この国の王を殺すには 第一話


 大陸には七呪いと呼ばれる一族が存在する。
 力のある猫をあやめた者は、その七代先まで呪われる、という言い伝えに由来してつけられた名称だ。
 力のある猫とはなにか。俗にいう悪霊の類だろうか、悪魔や魔物の類だろうか、そのいずれかははっきりされていない。そもそも七代先まで呪われれば、そこで猫の恨みがはれるのかどうか、それすらぼんやりとしたままだ。
 キーツクライド王国は近代的な王国だ。汽車が開発されたことによって英国で発展した産業革命の色を濃く残し、最近では自動車というものが発明されたと聞く。そんな時代に、根拠のないうらみつらみから生じた呪い云々の話など、そうそう信じられるものではなかった。王国が国教として定めるのはフィルヴィス教。道徳こそ説かれているが、七呪いの一族について言及している文言はない。
 しかし、七呪いの一族は実在していた。事実――エミルがそうだからだ。
 自分のルーツはわからない。物心つくころから親はいなかった。親にもこのような猫の耳と尻尾がはえていたかもわからない。わからないことだらけだ。そう、エミルには圧倒的に知識が不足していた。しかしそれは彼女だけの責任ではなく、彼女を囲む劣悪な環境によるものも起因していた。
 エミルの最初の記憶は、痛みだ。
 痛みを完璧に思い出すことは、もしかしたら不可能なのかもしれない。エミルの記憶は彼女が作り出した偽りのものなのかもしれない。しかしそれでも、エミルは原初の記憶を忘れたことはなかった。象に使う鞭で背中を思い切り叩かれた。何度も、何度も、何度もだ。いくつのことだかあいまいだが、三、四歳のころのできごとだと思う。あまりの痛いみに口の中に苦味が広がり、唾液があふれた。噛み締めた歯が口内の肉に食い込んで血が出た。血とよだれが混ざり合って床に垂れる、あのときみた自分の体液の醜さは今でも夢に出てくることがある。
 エミルが育ったのはとあるサーカスの一座だった。しかし、表立って幕をあげるサーカス団ではなかった。いってしまえば、見世物小屋、フリークショーに近い。この王国のヒエラルキーの頂点に立つ、王侯貴族を標的に絞った、悪趣味な狂乱一座だった。
 エミルは珍しい七呪いの一族の末裔だ。珍しい猫の耳と尻尾を持つだけではなく、身体能力も常人よりは優れている。自分の背丈くらいの高さならばぴょんと飛び跳ねることができるし、逆立ちしながら綱渡りをすることを苦に思ったことはない。貴族たちは大喜びでエミルの登場を拍手で迎えたが、それをうれしいと感じたこともなかった。
「おまえにゃ、愛想も色気も足りねえ!」
 座長はそういって、エミルをよく鞭打った。退屈すぎて頭のおかしくなった貴族たちは、雌の猫人間が発情してしなをつくる仕草をご所望らしい。三、四歳のころは芸がうまくいかなくて鞭打たれていた。七、八歳のころは生意気な目つきが気に入らないと鞭打たれた。十をこえると媚態をつけといわれ、それを舞台で披露しなかったから鞭打たれた。ほかには、生活に必要な命令を厳守できていなかったとき――たとえば座長が入る風呂の湯を、皿洗いに追われて定刻通り用意できなかったときなどにも鞭打たれた。一座には象もいたので、象用の鞭には事欠かなかった。
