「代読屋ははざまを繙く」第一話
《あらすじ》
大正十一年の東京府。上野にある古書店・春夏冬堂の店先には「代読承リマス、但シ日本語ニ限ル」と書かれた貼り紙が掲示されていた。店主の孫娘で女学生の安芸董子が書いたものだが、代読を請け負うのは春夏冬堂に下宿している帝大生の迫間典也だ。典也は、手書きの文字から書き手の声を聞くという異能を持っていた。苦学生である典也の小遣い稼ぎとして代読屋を始めることを提案した董子は、懸想文、三行半など様々な手書きの物を持ち込んでは典也を悩ませることになる――。
様々な文書の行間、字間から書き手の文字にできなかった声を繙く代読屋の物語。
懸想文(一)
料理屋や食料品店が立ち並ぶ上野広小路の一角に古書店・春夏冬堂はある。
初老の店主がひとりで切り盛りしており、店内には多種多様な本で溢れている。棚に収まらずに山積みになった本は、軽く指先で突くだけで崩れそうだ。
この店の入り口に、あるときから一枚の貼り紙が掲示されるようになった。
『代読承リマス
但シ日本語ニ限ル
御代ハ要相談』
達筆な字で書かれたその貼り紙について客から尋ねられると、店主は仕入れた本の仕分け作業の手を止めて面倒臭そうに答える。
「代読屋をしているのは、うちの下宿人だよ」
そして、店主はさらに付け加えるのだ。
「文字が読めない人のために読み聞かせるだけなら儂でもできるが、この代読屋っていうのは書いてあることをただ読み上げるだけじゃない。うちの孫娘曰く、書いてある文字は読めるが書いてあることの意図が読めない人の代わりに読み解くのが、代読屋だそうだ」
客がわかったようなわからないような曖昧な表情を浮かべると、店主は口を閉じてまた作業に戻る。
市電が溢れんばかりの人を乗せて騒々しく店の前を通り過ぎていった途端、客は店内の柱時計に目を遣ると用事を思い出したのか慌てた様子で店を出て上野停車場の方角へと足早に向かった。
六月の曇天が広がる水曜日の夕方。
安芸董子はお茶の水にある高等女学校の帰り道に、上野広小路にある春夏冬堂に立ち寄った。
外は湿気を多く含んだ風が吹いているが、店内の空気は心地よい。印刷された本独特の匂いが漂っている。
「お祖父さん、ただいま」
店の開け放たれた出入り口から入ると、本棚に隠れて姿が見えない祖父に向かって挨拶をする。
董子は麹町で両親ときょうだいと一緒に暮らしているが、学校がある日はほぼ毎日のように祖父の店に顔を出している。一応、学校帰りに高齢で独り身の祖父を気遣って様子を見に行っているというのが彼女の言い分だ。決して学校が禁じている道草を食っているわけではない。
近くには帝国大学、美術学校、音楽学校などもあるため学生は多いが、董子はどこからどう見ても女学生とわかる着物に袴姿で髪はひとつの三つ編みにしているため、人目を引く。
「おかえり」
帳場に積んだ本の整理をしていた店主・安芸鴈治郎は無愛想に返事をする。
父方の祖父の態度には慣れている董子は、きょろきょろと店内を見回してから明るい口調で尋ねる。
「迫間さんは二階?」
「いや、まだ帰ってない」
董子の背後に立つ学生服姿の少年をじろりと睨みながら鴈治郎は答えた。
「そうなのね。遅くなるのかしら」
「どうだろうな。儂は特になにも聞いていないが、約束をしていたのか?」
「していないわ。いつもこの時間なら迫間さんは帰ってることが多いから、と思って来たんだけど。あ、彼は一高の飯尾さん」
祖父の視線が自分を通り越していることに気づいた董子は、一緒に店にやってきた学生を紹介する。
「桂太郎さんの同級生なの」
「はじめまして。飯尾大志と申します」
緊張した面持ちで学生は名乗りながら軽く頭を下げる。
桂太郎は董子と年子の兄で、現在本郷にある第一高等学校に通っている。一高は全寮制のため、桂太郎は休日にならなければ麹町の自宅に帰ってこない。
董子が通う東京女子高等師範学校附属高等女学校は通学制だが、東京女子高等師範学校に進学すると全寮制となる。将来は高等師範学校に進学することを決めている董子が学校帰りにこうやって気ままに祖父の店に通えるのは、いまだけだ。
「桂太郎はどうした」
「風邪を引いて寮で寝込んでいるんですって。ただの夏風邪らしいんだけど」
いまにも雨が降り出しそうな空模様を気にしつつ、董子は答える。
「典也君に勉強を教えて貰いたいのか?」
春夏冬堂の二階に下宿している迫間典也は東京帝国大学文学部の学生だ。
一高の学生の多くが帝大を進学先として選ぶため、帝大生は一高生の親から家庭教師を頼まれることがよくある。
