教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|本作の基盤となった文献について(上巻・イントロダクション)
⚠️これまで「次章を更新するまで最新分を無料で公開」という形でお届けしてきましたが、本ページ(本章)をもちまして完訳・完結です。
上巻の冒頭の「イントロダクション」は、その圧倒的なボリュームと難解さから、これまで公開を控えていました。
Introduction(前置き・概論)という位置づけでありながら、日本語訳でなんと5万5000文字を超えるという、どの本編チャプターよりも長い内容です。初読の方にはハードルが高すぎると判断し、離脱を防ぐために非公開としていました。ですが、本編をここまで読み進めてくださった「猛者」の皆様なら、きっと読み応えを感じていただけるはずです。
本書の基盤となる文献の紹介や考察が中心となっており、むしろ「あとがき」として読んだ方がしっくりくるかもしれません。満を持して公開します。
アナトール・フランス著「ジャンヌ・ダルクの生涯(Vie de Jeanne d'Arc)」完訳プロジェクト。原著は1908年発行。
▼総合目次・リンク集:なぜ、21世紀に『ジャンヌ伝』を完訳するのか
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- pixivFANBOX:原文付き対訳バージョン。支援者限定。
⚠️字数が多い(57,000字)ため、訳者の裁量で小見出しをつけています。
0.1 1431年の処刑裁判記録
筆者の最初の義務は、この歴史書の出典を明らかにすることだ。
ラヴェルディ、ブション、J・キシェラ、ヴァレ・ド・ヴィリヴィル、シメオン・リュス、ブーシェ・ド・モランドン、MM・ロビヤール・ド・ボールペール、ラヌリー・ダルク、アンリ・ジャダール、アレクサンドル・ソレル、ジェルマン・ルフェーヴル=ポンタリス、L・ジャリ、その他大勢の研究者たちが、ジャンヌ・ダルクの生涯について様々な文献を発表し、解説している。
読者には、それ自体が膨大な文献を構成している彼らの著作を参照されたい。[2]
私はこれらの文書について、改めて文献学的・文学的な分析を試みることはせず、ただ、私がそれらをいかに利用することにしたか、を簡潔かつ概括的に示すにとどめる。
それらは、第一にジャンヌを有罪に至らしめた裁判、第二に年代記、第三に彼女の復権裁判、第四に書簡、証書、その他の文書である。
*
まずはじめに、ジャンヌに有罪判決を下した裁判[3]において、歴史家は豊富な宝の山を手に入れた。
ジャンヌの尋問記録は、どれほど細かく研究してもしすぎることはない。
それは、ドンレミや彼女が通過したフランス各地から集められた、他には残されていない情報に基づいている。
1431年の裁判官たちがジャンヌの中に見いだそうとしたのは、偶像崇拝、異端、魔術、および教会に対するその他の罪であったことは、言うまでもない。
彼女の王(シャルル七世)を辱めるために、ジャンヌを破滅させようと目論み、その言動のひとつひとつに悪を見いだし、それゆえに、彼女の生涯に関する入手可能なあらゆる情報を調査した。
乙女(ラ・ピュセル)の答弁が極めて高い価値を持つことは、周知の事実である。それらは英雄的なまでに誠実で、その大部分はきわめて明晰である。
とはいえ、そのすべてを文字通りに解釈してはならない。
ジャンヌは、ボーヴェ司教もジャン・デスティヴェ検事も自分の裁判官として絶対に認めなかったため、彼らの前で真実のすべてを話すほど単純ではなかった。
彼らに「すべてを知ることはできないだろう」と警告した点は、彼女の非常に率直なところであった。[4]
ジャンヌの記憶が奇妙なほど不完全だったことも認めなければならない。
法廷書記官が、ジャンヌが2週間前の尋問で言った回答を正確に覚えていたことに驚いたことは筆者も承知している。[5]
そういうこともあり得るだろうが、ジャンヌがいつも必ず同じことを述べていたわけではない。一年の歳月が過ぎた後、ジャンヌは自分の生涯における重要な出来事のいくつかについて、おぼろげな記憶しか留めていなかったこともまた事実である。
結局のところ、絶え間ない幻覚のせいで、ジャンヌは真実と虚偽を区別することができなくなっていた。
*
裁判記録(公式記録・正本)に次いで、ジャンヌの処刑間際のいくつかの発言が『|尋問報告《アンフォルマシオン》(information)』として付記されている。[6]
この尋問記録には、法廷書記官たちの署名がない。
それゆえ、法的観点からすれば、この記録は形式を欠いている。しかし、歴史史料として見れば、その信憑性は疑いようがない。
私の考えでは、実際の出来事は、この非公式な報告書に書かれている内容と大きく異なるものではないだろう。
この文書には、ジャンヌの二度目の撤回(異端の再犯)について記されているが、この撤回についても疑いの余地がない。なぜなら、ジャンヌは死ぬ前に聖体拝領を受けているからだ。[7]
⚠️死ぬ前に聖体拝領を受けている:異端者として処刑される場合、聖体を受けることは許されないが、ジャンヌは教会の許しを得て聖体拝領を受けている。これは、彼女が一度「撤回した(自分が異端だと認めた)」という事実を証明する重要な証拠となる。
この文書(処刑間際の尋問報告)の信憑性は、復権裁判のときに異端審問の不備を指摘した人々でさえ決して否定していない。[8]
0.2 当時の年代記(1)アランソン公の年代記
第二に、当時の年代記作家たちは、フランス側もブルゴーニュ側も、いずれも雇われの身(報酬をもらって執筆するお抱え作家)であり、どの大貴族にも年代記作家がひとりは仕えていた。
トリンガン(Tringant)は、「私の主人は年代記に名前を載せるために金を使わなかった、だから主人の名は年代記から省いた」と述べている。[9]
