家族4人、六畳一間の居候生活。怒りを生きる力に変えた日々【第2のどん底③ 転落編】
「もう二度と、自分で責任を取れないビジネスはしない。」
──そう誓ったあの日が、ひとり起業の原点となり、僕の人生は静かに動き出した。
前回は、詐欺で650万円を失い、信じた人に裏切られ、人を信じる心までも失った話を書きました。
心にぽっかり穴が空いたまま、何もする気が起きませんでした。
それでも──どこかで「終わりじゃない」と思っていました。
絶望の底にあったのは、怒り。
そして、悔しさ。
気づけばその感情が、前に進むための燃料になっていました。
この記事では、人間不信の中で、家族4人で親の市営住宅に居候しながら、どうやって僕が「生きる力」を取り戻したのかを綴ります。
もしあなたが今、「誰も信じられない」「もう無理だ」と感じているなら──この話が少しだけでも希望になれたら嬉しいです。
絶対に、もう一度這い上がってみせる
「誰かに会えば、また傷つく。」
人を信じられなくなって、外に出られなくなりました。
目を合わせるのが怖くて、誰とも会わないように暮らしていました。
それでも、どこかでこう思っていました。
──「このままでは終われない」と。
夜、静まり返った部屋で、僕は何度もナポレオン・ヒルのプログラム音声を聞き返しました。
特に「逆境と挫折からの利益」のセッションで、
「失敗は一時的なもので、そこから何を学ぶかがすべてだ」
という言葉が、僕の頭の中を冷静に整理してくれました。
お金は消えても、信じた人に裏切られても、明日への希望の種だけは奪われない。
「絶対に、もう一度這い上がってみせる。
絶対に成功する。」
と、僕は何度も自分に言い聞かせていました。
心の底から込み上げる怒りと悔しさ
世の中で語られるサクセスストーリーは、美談として綺麗に飾られていることが多い。
けれど成功者だって人間。
怒りも嫉妬も、苦しみもある──その裏側は、ほとんど語られません。
僕は当時、そんな綺麗ごとを言っている余裕はまったくありませんでした。
心の底から込み上げる激しい怒りと悔しさが、抑えきれずに体の中で燃え続けていたのです。
(余談ですが、後年に読んだ矢沢永吉の『成り上がり』に胸が熱くなりました。成功者もまた、「泥臭く生きている」という事実に共感しまくったのです。)
「今に見てろよ。」
「絶対に見返してやる。」
その言葉が、僕を前へ押し出す熱源になっていました。
綺麗ごとではなく、ただ純粋な悔しさと怒り──それが、諦めずに生きるためのエネルギーになっていったのです。
自分の力で稼ぐ。お金がない中で見つけたビジネス
長男が生まれたばかり。
家族は4人になっていました。
僕が動かなければ、家族ごと沈んでしまう。
妻はこんな状況でも、僕を信じてくれていました。
「家族を、絶対に路頭に迷わせるわけにはいかない。」
──それだけを胸に刻んでいました。
生活を安定させるために、就職やアルバイトという選択肢もありました。
けれど、なんとしても自分の力で這い上がりたかった。
成功して見返したかったのです。
誰も助けてはくれない。
だから、自分で突破口を見つけるしかありませんでした。
ハウスクリーニングとの出会い
「このお金がない状態からでも、自分ひとりの力だけで始められることはないだろうか?」
少しずつ考え、ネットで調べ、アイデアノートに書き始めました。
お金がなくてもできる仕事
すぐにお金をもらえる仕事
自分ひとりで完結できる仕事
──とにかく思いつくまま書き殴っていきました。
そのとき、一つの言葉が目に残った。
「ハウスクリーニング」
横文字だと洒落ているけど、いわゆる掃除屋さん。
他にも案はあったが、この言葉だけがずっと心に引っかかっていました。
「掃除なら、自分の力でできる。
練習すればできるようになる。
開業資金も少なくて済む。
リスクも低い。
しかも即金になる。」
掃除は、地味で泥臭い。
でも、確実に誰かの役に立てる仕事。
大きく稼ぐことはできなくても、それで十分だと感じました。
ネットで販売されている実践者のマニュアルを見つけて購入。
代金を払うのも正直苦しかったが、背に腹は代えられませんでした。
そして早速、必要な道具や洗剤、仕事の流れを勉強しました。
最低限の道具と作業着を揃え、福岡の自宅や妻の実家で掃除の練習をスタート。
お金をいただけるレベルまで、何度も何度も同じ場所で練習を重ねました。
「よし、あとは実践だ。」
作業時間を計り、価格表を作って、ようやく「これならいける」と思えるようになったのです。
主婦からの注文
「今は日銭稼ぎでもいい。
まずは自分の力で稼げるようになることが大事だ。」
そう自分に言い聞かせ、近所にビラを撒き始めました。
反応はわずか2件。
期待していた5件には届かず、少し落ち込みました。
それでも1件、依頼をもらえた。