典也は、学業の合間に家庭教師や春夏冬堂の店番などの賃仕事をいくつかこなしながら生活している。
「いいえ。代読をお願いしようと思ったの。でも、いつ帰ってくるかわからないなら、また明日来ることにするわ。お祖父さん、伝言をお願い――」
董子は自分の鞄から一筆箋と万年筆を取り出しかけたが、「董子さん?」と背後から呼ばれたので手を止めた。
「迫間さん、ごきげんよう」
振り返った董子は、声を弾ませ典也に挨拶をする。
くたびれたシャツの袖を捲り上げ、首には手拭いを巻いている。どこかで畑仕事をしてきたのか、頬にわずかながら土が付いていた。
「やぁ、こんにちは。もしかして僕に用事かな」
手に提げた風呂敷包みからはなにかの木の枝と葉がはみ出ている。
「はい。迫間さんのお時間がありましたら、代読をお願いしたいと思いまして」
「僕は大丈夫だよ。鴈治郎さん、これは頂き物ですが採れたての枇杷です」
典也は風呂敷包みを鴈治郎に差し出す。
それを受け取った鴈治郎は「こりゃあ、立派な枇杷がたくさんだな。董子、好物だろう。半分持って帰りなさい」とそのまま董子に渡した。
ずっしりと重い風呂敷包みを受け取る羽目になった董子は、これを抱えて麹町の家まで帰ることを思い、わずかに顔を引き攣らせる。
典也が「二階にどうぞ」と言ったため、董子は枇杷を風呂敷包みごと持ったまま飯尾大志と一緒に帳場台の奥にある土間で靴を脱いで、狭く急な階段を上がった。
店の二階は六畳と四畳半の部屋がある。炊事場と便所は一階にあり、風呂は付いていないため近くの銭湯を鴈治郎たちは利用している。
この四畳半の部屋に典也は下宿しているのだ。
文机の上には筆記用具の他にたくさんの本が積んである。床にも本は積んであるが、これでもましになった方だ。以前は、どこに布団を敷いているのだろうかというくらい本が部屋を占拠していた。
董子が頻繁に顔を出すようになったため、多少は気を遣って片付けたようだ。
「適当に座ってくれて構わないよ。で、代読して欲しいというのはなにかな」
典也は董子の後を黙って付いてきた飯尾大志に座布団を勧めながら尋ねた。
すでに董子は勝手に自分の定位置と決めた場所にぺたりと座っている。風呂敷包みを解くと、廊下に積んであった新聞紙を持ってきてその上に枝葉が付いたままの黄色い枇杷をごろごろと並べた。そしてそのまま、典也と飯尾の間に置く。
「飯尾さん。枇杷が苦手でなければ、どうぞ召し上がれ」
董子は枇杷を飯尾に勧めた。
「あ、お茶の方がいいかな」
客人に飲み物を出していないことに気づいた典也が腰を上げかけたが、それを飯尾が止めた。
「いえ! お構いなく! あ、あの……僕は、飯尾大志と言います。一高に通っています。安芸さんからあなたが代読屋というのをしているという話を聞きまして、こういうことを誰かに相談して良いものかどうかまだ決心が付きかねているところではあるのですが、友人に相談するよりは赤の他人に相談した方が客観的に状況を判断して貰えるのではないかと……その、藁にも縋る思いと言いますか、なにかひとつでも手がかりが得られればと思いまして……実は読んでいただきたいのは、この手紙なんです」
緊張した面持ちの飯尾は、深々と頭を下げながら早口で捲し立てるように自己紹介をすると、学生服の内ポケットからそっと大事そうに封筒を取り出して典也に差し出した。
「あなた宛ての手紙のようだけど、僕が読んで良いのかな」
念を押すように典也が確認する。
「はい。読んでいただいて大丈夫です」
一気に喋って息が切れたのか、飯尾は一回深呼吸をしてから頷いた。
「飯尾さんはわたしの兄の同級生なんです」
典也が受け取った封筒の中から便箋を取り出すのを見つめながら、董子が説明を始めた。
「その手紙はわたしの同級生の久我千代子さんが、飯尾さん宛てに書いた手紙です。飯尾さんと千代子さんは去年の秋頃から文通をしているんです」
「文通……?」
「去年の夏休みに、我が家に兄を訪ねて来ていた飯尾さんと、わたしを訪ねて来ていた千代子さんが出会いまして、いろいろとお話をしている間に意気投合されたということで、まずはお手紙で交際しましょうということになったのだそうです」
「なるほど」
「といっても、飯尾さんは寮生活で、千代子さんはお父様のお家にお住まいですから、手紙はわたしと兄が仲介していました」
「仲介、とはどのように?」
畳まれた便箋を広げることをためらうような仕草をしていた典也が、視線を董子に向ける。
