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あの夜の、兄とのこと






──私にとって、



4歳上の兄が、
父親代わりでした。




私が中学生の時に両親は離婚し、
母親と兄、私の3人で、

都内の足立区の小さなアパートに、
暮らしていました。









借金はないものの、
収入は母親のパート代しかなく。



思春期を迎えた子ども2人を抱え。


日々の暮らしだけで、
母親は精一杯だったと思います。






そんな中で私は、  
友達と遊ぶお金欲しさに、


母親の財布からくすねました。




けれど、
それはすぐにバレて。




その時、母親は泣いていましたが、
私は素直に謝れませんでした。




──どこかで、


『親の都合で、
こんな暮らしをさせられてるんだから、

それぐらい当然だろ』



という考えがありました。





兄は、そのことには何も触れず。
ただ黙っていました。


普段から兄とは、
ほとんど口を交わすこともなく。







ただ、どこかで──



その兄の怒りだけは、
感じていました。




私は兄から、

そのことに触れられるのを
ずっと恐れていました。








やがて、
私は高校に進学。



けれど、
まともに学校には行かず。




遊ぶお金欲しさに、
毎日のようにバイトに明け暮れたり、



また昔から好きだった
ボクシングのジムに通い続けていました。




──世界一になって、稼いでやる



当時は、
真剣にそんなふうに考えていました。





幸いジムの会長からも
見込まれて、


『お金はいらないから、
お前の好きなだけいていい』



そう言って、
私を支えてくれました。






昔から、
喧嘩をすることが嫌いでした。



ボクシングをしておきながら
矛盾していますが、



──痛いのも、血も苦手でした。



学校はかなり荒れていましたが、
なるべくそういう場からも、

避けるようにしていました。





たまに火の粉は飛んできましたが、

プロを目指す以上、
絶対に手は出しませんでした。




一度、揉めたことはありましたが、

それ以来は余計な火の粉も、
降って来なくなりました。








そんな、ある夜──



とくに理由もなく、
私は一日中イラついていました。




その日は、
家でも収まりがつかず。



『ご飯がまずい』
と母親にあたっていました。

正確には、
『こんなもん食えるか、ババア!』



ぐらい。




──と、その瞬間




目の前にいた
兄の顔色が急に変わり、






『お前、おもてに出ろ』



そう言うなり、

私の背中を突き飛ばしながら、
外へ連れ出しました。






──やるつもり?




その当時の私は、
もうプロ相手でも負けることはなく、


さすがに、
やられる気はしませんでした。




けれど、

その時の兄の目が恐ろしく、
私を震え上がらせました。








家の前にある
駐車場に連れ出され──




向き合った兄に、
何かを言おうとした瞬間。



兄はチッと舌打ちし、
一瞬、目を外しました。




──その瞬間




ドンッという音を立て、
兄の拳が、私の腹を下からえぐり。



ボクシングでも、
味わったことのない衝撃が突き抜け、


呼吸が一瞬、止まりました。




声にならない呻き声をあげながら、


そのままアスファルトに倒れ込んで、
腹を抱えながらヒーヒーと、

のたうち苦しんでいる私を、



しばらく兄は
見下ろしていました──







倒れながら横目で見上げると、
目が合い。




兄はドスの利いた声で、
ゆっくりと──




『お前、お袋が作ってくれたものに、
文句言ってんじゃねえぞ? 』






『これ以上、
親に迷惑かけるなら、殺す』






そう言って、

私をその場に残し、
家に戻っていきました。





──その時、初めて、



兄はまだ、

あの時のことを
怒っていたと知りました。









もともと兄の存在は、
怖くありましたが──



その後も、

何もなかったように過ごす兄を
ますます怖く感じていました。



そして私は、兄を避けるように、
家にもほとんど帰らなくなっていきました。




あの時以来、

兄が怒ったところを
見たことはありません。












『お前はすごいよな。
結婚して介護までして』



久しぶりに再会し、
笑いながらそう話す兄は、

結婚をしていません。




前にその理由を聞いた時には、


『一人が気楽なんだよ』と。




これまでにも、

結婚を考えるような人は、
何人かいたようでしたが、

結局しませんでした。





その別れる理由は、決まって、

『お袋を任せられない』でした。




昔、私が家を出る時、

兄に『お袋のことを頼む』

そう言ったことを
兄が覚えているかは分かりませんが。





けれど、

今の私が、
妻の介護に専念できるのは、


ある意味では、

今でも母親を兄が、
見ていてくれるからでした。




何より兄も、

母親との今の暮らしに、
不満はないようでした。








あの夜のことを
本人に聞けば──



『そんなことあった?
嫌だねえ、暴力とか』




などと笑いながら、
はぐらかしたりもしますが、


あの夜の兄のことを、
私が忘れることはありません。






その証拠に、
これまで私は──





誰の、どんな食事にも、
口を出すことはありませんでした。










あの夜の、兄とのこと 【完】







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