 その象たちは、普通のサーカスのように玉乗りをするわけではない。筋力増強剤と興奮剤を投与され、二頭の雄を殺し合わせるのだ。観客たちはそのどちらかが勝つかに賭けている。どのみちどちらが勝とうと、どうせ強すぎる薬を打たれた象は次の日の朝には冷たくなっているのだけれど。
 サーカスのたびに象を購入していては出費がひどかろう、という認識は、エミルにはなかった。座長は象の入手にそれほど手を焼いていた様子ではなかったので、資金面は潤沢だったのだろう。貴族たちからさぞ大金をせしめていたに違いない。それほどまでに仮面の一座は常に暇を持て余している貴族たちの心を躍らせ、刺激した。
 一座にはエミルのほかにも容姿に特徴のある面々が取り揃えられていた。双頭の道化、足が三本ある美女、うろこのような肌を持った魚男。それ以外の健常者たちは、蛇をばりばり食べてみせたり、生きたままの兎をあざやかに解体したり、無理やり手首にこうもりの羽を縫いつけ、それをぱたぱたと動かしてみせたりと、一座で生き残るためにいろいろなことをやっていた。猫の耳と尻尾というわかりやすい商売道具があるだけ、エミルはましなほうだったのかもしれない。
 身体的に特長のない面々が、どうしてそこまで一座にしがみついていたのか、理由はさまざまだった。だが一番多いのはこれだ。借金を負い、返済のために金を稼ぐ――のではなく、借金取りから逃げるために一座に入れてかくまってもらうという目的のためだ。座長は裏世界の住人なので、座長の傘下にいて使い道があると判断される限りは、借金取りに命までとられることはないのだ。
「今日は赤目の兎を解体するのよ、子猫ちゃん」
 生きたまま兎を開き、丁寧に贓物をテーブルの上に並べてみせ、どくん、どくんと鼓動を刻む心臓を、観客たちの注目をあつめたところで握りつぶす、という不愉快きわまりない芸を売りにしている女に声をかけられたのは、十三になろうとしていた頃だった。
「白い毛並みに、真っ赤な瞳。まるであなたみたいね、子猫ちゃん」
 その夜、エミルはこっそりと翌日のショーで解体されるはずだった白い兎を夜の闇の中へと逃がした。ショーの時期は貴族たちが一同に集まる社交期と決まっており、その間の寝泊りは座長が所有する王都の小さな屋敷で鼻を突き合わせるように過ごしていた。
 どこで入手されたかは知らないが、いきなりそんな場所にはなされて、兎は戸惑ったかもしれない。その後、無事に暮らしていくことができなかったかもしれない。それでも、あんなクソみたいな芸に命を使われるよりは、ここから出ていったほうがいいに決まっている。
 エミルはそこではたと気付いた。
 ――ここから出ていく?
 これが、このときはじめてエミルがサーカスから脱出するということを意識した瞬間だった。
 兎の件はすぐに座長に知られ、もちろん鞭で打たれたが、観客たちはどうせ解体される兎が何色だろうと気にしないのだろう、このときの鞭の痛みは、もうあまりおぼえていない。
 ――なぜ自分は当たり前のようにここでサーカス芸を披露しているのだろう。
 ――なぜ自分は座長のいいなりになって、気に食わないことがあると鞭で打たれなくてはならないのだろう。
 ――この生活はいつまで続くのだろう。
 ――こんなところにいたくはない。
 ――ここから出ていきたい!
 だが、サーカスに居たころのほうが、エミルの人生にはまだましなころだった。

