(自己紹介の続き)毒親の介護1 妄想の父と私
先の自己紹介で書いた続きになります。
自己紹介で書いた父と私の簡易な内容としては、
・父は得意先との付き合い(接待)が多く朝帰りで教育は母に任せる
・私は幼少のころから朝食抜きで、第二次成長期以降昼食も少なく体が弱い
・私は社会人になってからも体が弱くてもたず、仕事を転々とする。
1/8 私が子供のころの父
父は子煩悩で優しい人でした。
お風呂に入れてくれる時には、湯舟が熱くないように水を入れ、
頭を洗うときには、父の膝の上に寝かせて仰向きで洗ってくれました。
子供のころ、父は戦時中の話を時々聞かせてくれました。
軍国少年で宙返りが得意だったこと、少年時代は剣道を習っていたこと、
将来はパイロットになりたかったこと、
戦争末期、父が小6のとき、
海で泳いでいたら艦載機に執拗に狙われて死ぬかと思ったこと。
食料が不足していて、
朝食はお皿の上に載せられたお砂糖をなめて学校に通っていたこと。
私はその話を聞いて育ったので、
朝食が食べられないくらいでへこたれたら駄目だと思っていました。
また、両親はどちらも中卒だったので、
特に父は私を大学に行かせることを思っていました。
2/8 宗教を妄信していた父
父は、とある新興宗教の2世でした。
祖父は途中でその宗教を嫌いになり辞めていましたが、
父は少年時代、こっそりとお経を拝んでいたと言っていました。
父が大人になり、その宗教に自ら入ります。
父は拝むと仕事が増えるので、どんどん妄信していきました。
父と母はその宗教を介して知り合い、結婚します。
そのため、父は母は素晴らしい人と妄信していました。
3/8 私が社会人になってからの父と私
大学卒業後、家に毎月3万円を入れるように言われます。
新卒で入った会社に行くとき朝6時40分に家を出ることになります。
洗面所は両親の部屋を通らないと行けない場所にあったため、
部屋を通ると母に「朝、早くからうるさい」と怒られ、
朝食抜きだけでなく、洗顔もできずに会社に通っていました。
しかし体がもたず、1年ちょっとで会社を辞めます。
無職になっていたころ、
虐待されて食事を1日1回しか与えられていなかった子供が、
亡くなったニュースを見ました。
それを見て、自分の体がもたない理由を理解します。
私は経済学部卒業だったので、公認会計士に興味があり、
手に職をつけることと、何より、3大国家試験のひとつであり、
その肩書を使って虐待されている子供をなくすための本を書きたい
という思いもありました。
私のちょっと上の世代で、
その後2000年代に公認会計士の肩書で活躍された
勝間和代さんがいらっしゃいましたが、そういうイメージです。
しかし、90年代後半は試験も難しく競争も激しいうえ、
体がもたない人が試験に受かるわけもなく、
最初に勤めて得た収入はあっという間になくなり、
借金だけが増えていきます。
家に入れる毎月3万円も入れられないため借金になっていきました。
途中で父に怒られ、工場勤務しながら勉強しましたが、
疲れから工場内でこけて指を落としそうになります。
幸い、指を5針縫うケガで済んだのですが、やっぱり仕事を辞めます。
父に怒られ続け、公認会計士試験を諦め、会社勤めします。
家にいるときは朝食を勝手に食べられるのですが、
学校へ行ったり、務めたりすると、朝の時間が合わず、
朝食を食べらない状態でした。
また、その仕事も体がもたず辞めたいと父に言うと、
家のローンの支払いが残っていて、
私の借金の返済と月額3万円の入金がないと
支払えないからダメと言われます。
辞められないまま、仕事を続けているとき、
残業が月120時間を超えたりするきつい仕事で、
疲れから、自転車から落ちて路上で寝てしまっていたり、
車をどこに止めたか覚えていない状態で、
仕事先の知らない家のガレージ前に止めていて、
警察沙汰になったりしました。
(警察から怒られても止めた記憶がありませんでした。)
そして、会社にも迷惑をかけるため、辞めることにしました。
4/8 父との対立が始まる
時は支持率が圧倒的に高い内閣で、
劇場型とテレビがもてはやしていた時代。
父は宗教の関係からもその構造改革に大賛成でした。
