「会えなかった“君”に伝えたいこと|流産」#消したくない大切な思い出
1 はじめに
※今回は妻に了承をとって投稿しています。
あの日失ったまだとても小さかった命。
妻と泣いたあの日のこと。
「流産」を父親の視点でいつか書こうかなと思っていたけど、中々書けなかったこと。
こういうときにしか書けないので、たくさんの人に“君”がいたことが届くように、書き残しておきたいと思います。
誰かの記憶に、ほんのひとときでも、うっすらでも君の存在が残ってくれたら。
誰にでもあるであろう、消したくない大切な思い出を、忘れずに心にしまっておくために。
2 妊娠の知らせ
以前、記事でも触れましたが、私たち夫婦が「妊娠」を知り、胸を躍らせた経験は5回あります。
4人目の妊娠を知り、妻と産むか産まないかという話し合いをしたときも、2人目の妊娠で産みたいと思っていた子が産めなかったという経験が、”産む”という判断に大きく影響しました。
20代半ばのときでした。
長男が生まれ、3人で楽しく生活を送っており、2人目の妊娠は自然の流れに任せていたように思います。
夏季休暇の前あたりに、妻から妊娠したことを知らされました。
2人目ということで女の子かな?どんな子になるかな?と言った話をよくしていました。
3 小さな異変、そして病院へ
名前はどうする?といった話もしていました。
ちょうど旅行に行く予定があったので、行きの車では、ずっと名前の話をしていて、男の子でも女の子でも付けられる名前で、長男とも一緒の字を入れるといった具体的なことも話していました。
その旅行先で、妻が腹痛を訴え、少し出血がありました。
『大丈夫』ということでしたので、気には留めつつも旅行を楽しみました。
旅行の帰り道、やはりお腹が痛いということで、産婦人科に行きました。
先生から『胎嚢が見えない』『何か変化があれば何時でも電話してきて』と言われ、救急の紹介状のようなものを貰い、翌日大きい病院に行くことにしました。
その夜、腹痛が増したため、救急外来に行き、妻は翌日に専門医が来るまで、そのまま病院で過ごすことになりました。
当時、妻は、長男を預けている保育園で保育士をしていました。
朝、長男を預けた際に休みの知らせを聞いた園長先生から『〇〇先生大丈夫?』と聞かれました。
まだ妊娠も初期で報告していなかったので、『たぶん大丈夫です』なんて笑いながら答えました。
4 同意書の重み
保育園に長男を送り届けた直後『早く来て』と妻から連絡が来ました。
病院に行くまでにも何回か連絡がありました。
病院に着くと、看護師に『急いでください』と呼ばれ、診察室に走って案内されました。
私は状況が分からず「なにごと?」と思いました。
診察室に行くと、医師から切迫した様子でレントゲン写真を見せられ、
『奥さんは子宮外妊娠でした』
『卵管が破裂して体内で出血しており、腹痛の原因はそれです。』
『今すぐに卵管を取り除かなければなりません』
『全身麻酔をするので同意書にサインをしてください』
『サインをもらったらそのまま手術室に運びます』
と矢継ぎ早に言われました。
もう手術室に運ぶ直前で、私のサイン待ちだったようです。
〇手術以外に選べる道はなく、すぐに決断を求められたこと
〇全身麻酔の同意書には、稀に合併症を引き起こすようなことが書いてあり、しかしやらないという選択肢もまたなかったこと
〇子宮外妊娠って何?なんで卵管が破裂すんの?という無知
私は、よく分からないのに事が進んでいき、それを受け入れなければならない状況に戸惑いました。
子宮外妊娠(異所性妊娠)は、受精卵が子宮内膜以外の場所に着床する状態で、妊娠全体の約1〜2%で起こるといわれています。
症状としては、急激な腹痛や出血があり、卵管破裂を引き起こす危険や大量出血で生命が危険な状態になる場合も
https://www.torch.clinic/contents/1852
5 選択肢のない手術
『奥様に会われますか?』と言われ、病室に行くと医師と看護師たちに囲まれ、手術衣を着て朦朧と酸素マスクを付けている妻に面会しました。
『ごめんね』という妻に、私はなんと声を掛けたのか覚えていません。
会話する時間もなく、妻は手術室に運ばれて行きました。