 公演は年に四回だけ。年に二回の社交期に、それぞれ二回ずつ開かれる。時たまお得意様の命令とあれば、莫大な金と引き換えに特別に個人のためのショーを開く晩もあったが、いずれも秘密裏に行われることと、常連客がほとんどであるため、コツをつかめばやりにくいということはなかった。また、衣食住も保障されていた。座長は自分の興味のあること以外には吝嗇で、食事といえばしけっているかカビたパン、ほとんど具がなく味のしないスープ、寝室は物置の中に十人前後が詰め込まれ、貧困層の生活そのものだったが、それでも野たれ死ぬよりはましだ。日々の練習も、運動神経に恵まれていたエミルにはたいしたものではなかった。
(でもだからって、いつまでもここで働かされるなんていやだ)
 外の世界はどうなっているのだろう? エミルの頭の中に、天気の良い日に洗濯物を干した際、はためく黄ばんだシーツの隙間から覗けた街の様子が思い浮かんだ。
 エミルは外出を許可されていなかった。許可しない、といわれただけで素直に従う性格ではなかったので、こっそり抜け出そうとしたこともあった。案の定つかまって、鞭で打たれたことはいうまでもない。以来、エミルは鈴のついた首輪をつけて過ごすことを強いられていた。猫の耳に、猫の尻尾、鈴の鳴る首輪。まるで本物の飼い猫だ。否、どこかの家庭の飼い猫のほうが、愛されかわいがられているぶんだけ、エミルより何倍もましだろう。
(出て行きたい)
 ここから――出ていきたい。なんとしても。
 十三歳のエミルはそう決意した。しかしその決断が、あまりにも遅すぎたと知るのに、それほど時間はかからなかった。

