ろろろのめ第15回 選択的多様性と音楽リスナーのダブルスタンダード──歪んだ日本の洋楽需要を問う
選択的多様性と音楽リスナーのダブルスタンダード──歪んだ日本の洋楽需要を問う
はじめに:「進んでいるようで、実は選んでいるだけ」
2025年の音楽シーンにおいて、「多様性」はもはや避けて通れないキーワードである。
サマソニにK-POPが多く投下されることに反発が起きる一方で、Charli XCXやChappell Roan、LGBTQアーティストを支持する声も大きい。だが、こうした言説の裏側には、一つの見過ごされがちな選別とヒエラルキーが潜んでいる。

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第一章:「K-POP批判はジャンルではなく“割り込み感”への反発?」


サマソニ2025をめぐってSNS上には次のような声が飛び交っていた。
「K-POPばかりで洋楽枠が減った」
「毎年来るK-POPがなぜ今さらサマソニに?」
「売れるからって入れすぎ」
ここにあるのはK-POPそのものへの音楽的批判ではなく、「洋楽フェス」としてのサマソニに対するアイデンティティの揺らぎだ。特に、“自分たちが支えてきたはずの文化”に割り込まれた感覚への違和感が色濃い。
だがその一方で、Charli XCXやChappell Roanのような西洋的かつジェンダー的マイノリティの象徴としてわかりやすいアーティストは歓迎される。
つまり、「理解しやすい」「自分たちにとっての“新しいけど受け入れられる”多様性」だけを選び取っている。
第二章:「黒人映画は観ないのに、Kendrickだけは語る矛盾」

2025年6月20日に日本公開される映画『罪人たち(Sinners)』は、『ブラックパンサー』『クリード』シリーズで知られるライアン・クーグラー監督と主演マイケル・B・ジョーダンという強力タッグによる、全米No.1ヒットのサバイバルホラー作品である。にもかかわらず、日本ではわずか全国24館のみの上映、一部地域ではIMAXすら未対応という扱いを受けている。
これは単なる「作品の規模の問題」ではない。実際、日本では黒人俳優や黒人文化を前面に出した作品は売れにくいという市場構造がある。雑誌や書籍の表紙に黒人が登場すると売上が落ち、後から白人やK-POPアイドルに差し替えられるといった事例も珍しくない。
その一方で、Kendrick Lamarの“dis合戦”となると、手のひらを返したように語り出す人が後を絶たない。これは、「黒人文化そのもの」ではなく、「ラップバトル」という物語性のあるエンタメ要素を切り取って消費しているにすぎない。文化や文脈全体を受け入れていないにもかかわらず、一部の現象だけを「わかってる風」に持ち上げるという選択的な多様性の姿勢が透けて見える。
しかも、Kendrickがチケット売れ残りを起こしても「神格化」される一方、世界的なストリーミング王者であり、ビルボード上位を常に維持するDrake、そして音楽業界の構造自体を揺さぶり続けているYe(Kanye West)にはほとんど言及されない。これは、彼らが「物語化しにくく」、そして何より日本の音楽メディアの教養圏から外れているからだ。




第三章:閉じられたリスナーたち──「微妙すぎるサマソニ」と語る人々の正体
「サマソニ、微妙すぎて行く理由が見当たらない」
「今年はフジだけでいいかな」
「ロック感がない」「Bloc Party以外見どころがない」──。
これらの言説は、あたかも冷静な批評のように装っているが、実際は「自分がついていけなくなった現実」への感情的な拒否にすぎない。
トレンドが更新されたことへの不安や焦燥、それを直視せず「サマソニが変わった」と言うことで自らの価値観を防衛している。だが、それは「変化についていけない」ことを告白しているようなものだ。
フェスにおいて「K-POPが多すぎる」「ロックが減った」という意見も、実は音楽的な中身より、自分が相対化されることへの恐怖の表明である。
多様性やLGBTQ、Charli XCXやChappell Roanを支持すると公言しながら、K-POPというアジア発のポップ文化には冷笑的──。
それは、都合のいい“選択的多様性”にすぎない。


こうした閉ざされた態度に共通するのは、「対話を拒み、思考を閉じる」姿勢である。
対話を拒み、思考を閉じる人たちは、残念ながらその時点で自分の理解の限界をさらけ出している。
狭い世界観を守るのではなく、壊して広げることこそが、知性を持つ人間の姿勢だ。閉じた先には何も生まれない。
変わったのはフェスではない。リスナー自身が「変化を拒む存在」になってしまったのだ。
第四章:「ロックの神話から降りられない日本の音楽メディア」
2025年現在の『ロッキング・オン』の表紙は以下のような顔ぶれだ:
Linkin Park
Chemical Brothers
Oasis
Bob Dylan
YES(プログレ)
まるで2005年のまま時が止まっているかのようだ。ようやく7月号になって2024年に世界でバズったCharli XCXやChappell Roan、Sabrina Carpenterが登場するものの、それすら例外扱いに近い。

これは「編集者の趣味」では済まされない。日本の音楽雑誌は、「文化資本としてのロック」が持つ階層的価値を延命し続けており、リスナーもまた、その価値観に安心感を抱いている。
結果、ロック=高尚、ラップ=低俗、K-POP=商業主義という古い価値観が今なお温存されている。
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第五章:「変化を恐れるロックリスナー──“保守化”した多様性」
SNSではよく見かける表現がある:
「サマソニはもう行く理由がない」
「微妙。Common追加は嬉しいけどチケットは買ってない」
「今年のメンツじゃ昔のように熱くなれない」
これらは一見、フェスに対する“冷静な分析”のように見えるが、実のところ過去の自分の音楽的全盛期と今のズレに戸惑う感情の表出である。
「変化し続けるロック」を愛してきたはずのリスナーが、自分の居場所が失われることを恐れて変化に抗っている。
これはもはや「革新を支持する側」ではなく、「かつての革新を絶対視する保守」に成り下がっている。
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おわりに:「多様性とは“自分が知らないもの”を受け入れること」
日本の洋楽リスナーの中には、「K-POPは嫌い」「ヒップホップは刺さらない」「昔のロックは最高」と言いながら、「Charli XCX最高!Chappell Roanはヤバい!多様性大事!」という声が混在している。
その矛盾の正体こそが、選択的な多様性観である。
「自分に都合のいい範囲だけを多様として受け入れる」ことで、結果として社会的マイノリティや新しい表現を再び“自分の階層の中”に押し込んでいる。
本当に“多様性”を理解するとは、自分が相対化され、理解できないものと共存する覚悟を持つことである。