ラ・ピュセルが登場する最も古い年代記は、アランソン家に仕え、ジャン公の家令だったペルスヴァル・ド・カニー(Perceval de Cagny)である。[10]
それは1436年、すなわちジャンヌの死からわずか6年後に作成された。
しかし、これは彼自身の手によって書かれたものではない。
カニー本人の告白によれば、彼は「これほどの事柄、あるいはその半分にも満たない重要な事柄を書き記すのに必要な、分別も記憶力も能力も、半分すら持ち合わせていなかった」からである。[11]
この年代記は、丹念な仕事をする書記官の手によって書かれた。
アランソン家に雇われているお抱え年代記作家が、主人(アランソン公)とラ・トレモイユ卿との間に生じたラ・ピュセルをめぐる不和について、国王に極めて不利なイメージで表現しているとしても驚きはない。
しかし、書記官はジャン公(アランソン公)の家臣の口述を元に執筆しているはずで、ラ・ピュセルが「美しい公爵」と呼んだ主人とともに成し遂げた武勲について、これほど不正確で曖昧な記述をするだろうか。
この年代記は、1431年の異端判決が覆されるとは誰も思っていなかった時期に書かれ、その中でラ・ピュセルは「超自然的な力を使った」と見なされている。ジャンヌの行いは聖人伝の手法で記録されているために、あらゆる真実味を失ってしまった。
さらに、ペルスヴァル・ド・カニーが著したとされる年代記の中でラ・ピュセルを扱っている部分は簡潔で、各章が数行程度から成る27章で構成されている。
キシェラは、これが現存するジャンヌ・ダルクの年代記の中で最良のものだと考えている[12]が、実際、他の年代記はこれ以上に無価値なのかもしれない。
*
ベリー地方の紋章官だったジル・ル・ブーヴィエ(Gilles le Bouvier)は、1429年当時は43歳で、ペルスヴァル・ド・カニーよりもいくぶん思慮深く、日付の混乱が多少あるものの、軍事行動についてより詳しく把握している。
しかし、彼の記述はあまりに要約されすぎて、多くを語ってはくれない。
0.3 当時の年代記(2)ジャン・シャルティエの年代記
サン=ドニの唱詠官だったジャン・シャルティエ(Jean Chartier)[14]は、1449年にフランスの年代記編纂の職に就いた。200年後の時代(17世紀)だったら宮廷歴史家と呼ばれていただろう。
⚠️唱詠官(precentor):聖堂に所属する音楽主任司祭。聖歌隊を先導する主唱者。
彼の職分は、ジャンヌの死に関する記述から察することができる。「ジャンヌはジャン・ド・リュクサンブールの命令で長い間幽閉されていた」と述べた後、彼はこう付け加えた。
「リュクサンブールは彼女をイングランド人に売り渡し、彼ら(イングランド人)は彼女をルーアンに連行して過酷に扱った。そして、長い年月の後、彼らは暴君の意志によって、裁判もなしに、彼女をルーアンの町で火刑に処した。彼女が送っていた生活と規律、すなわち、善良なカトリック教徒にふさわしく、毎週告解し、聖体拝領していたことを考えれば、それは残虐な仕打ちだった」[15]
ジャン・シャルティエは、「イングランド人は彼女を裁判なしで焼いた」と述べているが、これは明らかにルーアンの代官(Bailie)が裁きを下さなかったという意味だ。
⚠️代官(Bailie):中世フランスの地方行政・司法の責任者。
教会裁判のことや、一度目の背教(lapse)と二度目の背教(relapse)という二つの罪状について、ジャン・シャルティエは一言も述べていない。「善良なカトリック教徒を裁判なしに火刑に処した」と言ってイングランド人を告発しているのである。
この事例(年代記の記述)は、1431年の有罪判決がシャルル王の政府をいかに深刻に混乱させたかを証明している。
しかし、不都合だからといってジャンヌの裁判を隠蔽するような歴史家を評価すべきだろうか?
⚠️補足:ジャン・シャルティエが年代記編纂の職についたのは復権裁判より前のこと。ジャンヌの有罪判決はフランス史の汚点になり得たため、わざと書かなかった可能性がある。なお、詩人として名高いアラン・シャルティエの兄弟といわれる。
ジャン・シャルティエは極めて意志が弱く、軽薄だった。彼は聖カタリナの剣の魔力を信じ、ジャンヌがその剣を折ったときに力を失ったと信じていたようで[16]、きわめて子供じみた寓話を記録している。
それにもかかわらず、1450年頃に書かれたフランス王の公式年代記が、オルレアン解放、ロワール川流域の要塞討伐、そしてパテーの勝利においてラ・ピュセルが重要な役割を果たしたと帰していることは興味深い。国王が「この乙女(ラ・ピュセル)の助言により」[17]ジアンで軍隊を編成したいきさつを語り、ジャンヌが戴冠と聖別を成し遂げさせた[18]と明言しているのである。
これこそが、シャルル七世の宮廷で支配的だった見解に違いない。
私たちが突き止めなければならないのは、「その見解が誠実かつ妥当なものだったのか」、「フランス王は『ラ・ピュセルのおかげで王国を手に入れた』とすることで自分が有利にはなると考えたのか」ということだけである。
ジャンヌはカトリック教会の首脳たちから異端者と見なされたが、フランス陣営では尊ばれていた。もっとも、それは王族や軍の指導者たちよりも、むしろ下層階級の人々の間でのことだ。
1440年の反乱(プラグリーの乱)の後、国王は後者の指導者たちの功績を称えようとはしなかった。
このプラグリーの乱[19]の最中、ブルボン公、ヴァンドーム伯、ラ・ピュセルが「美しい公爵」と呼んだアランソン公、さらには慎重なデュノワ伯までもが、略奪者たちと手を組み、イングランドとの戦いでは見せたことのない熱意をもって、国王に戦いを挑む姿が目撃されていた。
