滞在期間を半年に短縮した。
一方、有能だが役職に必要な石高を持たない旗本を登用するため、不足分を在職中だけ支給する足高の制を実施した。
また、裁判の基準となる法律をまとめた公事方御定書の制定や、庶民の意見を取り入れるための目安箱の設置を行った。
さらに、江戸町奉行の大岡忠相を重用し、町人による消防組織である町火消の整備や、目安箱の投書から貧民向けの無料医療施設である小石川養生所の開設を行った。
しかし、1732年には享保の大飢饉が発生し、多くの人々が苦しんだ。
吉宗は、次男・宗武を田安家、4男・宗尹を一橋家、長男・家重の次男・重好を清水家の祖とし、将軍家に跡継ぎが絶えた場合の体制を整えた。
これらは後に御三卿と呼ばれた(いずれも藩を持たず江戸に置かれた)。
1745年に将軍職を長男・家重へ譲って大御所となり、1751年に病死した。
9代・家重(1745~1760年)
8代将軍・吉宗の長男であり、1745年に将軍職を譲られて9代将軍となった。
側用人の大岡忠光(家重の不明瞭な言葉を聞き取れたとされる)や田沼意次を重用するなど、側近を通じて幕政を運営した。
1760年に将軍職を長男・家治へ譲って大御所となったが、1761年に病死した。
10代・家治(1760~1786年)
9代将軍・家重の長男であり、1760年に将軍職を譲られて10代将軍となった。
側用人から老中となった田沼意次を重用し、商業を重視して幕府財政の再建を目指した。
同業組合である株仲間を奨励して税を取り立て、長崎貿易の拡大や鉱山の開発を進めるなど、商業による収入の増加を図った。
蝦夷地の開発やロシアとの貿易も計画したが、本格的な実現には至らなかった。
また、印旛沼・手賀沼(千葉県)の干拓にも取り組んだが、洪水などのため頓挫した。
この時代は田沼時代とも呼ばれ、商業や貿易の発展によって経済活動が活発化したが、幕府と商人の結び付きから賄賂が横行して政治批判も高まった。
一方で、オランダを通じて伝わった西洋の学問である蘭学も発展し、杉田玄白や前野良沢らがオランダ語の医学書を翻訳した「解体新書」を1774年に刊行した。
また、平賀源内は蘭学や本草学(薬物や自然物の研究)など幅広い分野で活躍した。
1783年には浅間山の大噴火が発生し、その影響もあって天明の大飢饉が深刻化した。
また、1784年には田沼意次の長男で、若年寄の田沼意知が佐野政言に殺害され、田沼政治は次第に衰退した。
1786年に家治は病死したが、子も早世していたため、将軍職は御三卿・一橋徳川家の家斉へと継承された。
11代・家斉(1786~1837年)
10代将軍・家治の死にともない、1786年に御三卿・一橋徳川家から迎えられて11代将軍となった。
幕府財政の立て直しのため、8代将軍・吉宗の孫(次男・宗武の7男)である老中・松平定信を登用し、寛政の改革を行った。
倹約令を出すとともに、飢饉に備えて米を蓄える囲い米を命じ、生活に困窮した旗本・御家人を救済するため、借金を帳消しにする棄捐令を実施した。
また、人別帳(≒戸籍)から外れた無宿人を収容して職業訓練を行う人足寄場を設置し、江戸に流入した農民の帰農を奨励する旧里帰農令を出すなど、社会の安定を図った。
さらに、上下関係や忠義を重視する朱子学を幕府の正当な学問とし、朱子学以外の学問を制限する寛政異学の禁を出した。
しかし、厳しい倹約政策や幕政の主導権をめぐって家斉と対立し、1793年に松平定信は罷免された。
その後は家斉が幕政を主導し、松平定信の倹約路線を改め、大奥を拡充するなど華やかな生活を送った。
また、1818年には老中・水野忠成(水野忠邦の父)のもとで、金の含有量を減らした文政小判が発行された。
これにより幕府は一時的な増収を得たが、貨幣価値の低下による物価上昇を招き、財政の根本的な改善には至らなかった。
荷田春満が興した国学は、1700年代後半に賀茂真淵の影響を受けた本居宣長が「古事記伝」で大成し、のちに平田篤胤が発展させた。
また、1800年代初めの文化・文政年間には、経済の中心が上方から移って江戸が日本最大の都市へ発展したため、江戸の町人文化が栄えた。
これは化政文化と呼ばれ、十返舎一九(滑稽本)、滝沢馬琴(読本=長編小説)、小林一茶(俳諧)、葛飾北斎(浮世絵/風景画)、歌川広重(浮世絵/風景画)、喜多川歌麿(浮世絵/美人画)、東洲斎写楽(浮世絵/役者絵)、鶴屋南北(歌舞伎脚本)らが活躍した。
