妻が動かした車椅子
それは、
ほんの10分間だけ病院を離れて、
戻ってきたときに起きた、
小さな奇跡
これは、
妻が脳出血に倒れてから、
まだ間もない頃の話──
入院生活も、
2カ月が経過していました。
右半身の麻痺は変わらずでしたが、
リハビリは順調に進んでいて。
壁に寄りかかれば、
独りで立つことができたり、
ベッドからも立ち上がることもできるようになっていました。
──とはいえ、
妻が自分で、
車椅子を動かせるようになるには、
まだ時間がかかると思われていました。
病棟からリハビリ室までは、
車椅子での移動でしたが、
その頃はリハビリの先生か私が、
車椅子を押して送っていました。
──その日も、
作業療法(OT)と理学療法(PT)の
リハビリが40分ずつ予定されていました。
作業療法の途中に、
会社から電話が入り。
次の訓練が始まるまでの、
10分間の休憩時間に、
電話をかけ直しに席を外しました。
電話は思った以上に長引き──
私がリハビリ室に戻ったときには、
ちょうどPTも終わるところでした。
お礼を伝え、
先生にリハビリの様子を伺っていると。
──そのとき
『ね、見て、見て』
私の少し後ろにいた妻が、
そんなふうに言ったような気がしました。
そっちに振り返れば、
妻は自分で、
車椅子を動かし始めていました。
一瞬、目を疑い、
『えっ? 今、自分で押せた?』
そう言って、驚く私を見て、
妻はニコニコ笑いながら得意げに。
見せつけるかのように、
車椅子を自在に操ってみせました。
先生が、
『今日の訓練で出来るようになったので、
あとで旦那さんに見せようって、
奥さんと話してたんですよ』
妻が倒れてから、
今日までのリハビリの日々や、
いろいろな光景が、
私の頭の中を走り抜け──
『すごいね。
本当に…すごい…』
──溢れてくる感情で
私はそれ以上の言葉を
出すことができませんでした。
あの頃の私は、
妻のほんの小さな変化にも、
一喜一憂していて。
でも、それが何より、
私たちにとっては、
かけがえのない時間でした。
そして、
あれから10年が経つ今でも。
あの妻の笑顔と、
こみ上げてきた嬉しさを、
忘れることはありません。

妻が動かした車椅子 【完】
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