第4回|なぜ、誇りを持つことが怖くなったのか
「誇り」という言葉を聞くと、
どこかで少し身構えてしまう自分がいます。
それは、誇りそのものを否定したいからではなくて。
むしろ、大切な言葉だからこそ、
どう扱えばいいのか分からなくなってしまった感覚に近いのかもしれません。
いつからだろう。
自分の文化や歴史を「好きだ」と言うことが、
少し慎重さを伴うようになったのは。
何かを大切にしている、と口にしただけで、
「それは排他的ではないか」と
問われてしまうかもしれない空気。
だから、語らない。
触れない。
あえて曖昧にしておく。
それはきっと、
誰かを傷つけないようにという
優しさや配慮から生まれた選択なのだと思います。
けれど、語らない時間が長くなるほど、
自分の足元が、少しずつ見えなくなっていくような気もする。
歴史は、正しさだけで語れるものではありません。
光もあれば、影もある。
誇れる部分もあれば、
向き合わなければならない痛みもある。
だからこそ難しい。
でも、難しいからといって語ることをやめてしまうと、
残るのは静かな沈黙だけになる。
沈黙の中では、
誤解も、偏見も、
気づかれないまま育ってしまうのかもしれません。
「大切にすること」と「排除すること」は、
本来、同じではないはずです。
何かを好きだと思うことが、
誰かを否定することになるわけではない。
でも今、
その境界線が、少し曖昧になっているように感じます。
NYの大学で出会った他国の友人たちは、
それぞれの国の話をするとき、
どこか自然な「誇り」をまとっていました。
それは決して、誰かを否定するためのものではなく、
ただ「自分がどこから来たのか」を知っているという
静かな安心のようなもの。
その揺るぎなさが、
当時の私には、とても眩しく見えました。
足元を語れない国は、
未来を語るときにも、
どこか言葉が揺れてしまうのかもしれません。
そしてそれは、
国という大きな単位だけでなく、
私たち一人ひとりにも重なる感覚です。
誇りは、
誰かに見せつけるものではなくて。
外に向かって振りかざすものでもない。
静かに、自分の内側に灯るもの。
「ここで生きてきた」という実感。
「この場所も、悪くない」と思える感覚。
それだけで、十分なのかもしれません。
もしかしたら私たちは、
間違えないように、
傷つけないように、
少し慎重になりすぎてしまったのかもしれない。
その優しさが、
自分自身の物語まで語れなくしてしまったのだとしたら。
少しずつでもいい。
静かに、足元から言葉を取り戻していきたい。
子どもたちに手渡したいのは、
強い主張ではなく、
安心して立てる場所。
「ここは、あなたがいていい場所だよ」
そう伝えられる空気。
誇りとは、
きっとその延長線上にあるのだと思います。
子どもたちが、
「ここにいていい」と思える世界を、
大きな理想ではなく、
日々の小さな言葉から育てていけたら。
そんな願いを込めて。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
この物語は、まだ途中です。
よろしければ、
第1回から第3回もあわせて辿って頂けたらうれしいです😊✨
