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人として目覚めるとき




【人として目覚めるとき】



ある日──


妻は脳出血により、
言葉を失い、身体の半分の自由がなくなった。



そのときの私の目には、
もう人として生きられない姿に映っていた。


──果たして、


どこまで人は、
人として生きていられるのだろうか。


そして妻が、
人として生きるために必要だったもの。





※この話は、
全て実際の経験に基づいています。








7時間にも及んだ脳出血の手術により、
妻はその一命を取り留めた。



その後もICUで麻酔により、
2週間は意識を落とされていた。


人工呼吸器をつけて、

体中には医療機器の管を、
体中を巻かれるように繋がれながら。






ICUのその部屋は、
いつも静寂としていて。


繋がれた機械音だけが、
ピッ、ピッとだけ、
無機質に音を立てていた。



まだ妻の状態は、
安定していないことから、


何も知らされないまま、
私は不安だけを抱えて過ごしていた。









ある日。



妻のリハビリにきた理学療法士が、
手足の拘縮を防ぐため、
マッサージをしながらこう言った。




『奥様の右側の反応
……鈍いですね』 




一瞬、身の毛がよだった。


理学療法士に触れられても、
ピクリとも動かない
その妻の右腕の様子を見ながら──


私の中には、
確かな【嫌な予感】が芽生えていた。




実を言えば、

術後すぐに、妻の身体が左と右で、
反応に明確な違いがあることには気付いていた。


ただ、『それ』が、
何を意味するのかを、

現実に知ることが怖かっただけで。



──知りたくなかった。



つい先日、倒れたばかりの妻を、
目の前にした私にはまだ。


脳出血により、

右側が動かないという事実を、
受け止めるだけの余力がなかった。








妻の開頭手術からは、
すでに二週間が経過していた。

その日は、 

妻の意識を落としていた
麻酔を停止する日。




医師や看護師に処置されて、
ようやく麻酔から妻は解放された。




麻酔が解けて、
しばらくすると──


妻はゆっくりと、
パチパチさせながら目を見開いた。


初めは、そのまま表情も変えず、
目からポロポロと涙を流していた。



そして次第に。
声を上げながら泣き出し始めた。







私は今までずっと、待ち詫びていた。
妻が目覚めるという



──この時を。



私の身体の底からは、
喜びが湧き上がってきていた。




私のどこかには、


『妻の意識さえ戻れば、何かが変わる』

そんな期待をずっと持っていた。





それでも──


2週間ぶりに目を覚ました妻に
急に話しかけて驚かせると、

何か壊れそうな気がして怖かった。




泣いてる妻に感情を抑えながら、
小声でそっと話しかけた。




『俺のこと、分かる?』



けれど、妻は、
そのまま泣き続けていた。


私の問いかけに、
わずかな反応も示すこともなく。



それからは、


どんなに話し掛けても、
期待したような反応を妻から得られることはできなかった。


まるで私の存在など感じていない様子で、
妻はずっと泣き続けていた。







泣いている妻のその涙を見ながら、
私は、ある違和感を覚え始めていた。

その涙は、私の声に反応したものや、
妻の感情に触れたものではなく。


ただただ怯えて、
泣いているようにしか見えなかった。






まるでそれは、


──生まれたばかりの赤ん坊のように。
ただ泣いているようだった。



少なからず、
私の目にはそう映っていた。



結局、妻は最後まで、

私が期待した反応をすることもなく。


泣きつかれて、
そのまま眠りについてしまった。





しばらくして、
医師や看護師もICUをあとにした。


私は再び、
ICUで寝ている妻と2人きりになった。


ついさっきまで、
泣いていた妻の姿を思い出しながら。



私の気持ちだけは、
沈んでいた。




目の前で寝ている妻を見て、
感情が溢れだし、
そして涙だけはとまらなかった。


これまで、ずっと、
一緒に過ごしてきた日々が、

私の頭の中を駆け巡っていた。


……たくさんの思い出や、後悔。



20年以上、
ずっと私のそばにいた人に、


もう二度と会えない。


──その時は、
そんな気がした。












それから。



しばらく経っても、
妻の口から言葉が出ることはなかった。


どうやらその時の妻は、

『言葉を出さない』のではなく、

『言葉が出せない』
らしかった。


その事実を知るのは、
もう少し経ってからのことだったが。



そんな妻が、
最初に発した言葉は。


それはICUから急性期病棟へ移り、
しばらくしてからの頃のことだった。




『アー』




──それがはじめて発した言葉。


ただ、その言葉を聞いた瞬間は、
素直にうれしかった。


それ以前の妻の面影は、