一方で、欧米諸国がアジアとの貿易拡大を狙い、日本にも外国船の来航が相次いだ。
1782年には、伊勢(三重県)の船頭・大黒屋光太夫が漂流してロシアに渡り、1792年にはロシアのラクスマンが光太夫を伴って根室(北海道)に来航して通商を求めた。
幕府は長崎への入港許可証を与えたが、鎖国政策を維持していたため通商は認めなかった。
1804年には、ロシアのレザノフが長崎に来航して通商を要求したが、幕府は鎖国政策を理由にこれを拒否した。
1811年には、ロシアのゴローニンが国後島で測量を行ったため幕府に捕らえられたが、その後の日露交渉によって送還された(ゴローニン事件)。
また1808年には、イギリスの軍艦フェートン号がナポレオン戦争でフランスの支配下にあったオランダの船を狙い、オランダ船を装って長崎港へ侵入した。
そして、オランダ商館員を人質に薪や水・食料を要求し、それらを長崎奉行から受け取ったのち人質を解放して退去した(フェートン号事件)。
これらの出来事によって幕府は外国船への警戒を強め、1825年には外国船を武力で追い払う異国船打払令を出した。
1823年にはドイツの医師シーボルトが来日して長崎で西洋医学を伝えたが、1828年に日本地図などを国外へ持ち帰ろうとしたことが発覚した。
情報流出を問題視した幕府は、天文方の高橋景保を処罰するとともに、シーボルトを国外追放した(シーボルト事件)。
1837年には天保の大飢饉による困窮の中、大坂町奉行所の元与力(役人)の大塩平八郎が幕府や豪商を批判して挙兵したが、短期間で鎮圧された(大塩平八郎の乱)。
家斉は50人以上の子どもをもうけたが、多くは幼くして亡くなった。
1837年に将軍職を長男・家慶へ譲って大御所となり(大御所時代)、1841年に病死した。
12代・家慶(1837~1853年)
11代将軍・家斉の次男であり、1837年に将軍職を譲られて12代将軍となった。
深刻化していた財政難や社会不安に対応するため、老中・水野忠邦を登用して天保の改革を行った。
倹約令を出し、娯楽の規制や風紀の取締りを強化するとともに、株仲間を解散して物価の引き下げを図った。
また、都市に流入した農民を農村へ返す人返し令を出し、農村の復興を目指した。
さらに、幕府財政の強化を目的として、江戸・大坂周辺の大名領や旗本領を幕府領に戻そうとする上知令(知は知行=領地支配)を実施したが、大名や旗本の強い反発を受けて中止となった。
これらの改革は十分な成果を上げることができず、水野忠邦は失脚した。
1837年には、アメリカの商船モリソン号が日本人漂流民を送還するため来航したが、幕府は異国船打払令にもとづき砲撃して退去させた(モリソン号事件)。
この対応や幕府の対外政策を批判した蘭学者の高野長英や渡辺崋山らは、1839年に蛮社の獄(蛮=西洋、社=知識人の集まり)と呼ばれる弾圧を受け、のちに両者は自害した。
しかし、アヘン戦争(1840~1842年)で清がイギリスに敗れたことを受け、幕府は外国との武力衝突を避ける方針へ転じた。
このため、1842年には異国船打払令を改め、外国船に薪や水などを補給して退去させる薪水給与令を出した。
1853年には、アメリカのペリーが黒船を率いて浦賀(神奈川)へ来航した。
しかし、家慶はその対応を協議している最中に病死し、長男から3男はすでに亡くなっていたため、将軍職は4男・家定へと継承された。
13代・家定(1853~1858年)
12代将軍・家慶の4男であり、1853年に13代将軍となった。
病弱であったため自ら政治を主導することは少なく、幕政は老中・阿部正弘らが担った。
1854年には、再来日したアメリカのペリーと日米和親条約を結び、下田(静岡)と箱館(函館)を開港したため、200年以上続いた鎖国政策は大きく転換した。
1856年にはアメリカの総領事ハリスが下田へ着任し、通商条約の締結を求めて幕府との交渉を開始した。
老中・堀田正睦(阿部正弘の後任)は、朝廷の許可を得て条約を締結しようとしたが、孝明天皇は開国に反対でこれを認めなかった。
1858年に大老となった井伊直弼は、外国との衝突を避けるために朝廷の許可なく日米修好通商条約を締結した。
また、反対派の大名や公家、知識人を弾圧し、吉田松陰らを死刑に処した(安政の大獄)。
家定は正室・篤姫や側室との間に子がいなかったため、将軍の跡継ぎ問題が起こった。