0.4 当時の年代記(3)オルレアンの『籠城日記』
『オルレアン籠城日記(Le Journal du Siège)』[20]は1428年から1429年に記されたもので間違いない(後世の創作ではない)が、現在伝わっているのは1467年の版だ。[21]
ジャンヌがオルレアンに来る前の記述は、後から加筆された。この加筆者はあまりに稚拙で、ジャンヌがシノンに到着したのは3月6日だったにもかかわらず2月とし、ブロワ出発の日を4月末ではなく3月10日木曜日にしたりと、加筆者の不手際が見られる。
4月28日から5月7日までの日記は、年代記としての不正確さが少なく、日付の誤りは写本師のせいかもしれない。
しかし、日付に割り当てられた事実は、ときどき財務記録と矛盾し、しばしば奇跡的な要素を含み、ジャンヌの伝説がかなり誇張されたことを物語っている。
例えば、レ・トゥーレル砦の橋の崩落に関して、書記官が犯した誤記を、包囲戦の目撃者(籠城日記の作者)に起因させることは到底不可能である。[22]
P・シャルパンティエとC・キュイサールによる版の97ページに記されている、市民と軍人の関係についての記述は場違いな感(浮いている)がある。おそらくは、最後の週に生じた深刻な不和の記憶を消すために、そこに挿入されたのだろう。
5月8日以降、この日記はもはや日記であることをやめ、(前述した)シャルティエやベリーの著作、あるいは復権裁判の記録から借用した話の抜粋となる。
ジャルジョーの包囲でジャン・ド・モンテスクレール(Messire Jean de Montesclère:メートル・ジャンと呼ばれる火砲の名手)が討ち取った「太った大柄のイングランド人」のエピソードは、明らかに1446年のジャン・ドーロン(ジャンヌに仕えた従騎士)の証言から引用された話だが、この引用でさえも不正確だ。
なぜなら、ジャン・ドーロンは彼が討たれたのはオーギュスタン修道院の戦いであると明言しているからである。[23]
0.5 当時の年代記(4)『ラ・ピュセルの年代記』
あたかもヒロインの主要な年代記であるかのような『ラ・ピュセルの年代記(La Chronique de la Pucelle)』[24]というタイトルの年代記は、トロイアのプリアモス王までさかのぼる『フランス貴族の事績(Geste des nobles François)』という歴史書から借用した内容だ。[24]
しかも、その抜粋がなされたのは、原本に変更と加筆が加えられた後のことだ。それは、1467年以降におこなわれた。
⚠️補足:『フランス貴族の事績』は1467年に加筆変更された。『ラ・ピュセルの年代記』は加筆変更部分が反映されているため、1467年以降に著されたといえる。
たとえ『ラ・ピュセルの年代記』が、包囲戦の最中にオルレアンに閉じ込められたクジノの作品(一説によるとクジノ(Cousinot)単独ではなく叔父と甥、あるいは父と息子による共作)だと証明できたとしても、この年代記の内容が、ジャン・シャルティエの年代記とオルレアンの『籠城日記』、さらに復権裁判の記録から大部分を書き写しているという事実に変わりはない。
著者が誰であろうと、この『ラ・ピュセルの年代記』は作者に名声をもたらす代物ではない。
まったく気づいてないのか、同じ話を繰り返した上に、異なる矛盾した状況を付け加えるようなストーリーの捏造者を、高く評価することはできない。
しかも、『ラ・ピュセルの年代記』は、パリで敗北した後、王がベリーに帰還したところで唐突に終わってしまう。
0.6 当時の年代記(5)聖史劇『オルレアン包囲戦』
『包囲戦の聖史劇(Le Mystère du siège)』[25]は、年代記に分類するべきだ。
実際、この作品は対話形式による韻文の年代記だ。一部の人々が試みたように、1435年に書かれた作品だと断定できるならその古さだけでも非常に興味深いものだろう。
編纂者たち、および彼らに続く何人かの研究者たちは、この2万529行におよぶ詩を、オルレアン市解放の6周年に演じられた『ある聖史劇(mistaire)』[26]と同一視してきた。
彼らは、以下のような状況から結論を導き出している。
(1)壮大な茶番劇や聖史劇を企画することを好んでいたジル・ド・レ元帥は、1434年9月から1435年8月までシャルル公(オルレアン公)の都市に滞在し、そこで巨額の費用[27]を投じた。
(2)1439年に市は公費で「ジル・ド・レ卿の所有物だった標準旗(standard)と横断幕(banner)を購入したが、それらは彼がレ・トゥーレル砦の強襲とイングランド軍から奪還する様子を演出するために使用したもの」だった。[28]
こうした記述を根拠に、1435年あるいは1439年の5月8日に、オルレアンで「包囲戦」を主題とし、「ラ・ピュセル」をヒロインとする劇が上演されたことを証明・断定するのは不可能である。
しかし、もし「レ・トゥーレル砦を強襲する様子」という言葉を、野外劇や他の娯楽ではなく聖史劇を指すものと解釈し、1435年の「あるミステール(mistaire:聖史劇)」が、イングランド軍によって仕掛けられ解放されたあの包囲戦の再現を指していると考えるならば、私たちは『包囲戦の聖史劇(Le Mystère du siège)』にたどり着く。
だがその場合でも、現在まで伝わっているテキストの聖史劇かどうかを検証しなければならない。
ジル・ド・レの関わり
この作品に登場する140人の役柄の中には、ジル・ド・レ元帥が含まれている。
このことから、この聖史劇は、1440年10月20日にナントの橋上で執行されたあの判決によって終了した訴訟(ジル・ド・レの処刑裁判)よりも前に執筆、上演されたと結論づけられてきた。
実際、あれほど不名誉な死を遂げた後で、マシュクールの吸血鬼(ジル・ド・レの異名)がオルレアンの人々を解放するために戦う姿を演出することが可能だろうか、という疑問が投げかけられている。
