この国の王を殺すには 第四話
煌びやかな光が、夜の闇などまるでないもののように、広い室内を照らし出す。部屋の中にはそれぞれ着飾った面々が、ワイングラスを片手に談笑していた。
そんな中、ひとつの輪からわっとざわめきが持ち上がる。
「じゃあ、次はこれを! いくわよ、子猫ちゃん。せーのっ」
ひとびとの輪を縫うように置かれたテーブルからマシュマロをつかみとった若い貴族の娘が、マシュマロを宙にむかってぽいっと投げた。ずいぶん高いところまで投げられた。
そこへすかさず、エミルが跳び上がって宙返りをしながら、そのマシュマロを空中でぱくりと口にする。
着地して、わざと口がいっぱいのように振る舞い、恭しく頭を下げた。顔を上げてからおおげさに租借してみせる。
「もごもご!」
きゃーっ!
なにがおかしいのかけらけらと、少女たちは笑い出す。
――エミルは宮廷の社交界で、すぐに人気を博した。
なにせ珍しい七呪いの一族だ。今まで意識したことはなかったが、エミルはどうやらそれほど悪い容姿をしているわけではないらしい。どちらかというと、
「きみはかわいいよ」
と、あの美の権化レナルドにいわれるくらいには、かわいい顔立ちをしているのだとか。
かわいい顔で色素欠乏症の猫、宮廷の道化。高い身体能力に、おどけた仕草。そのすべてが退屈を持て余している貴族にとっては斬新なのだろう。
「ねえ、ねえ。今度はペースーディースーでどうかしら」
いったのは、若い娘たちの中心にいる娘だった。
黒い巻き毛に、黒曜石のような瞳。コルセットできゅっと締め上げられた細い腰に、華奢な体躯――この国唯一の王女、イヴリンだ。王妃エメラインの、ただひとりの子ども。
(この娘も、あの白豚みたいにいつかぶくぶくに太るのか)
イヴリンは特筆するほどうつくしい娘ではなかったが、若さ独特のはじけるような魅力を持っていた。けれどそれは、彼女と同世代のとりまきたちも同じともいえる。
貴族たちの中でも、イヴリンは特化してエミルを面白がっていた。王女ということもあって、彼女はずっと宮廷に結び付けられている。こうやって、人を馬鹿にして遊ぶことしか、楽しみがないのだろう。
ペースーディースーとは甘いチョコレートにすり下ろした生姜をとアルコールを入れた液体だ。チョコレートを液体にしたのなら、ほうっておけばかたまってしまうのでは? と考えていたエミルだが、ペースーディースーは定期的に暖めなおされるため、固形化することはないらしい。貴族の飲み物らしく、手の込んだ一品だ。
「いけませんわ、イヴリン様。いくらなんでも液体は……」
「だって、この子は道化でしょう? だったら頭からでもペースーディースーをかぶってみればいいんだわ」
「あら、やだ。イヴリン様ったら」
うふふふふ! あはははは!