首の皮一枚つながったような気分でした。
最初の仕事は、毎日忙しくて掃除ができない主婦の方。
接客に緊張しながらも、作業は練習の倍以上に丁寧に行いました。
作業が終わると、主婦の方が笑顔でこう言ってくれました。
「助かりました、ありがとうございました。」
僕の方が、その何倍も「ありがとうございます」という気持ちで胸がいっぱいでした。
とにかく緊張しながらも、初仕事を無事に終えられたことは、自分のビジネスが大きく前進したように感じられたのです。
家賃の支払いが限界に
その後も、近所でチラシを撒き続けました。
しかし、まさかの反応ゼロ──。
そもそも住んでいるのは、ハウスクリーニングをやるために選んだ場所ではない。
妻の実家のそば、という理由だけで決めた借家。
ついでに商圏のリサーチなんて、当然やってない。
うまくいく方が、むしろ奇跡だったのです。
それでも、ポスティングをやめるわけにはいきませんでした。
けれど、現実は残酷。
反応はゼロのまま、家賃の支払いが限界に近づいていきました。
「これ以上、無理かもしれない。
もう家賃滞納はできない。」
あの頃と同じ──借金に追われた、あのどん底の記憶がよみがえる。
もう二度と、あんな思いはしたくありませんでした。
「両親のいる宮崎に帰るしかないか…。」
ため息のようにその言葉が漏れました。
宮崎は、15年前に飛び出した場所。
僕は宮崎が嫌いでした。
挑戦する場も、夢も、希望もないと思っていたからです。
だから、「成功するまで絶対に戻らない」と誓っていました。
友達にもそう伝えていました。
その宮崎に戻るということは、自分の中で“負け”を認めるようなものだったのです。
でも、現実は待ってくれません。
妻に相談しました。
「宮崎に戻ろうと思う。」
実家が福岡にある彼女は、少しも反対せずにこう言ってくれました。
「うん、いいと思うよ。
どこでもついて行くよ。」
その一言に、涙が出そうになりました。
責めることも、嘆くこともなく、ただ僕を信じてくれていたのです。
福岡から、宮崎へ
両親のいる宮崎といっても、住まいは市営住宅。
父の商売がうまくいかず、僕が大学生の頃に実家を手放していました。
僕は父に、居候の相談の電話をかけました。
「家賃が払えんくなったとよね。
このままじゃ4人暮らす場所がないけん。
少しの間だけ、居候させてくれんかな?」
少し──とは言ったものの、正直いつまでになるかは分かりません。
唐突な相談に戸惑いながらも、最終的には受け入れてくれるだろう。
そう思っていた僕は、父の反応に驚きました。
父は、露骨に嫌がったのです。
「なんでか。他に手はないとか?」
声のトーンからして、断りたくて心底困っている様子が伝わってきました。
「息子や嫁、孫が困ってるのに、それでも親か。冷たいな。」
もともと父とうまくいってない僕は、電話を切ったあと、そんな思いを抱きました。
でも、僕の子どもたちが大きくなった今だからこそ、あのときの父の気持ちが分かります。
親として、また息子と同居するなんて青天の霹靂だったのでしょう。
しかも、嫁と幼い孫二人付き。
父の胸に複雑な感情が込み上げたのは当然だったと思います。
母はその逆で、最初から大歓迎でした。
「いいじゃない、帰っておいで。」
その明るい声に、どれほど救われたか分かりません。
結果、父は渋々ながらも受け入れてくれました。
当時を思い出すたびに、あのときの父の気持ちを考えて、胸が少し痛みます。
父と母の思い出
両親の話が出たので、ここで少しだけ、父と母について触れておきたいと思います。
父はA型(僕と同じ)。
小さいころから、とにかくよく怒られていた。
僕が悪かったのか、父が短気だったのかは分からない。
寝起きをいきなり殴られたこともある。
褒められた記憶は、ほとんどない。
怒ること以外、ほぼ無口。
だから、子どもの頃の僕は、ずっと父が苦手で、嫌いでした。
けれど、父は寡黙で几帳面で、仕事に誠実な人でした。
子ども二人を育てるために、黙々と働いてくれていた。
その姿を思い出すと、尊敬の気持ちが自然と湧いてきます。
母はB型。
明るく、お喋り大好き。
想像力豊かな人だった。
いつも笑っていて、僕を褒める天才。
そして、母はチャレンジの人、努力の人でもありました。
僕が大学生の頃、40代の母が突然「宅建の資格を取る」と勉強を始め、全くの素人から、わずか1年で合格。
そして70代で大病を患い、車椅子生活になってからも挑戦をやめず、「第1回みやざき総合美術展」に応募し、自由表現部門で受賞。
そんな母を、僕は心から尊敬しています。
正反対の性格を持つ父と母。
その二人に育てられた僕は、早く家を出て、自分の夢を追いたいと思っていました。
高校を卒業して東京へ。
その後、千葉、福岡と移り住み──そして15年ぶりに宮崎へ帰ることになったのです。
さらなる災難、大きな借金