ラ・ピュセルと青髭(⚠️童話『青髭』はジル・ド・レがモデル)の英雄的な行動を、いかにして同列で演じることができたのか? この問いに答えるのは難しい。
なぜなら、ジル・ド・レがおこなった残忍な所業が、当時の粗野で野蛮な時代にどこまで許容され得たのか、私たちには到底わからないからである。
おそらく、現在私たちの手元にあるテキスト自体をもっと厳密に調べれば、それが1440年より前のものか後のものかを示す内部証拠が見つかるだろう。
原典と後世のつぎはぎ
1439年7月14日、オルレアンの私生児はデュノワ伯に叙せられた。[29] 『聖史劇』の中で彼がこの称号で呼ばれている以上、この日以前に書かれた可能性はありえない。
デュノワ伯と呼ばれる箇所は多いが、奇妙なことにそれらはすべて台本の最初の三分の一に集中している。その後、作中でデュノワが再登場すると、彼はなぜか再び「私生児」と呼ばれている。
この事実から、1862年の編纂者(研究者)たちは、言語、文体、韻律のいずれにおいても他と何ら変わるところはないにもかかわらず、「もともとあった原典に『5000行の前書き』が追加された」と結論づけた。
しかし、残りの部分を「1435年あるいは1439年に書かれた」と断言してよいのか? 私はそうは思わない。
たとえば、台本の1万2093行目と1万2094行目で、ラ・ピュセルはタルボットに「おまえは国王の兵の手によって死ぬだろう」と告げている。
この予言は、実際の出来事の後に書かれたに違いない。これは明らかに、あの尊大な指揮官(タルボット)の死を暗示している。ならば、このセリフはタルボットが死んだ1453年以降に書かれたはずだ。
*
また、包囲戦から6年後に書かれた作品なら、著者はジャンヌを貴族出身の令嬢にしようなどと考えもしなかっただろう。
『包囲戦の聖史劇(Mistère du Siège)』の1万199行目以降、ポワティエの審議で第一議長から家族について尋ねられる場面では、ラ・ピュセルに次のセリフが当てられている。
「父の屋敷についてはバル地方にございます。父は良家の生まれで、身分もきわめて高貴で、善良かつ忠実なフランス人でございます」[30]
このセリフを書くには、ジャンヌの家族が貴族に叙されてから長い年月が経っていたはずだ。初代(ジャンヌの兄弟)が死に絶えたのは1469年のことである。
その馬鹿げた自負に迎合しなければならなかったデュ・リス家という大所帯が誕生していなければならなかった。
デュ・リス家の子孫は、みずからの血筋を叔母に結びつけるだけでは満足できず、善良な農民だったジャック・ダルク(ジャンヌの父)をバルの旧貴族に結びつけようと画策していたのである。
⚠️わかりにくいので補足:ジャンヌの功績を讃えて貴族になったが、一族の子孫はさらに出自を盛り、ジャンヌ以前から貴族の血筋だったと主張した。
ジャンヌが「父の屋敷」に言及している箇所は、同じ聖史劇の中の別の場面と矛盾している。
それにもかかわらず、この長大な作品は、全体的に一貫した内容に見受けられる。
この作品はどうやら、ルイ11世(シャルル七世の息子)時代に、「包囲戦」という主題にかなり詳しいオルレアン市民の手によって編纂されたようだ。
著者が依拠した史料については、これまで以上の詳細な研究が必要だろう。
この著者は、現在知られている内容とは大きく異なるオルレアンの『籠城日誌(Journal du siège)』を知っていたように見える。
この『聖史劇』は、15世紀終盤の30年間のどこかでレ・トゥーレル奪還を記念して制定された祝祭で演じられたのか?
主題、文体、そして精神のすべてがふさわしく調和している。
しかし、5月8日のオルレアン解放を祝うために作られた詩が、その解放を5月9日としているのは奇妙だ。聖史劇の著者は、ラ・ピュセルに次のようなセリフを語らせ、このように表現しているのである。
「1429年にオルレアンがいかにして解放されたかを思い出して。そして、それが5月の9日であったことも忘れないで」[31]
**
ラ・ピュセルについて記したフランス側の主要な年代記作家たちは以上だ。
後世の著者や、彼女の生涯の特定エピソードにしか触れてない著者については、ここで引用する必要はない。彼らの証言については、事実を詳細に検討する際に併せて吟味するのが最善だろう。
『祝祭創設の年代記(La Chronique de l'établissement de la fête)』[32]や、ラ・ロシェルの書記官による『ラ・リレーション(La Relation)』[33]、およびその他の当時の文書から得られる情報を脇に置くならば。もし私たちがジャンヌ・ダルクに関する知識をフランスの年代記作家たちだけに頼っていたとしたら。
ジャンヌについて知ることは、私たちが釈迦(釈迦牟尼/Sakya Muni)について知るのと同程度のものであっただろうということを、今や理解できるのである。
⚠️わかりにくいので補足:キリスト教文化圏のヨーロッパ人にとって、仏教や釈迦のことはわかりにくい。同様にジャンヌのことも、偏った文献や証言だけでは彼女の全貌を理解することはできない。
0.7 当時の年代記(6)ブルゴーニュ派の年代記:コルドリエ、モンストルレ、パリ市民の日記、他
ブルゴーニュ派の年代記作家たちからジャンヌ関連の情報を見つけることは期待できないだろうが、彼らは、ある種の有益な情報をもたらしてくれる。
ブルゴーニュ派の年代記作家たちの中で最も古いのはピカルディーの書記官で、作者不明のある年代記を著した。パリのコルドリエ修道院に唯一の写本があることから『コルドリエの年代記(La Chronique des Cordeliers)』と呼ばれている。[34]
