(自己紹介の続き)毒親の介護2 ネグレストで自分勝手な母と私
自己紹介と先の毒親1 妄想の父と私 の続きになります。
自己紹介で書いた母と私の簡易な内容としては、
・朝食を作らない。
・子供は従わせるもの。いうことを聞かないとほっぺたを30分以上つねる。
・あんたが好き好んで生まれてきたんや。
1/11 私が幼児のころの母
母はとても難しい人でした。物心ついた3歳くらいの記憶では、
母にひっつくと「べたべたひっつく子は嫌いや。」と言われ、
母にお風呂に入れられると、湯舟が熱すぎて「熱い」というと「我慢し」、
頭は父と違ってそのまま洗うので洗剤が目に入り、
「痛い」というと「我慢し」と言われ、
母とお風呂に入ることを拒否していました。
最近になって、
認知症予防のためにネコや犬をお風呂に入れている動画を一緒に見た時、
母に言われた言葉が
「2人とも(姉と私)、赤ちゃんの時にお風呂に入れたことがない。」
ということでした。母は怖くて嫌だったので、
すべて父が入れていたということでした。
幼児のころ、私は痛いことをする母に
どうやったら可愛がってもらえるか考えました。
「おかあちゃん、チュッチュして。」
この言葉を人前でいうと、母が喜ぶことに気がつきます。
「この子は、私のことが好きで好きで。」と人に言って喜んでいました。
でも、私の本心は好きではなく、生存戦略だったのですが、
「子供は従わせるもの」と思っている母も、
その作戦で仲良くなれるということにはなりませんでした。
2/11 私が幼稚園の頃の母
年少組のとき、幼稚園で流行っていたしょう紅熱になって、
病院に入院します。
私が小さいので母は付き添いで一緒に入院することになります。
その後、母は子供を堕ろします
(のちに母に聞いた話では避妊失敗ということで、
私の下に3人の水子がいますが、すべて避妊失敗です)。
その影響で私が幼稚園の頃は、
年少も年長も運動会などに来てもらったことはありません。
そして、宗教が絡んだ鍼灸治療院に母が通うようになるのですが、
ずっと私を付き添いに連れて行きました。
その時間も、朝7時台に家を出て、9時までに家に帰ってくるというもので、
そのおかげで私は朝食抜き生活になるきっかけが生まれました。
朝7時台に出てタクシーで鍼灸治療院に通い、
9時前に家に帰って朝食を食べた後、幼稚園のバスに乗ります。
でも、時間ギリギリになると、朝食抜きになりました。
急いで幼稚園の制服に着替えてバスに乗る記憶が残っています。
あまりに朝食抜きになるので、鍼灸治療院に通うとき、
途中にあったパン屋さんでパンを買ってもらうようになったのですが、
本来は家で朝食を食べる予定なので毎回ではなく、
結局、朝食抜きになっていきます。
私の記憶では、母が診てもらった後、私も小児針で治療を受けます。
母は中絶後の子宮筋腫の治療、
私は付き添いで健康のためと思っていました。
このころ、体調が悪かった母に
「私が死んだらあんたら路頭に迷うんやで」とばかり脅されていました。
父も母もどちらも片親だけでした。
父は小1のときに生みの母と死別しています。
また、母は1歳半で父と死別しています。
そのため、「あんたら、片親だけになってもいいのか。」も
よく言われました。
最近になって、私が朝食抜き生活になるきっかけである
鍼灸治療院の話をすると、
母が「あんたの体が弱かったから、あんたのために連れて行ってたんや」
と言われました。もし、そちらが本当だったら、
そのおかげでさらに弱い体になったことになります。

3/11 私が小学生の頃の母
小学生になると、通学時間が早いため、
鍼灸治療院に連れていかれなくなりましたが、
朝帰りが多い父に合わせるため、両親の朝食は9時以降で
いつも朝食がないようになります。
姉は、冷やご飯にのりたまをかけて食べていましたが、私は苦手でした。
昨晩の味噌汁が残っているときだけ、食べたりしていましたが、
小2くらいの時に
母に「食べるか食べないかどっちかにしろ。お父さんの分がなくなる」
と言われ、「じゃあ、食べない。」と言ってしまい、
それから完全に朝食抜きになりました。
朝食をずっと食べれなかったことを最近、母に話すと、
「あんたが勝手に食べなかっただけや」と言われましたが、
それはその通りです。ただ、親として、それでいいのかは疑問が残ります。
私が小4の時、朝礼で倒れます。
保健室で、いろいろ先生に聞かれ、
正直に、「ずっと朝食を食べてない」と答えました。
すると、担任の先生が母に聞くのですが、
母は「この子は嘘をついている。ちゃんと食べさせている。」
また、「最近、この子は私によく逆らうようになった。
さらに、家で勉強もしないで遊んでばかりいる。
ちょっと己惚れているように思う。」というようなことを先生に告げ、
逆に先生にそういう目で見られるようになりました。
そのときまで、テストはクラスで1番か2番くらいの点数ばかりでした。
勉強はしていなかったのですが、
幼児のころから、母の顔色や表情を伺って生活していた私は、
目に入るちょっとした変化とその時の出来事を覚えるところがありました。
