学びは自分で掴むもの──日本人は学ばせてもらうことに慣れている
昨今、企業でも人材育成を強化しているという話をよく耳にします。実際に、自己啓発やスキル向上につながる支援を福利厚生として導入している企業は少なくありません。人材確保のために奨学金の返済や自動車免許の講習費用を負担する会社もあるそうです。
けれど、私はこれに疑問を感じています。
「学ぶことを、いつまで人にやってもらうつもりなのだろう?」
「助けてもらうのが当たり前になってはいないだろうか?」
私は子どもの頃、本当は塾に通いたかったし、もっと勉強もしたかった。特別頭がいいわけではないけれど、難しいことを考えるのが好きでした。社会人になってからは、働きながら学び、しかも給与までいただけることに感謝しかありません。だからこそ「学びたいなら自分で学べばいい」というのが私の考えです。
母から「学びたいなら塾に行かなくても学べる。場所は関係ない。」と言われたことも大きく影響しています。日本はネットはなくても、図書館もあります。日本ではいろんなことを自ら学べる環境はたくさんあります。
もちろん、仕事で必要になる専門的な知識を補うために企業が支援してくれるのは理解できます。それは企業にとっても必要だから。でも、結局それも“自分自身の財産”になるものです。奨学金を返済してもらえたら確かに助かるし、自動車学校の費用を払ってくれたら嬉しい。だけど、楽をすることばかりに慣れてしまえば、いつかその代償は自分に返ってくるのではないでしょうか。
私自身、子どもに過度な負担を背負わせたくはありません。でも「生きるために必要なことは自分の力で掴めるように」ということは伝えたいと思っています。息子は時々「ママはいなくならないよね」と言います。成長過程での不安なのかもしれませんが、私は答えます。
「いなくならないよ。でもいつ何が起こるかは分からない。世界にはご飯を食べられない子どももたくさんいる。だからこそ、あなたが一人でも強く生きていけるように、たくさんのことを教えたい。」
衣食住を当たり前にするために何が必要か。義務教育がなぜ存在するのか。どうして制度として作られたのか。その背景を知り、考えることは、先人たちへの敬意につながると私は思います。
一方で、今の時代は「義務」という言葉に縛られているように感じます。「義務だからやる」と思い込むことで、自分の意思よりも“やらされる”感覚に慣れてしまう。教育現場でも、時代ごとに問題は変化してきました。母の世代は校内暴力や体罰が横行していたそうです。母はその影響で入院した経験もありました。そこから声を上げてくれた人たちがいたおかげで、私たちの世代は守られました。
しかし、今度は教師側が苦しい立場に追い込まれています。ニュースを見ると、当事者でない人が罵詈雑言を投げたり、聞きかじった話を根拠に代理で意見を代弁している姿も目立ちます。私はいつも「その人自身は何をされたのだろう?なぜそこまで言えるのだろう?」と疑問に思うのです。
結局すべてに共通しているのは、「義務」や「正しい」とされるものに従うことが当たり前になり、背景を顧みず、他力本願でいる風潮への違和感です。
私は子どもの頃、親が放任主義だったからこそ、義務だから学校に行くのではなく「自分で必要だと思うから学ぶ」という感覚を持てました。小学生の頃は遅刻の常習犯でしたが、中学生で不登校になることとは違う意味があります。むしろその経験があるからこそ、学ぶことの主体性を理解できたのだと思います。
「義務だから行きなさい」と教えることは、大人になっても「企業が必要だから与えてくれるものしか学ばない」という姿勢につながるのではないでしょうか。私はそう感じています。