「まず、千代子さんのご自宅に殿方から頻繁にお手紙が届くとご両親がいろいろと心配なさって差し障りがあるでしょうということで、飯尾さんからのお手紙は兄が寮で受け取り、兄は休日に家に帰った際にわたしに渡します。そしてわたしはその手紙を持って月曜日に学校へ行き、千代子さんに渡します。千代子さんは土曜日までに返事を書いて、わたしに預けます。それをわたしは土曜日の午後か日曜日に帰ってきた兄に預けて、兄は寮に戻るとその手紙を飯尾さんに渡します。そしてまた飯尾さんのお返事を兄が預かって、ということを半年以上続けていたんです」
「続けて、いた……ということは、その文通は終わったというように聞こえるけど」
典也が尋ねると、飯尾がぐっと息を飲む音が部屋に響いた。
「文通そのものが終わったかどうかはよくわかりません。ただ、千代子さんが五月の最後の土曜日にわたしに預けた手紙が、飯尾さん宛ての最後の手紙になりました。飯尾さんは今月最初の土曜日に千代子さん宛ての手紙を兄に渡して、その手紙はその日のうちにわたしが受け取りました。でも、月曜日に千代子さんは学校に来ず、火曜日も来ませんでした。その後ずっと、千代子さんは学校を休んでいるんです。担任の先生に聞いた話では病気療養のためしばらく入院することになったそうなのですが……」
黙り込んでいる飯尾に代わって説明を続けた董子だが、最後は言葉を濁した。
「同級生たちの間では、千代子さんのお父様が退学の手続きをするために学校に来ただの、千代子さんは入院しているのではなく亡くなったのだといった噂が飛び交っています。千代子さんと親しい同級生の何人かがお見舞いということでご自宅を訪ねたのですが、入院先は教えて貰えなかったそうです」
「千代子さんが入院しなければならないような病を患っているにしても、僕は彼女が無事であることを確認できればそれで良いんです」
それまで唇をきつく噛みしめていた飯尾が、典也を睨み付けるように顔を上げて告げた。
「千代子さんが僕との文通に飽きたとか、誰か好きな相手ができたとか、そういった理由でも一向に構いません。入院しているというなら、入院していることが確認できるだけで僕は満足します。入院先まで押しかけて、病気で弱っている彼女に負担をかけるような真似はしません。ただ……ただ僕は、なぜ千代子さんがこれまでとそう変わらない内容の手紙を僕に送っておきながら、ある日急に姿を消してしまったのかがわからないんです。もう手紙の遣り取りをしたくないというのならそう書いてくれれば良かったのに、とか、入院するなら入院すると一言で良いので安芸さんに伝えてくれれば良かったんじゃないか、とか……考えてしまって……なんで急にいなくなったんだろうってずっと考えてしまって」
最初は勢いよく捲し立てていた飯尾だが、最後は尻すぼみになって俯いた。
「それで、勉強に身が入らなくなってしまったんだそうです」
畳に額がつきそうなくらい項垂れた飯尾に目を遣りながら、董子が説明する。
「なるほど、青春だね」
「それは確か、小栗風葉ですね」
「ご名答。さすがは安芸教授のご令嬢」
董子の父は帝大文学部国文学科で教授を務めている。麹町の自宅の父の書斎には、春夏冬堂に負けず劣らずといった数の書籍があるのだ。それらはすべて、子供たちが自由に読んで良いことになっている。
「申し訳ありません。セイシュンとはなんのことですか」
頭を上げた飯尾が首を傾げる。
「君は小栗風葉を知らない? あと、夏目漱石の『三四郎』とか」
「文学は苦手でして、僕の得意科目は数学です」
「そうか……読んでないのか」
残念そうに典也が肩を落とす。
「色の『青』と季節の『春』の二文字で『青春』。春は中国の五行では方角は東、色は青、干支は寅卯――」
「迷信ですか」
突然、飯尾が冷ややかな声で典也の言葉を遮る。
「え? いや、五行は迷信ではないのだけど……あぁ、申し訳ない。君の文通相手の話に戻そう。その久我千代子嬢という娘さんが董子さんの同級生ということは、董子さんと同い年ということかな」
封筒の裏に書かれた『久我千代子』という名に視線を落としながら、典也は確認するように董子に尋ねる。
「えぇ。千代子さんはわたしと同じ明治三十九年生まれです」
笑顔を崩さずに董子は答える。
「なるほど。それで、飯尾君は久我千代子嬢との交際を親に隠しているわけだ」
「隠して……いる、のは、色恋に現を抜かしていないで学業に専念しろと言われるのがわかっているから、です」
ズボンの布地を両手で強く握りしめながら飯尾は言葉を絞り出す。
「久我千代子嬢が丙午の年に生まれたことは関係ない、と?」