例えば、授業中、先生が黒板に書いていることと、
少し風が吹き、カーテンが揺れた姿や匂いを覚えていて、
テストの時に同じ光景が出てくると、そのまま板書を思い出すんです。
テストでいい点を取ると己惚れていると怒られる。
先生にも嫌われる。それからは、そういう光景で思い出しても、
テストで書かないように努力して成績を落とします。
母に30分以上、ほっぺたをつねられたのもこのころで、
誰にも好かれることなく、生きている意味がわからなくなっていました。
4/11 中学のころの母
中学になると給食がなくなりお弁当が必要になりますが、
姉の時には作っていたお弁当を、
高校に入った姉が「学食があるからお弁当いらない」と言ったため、
お弁当を作ってもらえなくなります。
また、姉の学食代と同じくらいの額を毎日、渡されるようになりましたが、
学食は安いですが、近所のパン屋さんではあまり買えません。
それを訴えても、そのままでした。
私はパンよりご飯が欲しかったのでおにぎりを買おうとしますが、
おにぎりなら2個しか買えません。
朝食抜きに、昼はおにぎり2個だけという生活で、
どんどん体が動かなくなっていきました。
5/11 大学生以降のこと
大学生になるとお小遣いも増えましたが、
食べないと死ぬと思っていたので、ほぼ食費に使いました。
おかげで体は少し持ち直しましたが、
社会人になると、他人との体力差が目立ち、
いつも疲れてへとへとになります。
母は1歳半の時に祖父(母の父)と死別し、母は一人っ子、
祖母(母の母)の実家でいとこたちと暮らします。
戦時中、未亡人は女子挺身隊にされるかもしれないと言われ、
祖母(母の母)は再婚します。
そこで、母に義理の兄と姉ができますが、
特に兄が気持ち悪い人だったらしく、
いつも身の危険を感じていたそうです。
それで、戦後しばらくして、夜逃げのように実家に戻ったそうです。
祖母は行き場がないため、父が同居を勧め、一緒に暮らしていました。
また、祖母は母に
再婚でつらい思いをさせて申し訳ないことをしたとずっと思っていたため、
祖母が家の掃除をしたり、買い物に付き合っていました。
祖母が亡くなると誰も掃除しなくなるので、今度は姉が掃除します。
姉が嫁ぐと、誰も掃除しません。
特に、物の位置が変わると怒る母が怖くて、私は何もしませんでした。
6/11 父が倒れる前の母
見る見るうちに、家がゴミ屋敷になっていきます。
部屋は人一人通れるくらいの通路ができているだけで、
後は物だらけでした。
食事を作るのも億劫な母は、
もともと晩御飯以外、おかずを作らなかったのですが、
それもどんどん手抜きになり、一品料理になっていきます。
食生活が悪いせいか、私は頭がどんどん痛くなります。
これまでも「いつ死ぬかわからない」と思ってきた私が、
本気で「いつ死ぬかわからない」と思うようになり、
嫁いだ姉を頼って訴えに行きましたが、
「そんなことはないでしょ。」と言われ、わかってもらえません。
その3か月後、父が脳内出血で倒れます。
7/11 父の脳内出血後の母
「自宅介護になると、介護の人が来るよ。
そしたら、こんなゴミ屋敷じゃだめでしょ。
また、こんな食生活では、また誰か倒れるよ。」と私は母を脅します。
でも、ネグレストで自分勝手な母はなかなかいうことを聞きません。
ゴミ屋敷のほうは、母に強気の姉にお願いして、母を説得してもらい、
少しずつ、一緒に片づけていきました。
食生活のほうは、1日3食を私が作ることにしましたが、
体が弱い私を見かねて、朝と夜ご飯は母が作ってくれることになりました。
自宅介護後は、私は最初のセッティングだけで、
母がちゃんとするように介護サービスの人との応対をお願いします。
他人の目があると、一応、母はちゃんとします。
父は脳内出血で倒れたとき約8か月入院し、
その後も、腎盂炎や肺炎、間質性肺炎などで8回入退院していますが、
母は父の病室へ一人で行ったことがあるのはたった1回だけでした。
私が病院通いし、私が行けないときは姉が行ってくれました。
母は、たまにどちらかについていくだけでした。
1回というのも、
母が盲腸で入院後、その検査で同じ病院に行くことがあり、
そのとき父が入院中だったから、ついでにお見舞いしただけでした。
そんな母を、それでも父は信じていました。
母は、父が家にいると、わがままをあまり言わなかったのですが、
父が入院すると、食べ物などでわがままを言います。
そのため、入院中の父に「はよ帰ってきて」と頼んでいました。
よく病院で廃用症候群として、
「自宅介護はもう無理です」と言われましたが、
「大丈夫です。家に連れて帰ります。」と言って、帰りました。
入院中はよぼよぼになってしまう父も、
毎日、父のリハビリをしてきた私は、退院時期が近づくと、
父の足腰の様子を伺い、リハビリをこっそりやって、
自宅に帰っても大丈夫かどうか確認していました。
最後の入院(コロナ渦で会えないまま、そのまま死亡)以外は、
家に帰ると父は2日もすれば元通りくらいの状態に戻っていました。

8/11 父の最後の入院
最後の入院の時、すぐに帰って来れると思っていたのですが、