こうして僕たちは、荷物をまとめ、福岡を離れる決断をしました。
行き先は、その父と母の住む宮崎の市営住宅。
とはいえ、家族4人分の荷物を一度で運べるわけがありません。
引っ越し業者に頼むお金もない。
「どうにか、安く引っ越しできる方法はないか?」
そう考えていたとき、宮崎で建築関係の会社をやっている母の知り合いの社長さんが、トラックを貸してくれることになったのです。
すぐに引っ越し計画が決まりました。
まずは車に積めるだけ積んで、家族4人で先に宮崎へ移動する。
そしてトラックを借りて、残りの荷物を福岡に取りに行く。
──これで、なんとかなる。
そのときはそう思っていました。
そして、家族4人でいったん宮崎へ到着。
子どもたちを親に預けて、妻をトラックの助手席に乗せ、僕が運転して福岡へ向けて出発しました。
ところが……。
九州自動車道の熊本県を走っている途中、突然マフラーから大量の煙が噴き出し、次の瞬間、エンジンが止まったのです。
「……マジ……か……」
路肩に寄せたトラックの横でレッカーを呼び、すぐに貸してくれた社長さんへ事情を説明する電話をかけました。
運転していたのは僕です。
4トントラックで引っ越しドライバーのアルバイトをしていた経験もある。
決して運転が下手なわけではない。
ただ、原因が何であれ、借りたトラックを止めてしまったのは僕です。
しかも社長さんと母との関係がある。
ここで揉めるわけにもいかない。
言い訳もできない。
社長さんから
「仕事で使うんだよ」
と低い声で怒られ、僕は
「本当に申し訳ありません……」
と、電話口で何度も頭を下げて謝るしかありませんでした。
結局、レッカー代から修理費まで、すべて僕が支払うことになりました。
後日、言い値で──40万円以上。
当然、一括で払えるお金はない。
謝りに謝り、分割にしてもらいました。
こうして宮崎での新しいスタートはゼロからどころか、いきなり大きな借金を背負うマイナスから始まったのです。
正直、精神的にも金銭的にも、かなりきつかった。
「困難って、こうやって続くんだな……」と、嫌でも思い知らされました。
それでも、進むしかありませんでした。
家族4人で市営住宅の居候、新しい暮らし
出鼻をくじかれるような出来事がありましたが、僕たちはなんとか家族4人で、親の市営住宅の六畳一間に居候させてもらうことになりました。
そこは、海と山に囲まれた、静かな片田舎。
のどかで、平和で、時間がゆっくり流れる場所でした。
宮崎に戻ると、父はかつての事業を畳み、アルバイトをしていました。
母は、同級生とのトラブルをきっかけにアムウェイの活動をやめ、自分で起業したビジネスを頑張っていました。
15年ぶりの宮崎は、懐かしい匂いがしました。
新しい道路ができていたほかは、ほとんど変わらない景色。
「こんなにいいところだったんだ……宮崎は。」
少年のころには気づけなかった故郷の良さ。
しみじみと噛みしめていました。
そして実感したのです。
故郷の宮崎で、ゼロから新しい挑戦を始めるのだと。
狭い部屋に布団を敷き、妻と子どもたちと肩を寄せ合って眠る毎日。
妻はいつも明るく、どんなときも不平不満を言いませんでした。
今思えば、僕の何倍も何十倍も肩身の狭い思いをして、耐えてくれていたのだと思います。
「早く家を借りられるように頑張るからね。」
僕ができることは、妻にそう言い続けることだけでした。
──絶対に、ここで終わらせない。絶対、成功する。
信じた人に裏切られ、人を信じる心を失っても、僕はまだ、自分を信じる力を大事に持っていました。
成功を目指す強い意思だけは、誰にも奪われたくなかったのです。
家族がいたから、僕は自分を見失わなかった。
家族だけが、僕の支えだった。
「怒りも悔しさも、全部燃料に変えてやる。
この手で、もう一度、人生を立て直してみせる。」
そこから、僕たち家族のゼロからの再起が始まりました。
──つづく。
おわりに
僕たち家族は、六畳一間の市営住宅から、もう一度人生を立て直すことを決めました。
何もないゼロの状態からでも、信じられるものは家族と自分の力。
次回は、宮崎で始めた小さな挑戦。
洗剤と道具だけから始まった、ハウスクリーニング開業の日々をお話しします。
続きはこちら。
👉 【第2のどん底④ 再起編】何を信じて生きるのか。家族の絆が支えたゼロからの起業
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます。
もしこの記事が、あなたの心にほんの少しでも何かを残せたなら、スキやフォローで応援してもらえると、とても励みになります。
初めて僕の記事を読んでくださった方へ──
よければ、最初に書いた自己紹介の記事も読んでみてください。
せきたつや
いいなと思ったら応援しよう!
いただいたチップは、娘の夢のために大切に使わせていただきます🍀