「お前をごらんになりたいという旦那様がいるんだ」
 ここから出て行くにはどうしたらいいだろう? そんな夢想を抱いていたある日、座長がやけに機嫌よく、エミルを呼び出した。ちょうど社交期四回の公演を終え、王都から出ていこうと荷造りをしている時期だった。
「今日の晩、この服を着て待っていなさい。旦那様のもとへ連れて行く」
 渡されたのは、コットン素材の薄くて白いワンピースだった。エミルのためにしつらえたのか、尻尾の出るべき箇所にはそのための切れ込みがある。
「いや、おまえはツイてるぞ。本当に運のいいやつだ」
 座長の言葉はよく理解できなかったが、とりあえずいわれた通り服に袖を通し、夜を待った。
 やがて夜が更けたころ、普段なら酒に酔っているはずの時間帯に、珍しく素面の座長がやけにめかしこんだ格好でエミルを呼び出し、馬車に押し込んだ。
「どこへ行くんだ」
 警戒したエミルが問うと、座長はにんまりと笑ってみせた。
「さるお大臣のお屋敷さ。あー、まったく。おまえは最後まで敬語も使えないクソ猫だったな」
(『最後まで?』)
 それはどういう意味だろう。座長と会うのはこれが最後ということなのか。けれど、いったいなぜ? 自分は、あのサーカスを出ることができるのだろうか?
「とりあえず、慣例どおり目隠しさせてもらうからな。それから、手も縛る。いいな」
「かんれいってなんだ。あたしをどこに連れていくんだ」
「慣例は慣例だ。どこへ行くのかは、ついてからのお楽しみってやつだな」
「縛られるなんていやだ。やめろ、はなせ!」
 押し問答があったが、エミルは身軽なだけで力が強いわけではない。でっぷりと肥えた座長に押さえつけられるように目隠しをされ、手首を胸の前で縛られて、なぜか急にこわくなって指先がふるえた。
 やがて馬車が止まり、エミルは座長によって乱暴に引っ張られながら馬車を下り、しばらく歩かされた。歩いている感覚で足の裏から、途中、外から室内に入ったのだと知る。
「おお……これはこれは」
 がらがらに枯れた男の声がした。声の反響具合からいって、ずいぶん広い屋敷の中なのだろうと察する。
「本当に連れて来てくれたんだね。いや、まったくもってすばらしい。感謝するよ」
「とんでもございません! このような良縁、この娘にとっても喜ばしいことでございますゆえ」
 座長の猫なで声がした。
「きみには感謝しかないね。日々の饗宴もすばらしい演目ばかりだし、この娘は歪でありながらうつくしい。わたしは実に幸運な男だ」
「それもすべて旦那様のご人徳でございます。して、お代のほうは……」
「そうだったね。――おい、おまえ。この娘を部屋に案内しなさい」
 はい、と小さな男の声がして、エミルは結ばれた手を引かれて――恐らく広い屋敷の中をしばらく歩き、キイ……と扉が開かれた先に通された。
 エミルを連れて部屋までやってきた男は、彼女が数歩室内に足を踏み入れた瞬間、なにもいわずに部屋の扉を閉めた。
(誰もいないのか?)
 エミルはしばらくの間、自分の呼吸音だけが響く室内に耳を澄ませた。変化がなさそうだったので、しばられた両手を使って目隠しを外す。
「……なんだこれ」
 蝋燭の灯りのみで照らし出された薄暗い室内には、ショーでもよく使われる玩具が並べられていた。何のとりえもない女がサーカスに入ってきた場合、性を売り物にされることがある。その際に使われる、三角木馬や女の両手両足を拘束して縛る器具や、銀色のクスコ、試験管、ビーカー、男根を模した張型などが、テーブルの上にところせましと並んでいる。
 そして部屋の中心には、大きな寝台がどんと鎮座している。
(ちょっと待て――ちょっと待て)
 あたしがここに連れてこられたってことは、それは、それは……。
 いやな予感に全身が支配された刹那、ノックもなく扉が開かれた。驚いたエミルはぴょんと高く飛び跳ねて、そのままくるりと部屋に入ってきた人物と対峙する。
 座長とは正反対の痩せた中年男だった。清潔そうな白いガウンを羽織っており、禿頭が暗い部屋の中でも光を反射させている。
「わたしのかわいい子猫ちゃん」
 男は鼻息荒く、エミルに近付いてきた。
「ひとめ見たときから心を奪われたよ。なんて不完全で、愛おしい存在なのだろう、と。今宵はわたしだけのためだけに鳴いておくれ。――さあ」
「い、いやだ」
 一歩、また一歩と近付いてくる男から距離をとるべく、エミルは徐々に後退していった。しかしそれを繰り返すうちに背中が壁にぶつかり、逃げ道を失う。
「大丈夫。今宵ははじめてだから特殊なことはしない。普通に愛してあげるから、ふ、ふふふ、安心しなさい」
「やめろ……やめろ!」
 伸ばされた手を拘束されたままの両手を使って振り払う。
「あんたなんか知らない! あんたなんか嫌いだ! 気持ち悪い、あっち行け!」
「そうか、きみはそんな口ぶりで話すんだね」
 男の吐息が荒くなる。エミルを壁際まで追い込んだ男は、ガウンを脱ぎ捨て裸になった。その足の間には、グロテスクなものがそそり立っていた。
「そんな粗野ささえわたしには愛おしい。さあ、子猫ちゃん」
「やめろやめろ、やめろ、やめ――」
 あとは悲鳴にならなかった。普通に愛してあげるから、といったくせに、男はエミルの首を絞めた。そのままベッドへと引きずっていき、彼女の体を乱暴にそこへと投げ出す。
(クソッ……!)
 尻尾をつかまれ、スカートをまくられながら、エミルは自分の瞳に涙が盛り上がるのを感じた。悔しくてたまらなかった。
(こんな世界、クソばかりだ。死んじまえ、死んじまえ、――みんな死んじまえ!)

