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遅刻常習犯の私がキャリアウーマンと呼ばれるまで ― キャリアウーマンは“仕事に対する姿勢”

家庭を軸に歩んできたキャリアのかたち

小学校に遡って、自分の分岐点を振り返ってみました。
私がこうして「家庭を軸に仕事を選んできた」のは、貧困だったことも大きく影響しています。
お金がなくて学校に行けなかったり、家族を助けなければならなかったり。
そうした環境があったからこそ、選んできた道、積み重ねてきた仕事への姿勢が今につながっています。


遅刻常習犯の小学生。

小学生の頃の私は、通学団には参加せず、遅刻も当たり前。
「良くないこと」と思うよりも、「楽しさ」を優先していました。

それでも、今も心に残っている先生の言葉があります。

「親が起こしてくれなくても、自分で目覚ましかけて起きなさい。自立しなさい」

その先生は行きすぎた行動もあり、関わったのは1年間だけ。まるで 「女王の教室」 のような先生でした。
けれど、社会人になってから気づいたのです。
何も言わずに通り過ぎる大人より、声を上げて伝えようとしてくれた人の言葉の方が胸に残るということを。

そして、この言葉は私に 「親と自分の関係」を考えるきっかけ をくれました。

遅刻常習犯だった私は、同じ通学団の子どもからも先生からも信頼されませんでした。
6年生になって頑張っても、信頼を取り戻すのは簡単ではなく、普通に生活する以上の努力が必要だと知りました。
けれど、すぐに変われるほど私は強くありませんでした。


中学校へ「行かない」選択をしたのは私。
「行く」選択をしたのも私。

中学生の頃、私は不登校になりました。
義務教育なのに部活が強制参加だったり、給食費が払えないことで行きづらくなったり。
教室で手渡される給食費の滞納の封筒や先生の視線が苦しくなりました。

でも、それだけではなく、視力低下で黒板が見えなかったことや、友人とのちょっとしたいざこざにもつまずきました。

貧乏以外にも、思春期特有の悩みをいくつも抱えていたのです。1度休むと、だんだん学校に行けなくなりました。

親の離婚をきっかけに、私は考えました。
「母を助けるには、まず義務教育をきちんと受けること」だと。

不登校もあったので学びを取り戻すのは難しかったけれど、「親がそうだから子もそう」と言われないために、母を困らせないために、必死で強くあろうとしました。

理由はどうであれ、不登校だった事実は消えません。学校に行きだしても、周りの評価もそのレッテルがついて回りました。一番気にしていたのは自分かもしれません。
不登校にはいろんな理由があるから、「行けない」人もいると思います。
それでも学校に「行く」「行かない」理由を自分なりに向き合っておくといいのかなって思います。


中卒で働くか、高校に進学するか。

母はどんな環境でも「高校には行ってほしい」と願ってくれました。
私自身も将来のため、手に職をつけるために進学を選びました。

目先のお金に心が揺れたことは何度もあります。
それでも限られた世界の中で楽しむことを知り、忍耐を得ました。
母が貧しいながらも子どもを思ってくれたことには、今も感謝しています。

新しい環境で、自分を知らない人たちの中から一から始められた高校生活。
そこで大切にしたのは、

学校に毎日通うこと

資格を取ること

家庭の事情を表に出さないこと

商業高校で得た知識をどう活かすか模索し続けました。
「中卒で働くか、進学するか」で悩んだからこそ、
高校生活でも「働くこと」を意識した勉強に取り組めたのだと思います。

商業高校は職場体験も多く、あらゆる経験を積むことができました。
その中で出会った先生方には、今でも感謝しています。

簿記や会計学に触れるうちに、経営学を学びたいと思うようになり、
「勉強って楽しい」と初めて心から感じられるようになりました。


高卒で働くか、大学に進学するか。

高校生になって、初めて「職業」というものを考えました。
中学生の頃の私は「お金を稼げるならどこでもいい」と思っていて、働くことを具体的に想像することはありませんでした。

けれど高校に進学したことで、ようやく将来のことを現実的に考えられるようになったのです。
その意味でも「高校に進んでよかった」と心から思います。

さらに、先生からいただいた言葉があります。

「視野を広げるべきだ」
「高卒ではもったいない」

この言葉がなければ、私は大学進学を選ばなかったかもしれません。

経済的に苦しい中での大学進学は過酷でした。
それでも、学びは確かに今の自分に繋がっています。

不登校で失った信頼も、高校で一から始めることができ、自分自身を少しずつ認められるようになりました。
そして、大学進学という新しい選択が「自信を取り戻す大きな一歩」になったのです。


就職先は「ガス代の社割がきくかも」で決めた。

就活のとき、私は業界研究も十分できませんでした。借家から追い出されたり、生活が苦しくまともに動けなかったのです。
だから「家から近い」「ガス代の社割がきくかも」という小さな理由に見えても、私にとっては「家族の生活を少しでも支えられるかもしれない」という大きな意味がありました。

大学生活で必死に努力しても、就職活動は家庭の事情に縛られていました。
自分の将来ではなく「家族のため」を優先した選択だったのです。結果的にその会社は、私にとって「親以外から初めて社会を学ぶ場所」となり、社会人としての土台を作ってくれました。


出産で“命”を考えた。

出産と育児は、私の価値観を大きく変えました。自分以外に守るべき存在ができてからは、収入や生活のために、少しでも楽になるようにこなしていた仕事の意味を改めて考えるようになりました。

本当は新卒からの会社に居続けたかった。でも、子どもを泣かせてまで無理をする自分にはなりたくありませんでした。

平和な日本で、子どもは当たり前のように生まれてくると思っていた私。けれど実際は、五体満足で無事に産まれてくれることが、どれほど奇跡的で尊いものかを知りました。出産は、私にとって「命とは何か」を考える出来事でした。


家族(子どもや夫)のためにワークライフバランスを選んだ。

家庭が変わっても、私にとって家庭は常に軸です。家庭が回るように仕事をしつつ、現在の職場では仕事自体も楽しく、いろんな方に評価され、充実しています。

ただ、やりたいこととは違います。それでも今は、これが私の選択です。


小学生の頃からを「キャリアの分岐点」と呼ぶと、大袈裟に聞こえるかもしれません。

けれど、人生はそこから紐づくことが多いと思います。

親の職業を子どもが選ぶこともあれば、選ばないこともあり、そのどちらも親の影響です。

小学校高学年になれば、自分で考える力も育ち、その選択が将来に結びつくこともあります。

人生には良いこともあれば、悪いこともあります。

一度間違えても、挽回はいくらでもできます。不登校でも、家が貧しくても、人から軽蔑される過去があっても、自分で選んだ道を自分が認めてあげればいいのです。


私はいつも、そのときに考えられることを考え、全力で生きています。


最近見えてきた私のやりたいことは、家庭で十分なケアを受けられない子どもたちを助けることです。

本当は自分が犠牲になってでも飛び込みたい。

社会福祉士や心理カウンセラーの資格を取り、がむしゃらに勉強したいという思いもあります。


でも現実的には難しい。

子育てが一段落したとき、また人生の、キャリアの分岐点が訪れるのだろうと思います。


誰かの人生のヒントになれるように、私の歩みを綴っていきたいです。

#キャリアの分岐点

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