腐りきったやりとりにげんなりした。どうやらこのイヴリンという娘、母親に似て性格は最悪だ。
「それはいやなのです、王女様」
エミルはわざとしょんぼりと眉尻を下げてみせた。
「エミルはこのお仕着せが気に入っているのです、王女様。ペースーディースーまみれになるのはごめんです」
「まあ、生意気な猫!」
「いやなので、エミルは退散いたします! そうれっ」
いってエミルはぴこぴこと小走りにその場から逃げ出した。あー、待ちなさいよう! 声が背後からきこえたが、無視をしてひとびとの中にまぎれる。
周囲ではダンスがはじまっていた。このダンスというものを、エミルは長らく勘違いしていた。エミルの想像では主に男女がふたり一組になって、優雅なステップで曲が終わるまで一緒に踊っているものかと考えていたのだが、どうやらそれだけではないらしい。
貴族たちは服数人が大きな円を作って、男女でそれぞれ手を合わせ、曲に合わせてひとしきりステップを踏んだら、すぐリズムにあわせて他の異性と手を取り合う。なんでもここでも駆け引きが行われているらしく、一緒に踊りたい異性の手はとるけれど、一緒に踊りたくない異性と踊りを踊らなくてはなりそうになったら、さっとうまいことその輪から抜け出すのだとか。
「きみも踊ってみてはどうだね」
背後から声をかけられて振り向いた。どこかでみたことがあるような、でっぷりと太った腹を突き出した中年男だ。男は酒臭い息を吐きながら、ねっとりとした視線をエミルに絡みつかせる。
「あのサーカスで、きみはよく尻尾をふって踊っていたじゃないか」
(ああ……)
この相手、サーカスの客か。だとしたらかなりの悪趣味ということになる。
貴族相手の商売だったので、こういうことは予測していた。さしたる動揺もみせずに、エミルはにこーっと笑顔をつくる。
「サーカスでの踊りと、宮廷での踊りは全然違うのであります! エミルはまだまだ勉強不足です! 勉強して出直してまいります! ではでは~」
「いや、待ちたまえよ」
がしっと肩をつかまれた。汗ばんだ手のひらが布越しに触れるのを感じ、鳥肌がたった。
「きみはたしかバーナード辺境伯に買われたはずでは?」
その言葉にぎくり、と動きが止まる。忘れることのできない過去。サーカスにいたときよりもずっと、エミルを蝕む最悪な記憶――。
「バーナード辺境伯は自慢していたよ。とてもかわいらしいペットを手に入れた、とね。いずれ宴に参加してくれとまでいわれていたのに……。きみは逃げ出したんだって?」
「…………っ」
「だめじゃないか、ご主人様のいうことには従わないと。辺境伯は最近お疲れ気味だから、社交界には顔を出さないかもしれないけれど、きみがいると知ったのなら、きっと――」
「失礼。わたしの道化がなにか粗相でも?」
いつのまにかすぐそばに、レナルドの姿があった。
社交用の服に身をとおしているレナルドは実に魅力的だった。自身の青い瞳と合わせた同じ色身のジャケットには、彼の髪と同じく金糸で意匠を凝らされた刺繍が施されている。ジャケットより薄い色身のベストに、白い絹のタイ。すらりとした長身に、華美な衣装はよく似合っていた。
「こ、これはこれは、レナルド様……」
「申し訳ありませんね、しつけが行き届いておりませんもので。なにか失礼を働いてしまいましたか? これはわたしの愛猫なのです。どうか何卒、ご容赦を」
「い、いえ。とんでもございません。ああ、いや……、ワ、ワインでもいかがですか」
「お気遣いありがとうございます。ですが、酒はじゅうぶん足りております」
「さようでございますか。では、わたしは失礼させていただきます」
男がそそくさと逃げていくのをみて、エミルはほっと胸をなでおろした。
「大丈夫か、エミル」
レナルドが殊勝にもそんなことをいいながら、エミルの顔を覗き込む。
「真っ青だぞ。なにか変なものでも食べたのか」
「……別に、へいき」
「言葉遣い」
「へいきなのであります、レナルド様!」
元気に振舞ってみせたものの、よみがえったいやな記憶が洪水のようにあふれてきて止まらない。指先がカタカタと小さく震えていた。