その内容は、天地創造から1431年までの世界史である。ピエール・シャンピオン氏(Pierre Champion)[35]は、モンストルレが上記の年代記を利用したことを証明した。
⚠️エングラン・ド・モンストルレ(Enguerrand de Monstrelet):リュクサンブール家に仕え、年代記(Chronique)といえばこの人!というくらい著名な年代記作家。
このピカルディーの書記官は、様々な事柄を知っており、諸々の国家文書にも通じていたが、事実と日付については奇妙なほどに混同している。ラ・ピュセルの軍歴に関する知識は、フランス側および民衆に広まっていた情報を根拠にしている。
彼が記述したボールヴォワールからの飛び降りはある程度の信憑性が認められてきたが、もし書かれている内容がすべて正確なら、「ジャンヌが狂乱あるいは絶望のあまり塔の頂上から身を投げた」説は否定される。[36] 実際、ジャンヌ自身の証言とも一致しない。
モンストルレ[37]の年代記は「芥子壺よりも口からよだれを垂らしている」[38]とはいえ、ジャン・シャルティエの年代記に比べれば知恵の泉である。
⚠️|芥子《マスタード》壺よりも口からよだれを垂らしている:直訳すると「芥子壺の縁から中身が垂れている」で、「愚か者が(刺激を求めて)よだれを垂らしている」様子を意味する。ラブレーの毒舌が冴え渡る慣用句。
モンストルレは『コルドリエの年代記』を参照する際に、内容を整理し直して、事実を順序立てて提示している。彼がジャンヌについて知っていたことは、極めてわずかだった。
彼は、ジャンヌが宿屋の召使い(servant)だったと信じていた。
モンテピヨワの戦いにおけるジャンヌのためらいについて、たった一言しか述べていないが、他では見ることのできないその言葉は極めて重要である。
また、モンストルレはコンピエーニュの戦いでジャンヌに会っている。あいにく、彼女が彼にどんな印象を与えたのか、彼はそれを自覚していなかったのか、あるいは語ることを望まなかったかのいずれかである。
*
ワヴラン・デュ・フォレステル(Wavrin du Forestel)[39]は、フロワサール、モンストルレ、マチュー・デスクシー(いずれも著名な年代記作家)の増補(加筆)を編纂したが、彼はパテーに居合わせていながら、そこでジャンヌを見ることはなかった。
フォレステルは、ただ伝聞によってのみジャンヌを知っており、それも漠然としたものでしかなかった。
それゆえ、ロベール・ド・ボードリクールがジャンヌを教化して、「神の摂理に導かれている」かのように振る舞う方法を彼女に授けた、という記述はさほど重視されていない。[40]
その一方で、フォレステルはオルレアン解放直後の戦いに関して有益な情報を伝えている。
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ブルゴーニュ公の顧問官で、金羊毛騎士団の紋章官長でもあったルフェーヴル・ド・サン=レミ[41]は、ジャンヌが捕らえられたときおそらくコンピエーニュにいた。彼はジャンヌを勇敢な少女と評している。
ジョルジュ・シャトラン(Georges Chastellain)が著した作品は、ルフェーヴル・ド・サン=レミの記述を引用している。[42]
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『パリの一市民の日記(Le Journal)』[43]の著者とされる人物は、カボシャン(Cabochien)の書記官だったことが判明している。彼は、パリ大学の博士や教授たちがジャンヌについて話しているのを小耳に挟んだ程度しか知らない。
しかも、彼は非常に不勉強で、そのことは残念である。この人物は、感情と言葉の力強さ、憤怒と慈悲の情熱、そして民衆への深い共感において、当時の人々の中で比類のない存在だからである。
⚠️カボシャン(Cabochiens):ブルゴーニュ無怖公が、王弟殺害に反発する政敵アルマニャック派を排除するため、食肉業者組合カボシャンと結託してパリで暴動を扇動した。カボシュの乱またはカボシャン蜂起と呼ばれる。
⚠️補足:共感力と熱意の面でかなり文才があるが、根拠不明の聞きかじった程度のことしか書いていない。
0.8 当時の年代記(9)イタリアとドイツの商人たち
フランスでもブルゴーニュでもなく、イタリア由来のある文献に言及しておかなければならない。
ジェルマン・ルフェーヴル=ポンタリス氏(Germain Lefèvre-Pontalis)がみごとな博識で注釈を付記して出版された『アントニオ・モロジーニの年代記(Chronique d'Antonio Morosini)』[44]である。
この年代記、より正確に言えばそこに納められた書簡集は、歴史家にとって非常に価値あるものだ。しかし、それはそこに記されたラ・ピュセルがやったことの真実性のためではない。それどころか、それらはすべてが想像上のものであり、伝説的なのである。
『モロシーニの年代記』では、ジャンヌに関する事実のひとつひとつ全てが、誤った性格づけをされ、偽りの光の下に提示されている。それにもかかわらず、モロジーニの通信相手たちは、思慮深く鋭敏なヴェネチア商人たちだった。
これらの書簡は、有名だが未知の存在だったドモワゼル(Demoiselle:未婚の若い女性、ここではジャンヌのこと)をめぐって、あるものは騎士道物語から、またあるものは『黄金伝説』から模倣された、おびただしい数の架空のジャンヌ伝が、キリスト教世界全体にどのように広まっていたかを明らかにしている。
*
もう一つの史料、『ドイツ商人エベルハルト・ド・ヴィンデック(Eberhard de Windecke)の日記』[45]も同様の現象を示している。なお、これもジェルマン・ルフェーヴル=ポンタリス氏によって良心的かつ賢明な校訂版が出版されている。