そこには一ミリの欠片すら見当たらないものの。


自分の言葉で、
何かを訴えようとする意識が、

戻ったことが妙に嬉しかった。







ほんの少しずつ。


まだそれは、【回復】という言葉には、
ほど遠かったものの。


妻には、ほんの少しずつ変化が、
見られるようにもなっていた。


それからしばらくして、
言葉も増え。




「アー」から、
「アー、ウー」と。




そんな小さな変化だったが、
本当に嬉しかった。


ただ、一方で、
現実を振り返ると。


その数倍も落ち込んでいた──



喜びと同時に、

『はあ』という、
ため息を吐き落胆を繰り返す。



その時の私は、
まだそんな日々を送っていた。







妻が麻酔から目が覚めて、
それからすでに、


1週間が経過していた。




言葉は発したものの、

まだ妻は、『人として目覚めた』とは、
とても言える状態ではなかった。



目の前の現実は厳しく──


妻は、

子どもたちのことも、
私のことも、
自分の生理すらでさえ、




……その何一つを、
理解してはいなかった。







その頃の私は、


目の前にあった
受け止めざるを得ない現実を、

受け入れようと必死だった。



私なりに、

こうなることへの心構えは、
していたつもりだったが……




妻が脳出血で倒れ、
救急搬送された時に。




医師からは、その時、


『命は助かっても、
重い後遺症が残る可能性があります』


と知らされていた。



──あの時からずっと。



妻とはこういう形での、
再会になることは分かっていた。


……のはず、だった。



その後も変わり果てた妻の姿を
目の当たりにすることは、


どうにもならないほど、
私にはつらかった。




日が経つに連れて、

胸の張り裂けるような痛みだけは、
増していっていた。






包帯と管まみれになった
妻の凄惨な姿を見るたびに──



また押し潰されそうな不安と、
厳し過ぎる現実に。



私はどうしようもなく、

感情を押し殺すことができずに、
場所を選ばず涙を流していた。



そしてまた、
何よりも──


『この先、いったい、
どうなるんだろう……』


という恐怖が、
つねに頭の中で渦を巻いていた。







医師から妻の状態について、
詳しい説明を受けたのは、


それから、
間もなくしてからのことだった。



ようやく目の前の現実が、
はっきりとした言葉になる時が来ていた。



──その時の私は、
やや緊張しながらも。



ただ、何も分からないよりは、
それを知る方がむしろ、

少しだけ先が見えて、
安心できそうな。




そんな期待もしていた。






──その外来。


私の目の前に座っていた医師は、


PCに映し出された妻の脳の
MRI画像を示しながら、

こう説明した。


『奥さまは、

左脳が壊れ、
右半身は動かず、
言葉も理解できない状態です』



『……残念ながら、
重い障害のため、

奥様が元のお体に戻るのは、
難しいと思われます』





──その時の私には、

その言葉自体が、
なぜかあまり頭に入って来なかった。


まるで他人事のように。



目の前でまだ、
受け止められずにいる私に対して、

医師は、より分かりやすい言葉で、
こう続けた。




つまり、こういうことだった。




『左脳で二カ所の血管が破れ、
血液は深部まで達しています』

『その血が脳細胞と神経を破壊し、
日常生活どころか今は、

“自分で生きること”も困難な状態です』





その時の、妻の唯一の言葉は、
「アー、ウー」だけだった。



失語の症状により妻は、

『言語』そのものが、
頭に届いていない状態であり。



私が話しかけても、
意に介した反応をすることがないのは、



──そういうことだった。



また妻は、ものごとを認識したり、
識別する力が弱っていたため、

私や家族のことだけでなく、

自分のことでさえも、
理解をするのが困難だった。



そこに加えて、
右半身の『完全麻痺』


その状態で右利きだった妻にとっては、

もはや致命的とも言える、
身体機能の喪失でもあった。



そしてようやく、
私はこの時に、改めて知った。



もう妻は、


これまでの生活を送ることが、
二度と送れない身体になった。


──という事実を。













私は医師の説明を受けながら。


妻の脳に、1/5ほどの真っ黒な穴が映し出されたMRI画像を見つめ続けていた。





──涙が止まらなかった。





その画像は、
本当に悲しくて、悔しいものだった。


妻をこんな状態にした、
脳出血が、ただただ憎かった。



全ての説明を終えた医師に、
私は震えながら振り絞るような声で、




『……助けていただき、
ありがとうございました』



とだけ頭を深々と下げていた。


それ以外の言葉をその時の私は、
見つけることができなかった。


そのMRIの画像は、


何一つとして、
