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【死と再生】新歓コンパ

下記の記事の夢に関連して、自分にとって心理的または社会的な「死と再生」の体験と思われる出来事を、整理している。

実体験1は、少年期の出来事(水泳の授業)、
実体験2は、青年期の失敗経験(夜の工場)であった。

実体験3は、大学サークルでの思い出を取り上げる。


実体験3

もう45年も前のことになる。私たちの時代、大学のサークルの新歓コンパは、新入生にとって大きな試練だった。先輩から注がれる酒を断れず、全員が酔いつぶれるまで飲まされるのが、恒例だった。

その夜も例外ではなかった。新入生はみな、限界まで飲む。私は酒には極端に弱い。酔いつぶれるのは怖かったが腹を決めて参加した。

いい加減かなりの量を飲み、飲まされた。やがて最後の場面。新入生は一人ずつ立たされ、全員の前でさらに酒を飲まされる。
自分の番が来た。バケツが置かれ、「吐くならここへ」と示される。立ち上がって呂律の回らぬ舌で挨拶する。先輩がコップになみなみと酒を注ぐ。周囲が囃したてる。

期待されていたのは、飲み干して何か面白い反応をすることだったろう。できるだけユーモラスに。しかし、その瞬間、視界の隅にバケツが入り、体の奥から衝動が突き上げてきた。
自分はためらわず酒をバケツに空けて、コップを畳に投げた。そして両手を合わせて一礼した。

その後の記憶はあいまいだ。気づけば部屋の隅で横たわっていた。胸の奥で鼓動が響き、血液とアルコールが全身を激しく巡っていた。

あとで聞けば、先輩のひとりが怒ってつかみかかろうとし、別の先輩が止めようとする、さらに別の先輩はげらげらと大喜びするなど、ちょっとした騒ぎになったらしい。私はその中で、自分としては静かに酔い潰れていたわけだ。

後日、酒を拒否した奴と見られ、少し居心地が悪くなった。それでも魅力的な先輩が多かったので、サークルを辞めることはなかった。やがて周囲も、空気に逆らった者としてではなく、仲間の一人として受け入れてくれるようになった。

考察

あのコンパのやり方は、今では時代遅れだろう。でも当時は、ありふれた光景であり、迎える側の最高の歓迎の現れだった。
酒の席での出来事である。笑って忘れてしまえばよかったのだ。しかし記憶の一番奥に押し込んでおいたはずが、45年たっても忘れることはなかった。何か引っかかるものがあったのだろうか。案外自分には大きな意味があったのだろうか。
そう思って今回は、この出来事にまともに向き合って考察してしまうことにした。

サークルでは、新入生がコンパで酔い潰れることを、「死ぬ」という言い方で表現した。もちろん比喩である。経験の少ない、たいていの新入生にとり、それは自我を一時殺して集団に従うことを意味していた。先輩達も新入生時代には同じ経験をしてきた。

酒の席で一度「死ぬ」。その経験を共有できた者が仲間として迎え入れられる。それが新歓コンパの意味であり、一種のイニシエーションであった。それが分かっていたので、新入生は毎年みな自分の酒量の限界を超えてみせた。

では、私は通過できたのだろうか?

たしかに「死ぬ」まで飲んだ。しかし「みんなと同じ」やり方ではなかった。それが、後日感じた、居心地の悪さにつながった。
つまり私は、流れに完全に同化はせず、「境界線を引いて」しまったのだ。その行動は計算ではなく、衝動に近かったが、結果的に「空気を読まない行為」としてこのイニシエーションに割り込むことになった。

あのとき、深奥から突き上げるものを感じたことを覚えている。あれは何だったのだろう?
自我ではなかった。自分を生かしている「何か」が噴出した感じだった。その瞬間、私は日常と非日常の境界領域に立っていたのかもしれない。「死んで」横たわっていたときに感じていたのは、その「何か」であった。

自我が一度死に、何かが現れた。その結果、この体験は、単なる「死」による「再生」の完結ではなく、「個として生き続ける」ことを選ぶ、集団の期待とは別の再生の形を示してしまったのかもしれない。

その後の意味

この感覚は、後年企業で働く中で生き続けていた。世間の企業ガバナンスに求める厳しさが、高まり始めたころ、多くの社員が社内の慣習やルールを未だ無批判に受け入れる中で、私は社内ルールや関連法規の原文を自ら確かめ、必要なら声をあげることを少しずつ覚えていった。
これは私にとり、与えられた筋書きをそのまま受け入れない、あの新歓の夜に芽生えた、「境界線を引く」感覚の延長線上にあった。

あの新歓の夜は、ただの苦い思い出ではなく、「死と再生」の物語の中で、個が自らの境界を守りながら生きるための新たな原理を刻み込む、出発点でもあった。

現代とのつながり

「みんな一緒」と「境界を引くこと」。今の社会を見渡すと、同じような力学が大きな規模で働いている気がする。(河合隼雄[1])

日本企業の内部では、いまも「空気を読む」ことを良しとする傾向が強い。少なくとも私が所属したいくつかの職場はそうだった。一方、社会全体では「善悪を監視し、悪を糾弾する」力が強く働いている。しかし一度誰かが、「境界の外」に飛び出たとして批判の対象になると、今度は「みんなが一斉に」糾弾を始める。そのような同調の圧力が社会に働く。そして企業の中では、それに対応しようとして、多くの会社の多くの部門が「一斉」に、生産性を度外視してリスクチェックを細分化してゆく。

つまり社会全体が、「みんな一緒」と「境界を引く」の間を行き来しながら、その両方の極端から極端へ振り回され、その結果自らを絞め上げているように見えるのだ。

これも一種のイニシエーションなのだろうか?
現代の社会はこれをうまく通過できるのだろうか?
この風潮は、より大きな社会的な危機を招いてしまわないか?
このへんは、まだうまく言葉にできていない。今後も考えて行きたいと思っている。

[1]河合隼雄『母系社会日本の病理』講談社+アルファ文庫,1997

人間の心には多くの相対立する原理が働いており、その中でも母性と父性の原理の対立は、まことに重要なものであり、この二者のバランスのとり方によって、その社会や文化の特性が作り出されてゆくと考えられる。

本記事では、ジェンダー問題に配慮し、河合理論の母性原理・父性原理を、それぞれ以下のように読み替えることを試みてみた。

  • 母性原理(みんな一緒)
    すべてのものを良きにつけ悪しきにつけ包み込んでしまい、そこではすべてのものが絶対的な平等性をもつ。

  • 父性原理(境界線を引く)
    すべてのものを切断し分割して、主体と客体、善と悪などに分類し、能力や個性に応じて類別する。


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