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ポルテーニョの誇り

タンゴ・ワールドカップ、通称ムンディアル、2025年ブエノスアイレスでの本選まで秒読み。今更タイトルなんていらないんじゃないの~というような有名ダンサーから虎視眈々とチャンスを狙う新星まで、地元の猛者たちもゆったりと動きはじめました。

……競技会は大きくステージ部門(tango escenario)とピスタ部門(tango de pista、つまりダンスフロアで踊られるタンゴ)に分かれます。

タンゴは現在進行形 ←競技会についてはこの記事をご覧ください

予選、準決勝を突破して決勝に臨めるのは、ワイルドカードの地域予選通過組を含め、ステージタンゴ部門は20組、ピスタ部門は40組程度。

競技はTV、ストリーミングでも配信され、ブエノスアイレスから離れていても熱戦の様子がうかがえるのがうれしい。そして、連日の放送のなかで私たちが一番目にし耳にするのは、おそらくこの人、司会者の Carlos Lin です。
(タイトル写真 from Legislatura Ciudad Autonoma de Buenos Aires)

カルロスは、ここ数年、ムンディアルの司会者として競技のスムーズな進行を助け、また当意即妙なコメントで、長時間、時には悪天候のなか野外ステージでの競技を見守る観衆を盛り上げ、今やムンディアルの顔といっていいんじゃないかと思います。

彼はブロードキャスターでブエノスアイレスの名誉市民という有名人。名字が示すように中国系アルゼンチン人で、彼の物語がこれまたとってもアルゼンチン。以下は、在外中国人の物語をつづる Far from China に掲載された「中国系アルゼンチン人も楽じゃない」という記事ので紹介された彼の物語、一部を抜粋してご紹介します。

カルロスの父方のおじいさんは海上貿易をしていた台湾人で、南京で中国人女性と恋に落ち、結婚した2人は台湾に住み3人の子供に恵まれます。その一人、カルロスのお父さんは学生時代に知り合った女性と結婚しました。順調にみえた台湾での生活はしかし、1975年大陸中国との関係悪化にともなって終わりを迎えます。一族が従事していた大陸との貿易事業が立ち行かなくなったため、チャンスを求め親子兄弟はともに南米への移住を決意したのです。

ボリビアを経て一家がアルゼンチン、ブエノスアイレスにたどり着いたのは折りしもフォークランド・マルビナス紛争の最中の1982年、カルロスが2歳の時でした。

「僕と兄貴はサッカーが得意だったからね、いとこたちと違って(近所の子供社会に)溶け込むのはそんなに難しくなかったよ」

という彼ですが、家族が始めた中国・台湾との貿易ビジネスは、1990年代アルゼンチン政府の貿易規制と経済失政のため、またも廃業を余儀なくされてしまいます。

家を売り、次に一家が始めたのはスーパーマーケット。アルゼンチンでは、「チャイニーズに行く」といったら、スーパーマーケットに行くという意味なくらい、中国系オーナーのスーパーマーケットは多数あり、

「(だから普通のことにみえるかもしれないけれど、仕事の)大変さは並大抵ではないんだ。(1980、90年代の中国からの移民は今と違って)本当に貧しい人も多かった。本国に親や子供を残してきた人も多くて、皆必死に働いて仕送りをしていたんだ」

移民国家で、今も移民に門戸を開いているアルゼンチンとはいえ、非スペイン語圏から移住してきた人たちが直面するハードルは決して低くない。生き延びるため目前の仕事に集中せざるをえなかったことが、当時の中国系移民から、スペイン語を習う、現地の文化を知る、といった機会を奪い、彼らがアルゼンチン社会への溶け込むのを難しくしたのではないか、とカルロスは続けます。

「例えば、アルゼンチンでは家族や友達とハグしたりキスしたり、身体的な距離がとても近いだろう? でも中国じゃそうじゃない。そういうことも(上手く説明されないため中国人は変だと)誤解を招く一因なんだ……」

サッカーとタンゴを愛し、完璧な巻き舌のRのカスティジャーノアルゼンチン風スペイン語で自分は「最もポルテーニョブエノスアイレスっ子な中国人(el más porteño de los chinos)」というカルロス。かれの中国名は林文正、Lin という台湾語読みの姓の、中国系初のブエノスアイレス名誉市民。いやー、これ以上アルゼンチンでチャイニーズな話って、なかなかないですよね(ウォン・カーウァイの映画の舞台になりそう)。フム、役者はそろった。それではカルロス、今年もムンディアルをよろしくお願いします🌹
©2025, Rico Unno, CC BY-ND


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