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とある介護士の記録|第一話 302号室

ここはとある五階建ての住宅型有料老人ホーム。
利用者は42名、記録は簡素。
職員のひとりである女性介護士は、何を言われても笑顔で返し、「すみません」と繰り返す。
だがその胸の内では、苛立ちと憐れみが交錯し、毒づく声が静かに響いている。
笑顔の奥にあるのは、無関心ではなく、限界だった。
日々の介護の中で見えてくるのは、老い、孤独、そして滑稽なまでの人間らしさ。
人手不足に、終わらないナースコール。溜まる記録とストレス。
他人の“老い”を支えるという名目のもと、自分の“心”はいつの間にかすり減っていた。
笑顔で接するたび、内心では毒を吐く。
「この人たちの人生って、いったい何だったんだろう」
「私たちは、どこに向かってるんだろう」

やがて彼女は、“記録に残らないもの”と静かに向き合うことになる。


———

302号室

「あなた何の役にも立たないわね」
そう言っていやな笑みを浮かべる。

「すみません。」
今日何度目かわからないため息を心の中でつく。

「ったく。気が利かないし、何度言ってもだめね。歯磨きの前におトイレに連れてってほしいだけじゃない。そんなに難しいことかしら」

「すみません。次からは気をつけます。」
昨日は、食後はまず歯磨きでしょう!ったく。とお怒りだったことは忘れたようだ。

笑顔のまま無心でこの老婆を観察する。
もう男なのか女なのかもわからない。髪は薄く、真っ白だ。口元に1本だけ黒く太い髭が生えている。この一本が全ての栄養を独り占めしているんだろうか。

私がヘラヘラと笑顔のままなのが気に食わないのか眉間にしわを寄せている。

「すみません。ご飯つぶがついているのでとりますね」

パシッと伸ばした手をはたかれた。重たい瞼でほとんど見えないその目は、これでもかと私をにらみつけているんだろう。
頬はたるみ切っており、肌はゴムのようだ。喋るたびに最後の一本の歯がチラチラと見え隠れする。

醜い。

嫌悪感を抑え込み、笑顔をつくる。

「すみません。歯みがき、しましょうか」

洗面台まで車いすを動かす。
歯ブラシを差し出すが、さっきあんなに元気良く動いた手はピクリとも動かない。

ちっ。こっちだって別に歯みがきしてほしいなんて思っちゃいねえよ!

と心の中で毒づいた。洗面台の鏡には楽しそうにさえ見える笑顔の私がいる。

「ちょっと!早くしなさいよ!」

しわしわの顔が鏡越しにこっちを見ている。

「座ってるだけでもしんどいんだから。あなたに私の気持ちなんてわからないんでしょうね。私は姑の介護だって完璧にこなしたわ。ったく。今時の子は年寄りを労るってことを知らないんだから。」

「すみません」
笑顔を崩さず、人の形さえ保てていない人のたった一本の歯を磨く。

残存能力の活用。過度な介助は、できることを奪うことになる。
今、この肉体から、できることを奪っている。だけど、歯磨きができなくなってもこの老婆が困ることはないだろう。いらない残存だな。

なんて、よくわからないことを考えながら水を入れたコップを渡す。

さっきまで全く動かなかったその手はコップを奪い取り器用に口へ運んだ。


———


ひと段落してから、記録用紙を取り出した。

「302号室 大山ヨシエ 歯一本脱落」


———


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