レナルドの怜悧なまなざしがそれを目ざとくみつけたようだった。
「今宵はもう部屋へ帰ろう。今夜は離宮で過ごしなさい」
「へいきなのであります、レナルド様!」
「語彙力が著しく低下しているな。酒でも飲んだか? きみは酒に弱い体質だから飲むなとあれほど――」
レナルドが乱暴にエミルの肩を抱いた。そのままぐんぐんと歩き出して、部屋を出ていこうとする。
――と。
「おっと」
うつむいていたエミルは、歩を前に進めようとした瞬間、誰かにぶつかりそうになってしまったらしい。レナルドに抱かれた肩をぐんと引き戻され、かろうじてぶつからずに済んだ。
はっとして顔をあげると、レナルドのまぶしいほどの金髪には及ばないけれど、きれいな亜麻色の髪をした痩躯の男がひとり、立っているところだった。
「ああ――レナルド」
「叔父上。今からのご参加ですか? あまりに遅刻がすぎるのでは」
エミルの尻尾が、反射的にぴんと伸びた。
やさしげに垂れた目じり、おっとりとした笑みを浮かべた口元。齢三十になる、王の弟、第一王位継承者シミオンだ。
シミオンはゆったりと微笑んでみせた。
「わたしがこういった場を苦手としているのは知っているだろう。ちらりとだけ顔を出して、それで戻るつもりだったんだ。――きみこそ珍しい、もう戻るのかい?」
「はい。わたしのかわいい愛猫の具合が、あまりよくありませんもので」
「ああ。宮廷の人気者の子猫ちゃんだね」
シミオンとはもう何度か顔を合わせていた。正直、王弟の分際で王位継承権を退かない厚顔無恥な極悪人を想像していたのだが、そのあまりの優男ぶりに毒気が抜かれた。それでもこの男を殺さなくては、この国はなにも変わらない――そう思えば、殺意を思い出すことはたやすかった。
「申し訳ございません、シミオン様」
尻尾を下げて、エミルは殊勝に謝ってみせる。
「お楽しい場で、このような猫……。明日には元気になりますので、そうなったらどうかまた遊んでくださいませ」
「具合が悪いときは無理をする必要はないよ。ゆっくり休みなさい」
イヴリンとは血が繋がっているとは思えないぬくもりのこもった言葉。ああ、そうそう。と、思い出したようにシミオンがいった。
「息子にきみのことを話したら、ぜひ会ってみたいといっていたよ。すまないね、好奇心旺盛な子どもなんだ。もしよければ、昼間、時間をつくってくれないか」
「もちろんでございます、シミオン様!」
「あなた」
シミオンの背後から、小走りにやってくる女の姿があった。栗色の長い髪を持つ、おとなしそうな印象の女性だ。シミオンよりはひとつ、ふたつ年下だろうか、暗めの赤いドレスに身を包んだ彼女は、レナルドとエミルをみて、軽く腰を下げてみせる。すべての動作が控えめな女性だった。彼女はすがるようにシミオンへと視線をうつした。
「遅れてごめんなさい。ご一緒します」
「休んでいてもよかったのに」
「いいえ。そういうわけには……」
地味な見た目に反してかわいらしい声色の彼女の名は、オーガスタ。シミオンの妻で、その息子セオドリックの母である。
(あたしが旦那と子どもを殺したら、この人はひとりぼっちになるんだな……)
「あら、あなた……」
オーガスタはエミルに目を留めた。
「顔色が悪いわ。大丈夫? 医者を呼びますか?」
「いえいえ、そんな! 滅相もございません! エミルは眠ればすぐに元気になれるのでありますよー」
にっこりと笑顔を浮かべながらも、自分の唇の端が引きつらないよう、懸命になった。
オーガスタはまだなにかをいおうとしたが、レナルドがそれを遮った。
「そういう事情で、わたしどもは失礼します。叔父上方におかれましては、今宵楽しまれますよう」
「ありがとう」
レナルドの離宮で与えられたエミルの部屋は、彼の寝室とは間続きの小ぶりな一室だった。どうやらその昔、幼いレナルドの面倒を近くでみるために乳母が使っていた部屋らしく、簡素なベッドと化粧台、書き物机とひとりがけのソファがあるほかは、特に飾り気のない普通の部屋だ。
(もしかしたらミミがいっていたちゅうりゅうかいきゅうっていうのは、こういう部屋で暮らす人たちのことなのかな。それとも、ろうどうしゃかいきゅう?)
