見出し画像

『ねえ、聞こえてる?──聞こえません』


 脳出血の後遺症で、記憶が定着しない妻は、目についたことや思いついたことを、

忘れないうちに、すぐ私に伝えてきました。


 それは、トイレにいようが、洗面所にいようが──場所を問わずに。





どうやら、自分の言いたいことが、
私に伝わると安心できるようで、

私の姿が見えないと、必ず確認のために


「ねえ、聞こえてる?」


と呼びかけてきました。

私がすぐそばにいれば、
まだしも──


妻は自分が納得できる返事を得るまで、この「ねえ、聞こえてる?」を繰り返してきました。

そのため、
『聞こえてるよ』だけでは足りず。

その都度、妻の側に行って一緒に確認する必要がありました。





疲れて帰った日などは、
いちいち動くのが億劫で、

「聞こえてる、分かったから大丈夫」
と、少し離れた場所から返すこともありますが、

耳も最近やや遠くなっており、結局、
「ねえ、聞こえてる?」は続き──


最後には、やっぱり私が動くはめになりました。





ある日──


仕事からクタクタになって帰宅し、
リビングのソファに沈んでいると、


トイレから、妻のいつもの、

「ねえ、聞こえてる?」

私は、「聞こえてるよ。大丈夫」と。


ところが戸が閉まっていて、
何度そう伝えても届かず──

試しに大きな声で、
「聞こえてるよー」と叫ぶと、

逆に妻は、「え?なに?聞こえない」

……こっちが叫んでるんだけど。

らちあかず。

声を出す方が疲れるので、
いよいよ立ち上がってトイレに行けば、

「床にトイレットペーパーの切れ端が落ちてるから、拾っておいて」

とのこと。。

「はいはい」





またある日──

ソファでテレビを見ながらくつろいでいると、

今度は洗面所の方から、

「ねえ、聞こえてる?」らしき声が……


おそらく歯ブラシをくわえながら、
何か言っているのだろうと思い、

「とりあえず歯磨き終わってからにして」と、少し大きめの声で返しましたが、

伝わっていないのか、

「聞こえてる?」らしき呼び出しは続いて……


いよいよ重い腰を上げて、洗面所に行ってみれば──


歯磨きの泡だらけの口で、妻は、
ゴボゴボ、ブクブクと、何かを言っていました。

近づいても、
何を言っているのかすら分からず。


どうやら、泡が床に落ちたから拭いておいて、と言いたかったようで。。


……その様子を見て、少しイラッとした私は、ゴボゴボとまだ何か言ってる妻を無視して、


「聞こえません」


とだけ言い残し、
そのままリビングに戻りました。



『ねえ、聞こえてる?──聞こえません』
【完】



▼この話のシリーズのマガジンはこちら


▼この話は『若若介護』シリーズの一編です。その他の話、全体構成【目次】はこちらからご覧ください

いいなと思ったら応援しよう!

何ごともお気楽に よろしければ応援とフォローをお願いします。 チップはクリエイターとしての活動費にいたします!