自死問題への取り組み - 実践編 その3(埼玉いのちの電話研修講師)
2026年2月に行った、埼玉いのちの電話電話相談員の継続研修の報告その2の続きです。研修後半は、自傷行為のような最新の注意が必要な相談場面で、いかに相手の話を丁寧に聴くかということを考えたのですが、そのために役立ちそうな理論をまず紹介しました。
▼ヒューリスティックとは
アフリカのマリ出身の建築学者、ウスビ・サコさんをご存じでしょうか。中国留学を経て1991年に来日し、最終的には京都精華大学学長にまでなった方です。あるテレビ番組の対談で、こんなエピソードを話されていました。京都郊外を歩いていて道に迷い、近くにいた女性に「ここはどこですか?」と日本語で尋ねたところ、「私は英語はわからん!」と逃げられてしまったというのです。日本語で話しかけているのに、「外国人=英語」という思い込みが働いたのでしょう。このように、先入観や過去の経験に基づいて素早く判断してしまうことを、行動経済学ではヒューリスティック(heuristic)と呼びます。
▼速い脳、遅い脳
コロナ禍の際に飛び交ったデマやフェイクニュースの問題を考える中で、ヒューリスティックや二重過程理論に出会いました。二重過程理論はノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンの著書で有名になったもので、人間の認知プロセスを速い思考(速い脳)と遅い思考(遅い脳)の2つに分類します。
速い思考はシステム1と呼ばれ、反射的で迅速、無意識的、自動的、強制的に作動します。日常の簡単な判断や直観的判断、反射的な行動などがこのプロセスです。先ほどのヒューリスティックはこちらにあたります。
一方、遅い思考はシステム2と呼ばれ、意識的、分析的、論理的に情報を処理し、注意深く判断し、問題解決や複雑な課題に関与します。いわゆる理性的な判断です。
遅い思考はエネルギーをたくさん使うので、普段われわれは速い思考で動いていることがほとんどだとされています。その判断は大抵合っていて、問題なく生活できています。
▼われわれはほとんどヒューリスティックに判断している
私はこの理論を知った当初、たまにヒューリスティックな判断をしてしまうのだと思っていました。「普段われわれは速い思考で動いていることがほとんどだ」と二重過程理論が言っていても、人は(自分は)ちゃんと考えている、と思っていたのです。ウスビ・サコさんのようなハプニングは稀なことで、そうした「うっかり」に気をつければよい、くらいに思っていたのです。
ところがここ数ケ月、「対話」についてじっくりと考える中で、実は人はほとんどヒューリスティックに判断しているのだと悟るに至りました。それがこちらのコラムです。
▼「最近、眠れないんです」と部下が言った…
ヒューリスティックな応答の具体例を挙げます。
部下が、「最近あまり眠れないんです」とつぶやきました。それに対し、こんな返しはけっこうあるのではないでしょうか。
ヒューリスティックな応答例
→ コーヒー飲みすぎなんじゃない?
→ スマホの見過ぎだろ?
→ 昼寝してただろ?
→ 運動した方がいいよ
→ 枕を変えてみたら?
→ 酒でも飲んで寝なよ
→ みんなそんなもんだよ
→ 気にしすぎだよ
→ 季節の変わり目だからね 等々
どれもありそうなことで、当たっているかもしれません。でもわかりません。そこで「遅い脳」を動員し、この言葉を呟いた部下の心理を分析し、こんなふうに返すのはどうでしょうか。
「遅い脳」による応答例
→ おや、それはつらいね
→ 何か心配事があるのかい?
→ この前のトラブルが頭から離れないのかな?
このように返すことで、「実は…」と話が展開していくかもしれませんし、解決の糸口が見えてくるかもしれません。
▼理化学研究所の研究
二重過程理論のことはずっと気になっていたのですが、2025年1月に理化学研究所がこの理論を裏付けると私には思える研究成果を発表しました。研究チームは、自分自身の思考を客観的に捉える「メタ認知」を応用して他者の心を推察する、「社会的メタ認知」という新たな機能を特定しました。要点を解説します。
●メタ認知とは
メタ認知とは、自分の心の状態を客観的に把握し内省する力です。たとえば部下の不適切な対応を見て、「何やってんだ!」と怒ったとします。その時に、「あ、ちょっと強く言い過ぎたかな」というように、自分の様子を客観的に見る「もう一人の自分」が現れることはありませんか。あたかも「怒っている自分」を自分の外側から見ているようです。このような認知の仕方をメタ認知と呼びます。メタ(meta)とは「一段高い視点」という意味です。
●社会的メタ認知とは
一方、社会的メタ認知とは、メタ認知という「自分を客観視する力」を拡張し、「もし自分が相手の立場だったらどう感じるか・考えるか」をシミュレーションして、相手の心の状態を理解しようとする働きを指します。眠れないと呟いた部下に対し、「何か心配事があるのかい?」と応答したのは、自分自身の心の状態を把握する力を他者に当てはめて、相手の内側に入ったかのように心の状態を推測しての発言だったわけです。
●社会的認知とは
これに対し社会的認知というものもあります。これは自分が経験したことがない事柄や考え方は自分のメタ認知では推測しきれないので、過去のデータや経験則から「きっとこうだろう」と推測することを指します。上記のヒューリスティックです。
▼速い脳と遅い脳では使っている脳の部分が違うかもしれない
実はこれまでの研究では、他者の視点に立つ能力(心の理論)にはこの社会的認知が重要だと考えられていて、それは脳のやや後ろの方にある「側頭頭頂接合部(TPJ)」という部位の働きだとされていました。ところが理化学研究所チームの実験では、社会的メタ認知の機能が発揮されるときは、脳のやや前の方にある「47野(前外側前頭葉)」が関与していることが示されたのです。つまり相手の心の推測には、知識ベースで判断する社会的認知と、メタ認知ベースで判断する社会的メタ認知の2つがある、ということになるわけです。

この研究発表を見て、私は前記の社会的認知が速い思考、社会的メタ認知が遅い思考に対応するように感じたのですが、理化学研究所の研究ではそこまで言及しておりませんので、今のところ判断は控えます。相談員研修では、速い脳、遅い脳というアイデアで面接を分析するとどうなるか解説しました。次号その4に続きます。
