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無知だったあの日の涙が、学ぶ理由になった

私は特別、頭がよいわけでも、勉強が好きなわけでもありません。
むしろ勉強嫌いな人からは、「嘘でしょ」とよく言われてきました。

でも、学ぶということは「好き・嫌い」で語れるものではないと思うのです。
好きだから学ぶ、嫌いだからやらない――それが言えるのは、きっと幸せなことなんだと思います。

「それって極論じゃない?」
そうかもしれません。
でも、無知だから、貧乏だから、できないから――そう言葉にしたところで、誰も守ってはくれない。
“弱い者が守られる”というのは、たまたま守ってもらえる環境にいた人の話なのかもしれません。

同じ貧困でも、親が働いているかどうかで、周囲の目は変わる。
「働いていないから貧乏なのは当然」と、心ない言葉を向けられる。
たぶん同じ母子家庭でも、苦しさの種類はそれぞれ違うんです。
もしかしたら――親が働いてさえいたら、少しは周りの目も変わっていたのかもしれません。


私が「無知」であることをいちばん悔しいと思ったのは、母の労災裁判のときでした。
中学生だった私は、社会の仕組みも、法律も、なにも知らなかった。
ただ、「お母さんが仕事で怪我をさせられて、痛がっている」という事実だけが現実でした。

無料相談の法テラスで「勝てますよ」と言われ、信じてしまった。
でも私たちの言葉には感情が混じっていて、それは“私たちの正義”でしかなかったのです。

母の怪我への謝罪がないことに苛立ち、
会社から送られた書面に祖父が怒鳴りつけたとき、
振り払った手が偶然、相手の持っていたバインダーに当たりました。
その瞬間、彼らは被害届を出していた――後で揉めたときのための“証拠”として。

法律は、残酷なほどに理屈でできています。
正しい知識を持たなければ、どんなに正しい想いでも届かない。
専門家が必要とされる理由が、痛いほど分かりました。
そして、頼るにもお金がいるという現実も。


知らないから、貧乏だから、勉強が嫌いだから。
そんな言葉を言い訳にしていたら、
自分が「守りたい」と思ったときに、何もできないままになってしまう。

だから私は、学びます。
自分のために。
そして、守りたい人を守れるようになるために。
知らないことで、誰かが、守りたい人が、傷つくのはもう嫌なんです。


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