少なくとも眠る場所のない隷属民よりはましなはずだ。もとより華美な部屋など望んでいなかったので、たとえレナルドの寝室との間に扉がなくとも、別段気にならなかった。
「本当に、どうした、急に」
エミルを伴い自室に戻ったレナルドは、エミルを彼女の寝台に座らせて、彼女の額に手をやった。
「熱はないようだな……」
「やめろ、さわるな」
レナルドの手を振り払い、威嚇するように耳と尻尾を逆立てる。
「はいはい。わかったから横になりなさい」
「いわれなくたってそうする。――なあ、レナルド」
「うん?」
エミルがもぞもぞと寝台の上で横たわっているその隣で、枕元に置かれたチェストの引き出しを開けたり閉めたりしながら、こちらをみずにレナルドが応じる。
「なんでイヴリンはあんなに取り巻きを連れてるんだ。あいつら、友達って感じじゃなかった。みんなイヴリンに媚びてばかりだ。イヴリンは、そんなにいつも召使をそばにおいておきたいのか。ちやほやされないと気がすまないのか」
「ああ、あれはね。半ばイヴリンにとっての義務でもあるんだ」
「義務?」
「嫁入り前の娘に傷がついたら大変だろう? だからそばに貴族の令嬢たちをはべらせて、彼女たちにみはりをさせるんだ。イヴリンが傷物にならないように、あるいはイヴリンが自らの意思で好きな男と逢瀬を重ねないように」
「傷物って、どういうことだ」
「乙女ではなくなるということさ。王家の娘の純潔は、それだけで金貨何百枚以上もの価値があるからね」
純潔、価値。――エミルがとうの昔に奪われたもの。
その言葉に、ぐっと吐き気がこみ上げてきた。けれどレナルドにそんな姿をみられることがいやで、震える肺で深呼吸を繰り返す。
というか、レナルドはいつまでここにいるのだろう。はやくどこかへ行ってほしい。そうすればいやな記憶を忘れることに専念できる――。
「ああ、あった」
レナルドはチェストの引き出しから、古びた一冊の本を取り出してみせた。
「お話を聞かせてあげよう」
「お話?」
「物語ということさ。昔――小さな俺がぐずったときに、乳母が聞かせてくれた児童小説だ」
「じどうしょうせつ……?」
「さあ、掛け布を肩までかけて。眠くなったら眠るんだよ。『昔々、ひとりの幸せな娘がおりました……』」
児童小説って、なんだ。そう問いたかったのだけれど、レナルドがエミルの枕元に椅子を手繰り寄せてそこに座り、本のページをめくり始めたので、口を挟むことができなくなってしまった。
(もう、いい。無視して寝よう。あの変態男のことは忘れよう)
レナルドに背を向けて、布団をかぶりこむ。それでもレナルドの美声は、いやがおうにもエミルの耳に届いてきた。
(無視、無視、無視……)
ところがエミルはレナルドの唇からつむがれる物語に、たちまち飲み込まれていった。
物語は恵まれた環境に生まれた娘が、いろいろなできごとの末にその立場を失い、貧しい身となるのだが、生来の賢さ、明るさから徐々に暮らし向きを向上させ、最後にはお城の舞踏会に参加し、王子様と恋に落ちる物語だった。
「『――めでたし、めでたし』」
ぱたん。とレナルドが本を閉じたとき、エミルの瞳はらんらんと輝いていた。
「それで? それで?」
エミルの問いに、レナルドはきょとんとする。
「それで、とは?」
「そのあとはどうなったんだ? 王子様と結ばれて、それから娘はどうなったんだ?」
「物語はここで終わり。あとのことは、自分で想像するといい」
「ええーっ」
エミルはがばっと跳ね起きた。
「ほかにはないのか? ほかにはその、……じどうしょうせつ? っていうのはないのか?」
「おや、ずいぶん気に入ったみたいだね」
「ていうか、じどうしょうせつってなんだ」
「知らずにきいていたのか!」
