ちゃんとやってる人ほど、怒ってる ── 放蕩息子の、兄の話
放蕩息子のたとえ話を知っている人は多い。けれどこの話、本当の主役は、家を出なかった兄のほうだったんじゃないか。そんな読み直しを、少し前からしている。
ざらっとする、あの夜のこと
「ちゃんとやってるのに」と、
呟いたこと、ある気がする。
場面はいつも、
地味だ。
職場で誰かが褒められた日の、
帰りの電車。
SNSでバズっているポストを見て、
タイムラインを閉じた深夜。
誰にも言わないけれど、
胸の奥に小さく、
ざらっとしたものが残っている。
あれは怒りとも違う。
悲しみとも、少し違う。
「私だってこんなに
真面目にやってるのに」という、
どこにも出し先のない何かだ。
聖書に、この感情を書いた話がある
聖書にこの感情を書いた話がある。
ルカによる福音書の15章。
「放蕩息子のたとえ」と呼ばれている、
有名な話だ。
教会の説教で
繰り返し取り上げられるので、
信者でない人でも
話だけは聞いたことがあるかもしれない。
読んだことがなくても、
だいたいのあらすじは、
どこかで耳にしている気がする。
話を軽くおさらいしておく。
ある父親に、
息子が二人いた。
弟は、父がまだ生きているうちに
相続分を先にくれ、と言った。
金を手にした弟は、
遠い国へ旅立って、
放蕩の限りを尽くして、
すべてを使い果たす。
折悪しく飢饉に遭って、
豚飼いの仕事にありつくけれど、
豚のエサすら羨ましくなるほど、
貧しさの底に落ちる。
そして、
「もう使用人でいいから、
父のもとへ帰ろう」
と決意する。
帰ってきた弟を見つけた父は、
遠くからそれと気づいて、
走り寄って抱きしめる。
一番いい服を着せ、
一番肥えた子牛を屠って、
盛大に祝宴を開く。
ここまでが、
たぶん多くの人が
「放蕩息子の話」として
思い出すところだと思う。
話は、ここで終わらない
でも、
話はここで終わらない。
畑から帰ってきた兄が、
祝宴の音楽を聞いて事情を問う。
弟が帰ったと聞いて、
兄は怒る。
そして、
家に入らずに父に抗議する。
わたしは何年もお父様に仕え、
一度も言いつけに背いたことがありません。
それなのに、わたしには子やぎ一匹
くださらなかった。
遊女と財産を食いつぶした弟が帰ると、
肥えた子牛を屠ってやるのですか。
何年か前、
この話を初めてちゃんと読んだとき、
兄のことが、少しわかると思った。
わかる、と言うよりも、
この人の怒り方は、
見たことがある、と思った。
職場で「ちゃんとやってる人」ほど、
誰かが特別扱いされると
ザラっとする。
自分がもらえなかった「子やぎ一匹」を、
静かに数え始める。
名前を出すまでもなく、
どの職場にもいる人で、
時々は、自分自身だ。
父の返事が、この話の芯だと思う
父は兄に、
こう返す。
子よ、お前はいつも
わたしと一緒にいる。
わたしのものは全部、お前のものだ。
これ、冷静に読むと、
すごいことを言っている。
兄が悔しがっている「子やぎ一匹」より、
父が与えてくれていたのは、
「いつも一緒にいた時間そのもの」
だった。
肥えた子牛は、
一度屠ってしまえば終わる。
でも「毎日一緒にいる」ほうは、
何年も続いていた。
本当は、そちらのほうが
ずっと大きな祝福だった。
ただ、兄にはそれが見えていなかった。
見えていなかった、
というより、
「毎日一緒にいる」ことが
当たり前すぎて、
祝福として数えられなくなっていた。
当たり前になった祝福は、見えなくなる
弟の帰還は、
わかりやすい喜びだ。
祝宴がある。
音楽がある。
肥えた子牛がある。
でも、
兄が受け取っていたものは、
音楽も祝宴も屠る子牛もない、
ただの、毎日だった。
当たり前になった祝福は、
見えないうちに、
数えられなくなる。
「ちゃんとやってる」の裏側には、
「誰かに見てほしい」が
くっついている気がする。
そこに気づくと、
兄が欲しかったのは、
本当は子やぎじゃなかった
のかもしれない、と思う。
「お前はいつも私と一緒にいるね」と、
父がわざわざ口に出して
気づいてくれること。
認められたかった、
ただそれだけのことを、
「子やぎ一匹」のかたちで
要求していた。
でも、
認められるかどうかと、
愛されているかどうかは、
別のことだったりする。
兄は、
「認められたがる自分」に、
いつの間にか、
囚われていた。
このたとえ話は、弟の話ではないかもしれない
この話を「放蕩息子のたとえ」と呼ぶのは、
半分しか合っていない気がする。
本当の主役は、
兄のほうだったんじゃないだろうか。
家を出なかった兄のほうが、
迷子になっていた。
「正しく生きている」ほど、
赦しの物語から
自分を追い出していく。
もっと乱暴に言えば、
この話は2000年前に書かれた
SNSの話だ。
「あの人は楽してる」
「私のほうが働いてる」
「なんで私だけ認められないの」
そう呟いているタイムラインは、
そのまま、
畑から帰ってきた兄の独り言に聞こえる。
書かれていないのが、この話の怖いところ
父は最後まで、
兄を叱らなかった。
家に入れと強制もしなかった。
ただ、
「お前はいつも私と一緒にいる」と、
それだけ、
もう一度言っただけだった。
そう言われて、
兄が家に入ったのかどうか、
聖書には書かれていない。
書かれていないのが、
この話の怖いところだ。
入るか入らないかは、
今これを読んでいる私たちの、
役目なのかもしれない。
子やぎ一匹くらい、
私だって欲しいわ。
そう思いながら、
結局、毎日
家にはいるんやけどな。
よくある問い
Q. 放蕩息子の話はキリスト教の教えを知らないと読めないのか?
A. 日常の感情と地続きなので、
信仰の有無に関係なく読めると思います。
「ちゃんとやってるのに認められない」感覚は、
宗教の枠を超えて共通しています。
Q. この話の「父」を神だと考えないと意味がないのでは?
A. 神と読まなくても、
「当たり前の祝福を見失う人間」の話として
成立します。
親子関係や、職場、友人関係に
置き換えて読むこともできます。
Q. 放蕩した弟は結局ズルいのではないか?
A. 弟はゼロから這い上がったけれど、
兄は最初から父の隣にいた。
どちらが恵まれていたかは、
単純には比べられません。
この話は、
どちらが正しいかを競わせる話ではなく、
「当たり前を見失うのは誰もが同じだ」
という話だと思います。
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