希望を示していなかった。












病室に戻ると、

妻は何ごともなかったかのように、
安らかに眠っていた。



病棟自体が、
他の病室のバイタル音が聞こえるほど、

その時は、
妙に静まりかえっていた。



妻のベッドの横に静かに座り、
私は医師とのやり取りを思い出していた。




そして、しばらく妻の顔を、
じっと見つめていた。


体の奥からは、
ジンジンとするような痛みが湧き出てきて、


とにかく悲しくて、寂しかった。



何度も深呼吸をしながら、

落ち着こうとするも、
涙が溢れてきて止まらなかった。




いったい…
妻が何をしたというんだ?




妻を破壊し尽くした脳出血。


そして、どうにもならない
目の前の現実──


行き場のない怒りと、悲しみの感情は、
体中を駆け巡り、

とても冷静でいることが、
難しかった。



それでも目の前には、
やらなければならないことは多く、

嘆いたり、悲しんだりだけをしていられる時間はあまりなかったが。



妻が人として、
生きられない現実を前に──


私は何もできずに、
ただ打ちひしがれ続けていた。






それから、
1週間ほどが経過していた。


妻は、その後も、
変わることはなく支離滅裂だった。

私の言葉すら理解しているのか、
そうでないのか、

全く分からない状態も変わらずに。




それでも少しずつながら、
悲しんだり、やや不機嫌になったりと、
感情を表現できるようになっていた。


ただ、これまでに。


妻から『笑う』という感情だけは、
目にする機会はなかった。


そのときの私は、
どうしても妻の『笑顔』が、
見たくなっていた。



──『笑う』ということ。




妻はそれが出来て、ようやく、

"人として目覚める"。


なぜかその時の私には、
そんな気がしていた。








ある日の夕方。



私はベッドの横に取り付けられた、
手摺りにもたれ掛かりながら、



いつものように、
妻へ話し掛けていた。


そこへ病室に見回りに来た看護師が、
妻の状態確認のため声掛けに来た。



その看護師は、たまたまだったが、



『ご気分は、いかがでしゅか?』


と噛んだ。


そのまま私は、それを聞き流し、

『ありがとうございます。大丈夫です』

と看護師に返答した。




看護師も、何もなかったように、
その場で記録を作成していた。




看護師が記録を取っている間、
妻にそれを早く確認したくて、



──私はウズウズしていた。



それから記録を作成した看護師は、


『また何かあれば来るので、
呼んでください』

と言い残して部屋をあとにした。




すぐさま、
横にいる妻に向かって、


『いかがでしゅか?』と聞いてみた。



すると──



それまでずっと、
無表情だった妻の表情が一気に崩れて。


それまで聞いたことがない、
大きな笑い声が病室に響いた。




それは入院してから、
初めて見る妻の満面の笑みだった。




いや元気だった時にも、
見たことがないような

それは最高の笑顔だった。



……やはり妻も、
聞き逃していなかったか。



その笑いのツボも、
以前と変わってないことが、


妙に嬉しかった。



それから私は、何度も妻に、

『いかがでしゅか?』を繰り返した。


その度に妻の笑い声は大きくなり、

しまいにはヒーヒーと、
息を切らせながら大笑いをしていた。


私もその妻の笑いにつられて、
腹を抱えて一緒に笑い転げた。


いままで、
夫婦で一緒にそんなに笑ったことが、
あったかと思うほど──





それからも、ひたすら妻と一緒に。

涙を流しながら、
ふたりで大笑いし続けていた。



後に知ったことだが、

その大きな笑い声は、
病棟中に響き渡ったらしかった。









それからの数日間。


妻はその看護師を見るたびに、
笑うようになり。


周囲からは、よほど妻が、
その看護師を気に入っているのだろうと見られていた。




また、その看護師も、
まんざらでもなさそうに、

妻の笑顔が嬉しそうだった。









──夫婦で笑う。



たったそれだけのことが、
私たちにとっては、

忘れられないほどの記憶になった。




ただ、あの日を境に、
私たちの中では、
何かが確実に変わっていった。



まだまだ厳しい現実の真っ只中にいたものの──



あの時の妻の笑顔が、

壊れかけていた私たちの人生を、
もう一度動かし始めた。





──そして私は、



その日から、
明日が来るのを


初めて
待ち遠しく思えていた。









人として目覚めるとき
【完】








▼この作品は、創作大賞2026 エッセイ部門にエントリーしています。
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▼本作品は、シリーズ『介護への道』の各話を再構成した作品になります。
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