レナルドは面白そうに笑い出した。自分の無知を笑われたようで、エミルはふくれっつらをつくる。
「いや、ごめん。馬鹿にしたわけではないんだよ。――児童小説というのはね、子供用に読ませるための物語が書かれた本のことだ。この部屋には、ええと……」
先ほど本を取り出したチェストの引き出しを覗き込んで、中を確認してからレナルドがいった。
「あと六冊くらいはここに入っているから、好きに読むといい。そういえばきみには聖典だけ読むようにいったきりだったね。具合がよくなったのなら、昼間の宮廷図書室を覗いてみるといい。面白い本がたくさんあるぞ」
「宮廷図書室ってどこにあるんだ」
レナルドは口頭で場所を教えてくれた。どうやら北のはずれのほうにあるらしい。早速明日いってみよう、と、エミルは息巻く。
「元気が出たみたいだね」
やさしいまなざしにどきっとした。そういえばいやな気持ちはもう消えてなくなっている。ただ、胸がむかむかする感覚はずっと続いていた。
「これならもう眠れそうかな。――さて、俺ももう休むとするか。お休み、子猫ちゃん。よい夢を」
いってレナルドは椅子から立ち上がり、エミルの部屋から出て行った。
(児童小説……宮廷図書室……たくさん本があるところ……)
胸の中にあたたかな感情が広がった。ぽわっと蝋燭に火がともった心地だった。
(このクソみたいな貴族たちの中にも、そんな場所があるなんて……)
**
しかし議会の様子はさながら、エミルがクソとしか形容できない有様だった。
議会というもののイメージがまったくわかなかったエミルは、宮廷のどこへでも自由に出入りできるという道化の特権を最大限に利用し、昼過ぎから夕方にかけて行われる大会議室へと顔を出した。とはいえ堂々と室内に入るのも気が引けたので、そうっと扉の隙間から中を覗き込んだだけだ。
議会は、エミルの存在など気付かれないほど白熱していた。――わけではなかった。
議会席にずらりと白いかつらをかぶった男たちが並び、発言をするときには席を立つ。きゅうくつそうに身を寄せ合って座る議員らの向かいに座るのは、悠々自適に席をひとりじめする、王妃エメラインだ。その横には後に宰相だと教えられる男が立っていて、議員が発言するたびに王妃になにかをささやいた。王妃は宰相の発言をきいてから、適当に考えた仕草をみせ、えらそうに大きな声でなにかを叫ぶ。王妃の横、宰相のいる位置とは反対側にシミオンが椅子に座って足を組んでいた。
「ですが王妃様。このままでは我が国は――」
「北のメヴェリー地方はルーベルクに取り込まれかけております。否、それどころかもはやほとんどルーベルクの領土といっていいほど――」
「ニシンの値段が高騰しております。今こそ大量に船を出し、輸出量を増やすべきで――」
「ええい、うるさい!」
王妃が甲高い声で叫んだ。
「今の発言にはすべて、わたくしは答えを述べました。本日の議会でこれ以上、話すべきことはありません。――今日のガチョウレースの支度は?」
王妃は宰相にたずねた。
「万事、整っております」
「ではこれより、レースを開始する!」
王妃が叫ぶと、わっとその場が盛り上がった。皆、議論を交わしていたときよりもいきいきとしている。たちまち宮廷使用人たちが七羽のガチョウを部屋へと連れてきた。使用人は部屋に入るとき、扉にかくれていたエミルを一瞥しただけだ。それにあわせて議員たちが、椅子を部屋の隅に寄せ、部屋の中央に空間を作る。
王妃から離れた場所にガチョウ七羽が並べられた。みな、動き出さないよう使用人たちに押さえつけられている。
「それでははじめますぞ!」
場を取り仕切っているのは、議会では一言も発言しなかった背の低い中年男だ。
「さん、に、いち……」