ここに記されたラ・ピュセルに関する事柄で、信憑性のある話など一つもない。ジャンヌが登場するや否や、その名を中心に民話が何度も繰り返される。エベルハルトは明らかにそれらを語ることを楽しんでいる。
かくして、これらの善良な外国の商人たちから、私たちが知ることができるのは、「ジャンヌはその生涯のいかなる時期においても、寓話を通して以外には知られていなかった」ということだ。そして、もし彼女が多くの人々の心を動かしたのだとすれば、それは彼女が行く先々で湧き起こり、彼女に先んじて道を作った無数の伝説が広まったことによるものだったということである。
そして実際、最初からラ・ピュセルを包み込んでいたまばゆいばかりの不明瞭さ、彼女の姿を隠しながらも、よりいっそう彼女を印象的にしていた光り輝く神話の雲の中には、深く考えさせられる材料がある。
0.9 1456年の復権裁判記録(1)知性なき証言にショックを受ける
第三に、復権裁判はその覚書、鑑定意見(consultations)、そして証言者123人による宣誓証言140件によって、非常に価値のある史料集を形成している。[46]
⚠️|鑑定意見《コンシュルタシオン》(consultations):、裁判に際して法学者や神学者が提出した専門的な「鑑定意見書」。
ラネリー・ダルク氏(M. Lanéry d'Arc)が、博士たちの覚書ならびにアンブラン大司教の論文(意見書)とハインリッヒ・フォン・ゴルクム(Heinrich von Gorcum)の提題および『フランスのシビュラ(Sibylla Francica)』の全文を出版したことは賢明だった。[47]
1431年の処刑裁判記録からは、イングランド側の神学者たちがラ・ピュセルについてどう考えていたかを知ることができる。
しかし、もしテオドール・ド・レリス(Théodore de Leliis)とポール・ポンタヌス(Paul Pontanus)の議論および後の復権裁判に含まれる諸意見がなかったら、イタリアやフランスの博士たちがジャンヌをどのように見ていたかを、知ることはできなかっただろう。
イングランドが勢力を誇っていたときに断罪され、フランス軍が勝利を収めた後に名誉を回復した一人の少女について、教会全体の総意としてどんな見解を持っていたかを究明することは重要である。
ドンレミ、ヴォークルール、トゥール、オルレアン、パリ、ルーアン、リヨンで聴取された、あらゆる階層——聖職者、諸侯、隊長、市民、農民、職人——から集まった証人123人によって、多くの事柄が解明されたのは間違いない。
しかし、彼らの証言は、好奇心を満足させるにはほど遠いと認めざるを得ない。それにはいくつかの理由がある。
第一に、彼らは教会管轄権の範囲内にある一定の事実を立証することを目的として作成された尋問リストに回答したからである。裁判を主導した聖なる異端審問官は探求心を持っていたが、現在の私たちの好奇心とは別物だ。これが、私たちの観点からすれば「証言が不十分」と感じる第一の理由である。[48]
しかし、理由は他にもある。
証人たちの大半は、あまりにも単純で、洞察力に欠けているように見える。
あらゆる年齢、あらゆる階層にわたるこれほど多くの老若男女がいるのに、明晰な判断力を備えている人がいかに少なかったかを知るのは、嘆かわしいことである。
当時の人間の知性は、あたかも黄昏に包まれているかのようで、何事もはっきり見ることができなかったかのようだ。
言葉だけでなく思考もまた、不思議なほど幼稚だ。
この暗黒時代を少し知るだけで、まるで幼児たちの中にいるかのような気分になる。貧困と無知、そして果てしない戦争が、人間の心を荒廃させ、道徳的な精神を蝕んでいた。貴族や富裕層の、寸足らずで切り込みの入った滑稽な衣服は、不条理で貧しい趣味と知性の弱さを露呈している。[49]
これらの矮小な心の最も顕著な特徴のひとつは、その軽薄さである。彼らには注意力がなく、何も記憶にとどめない。
当時の著作を読めば、誰もがこのほぼ普遍的な貧弱さにショックを受けずにはいられない。
これら140件の証言のすべてを、まじめに取り扱えるわけでは決してない。例えば、オルレアン公の会計士ジャック・ブーシェの娘は、次のように証言している。
「夜、私はジャンヌと二人きりで眠りました。彼女の言葉にも行動にも、悪いところは何一つありませんでした。彼女は完全に純朴で、謙虚で、貞淑でした」[50]
当時9歳だったこのお嬢さんは、添い寝の相手が純朴で、謙虚で、貞淑であることを、いくぶん早熟な洞察力で認めた。
とはいえ、この程度ならそれほど大した弊害はない。
しかし、最も信頼できると期待される目撃者によって、いかに時として欺かれることがあるかを示すために、修道士パスケレルの証言を引用しよう。[51]
修道士パスケレルは、ジャンヌの従軍司祭である。実際に見た者、知っている者として語ることが期待される人物であるが、彼は、国王がシノン城でラ・ピュセルに謁見する以前に「ポワティエで尋問があった」と時系列を位置づけているのだ。[52]
他にも、5月4日には救援軍全軍がすでにオルレアンに入っていたことを忘れて、パスケレルは「6日金曜日の夜になっても、救援軍の到着を待っていた」と思い込んでいる。[53]
これらの事実誤認から、この哀れな司祭の記憶力がいかに当てにならないかを判断できる。
しかし、彼の証言における、最も重大な過失は「奇跡の捏造」だ。
修道士パスケレルは、救援物資の輸送隊がオルレアンに到着したとき、ラ・ピュセルの特別な介入によって、艀(荷船)を川上へと運ぶために、彼以外には誰も見ていない「ロワール川で突然の氾濫が起こった」と主張している。[54]
0.10 1456年の復権裁判記録(2)デュノワの奇妙な証言