手術室の前で看護師さんから『付き添いの方はここまでです』と言われ『頑張ってね』と手を握りましたが、妻を乗せた担架は直ぐに進んで行ってしまいました。
ドラマのワンシーンのように手術室の扉が閉まりました。
扉の前の廊下で立ち尽くしていた私は、泣きました。
よく分かりませんでした。
ここまで病院に着いてから10分くらいの出来事でした。
いま振り返ると、妻がもしかしたら死んじゃうのかもしれないという手術の同意書にサインしたことや、この先のことに何の心の準備もできていないことが不安だったのだと思います。
2人目と言ってもまだ妊娠数週で、話は盛り上がりつつも、私は妊娠検査薬の線を見ただけでした。
私が初めて見たその子は、飛散した血の塊を写すレントゲン写真でした。
私は、手術中、妻の両親に娘さんの緊急事態を電話で報告しました。
まだ妊娠したことも知らせていなかったので、
『妊娠していたこと』
『子宮外妊娠になり卵管を切除するために手術中であること』
を伝えました。
このとき、救急の待合スペースの廊下で泣いていたので、周りの人からは「助からなかったのかな」的な悲哀の視線を送られていました。
手術を終えて会話ができるようになった妻は、泣きながら『ごめんね』と言っていました。
私は、妻のいない人生を考えなくてよくなったことに、心の底から安心しました。
その後、私が長男を保育園に迎えに行くと、園長先生が来て『どうだった?』と聞かれました。
反射的に涙がこぼれ出てしまい、『実は妊娠していて、子宮外妊娠だったみたいで、急な手術でした。しばらく休みます。』ということを伝えました。
こんなところで何してんだろうと思いましたが涙は止まらず、周りのママ達や妻の同僚の先生方も驚いたようにこちらを見ていました。
足元にいた女の子に『なんで泣いてるの~?』と言われ、先生が気まずそうに連れて行っていました。
ちなみに、当時の話をすると、決まって妻から、お義母さん、園長先生、ママ達みんなに「『パパ泣いてたよ』って言われた」と笑いながら言われます。
私は、聞き流しつつ「いや、あんときのこっちのメンタル、マジで分かってねぇな」って思っています。
6 経験の先
私は、この経験を通して、流産というのはこんなにもあっけないものなのかと思いましたし、出産というのは当たり前じゃないんだなと身をもって思いました。
その後、卵管を片方失ってから、数年のうちに3人の子を妊娠・出産したわけですが、毎回妊娠するたびに安定期に入るまでは不安でした。
心持ちとしては『性別とか可愛いとかいいから、五体満足で生まれてきてくれさえすればいい』とよく話していました。
産まれてくる子達の名前を決めるとき、会えなかったこの子の名前は、毎回候補に出てきました。
それくらい、しっくりきている名前でした。
数週間ではありますが、その子が妻のお腹の中にいて、亡くなったという事実は無くならないということで、その名前は付けていません。
私は、周りに比べるとそれなりに若くして4人の父であり、順風満帆だと言われます。
わざわざ否定もしませんが、全てが良い方向に進んできた訳ではありませんでした。
また、その子がそのとき産まれてきてくれていたら、全然違う人生だったんだろうなという気もします。
でも、今こうして元気に生まれてきてくれた4人の子ども達と妻と6人で楽しく暮らせていることに、とても幸せを感じています。
7 ”君”へ✉
君に付けたかった名前は、とっても素敵な名前だよ。
街なか、公園でその名前を聞くたびに、私は君を唯一見ることができた、あのレントゲン写真を思い出すんだよね。
確かに、君は居たんだよね。
ふだん思い出すことは少ないけれど、君が数週間でもこの世にいたことは、私たち夫婦の忘れてはいけない、消したくない大切な思い出のひとつだよ。
わが子の成長を天国から見守りながら、しばらく待っていてね。
そして、いつか7人で集まって、たくさんお話ししようね。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
たくさんの人に“君”がいたことが届きますように。
もし読んで感じたことがあれば、そっとコメントに残していただけると嬉しいです。
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