スタート! と男が叫ぶと、使用人たちがみなガチョウを抑えていた手をはなした。するとガチョウたちは銘々に、羽を広げてみせたり、前方に向かって突進していったりした。
わあわあと白髪の議員たちが叫ぶ。王妃も椅子から身を乗り出して、なにやら楽しげに歓声をあげていた。
やがて一羽のガチョウが、王妃の足元に駆け寄っていく。王妃はうれしそうに笑みを浮かべ、太い片腕でそのガチョウの首をむんずとつかんだ。
「!」
びっくりしたエミルが息を呑む。王妃は、その場で立ち上がって、両手でガチョウの首を縊りだした。
「今宵の夕食はこちらのガチョウを食べてやろう。ほほ、みなさい。暴れておる、暴れておるわ」
首を絞められたガチョウがばたばたともがく。それをまねるようにして、議員たちもそばにいたガチョウの首を絞める。
「王妃様の口に入るとは、レースで一位になったガチョウは幸せですな」
「違いない、違いない」
(うえっ……)
事切れようとしているガチョウが糞尿を垂れ流し始めたのが、エミルにとっての限界だった。彼女は口元を押さえてその場を離れ、宮廷の廊下をふらふらと歩き出す。
昼間の宮廷は、それは静かなものだった。夜の社交界ではしゃぎすぎた貴族たちは、昼間の間は眠っているからだ。起きて議会に参加している者たちもあの様子なので、部屋の扉の前にしかつめらしい様子で立っているみはりの召使の存在さえ気にしなければ、ほとんどこの広い宮廷を独り占めしているといっても過言ではない。
(せっかく昨日、物語を聞いて気分がよくなったのに……。また気持ち悪くなった)
エミルは朝食も昼食もとらなかった。食べる気になれなかったのだ。夜にはまた夜会が開かれる。それまでに元気になっておかなくてはならない。
(――そうだ。宮廷図書室へ行ってみよう)
どうせ昼の宮廷で、クソのような議会の様子を観察するくらいしかやることがないのなら、レナルドに教えてもらった児童小説がたくさんあるという、本の園へ行ってみようと思い至った。
(たしか北のほうっていってたよな……。えーっと、こっちのほうでいいのかな)
トコトコと道化のお仕着せ着た猫耳の少女が宮廷を歩く。途中、道がわからなかったので、道化を装ってそばにいた使用人に宮廷図書室の場所をたずねた。何度も廊下を曲がり、帰り道がわからなくなりそうだ、と考えながらたどりついたのは、北のいちばんはずれの一室だった。
なにやら暗い雰囲気がたちこめている。が、大きな扉が目の前にそびえていたので、本がたくさんある場所に違いない、とエミルは息巻いて扉をあけた。
「――おおっ、おおっ……!」
窓はあるがカーテンの締め切られた、薄暗い部屋だった。本がずらりと並んでいる部屋を想像していたエミルは、ぎょっとしてその場で立ちすくむ。
「閉めておくれ。光を……光を閉ざしておくれ」
「あっ、うん!」
部屋にはなにもなかった。あるものは唯一、天蓋突きの寝台だけだ。
そこから男の声がして、エミルは反射的にその言葉に従った。あわてて扉を閉めてから、なぜ自分は部屋の中へと入ってしまったのかと不思議に思う。
「来てはならぬ……近付いてはならぬよ、お嬢さん……」
「なんで?」
「どこの誰だか存ぜぬが……。いいか、くれぐれも近付いてはならぬ」
「だから、なんでだよ」
「面白い言葉遣いだのう」
あっ、とあわてて口元を押さえる。ついつい、素が出てしまった。
「これはこれは、ごめんなさい! 育ちが悪いものでときどきお口が悪さをしてしまうのです! あたしは道化のエミルです! ごらんのとおり、猫娘です!」
くるりと寝台に背を向けて尻尾を振ってみせる。おお……おお……、と、寝台からまたうめき声が聞こえた。
「これは数奇な……。七呪いの一族が、まだこの世にいたなどと……」