オルレアンの私生児ことデュノワの証言[55]もだいぶ期待外れな内容だ。
デュノワが当時最も知的で思慮深い人物の一人であり、優れた語り手であると考えられていたことは知っている。実際、オルレアンの防衛と戴冠式の遠征で、彼はかなりの能力を発揮した。
デュノワが証言した内容が、通訳と書記官の手によってひどく損なわれたか、あるいは彼に仕える司祭が代理で証言したかのどちらかだろう。
彼は「敵の大軍」について、オルレアン市の防衛を任され、包囲軍の実際の兵力を知っているはずの司令官というより、大聖堂の司祭や毛織物商人のような言葉遣いで語っている。
4月28日の兵站輸送に関する証言は、ほとんど理解しがたい内容だ。
また、デュノワは、ジアンを出発した行軍の最初の宿営地がトロワだったことさえ述べることができない。[56]
他にも、戴冠式の後にラ・ピュセルと交わした会話について証言する際、デュノワは(ジャンヌの)兄弟たちがフランスで彼女と共にいたにもかかわらず、あたかもドンレミで待っているかのように彼女の口に語らせている。[57]
奇妙な失策といえば、デュノワはジャンヌが幻視を見ていたことを証明しようとして、むしろ、この若い農民の少女が巧みな演技者にすぎず、「貴族たちの要求に応じて、亡きリュイス博士の「エステル」(旧約聖書に登場するユダヤ人女性)のような恍惚状態を再現して見せた」という、不利な印象を抱かせるような話を語っている。[58]
0.11 1456年の復権裁判記録(3)結論ありきの証言
筆者は、本文中の復権裁判を扱った箇所において、法廷書記官2人および法廷執行吏マシュー司祭、ならびにイザンバール・ド・ラ・ピエールとマルティン・ラドヴニュの両修道士の証言について、私見を述べた。[59]
これらの魔女を火刑に処し、神の復讐を果たす者たちは、ジャンヌを断罪したときと同様にジャンヌ復権のためにも熱心に働いた。
多くの場合、またしばしば重要な出来事に関して、目撃者たちの証言は真実と真っ向から対立している。
例えば、オルレアンの毛織物商人ジャン・リュイリエ(Jean Luillier)は、委員たちの前に進み出て、あつかましくも「守備隊はあれほどの大軍の包囲に持ちこたえることはできなかった」と力説している。[60]
しかし、最も信頼できる史料によって、この証言は誤りだと証明されている。オルレアンを攻囲していたイングランド軍は、実際は非常に弱く、物資も大幅に欠乏していたのだから。[61]
二審(復権裁判)の証言は、その場に合わせて取り繕っていることが明らかだったり、あるいは全く真実に反している場合さえあるが、私たちは虚偽を証言した者だけでなく、その証言を受理した者たちをも非難しなければならない。
都合のいい証拠を引き出すために、後者はあまりにも狡猾だった。
これらの虚偽の証言は、異端審問(処刑裁判)の証言と同程度の価値しかない。
特定の事柄について、証人の考えと同じくらい裁判官の考え(意図)を代弁している可能性がある。
この場合、裁判官が最も立証したかったのは、(1)ジャンヌが教会と教皇について語ったときにそれを理解していなかったこと、そして(2)彼女が「戦う教会」に従うことを拒んだのは、「戦う教会」とはピエール・コーションとその仲間たちのことだと信じていたからだ、ということであった。
ようするに、ジャンヌをほとんど白痴であるかのように示す必要があった。教会の訴訟手続きでは、このような方法が頻繁に採用された。
さらにもう一つ、ジャンヌをイノサン(無垢な者)、すなわち知性を欠いた少女と見なすための、非常に強い理由があった。
この二度目の裁判(復権裁判)も最初の裁判と同様、政治的な動機によって開始されたものだった。その目的は、ジャンヌがフランス王の救援に駆けつけたのは、悪魔の教唆によるものではなく、天の啓示によるものであると知らしめることにあった。
したがって、ジャンヌの中に神の知恵があると認めるために、ジャンヌ自身には何の知恵もなかったと示さなければならない。
尋問官たちは、つねにこの点を強調していた。
あらゆる機会に、彼らは証人たちから、「ジャンヌは単純(純朴)だった、非常に単純だった」という供述を引き出した。ある者は「純朴な羊飼いの娘(Una simplex bergereta)[62]」と言い、別の者は「彼女は非常に単純で無知(Erat multum simplex et ignorans)」[63] と言っている。
無知だったにもかかわらず、この無垢な少女は町を解放し、あるいは奪取し、武装した兵を率いるために神から遣わされたのだから、ジャンヌの中には軍事的な才能が備わってなければならない。戦いにおいても、天から授かった力と助言を発揮しなければならない。
それゆえ、ジャンヌが誰よりも戦いに長けていることを立証する証言が必要だった。
マルグリット・ラ・トゥルルドはこの件について断言をしている。[64]
アランソン公は、「ラ・ピュセルは槍(ランス)を振るうこと、軍隊を統制すること、戦列を敷くこと、大砲を準備すること、いずれにも優れており、古参の隊長(captains)たちも彼女の大砲を配置する巧みな技量に驚いた」と述べている。[65]
公爵は、これらの才能はすべて奇跡によるもので、栄光は神のみに帰せられるべきであることを十分に理解している。
なぜなら、もし勝利の功績がジャンヌ自身のものだったなら、彼はこれほどまでに語ることはなかっただろう。
そして、もし神がこれほど大きな使命を遂行させるためにラ・ピュセルを選んだとすれば、それは、神がこの少女のうちに他の何よりも好まれる美徳を見出したからに違いない。単に「貞節だった」というだけでは不十分で、彼女の貞節さは奇跡的なものでなければならず、その貞節と飲食における節制(断食)は聖なるものへと高められなければならなかった。
