履けないスニーカー
それは──
妻が脳出血で倒れてから、
2ヶ月が経過していた頃のこと。
まだ重い後遺症が
色濃く残っていました。
妻は昔から、
服や靴は流行りは関係なく、
自分の気に入ったものだけを
身につける人でした。
──中でも、
スニーカーはとくに好きでした。
入院生活が始まってからというもの、
妻の格好は毎日ほぼ変わらず。
リハビリ用のシャツにパンツ、
そして"介護用の靴"
以前の妻らしさは、
そこにありませんでした。
回復期病棟に移り、
リハビリが進むにつれて──
少しずつ自分の身なりに、
妻の気も向き始めていました。
お昼ご飯を
食べ終えたあとの休憩時間。
妻は、
病棟の共有スペースで、
ファッション雑誌を
食い入るように見ていました。
そっと近づいて、
『何見てるの?』と声をかけると、
妻は動く方の左手で、
紙面の写真を指差しました。
失語の症状が強く、
話せませんでしたが──
どうやら妻は、
『これ、私のと同じ』
そんなふうに、
伝えたかったようでした。
見れば──
そこに写っていたのは、
妻の好きな “ニューバランス”
赤地に白で、
『N』のロゴが入ったスニーカーでした。
倒れる直前に、
買ったばかりのそれが、
今も玄関に置かれたままだったことを、
すぐに思い浮かびました。
──けれど同時に
麻痺している妻の足には、
常にプラスチック製の装具を
着ける必要があり、
──妻はもう、
履くことはできない。
妻に、私は──
『ごめん。あの靴、
邪魔だし捨てたんだよね』
とっさに、
そう"嘘"をつきました。
──途端に
妻は怒り出し、
『なんで捨てたの?
私の靴なのに!』
と言わんばかりに──
言葉にもならない声を上げて、
顔をぐしゃぐしゃにしながら、
泣き出しました。
その様子は看護師が、
駆け寄ってくるほど。
──その日は、
そのままリハビリも見届けずに、
私は病院をあとにしました。
その帰り道──
妻があのスニーカーを履けないと、
理解する日は来るのだろうか。
でも、理解したとしても、
また悲しむんじゃないだろうか。
そんなことを
ずっと──
私は考えていました。

履けないスニーカー 【完】
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