「…………ないです」
しばらく言葉を探すように口を開け閉めした後、飯尾は自分に言い聞かせるように答えた。
「ふうん、そう」
畳んだ便箋と封筒の差出人の名前を交互に見ながら、典也は目を細めた。
「君が心配しているのは、久我千代子嬢が人生を悲観してどこかで絶え果てているかもしれない、ということかな」
「……はい……そう、です」
また俯いてしまった飯尾は、肩を震わせながら頷く。
明治三十九年生まれの者は今年で十六歳になる。
女子であればそろそろ結婚適齢期を迎えるわけだが、この明治三十九年の干支は丙午だ。
元号が大正になったいまでも丙午の女は夫を殺すという古い俗信の影響を受け、丙午の生まれであることを理由に縁遠くなっている娘は少なくないという。結婚が難しいなら無理に結婚せず職業婦人になると決めて自活の道を選ぶ者もいるが、一方で将来を悲観して自らの人生を終わらせようとする者がいる、と最近の新聞の記事にも書かれているほどだ。
「董子さんから見て、久我千代子嬢はなにかを憂えて――例えば、ここにいる飯尾君との交際を飯尾君の両親から反対されるだろうと嘆いて、どこかで身投げをしていそうな女性かな」
「わたしの印象では、千代子さんはどちらかと言えば楽天的な性格に見えていましたわ」
枇杷の皮をむきながら董子が答える。
「一緒に高師へ行きましょうねって約束をしていましたし、高女にはわたしや千代子さんと同じように将来は職業婦人になって自立すると決めている人がたくさんいますのよ」
暗い顔をしている飯尾とは対照的に、董子は笑顔で告げた。
明治三十九年生まれの董子は、幼い頃から将来は職業婦人として自活できるだけの勉強をしろ、と両親から事あるごとに言われて育った。十代になってもお茶やお花といった花嫁修業は一切勧められず、世間から男並みと言われても良いから勉強して高師まで進学し、ゆくゆくは教師を目指すようにと言われて勉強している。
董子の父は大学教授であることもあり、女子教育に熱心だ。
大正になっても女子は十代半ばで結婚適齢期と言われているが、結婚せずに女子高等師範学校へ進学する学生は、賢いけれど家が貧しく将来は働きに出なければならない者や、出自や容姿といった理由で結婚が難しく自活の道を選ばざるを得ない者が多いという。
職業婦人という言葉が新聞を賑わすようになりつつあるが、外で働く婦人たちはなんらかの事情で仕方なく働きに出なければならない訳ありなのだ、という偏見がまだまだ世間にはあった。明治以降、女はいずれ結婚して家庭に入って夫や子供、舅姑のために家政に励むべし、という封建的な風潮が強くなった。
尋常小学校を卒業した後、女学校に進学できる女子はほんの一握りだ。さらに高等師範学校まで進学するとなると、わずかとなる。
女子高等師範学校を卒業して教職に就けば、結婚をせずとも職業婦人として安定した給金を得て暮らしていける。
そうは言っても、結婚せずに外で働く女子に対する世間の風当たりは厳しい。
それでも、ゆくゆくは職業婦人として働くことを董子はすでに決めている。
「あなたは本当に、手紙などの手書きの文字から書き手の声を聞き取ることができるのですか?」
飯尾は膝の先にある枇杷を睨むように見つめながら、典也に尋ねた。
「手書きであればどんな物でも、というわけではないよ。大学の講義で教授が黒板に板書する文字からはなにも聞こえてこないし、この店の前に貼ってある代読屋の貼り紙からだって声は聞こえない」
典也は手元の封筒と便箋を見比べながら答えた。
「手紙や日記のような物は、書き手の気持ちというか念のようなものが文字に込められていることが多い。文字として書かれているわけではないけれど、文字の端々に込められたそれらの感情が声になって僕の耳に届くことがある。でも、すべての手紙から聞こえるわけじゃないし、文面の行間、字間からほんのかすかにしか聞こえないこともある。それに、僕に聞こえるのは書き手が文字を書いた瞬間の声だ。いまこの瞬間の声じゃない。だから、君の期待に応えられるとは約束できないことを最初に断っておく」
「はい」
「それでも、僕がこの手紙を読んで良いのかな。君は久我千代子嬢の行方を知りたいようだけれど、この手紙から聞こえた声で、彼女の現在の居場所を知る手がかりは得られない可能性が高いよ」
「――――――はい」
数秒ためらった後、飯尾は大きく頷いた。
「それでも、この手紙をあなたに読んでいただきたいのです。お願いします」
ゆっくりと頭を下げると、そのまま飯尾は畳に額をこすりつけた。
【次話に続く…】
