きっと当たり前の時間に涙する
およそ10年前──
脳出血により破壊された妻。
言葉を失い、
体の半分は今も機能していない。
また認知や記憶だけでなく、
あらゆる重い後遺症は、
──色あせることはなく。
その生活には、
当たり前のことが一つもなかった。
振り返れば、
そもそも妻と、
今こうして生活できることが、
当たり前のことでは
ないのかも知れない。
自分で生きることさえ、
ままならなかった妻と──
その当時は一緒に暮らすことすら、
想像も出来なかった。
そして、
妻の回復が進むにつれて、
また一緒に暮らせるようになった。
私も以前と同じように働き、
生活を支えられるようになった。
けれど──
それまで当たり前だったことは、
一つも当たり前ではなくなっていた。
これまでの
妻と過ごしてきた時間を振り返れば、
胸が熱くなる時がある。
普段は、
何気なく過ごしていても──
今もそれらの何一つが、
当たり前ではないことに気づく。
辿々しくも一生懸命に話そうとする姿や、着替えも上手くいかず涙する妻の姿。
私の冗談にも、
ニコニコ反応を示したり。
息子の作るご飯を
『美味しい』と食べたり、心配したり。
あげれば、
キリがないほどに──
妻のそんな姿や、日常は、
当時の私からすれば、
全てが夢の中の話だった。
そして今も、私たちは、
その特別な時間の中にいる。
ただ、残念ながら、
年々弱り続けていく妻を見ていれば、
いつまでこの生活を
続けていけるのかは分からない。
一日でも長くと願うものの──
もしかすれば、
それは明日なのかも知れない。
今までが、
そうであったように。
けれど、
その時がくれば──
それはまた、
新しい当たり前が始まるだけのこと。
それが、
どんなものなのかは、
今は分からない。
ただ、その時は、
きっと──
今、こうして過ごしている、
当たり前だったことを振り返りながら、
私は、
涙を流している気がしている。

きっと当たり前の時間に涙する 【完】
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