聞いてるの?──聞いてません
「聞いてるの?」
妻が、そう話しかけてくるようになったのは、言葉を失ってからのこと──
これはかつて、
ほとんど会話のなかった夫婦の、
不器用で少しだけ切ない
“対話”の記録です。
脳出血により失語症になってから、
妻はそれ以前より、
話すようになりました。
以前は、
私が話しかけても、
「あとで」か「いま無理」
しか言わなかった妻でしたが。
看護師として働き、
家のこともこなす毎日の中で──
私たち夫婦には、
ほとんど会話がありませんでした。
かたや今──
妻はキャラが変わったかのように、
ひたすら話すようになりました。
倒れてから10年近くが経った今も、
失語の症状は完全には消えていません。
何かを伝えるにも、それ以前の、
2倍、3倍の時間がかかります。
けれど、
その日のデイサービスでの出来事、
在宅でのヘルパーさんとのやりとり、
ネットで見た
ニュースや芸能関係の話まで。
私の姿を見かけた瞬間から妻は、
ニコニコしながら話しかけてくるようになりました。
それは、
私が仕事でくたくたになって帰ってきても、風邪で熱があっても、
まったく変わりません。
余裕がある時は、
その姿に可愛いなと思いながらも、
「へぇ、そうなんだ」
「すごいね」
「よく知ってるね」
などと対応することもできますが、
そうでない時も多々あり──
そんな時には、
間髪入れず妻からは、
こう言われていました。
「聞いてるの?」
まさに容赦なく、
それは私のTPOなど、おかまいなしに。
見たいテレビや、
映画を観ているときでさえ、
「聞いてるの?」と。
「ごめん、いま無理」
と、以前の妻が、
私に言っていたセリフを、
そのまま返せば妻はしょんぼりと。
「今、ドラマも、
いいところなんだけど」と言っても、
時すでに遅し──
「なんで聞いてくれないの?」と💢
うーむ、
どうしたものかと。
──とはいえ、
このままにしておくわけにはいかず。
これまでの介護生活を通して私は、
一つの“夫婦間コミュニケーションスキル”を身につけていました。
それは、
妻の話を“内容としては聞かず、
『キーワード』だけを拾う”
というスキル。
介護生活も10年におよぶ、
その集大成の“技“でした。
具体的には、
こうです。
「聞いてるの?」
と妻に聞かれたとき、
ただ「聞いてるよ」では、
全く足りません。
そこに一言──
「〇〇の話でしょ?」
と、“キーワード”を添えるのです。
それだけで、妻はとても安心しました。
(※注:キーワードは正確に)
──
この技術のおかげもあり、
妻はより心地よく、
安心して話すようになりました。
今では妻の横で、
リモートワークをしながらも、
話の“キーワード”だけは、
聞き逃すことなく拾えるまでに、
スキルも向上しています。
「聞いてるの?」
「聞いてるよ。〇〇の話でしょ?」
──その実は、
まったく聞いてません。

『聞いてるの?──聞いてません』 【完】
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▼この話は『若若介護』シリーズの一編です。その他の話は全体構成【目次】をご参照ください。
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