 生活は、サーカス団にいたときよりは改善されたのかもしれない。栄養のバランスを考えられた完璧な食事が三食用意され、きつい肉体労働はせずにすみ、男のおとないがない晩はやわらかなベッドでゆっくり眠れた。けれど心は一座にいたときよりも磨耗していった。
 男の愛し方は異常だった。口に出すことすらおぞましい行為を、エミルはひとしきり体験させられた。それはサーカスで性を見世物にしていた女たちとあまり変わらない行為だった。が、まだ十三でしかないエミルにとっては、過酷な行為ばかりだ。何度も、何度も、
「死んじゃうから、やめて!」
 と懇願したが、男は笑うだけで決してエミルのいうことを聞いてはくれなかった。また、逃亡をおそれてのことだったのか、エミルには銀の足かせがほどこされており、部屋より外に出ることはできなかった。風呂もトイレも部屋に備え付けられていたので、問題はないといえばないのだけれど。
(このままじゃ、殺される)
 エミルは朦朧とする意識の中、思った。
(ここから、逃げ、なきゃ……)

 男の屋敷から逃げ出すことはとても大変だった。それでもエミルは逃げおおせた。
 貴族様というのは社交期を王都で、それ以外は自身の領地である田舎屋敷で過ごすため、その引越しの準備の際に、どさくさにまぎれて逃げ出したのだ。
 エミルが逃げ込んだのは王都だった。猫耳と尻尾を見られたらたちどころにまたあの男が追いかけてくる。そう思って道行く老婆から外套をひったくった。頭からすっぽりと外套をかぶり、とにかく人のいなさそうな下水路をいった。帰路のことはいっさい考えていなかった。ただひたすらにひとけのないほうへ、ほうへと歩いていくと――暗い地下水路の奥から笑い声が聞こえてきた。
 おそるおそる、顔を出す。自分とそう年齢のかわらない子どもたちが、輪になってランタンを囲み座って、笑いあっていた。
「――お、新入りか」
 その中でも一番年長に見える――十七、八ほどだろうか、がたいの良い少年がエミルを見つけて立ち上がり、彼女の目の前に立つ。
「お前、どうした。親に捨てられたのか」
「に」
 エミルは逡巡した。本当のことを話していいのか悩んだ。しかしとっさのいいわけが思い浮かばず、本当のことを口にした。
「逃げてる。どこかに隠れるのにいい場所があったら、教えろ」
「へえ、こいつ、追われてるんだってよ!」
 少年が背後の少年少女たちに向かって大声でいった。なぜかくすくすと笑い声があがる。
「安全な場所なんてねえよ。お前、税金、払ってねえだろ」
「ゼイキン?」
「俺たちはただ存在するだけで、お上に金を納めなくちゃならねえんだ。それができないから俺たちはここにいる。まあ、上の路上よりは安全かもな。ここなら人攫いもこねえ」
 少年はやぶからぼうに、ぐいっとエミルが頭からかぶっていた外套を剥いだ。はじめはその外套の質を確かめるように手元に視線をやっていた彼は、すぐにエミルを見て驚愕に瞳を丸くする。
「みろよ、こいつ! 猫みたいな耳が生えてる!」
 ざわめきがもちあがる。驚きのまなざし、奇異のまなざし、好奇心のまなざし。さまざまな視線がエミルを貫く。
「なるほどな。そんなんじゃ外套がなきゃ表を歩けないはずだ」