時間が長引き、コロナ渦で会えないため、状況もつかめず、
母もどうしたらいいかわからなくなっていたので、
母とのコミュニケーションのため、
youtube動画を一緒に見るようになります。
祖母が再婚した先で、ネコやニワトリを飼っていたことがあり、
ネコやニワトリの動画や、
住んでいた近くの紹介動画などを一緒に見ました。
そのおかげで、
母の子供のころから結婚するまでのことがよくわかりました。
父が帰ってくるまでの予定でしたが、
父がそのまま亡くなったため、認知症予防も兼ねて、
5年経った今も、毎日夕食後、一緒に1時間ほど動画を見ています。
9/11 今もわがままでどうしようもない母
母は歯が悪く、部分入れ歯をしていますが、固いものが苦手です。
また、好き嫌いも多く、
すごく好きだったものが急に嫌いになったりもします。
父がいるときには、「お父さん優先」って言って、
母のわがままを聞かないようにしていましたが、
父が亡くなると、それも言えず、献立に大変苦労しています。
母は自分で運動をしたりはしません。
それで、父の時同様、ずっとリハビリを手伝っています。
母は洗濯は好きなのですが、
父が倒れる前、私が運動をして汗でべちゃべちゃになった下着を出すと、
「こんなにいっぱい出すな」と怒られていました。
そのため、着替えもあまり洗濯機に入れられませんでした。
また、お風呂の後のバスマットも濡れていると怒られるので、
私はバスマットもバスタオルも使うことができませんでした。
母は尿漏れなどもあり、
夜間、リハビリパンツに尿取りパッドを使っています。
でも日中は、普通の下着をつけています。
今、母は坐骨神経痛で洗濯もできなくなり、
私がすべての家事をすることになっているのですが、
夜間リハビリパンツを使っているにもかかわらず、
下着やパッチ類を3セットほど毎日出してくることがあり、
「私にこんないっぱい出すなと怒っていたのに、自分はなんやねん。」と
言い返していますが、やっぱり、大量の洗濯物を出されています。
10/11 余談ですが。
母は私が作った食べ物を食べずに捨てることがあります。
あまりに頭に来て、そのときの母のケアマネさんに、
私の子供時代の出来事と母が食べ物を粗末にすることを話すと、
「捨てたらだめなんですか。」「あなたが食べたらだめなんですか。」
「お年寄りなんだから、尊重してあげられないんですか」
「どの家庭でもいろんなことあります。」と言われ、
ショックを受けたことがあります。
また、姉の電話番号を聞かれ、姉に連絡され、姉にも迷惑を掛けました。
小学校のときの担任以来のショックでした。
父の言う「言うたらあかん(言っても誰も聞いてくれないし、
逆に悪化するだけ、言わないほうがまし)。」という考え方の通りでした。
そのケアマネさんとは、もうやっていけないと思い、
介護生活18年で初めてケアマネさんの交代をお願いしました。
11/11 こんな母ですが…。
そのケアマネさんの出来事の後、
結局は自分で何か考え方を変えて、
やっていかないといけないと思うようになります。
母と一緒に見ていた動画の中に、発達障害の女の子がいました。
見た目も何も、どこに問題があるのか私にはわからなかったのですが、
その姿を見て、もしかすると母も
何か見た目で分からない問題があるんじゃないかと考えるようになります。
母の幼児時代の話とかも聞いていたので、
幼少期に問題があるのではと、幼児教育について調べるようになりました。
スイスの心理学者ジャン・ピアジェ(1896~1980)の
発生的認識論によれば、以下の4段階を経て子供は知的発達するそうです。
①感覚運動期(0~2歳)目に見えたもの、
触れたものを反復趨勢的に確認する、模倣行動につながる
②前操作期(2~7歳)自己中心的に考える。自分の見方が絶対的と考える。
相手の立場を想像できない。妄想の世界。
③具体的操作期(7~11歳)論理的思考が始まる
原因があって結果があることがわかる
④形式的操作期(11歳~)
抽象的なものや仮定について考えられるようになる。
一般的な法則から答えを導き出せる演繹的思考ができる。
こうしてみると、母の自分勝手で自己中心的な考え方は、
前操作期(2~7歳)で止まったままの人のように感じました。
ある種「魔の2歳児(イヤイヤ期)」のまま年老いたのかもしれません。
「自己中心的」や「相手のことを考えない」は個性や性格ではなく、
幼少期に未発達のまま大人になってしまったと考えたら、
何か腹が立たなくなりました。
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私にとって、両親の介護は、単なる介護だけでなく、
私自身の体の問題と相まって、
いろんなことを考えるきっかけになりました。
とはいえ、一般的な人生を歩めなかった悔しい思いはあります。
私はもう50代後半なので、諦めもついていますが、
同じような経験をされている若い方々には、
何とかできる方法が社会にあればいいなと思っています。
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