私は公認会計士の勉強で習ったマクロ経済学から、
マネタリスト(新自由主義)の考え丸出しのその改革では、
貧富の格差がとめどなく広がると同時に、
自己責任論の台頭に人間性のない世界になると危機感を覚えていました。
そのため、家の中では、父と私とでいつも論争になりました。
父は高い支持率と人気を背景に、
「それくらいでないと世の中変わらない、お前はもっと足元を見ろ」と。
私はそれでも、間違ってるものは間違っていると言い続けていました。
さらに、その政治に対して反対を表明するブログをやりだします。
そこで経済の改革だけでなく、
医療制度改革や障害者自立支援法について知りました。
特に障害者自立支援法という、名とは意味が反対の
その法案のせいで苦しまれている、
お金の問題で施設入居を続けることができなくなり、
おうちで自宅介護をされた方々ともいろんな情報をやり取りしていました。
医療制度改革は当初、日本医師会が大々的に反対していたのに、
その後、賛成に回ったとき、とても不信感を抱きます。

5/8 「お前を汚いやつと思っていた」と父に言われる
さらに就職できない私に対して父が問い詰めます。
「なんで、そんなに仕事を続けられないんだ」と怒られ、
「体がもたないなら、その原因を病院に行って調べてもらえ。」
と言い出しました。さらに「お金は自分で出せ」と。
私にはそんなお金はなく、初めて、すべてを話すことにしました。
「子供のころから朝食を食べてない、
中学からはお弁当作ってもらえず、昼食もあまり食べられなかったから。」
父は毎日お経を唱え、「家内安全」を祈願してきたので、
父は激高し「そんなはずはない。」と言いました。
私は「お父さんは朝帰りが多くて、
朝は9時以降に起きて朝食をお母さんと食べてたけど、
お母さんは子供に朝食を作ってないやん。」
父はさらに「お母さんはそんな人やない。お前を汚いやつと思っていた。」
と言われます。
私は父の子供のころの「朝食にお砂糖をなめるだけ」の生活も影響し、
「苦労は買ってでもしろ」
「(しんどいこと、苦しいことを)言うたらあかん。」
(言っても誰も聞いてくれないし、かえってろくなことにならないから、
我慢しろという意味です。)
という父の言いつけを守って生きてきたので、
あまりの言いがかりに私も切れます。
「何が汚いやつや。なんでそう思うんや。」と聞くと、
「(私が高1のときの)引っ越しの時、人に指図ばっかりしておいて、
気が付いたら2階の階段のところで寝てた。」と言われます。
私には寝てた記憶がありませんが、
一生懸命、引っ越しで一番段取りのいい方法を考え、
それを家族に言いながら荷造りしていた記憶があったので、
「それは体がもたないから、知らないうちに寝てしまってたんやろ。
それで子供のことを汚いやつって思う親がいるか。
逆に心配して、聞いたらよかったんちゃうんか。」
私の突っ込みに、その後、一切、私と話さなくなりました。
「なんで黙ってるんや。そんなことしてたら、
本当に口が聞けなくなるで。」
と私も捨て台詞を吐きます。
6/8 その1年後の2006年、父が脳内出血で倒れ失語症に。
こんな関係だったので、介護について一瞬悩みましたが、
私が介護をしなかったら、
朝食は作らない、昼食は炭水化物だけ(すうどん)。
晩御飯は一品料理(例えばマグロのさしみだけ)という食生活が続き、
家の中はゴミ屋敷なネグレストの母にできるわけがないし、
両親を反面教師にしてきた私は、
私がやる介護の姿を見てもらって、
「子育てはこうするべきものだった」とわかってもらおうと考えました。
2006年05月父が脳内出血で倒れたとき、
その時代の政治による
リハビリ制限が設けられたところだった(2006年4月)ので
入院先の急性期の病院(救急病院のこと)は混乱していました。
「ある時期までに回復しなかったら、
その後の回復はあまり見込めないから、
リハビリ制限が設けられた。」ということが主な内容ですが、
主治医の先生や看護婦さん、理学療法士など、
それぞれで説明が少し食い違ったり理解が違っていたりしました。
「人のための医療」から「医療費をどうやってケチるか」の医療に
変わっていく過渡期でしたが、