 少年はエミルに向かって、奪った外套を投げてよこした。
「俺たちの仲間になりたきゃ、誠意としてパンをくすねてこい。ここにいる人数分だから、九個だな。どうだ、できるか?」
「……あんたの仲間になれば、ゼイキンを払わなくてもいいのか。変なことされないのか」
「さあ。誰にどんな変なことされるかどうかは俺には保障できねえけど。とりあえずここで寝起きする仲間に入れてやってもいいぜ」
 すこし迷ったが、エミルはうなずいた。
「……持ってくる。パン、九個」
 少年から返された外套をかぶりなおし、来た道を引き返す。地下の暗さになじんでいたエミルの赤い瞳は、日の光にさらされてしぱしぱと瞬いた。
 土地勘がないのでパン屋を探すことに苦労した。やっと見つけたパン屋は露店だった。これなら盗めそうだ、とパンが並ぶほうへと近付いていき、おそるおそる手を伸ばす。一個、二個、三個……と両手にパンを抱えたところで、店主の女から怪訝なまなざしをむけられた。
「あんた、金、持ってるんだろうね」
 ぎくりとして動きが止まってしまった。それを目ざとく見抜いた女店主は、エミルが伸ばしかけていた手首をつかんだ。
「どういうつもりだい。手に持ってるパン、全部置いていきな」
「い――いやだ」
 エミル自身も空腹だった。三度三度の食事に慣れてしまっていたこともあるし、なにより彼女は成長期だ。どんなボソボソのパンでもいいから、腹を満たしたかった。
「いやだ、じゃないよ! 自警団を呼ぶよ!」
「やめ――やめろっ!」
 エミルはパンを抱えたまま、自身の手首をつかんだ女の腕にがぶりと噛み付いた。人より長い牙が女の腕に食い込む。
「あいたっ!」
 女の力が緩んだ一瞬の隙に、エミルは駆け出す。踏みしめた大地がなぜかやわらかく感じられて、走るのに苦労した。
「つかまえとくれ! 泥棒だよ!」
 女の叫び声を聞きながら、心臓がどきどきと鳴りすぎて耳鳴りがした。
 それからパンを九個集めるには苦労した。どこの店でも三、四個しか盗めず、三軒めぐってようやく九個のパンを揃えることができた。
 すっかり疲れきって下水路へと戻ると、そこで待っていた子どもたちはみなパンにむしゃぶりついた。
 改めてみるとこの集団には、五、六歳前後の小さい子が最年少で、あのがたいの大きい少年が最年長のようだ。男女比は半々くらいだった。
 皆がパンを頬張るのを見て、エミルはきょろきょろと左右を見渡す。
「あたしのぶんは?」
「お前、馬鹿だなあ」
 リーダー格の少年が、エミルがくすねてきたパンをかじりながら笑った。口の中の租借物がまるみえなところが、座長を彷彿とさせて不快になった。
「ここにいるのが九人なんだから、自分を入れたら十人だろ。だったらパンを十個盗んでこなくちゃ、自分の分がねえことくらいわかんねえのかよ」
「そんな――あたしが持ってきたパンだぞ!」
「馬鹿なのが悪い、馬鹿な猫」
 エミルの視界が怒りで赤く染まった。しかしなにもすることができなかった。そうか、馬鹿なのが悪いのか。馬鹿だからあたしはサーカスで芸をやらされたり、あんな親父に体を好き勝手されたりしてしまったのか。賢くなるには――生きていくにはどうしたらいい? そのためにはまず、この少年たちと徒党を組む以外に、このときは方法がなかった。