「七呪いの一族をご存知ですか?」
「書物の中だけでね。……きみの目は、猫と同じで鋭いのかな」
「なんなら近付いてごらんにいれます!」
「それならない! ああ、どうかもうここからは去りなさい。ここで見聞きしたことは忘れなさい。もう二度と、この部屋に来てはならぬ……」
「なぜですか?」
「人にうつる病を抱えているからだ。――さあ、お行き……」
不服ではあったが、促されるままに部屋を出た。しばらく廊下を歩いたところではたと思い至る。もしかして――もしかして今の人物は。
「そいつは俺の父親、トバイアス三世だ」
自室で本を読んでいたレナルドに今あったできごとを告げると、彼は驚いたように青い目を瞠った。
「そうか……。どこかに隠されているとは聞いていたが、宮廷の最北に閉じ込められていたか……。あそこは日当たりが悪くてすぐにカビてしまう牢獄のような部屋なんだよ」
「やっぱり……!」
エミルは複雑な胸中だった。
あれがこの国の王様だ。あの王が死ねば、エミルとレナルドの作戦は動き出す。シミオンを殺し、そしてその息子のセオドリックを殺す。そうすれば国は、きっとめちゃくちゃになる。
しかし国王という煌びやかな響きは、あの狭い牢獄のような部屋で光を怯えていた老人にはあまりに不釣合いに思えた。
――あいつが諸悪の根源なのか。
――あいつさえいなければ、自分はあんな目にあうことはなかったのか。
なんとなくむかむかしていた胃より、下腹部がじんと熱を帯びたように感じた。あの変態男に散々な目にあわされた、下腹が。
エミルはその熱を、怒りの感情なのかと考えた。
「じゃあ今すぐ、あの王様を殺してくる」
「いいや、待ちなさい。その行動は早計だ」
「どういうことだ」
「だから、いったろう。きみが殺すべきはシミオンとセオドリックのふたりだ。そこに国王は含まれない。そもそもなぜ王がそんな場所に隠されていると思う? 死なれると困る人間がいるからだ。みはりをつけていなかったのは逆に人の目を欺くためか――。いずれにせよ王妃が仕組んだことに違いない」
「だったらなおさら、殺したほうがいいだろう!」
呼吸が荒くなる。体全体がじんじんとして、頬が火照った。
「前にもいったが順番が重要なんだ。そしてそのスピードがね」
レナルドは本を閉じ、立ち上がり、エミルに近付く。彼女の耳元で、そっとささやいた。それだけでエミルの体は、びくん! と大きく跳ねる。
「それからきみは声が大きい。前にもいったろう。ここの使用人は小銭ごときで簡単に裏切る、と」
「……じゃあどうすればいいんだよ」
「王が衰弱し、自然死するのを待つんだ。それとほぼ同時にシミオンを殺せ。王の居場所が知れたのはよかった。これで彼の様子を洞察することができる。王は殺すな。衰弱死を待て」
「そんな、の……」
エミルはとうとう我慢できずに、へなへなと力なくしゃがみこんだ。
「エミル? 大丈夫か」
レナルドが驚いた様子で、彼女と視線をあわせるために床に膝をつく。
「……わかんない……ずっと変なんだ……パンも食べたくない……」
鼓動が高鳴る。体が熱い。肉体の中心部から、とろりとしたなにかがあふれてくる。
「……エミル」
レナルドが瞳を細めた。
「昨日からきみは様子がおかしい。だから俺なりに、七呪いの一族について調べてみた。きみたちについて書かれた書物は少ないが――」
きみは。レナルドの形の良い唇が、その言葉を導き出す。
「もしかして発情期なのでは?」
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第八話
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終章