そして、水戸家出身で一橋家の養子となった一橋慶喜を推す一橋派と、紀州家の養子となった徳川斉順(11代将軍・家斉の7男)の次男で、紀州藩(南紀)の藩主となった徳川慶福を推す南紀派が対立した。
1858年に家定は病死し、将軍職は井伊直弼ら南紀派が推した徳川慶福(家茂)へと継承された。
14代・家茂(1858~1866年)
13代将軍・家定の死にともない、1858年に御三家・紀州徳川家から迎えられて13歳で14代将軍となった。
当時、幕府が日米修好通商条約など開国を進める一方、開国に反対する孝明天皇のもとで外国勢力を排除すべきとする尊王攘夷運動が活発化し、幕府と朝廷の対立が深まっていた。
1860年には安政の大獄の反発から、水戸藩を中心とする尊王攘夷派(尊攘派)の浪士が井伊直弼を暗殺した(桜田門外の変)。
幕府は朝廷との対立を和らげる公武合体政策の一環として、1862年に孝明天皇の妹・和宮に家茂へ嫁いでもらった(和宮降嫁)。
しかし同年、公武合体政策を進めていた老中・安藤信正が尊攘派に襲撃されて負傷した(坂下門外の変)。
同じ1862年、薩摩藩士が大名行列を横切ったイギリス人を殺傷する生麦事件(神奈川)が起こり、翌1863年にはイギリス艦隊が鹿児島を砲撃した(薩英戦争)。
また同じ1863年、長州藩(山口県)が下関海峡を通過する外国船への砲撃を開始したが、急進的な尊攘派を危険視した薩摩藩や会津藩は、京都から長州藩勢力を追放した(八月十八日の政変)。
長州藩と関係の深い尊攘派の志士は京都での勢力回復を図ったが、幕府から京都の治安維持を任された新選組によって1864年に襲撃された(池田屋事件)。
その後、長州藩は京都御所周辺で武力による勢力回復を試みたが、薩摩藩・会津藩などに敗れた。
これは禁門の変(禁門=天皇の住む御所の門)と呼ばれ、特に激しい戦闘が行われた門の名から蛤御門の変とも呼ばれる。
また、長州藩が前年に行った外国船砲撃への報復として、1864年にイギリス・フランス・アメリカ・オランダの四か国連合艦隊が下関を砲撃した(四国艦隊下関砲撃事件)。
この状況を受けて幕府は、禁門の変で対立した長州藩を処分して幕府の権威を示すために、第一次長州征討を行って長州藩を降伏させた。
薩英戦争や四国艦隊下関砲撃事件を通じて、薩摩藩・長州藩は武力による攘夷の限界を認識した。
その後、長州藩では高杉晋作らが藩政改革を進め、奇兵隊(身分を問わない部隊)を活用して勢力を回復した。
また、幕府には外国の圧力や国内の混乱を収拾する力がないと考えるようになり、幕府に代わる新たな政治体制を目指した。
1866年には、坂本龍馬らの仲介により薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の桂小五郎(のちの木戸孝允)らが薩長同盟を結んだ。
一方で同年、幕府は長州藩を再び従わせるため第二次長州征討を開始したが、近代化を進めた長州藩に苦戦した。
その最中、家茂は大坂城において21歳で病死し、子もいなかったため、将軍職は一橋徳川家の慶喜へと継承された。
15代・慶喜(1866~1867年)
14代将軍・家茂の死にともない、1866年に御三卿・一橋徳川家から迎えられて15代将軍となった。
幕府がフランスの支援を受けて近代化を進めた一方、長州藩もイギリスなどから武器を購入して近代的な軍制を整えており、第二次長州征討で幕府は敗れて権威低下と体制の限界が明らかとなった。
土佐藩の後藤象二郎は、坂本龍馬の構想をもとに大政奉還を幕府へ提案し、新たな政治体制での影響力を狙った慶喜は1867年に大政奉還を行った。
しかし同年、岩倉具視ら朝廷の倒幕派は、王政復古の大号令を発して幕府と将軍職の廃止を宣言した。
翌1868年には旧幕府と新政府の間で戊辰戦争が始まり、京都の鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、慶喜は大坂城から江戸城へ戻って謹慎の姿勢を見せた。
幕臣の勝海舟は、江戸での戦火を避けるため新政府の西郷隆盛と交渉し、江戸城の無血開城を実現した。
その後、徳川家の存続が認められ、1868年に家達(11代将軍・家斉の兄弟で田安家を継いだ斉匡の孫)が徳川宗家(本家)の16代当主となった。
同年、元号は明治へ改められ、260年以上続いた江戸時代は終わりを迎えた。
1913年に最後の将軍・慶喜は病死した。
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