 初日こそ食いっぱぐれてうらみこそ募ったが、やがて徐々になじんでいき、エミルは立派な浮浪児となった。少年少女たちは互いの過去を詮索しなかった。皆、きかれたくないことはきかないのだろう。
「あたし、馬鹿なままいたくない」
 そう相談を持ちかけたのは、ミミと呼ばれるめがねをかけた少女で、年齢はエミルよりひとつ下だった。ミミのめがねは片方のレンズにひびが入っており、指紋でべたべたに脂ぎっていたが、それでもないとなにもみえなくなってしまうのだとか。
「めがねがないとなにもみえないって、どういうことなんだ? 真っ暗になっちゃうのか?」
「違うよお、エミルちゃん」
 ミミは聡い娘だった。エミルが七呪いの一族の末裔だということを知識として理解していて、エミルだけにこっそり自分の過去を教えてくれたことがある。
 なんでもミミの家庭は中流階級だったが、父親の死をきっかけに生活が激変して、母は娼婦となり、自分も売られそうになったのだとか。それがいやで家を飛び出し、たどりついたのがこの下水路だったのだそうだ。
「めがねがないとね、視界がぼんやりとしてしまうの。エミルちゃんは泣いたことがある? めがねがないとわたしは、涙でにじんだ世界しかみえなくなってしまうんだよ」
「そうなのか。ミミは話が上手だな」
「えへへ」
「なあ、ミミがいたちゅうりゅうかいきゅうっていうのは、いったいどういう生活をしていたんだ?」
 エミルのどんな質問にも、ミミはいやな顔をせずに答えてくれる。
「えっとねえ。おうちがあって、パパとママがいて、ごはんがあって、わたしだけのベッドがあって、ときどきお外でごはんを食べる贅沢をさせてくれて……。ここよりずっと明るくてあったかかったかな」
「ちゅうりゅうかいきゅうってなんなんだ? この国で何番目にえらいんだ?」
「えーっとお……」
 ミミは指を折って数え始めた。
「一番上は、王様。二番目が貴族様。三番目は僧侶様。四番目が上流階級の平民で、次が中流階級。その下に労働者階級があって、最後は隷属民」
「あたしはそのどれになるんだ?」
「やだなあ、エミルちゃん」
 ミミは困ったように笑った。
「わたしたちは一番下。いずれ隷属民になるしかない、最下層だよ」
「なんでだ?」
 最下層といわれてエミルは驚いていた。だって彼女が相手にしてきた貴族たちは、手を伸ばせば触れる距離にいて、エミルの耳をいじくりまわしたり、尻尾を引っ張ったりしてきた。物理的に距離の近かったあんなやつらが二番目にえらい貴族だというのに――なぜ自分は最下層なのか。あいつらよりきっとずっと、体を張って暮らしてきたはずなのに。
「ゼイキンを払ってないからなのか? ゼイキンを払えば普通の暮らしができるのか?」
「うーんとね。まず、普通の暮らしをするっていうのを、あたしの元いた生活に当てはめるとしたら、普通の生活をするにはね、とてもとてもお金がかかるの。特に女の人はひとりでは稼げないから、自分のお父さんか旦那さんの仕事を手伝うくらいしか、勤め先がないの。だからね、男の人が一生懸命働いてくれて、なんとかしてお金を稼いで、そこからさらに税金を支払って、残ったお金をやりくりして、そうしてはじめて、普通の暮らしが成立する感じ」
「ゼイキンはなんのために払うんだ? 誰が持っていくんだ?」
「それは王様だよお」
 ミミはやっぱり困ったように笑いながら話す。
「なんでだ? なんで王様なんかに金を払わなくちゃならないんだ?」
「わかんないけどぉ……。王様は議員? 議会? とかで国の方針を決めててえ、キーツクライドが他の国に侵略されないように軍隊とかも管理しててえ、とにかくとてもえらいことを決めている人なんだって。だからわたしたちがこの国で守られているのは王様のおかげでえ、そのために税金を納めて感謝しなくちゃだめなんだって」
「――あたしたちは守られてなんかないじゃないか!」
 エミルは叫んでいた。彼女のかんしゃくはいつものことなので、周りの子どもたちは特に反応を見せない。
「いつ、誰があたしたちを守ってくれたんだ? それなのに金が払えなければ一番下なんて……、あたしたちと王様の、いったいどこに違いがあるっていうんだよ!」
「生まれだよ」
 ミミはやっぱり苦笑したままだ。
「生まれが違うだけで、人生決まっちゃうんだよ。エミルちゃん」
(そんなの、そんなの……)
 エミルの全身の毛が逆立った。
(ふざけるな!)
「なあ、ミミ」
 エミルは怒りをおさえながら、声を低くしてミミにたずねた。
「王様を殺すにはどうしたらいいんだ?」
「え?」
「王様がいなくなれば、この国はきっとめちゃくちゃになるだろう?」
「そうだねえ、王様がいないと大変かもねえ」
「どうやったら王様に会える?」
「宮廷に行けばいいんじゃないかな。――あ、そういえば」
 ミミはなにかを思い出したように手を打ち鳴らした。
「今の王様には息子がひとりしかいないって聞いたことがある。だから、その息子が死んじゃえば、跡継ぎがいなくなるかもね」
「跡継ぎがいなくなるとどうなるんだ?」
「次の王様がいなくなるってことだよお」
 なるほど、と合点がいった。王様か、その跡継ぎか。どちらかを殺せば、この国はほころびる。
「あたしばっかり、理不尽な目にあうのはうんざりだ」
 エミルはつぶやいた。
「なあ、ミミ。教えてくれ。王様の息子はどこにいるんだ。なんて名前なんだ」
「えーっとお……」
 ミミは小首をかしげて考える。
「王様の息子は、たしか正式なお妃様との子どもじゃないから、社交期には宮廷に戻るけど、普段は北のほうの田舎屋敷で過ごしてるんだって聞いたことがあるなあ。名前は、なんだったっけ……。えーっと」

 ――レナルド・シャノン。

(殺してやる)
 レナルド・シャノン。個人的には恨みはないが、総体的に見れば恨みはあった。彼はひとびとの税金で暮らしている。安穏と、エミルの苦しみなど知らずにやわらかな寝台で眠っている。
(絶対に、絶対に殺してやる。それでこの国を――めちゃくちゃにしてやるんだ)
 このとき、エミルははじめて明確な殺意の存在を知った。

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序章

第二話

第三話

第四話

第五話

第六話

第七話

第八話

第九話

終章


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