時の政治に対して反対していたブログをやっていたので、
あらかじめ、いろんな情報と、想像がついていたのが
のちのいろんな対処策につながっていきます。
毎週日曜日、12年間欠かさず父をお風呂に入れました。
訪看さんも1週間に1回入れてくださっていましたが、
お休みの年末年始はその分も入れています。
表向きはというか私の気持ちの中のひとつの理由としては
父は私が子供のころ、お風呂を優しく入れてくれていたことが原因ですが、
他の理由もありました。
先に書いていたように医療に対する不信感もあったこと、
また、失語症で話せない父の「身体観察」を私がしないと、
何かあったときに説明できないことが理由です。
多くの人は、相手の真に思っていることを見ずに、「こうあるべきだ」
「これが正しいやり方」というふうに言ってきます。
でも、父をよく見ていると、話せないけど表情や雰囲気で
息子だから言いたいことがわかります。
私まで、そういう「こうあるべき」や
「正しいやり方」を一緒に押し付けることは、
失語症で話せないだけでなく、さらに苦しめることになると思いました。
父がしてほしいこと、父の考えを優先するためにも、
身体観察やコミュニケーションが大切でした。
最後まで私は父の代弁者でいました。
14年の自宅介護でしたが、最後の2年は間質性肺炎もあり、
在宅酸素療法や父の筋力低下で介助できなくなり、
訪問入浴を利用するようになりましたが、ずっと付き添っていました。
7/8 父の介護で私の人生はどうなったか
ようやく1日3食おかず付きの生活になります。
それで体がよくなると期待していましたが、
30代後半から40代になってからでは遅すぎたようで、
以前より、体のもちはいいのですが、
家のことをやりながら仕事はできそうにありません。
父の介護当初は、介護とアフィリエイターを頑張ってお金も貯めて、
できたら結婚もしたいなと思っていましたが、もう諦めました。
こんな人生なので、女性の手も握ったことはありません。
私が高校の時、クラスのレクレーションでソフトボール大会をしても、
ヒットを打って1塁に走るときに2回も足が吊って、
クラス全員と先生に馬鹿にされていました。
体育祭や陸上競技大会、持久走は高1の時、死にそうになったので、
高2、高3はすべて休み、文化祭も体がもたないので、
吹奏楽部で演奏だけして、夜のキャンプファイヤーの時間には帰りました。
高校の修学旅行はスキーでしたが、
初日の最初の1時間で38.6度の高熱になり、
インフルエンザと診断されて、修学旅行中、隔離生活を送ります。
(実際には、すぐに熱が下がり、
思い出を作っておいでと先生に言われましたが、
体がもたないからこのまま寝かせてと頼みました。)
そんな体から考えると、きちっとした食事のおかげで
かなり良くなったと思っています。
アフィリエイターも当初はまだ良かったのですが、
2010年代になるとまったく無理になってきて、
家に月額3万円を入れることも難しくなり、
母に相談して、免除してもらえるようになりました。
今は、自分の生活費分も稼げないので、預金を取り崩して生活しています。
8/8 2020年父が亡くなった後に判明したこと
お葬式の後、姉に介護前の父との軋轢について話し、
「子育てはこうするものだ」とわかってほしかったけど、
結局、無理だったという話をします。
すると姉が泣き崩れ、
「引っ越しのとき、
2階の階段のところで寝ているとお父さんに言ったのは私や。」
と言われます。そこで、お父さんが自分の目で見て思ったのではなく、
姉に言われたことを鵜呑みにして妄信し、
私のことを汚いやつと思っていたということが判明しました。
姉もその当時、軽い気持ちで言ったのかもしれませんが、
それが長い間、父との軋轢になり、
介護の最後まで尾をひく結果になりました。
心情を吐露するということの難しさを痛感しています。
読みにくい文章ですみません。
自己紹介で書いた内容は重複しないようにしたので、
かえってわかりにくくなってしまったかもしれません。
「毒親の介護2 ネグレストで自分勝手な母と私」に続きます。
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