それゆえ、証人たちは飽きることなくこう述べるのである。
「彼女は貞淑だった、とても貞淑だった」
(Erat casta, erat castissima)
「この発言者は、あの少女より貞淑な女性はいないと信じている」
(Ille loquens non credit aliquam mulierem plus esse castam quam ista Puella erat)
「彼女は飲食も貞節だった」
(Erat sobria in potu et cibo)
「彼女は食べるときも飲むときも貞節だった」
(Erat sobria in cibo et potu)
0.12 1456年の復権裁判記録(4)操作された証言
これほどの純潔・貞淑をもたらした「天上の源」について、ジャンヌが特異な免罪特権を備えていたと証明される必要があった。この点については、膨大な証言がある。
ジャン・ド・ヌイヨンポン、ベルトラン・ド・プーランジ、ジャン・ドーロンといった無骨な軍人たち、またデュノワ伯やアランソン公といった大貴族たちが進み出て、「ジャンヌが男の肉欲を刺激することはなかった」と宣誓した上で証言しているのである。
この状況は、これらの古参の隊長たちを驚きで満たしたらしい。彼らは若い頃の精力を自慢しながら、一度だけ、あるひとりの娘によって若者の情熱が冷まされたことを不思議に思っている。
彼らにとってそれは極めて不自然で、人間には不可能なことに思えるのである。
ジャンヌが彼らに与えた効果についての供述は、聖マルタがタラスコンの怪物を縛り上げた話を思い起こさせる。
デュノワはその証言において、奇跡に非常にこだわっている。
彼はこの奇跡を、人間の理性にとって最も理解しがたいものであると指摘する。
もしデュノワがこの少女を欲したり求めたりしなかったとすれば、この特異な事実(ジャンヌに性欲を感じなかった)について説明がつく理由はただひとつ、ジャンヌが聖なる存在であり、「神なるもの(res divina)」であったからだ、という。
ジャン・ド・ヌイヨンポンとベルトラン・ド・プーランジは、自分自身の「唐突な《《不能》》」について語るとき、彼らは遠回しな言葉遣いを用いて、互いに影響を受けているかのようにまったく同じことを証言している。
さらに、王の馬丁であるゴベール・ティボー(Gobert Thibaut)は、行軍中にこの「神の恩寵」について多くの話を聞いたと証言している。しかし、その恩寵はアルマニャック派[67]には効いたが、イングランド人とブルゴーニュ人には効果がなかった。少なくとも、ピカルディーの騎士とルーアンの仕立て屋ジャノタンという人物の(ジャンヌに対する)振る舞いからそう信じざるを得ないのである。[68]
⚠️ジャンヌが持つ「神の恩寵」:仲間の騎士たちには有効(性欲抑制)だったが、敵には効かなかったという、「党派的な奇跡」の滑稽さを指摘している。
このような証言は、明らかに裁判官たちの考え(意図)に沿ったもので、いわば自然的な事実というよりも神学的な事実に基づいている。
異端審問(最初の裁判)の調査では、ジャン・ド・ヌイヨンポンやベルトラン・ド・プーランジの証言ように、同じ文言で書かれた宣誓供述書が多数存在する。
その一方で、復権裁判ではそのような証言(裁判の目的に沿うように誘導された証言)は稀であることも認めなけならない。
理由の一つは、証人たちが時間をかけて、それぞれが異なる地域で聴取を受けたからであり、もう一つの理由は、ジャンヌの敵対者が代理人を立てなかったため、あえて作為的な手続きをする必要がなかったからでもある。
復権裁判の証言は、ジャン・ドーロンのものを除いてすべてラテン語に翻訳されたことは残念である。この過程(フランス語あるいは方言からラテン語へ翻訳される過程)で、思考のこまかい陰影が不明瞭になり、証言から本来の味わいが奪われてしまった。
時として、書記官は「ある証人の供述がその前の証人と同じだった」と述べるだけで済ませている。
オルレアン包囲戦の終結について、市民全員があの毛織物商人と同じ証言をしているが、当の商人自身が、町が解放されたときの状況を十分に把握していたわけではなかった。
同様に、ゴークール卿は短い宣誓の後、デュノワと同じ証言をしている。デュノワの証言は、二人の証人に共通しているのが奇妙に思えるほど、際立って個人的なことを述べているにもかかわらず、である。[69]
また、ある種の証言は、途中で打ち切られたように見える。
修道士パスケレルの証言は、パリの場面で突然終わる。もしフス派に宛てたラテン語の手紙の結びに彼の署名がなければ、私たちは「善良な修道士はラ・ポルト・サントノレ(サン=トノレ門)攻撃の直後にラ・ピュセルのもとから離れた」と思い込んだだろう。
これほど長い一連の質疑応答の中で、シュリーからの出発や、ラニーに始まりコンピエーニュで終わった遠征について、パスケレルが一言も語らなかったなどということが、果たしてあり得るだろうか。[70]
したがって、私たちはこう結論づける。(1)この膨大な証言を研究するにあたり、大きな判断力を働かせなければならない、(2)それがジャンヌの生涯のあらゆる状況を解明してくれると期待してはならない。
0.13 その他の文書(1)裁判記録から得られない有益な情報源
第四に。ラ・ピュセルの歴史のいくつかの点については、当時の会計帳簿、手紙、証書、その他の真正の文書からのみ、正確な情報を得ることができる。
例えば、シメオン・リュス(Siméon Luce)によって出版された記録、リール城(ジャンヌの父が旧領主の姪から借りた城)の賃貸借契約書は、ジャンヌが育った環境について教えてくれる。[71]
ふたつの裁判記録も年代記も、1412年から1425年にかけてドンレミ村で起きていた悲惨な状況を明らかにしてくれなかった。
また、オルレアンに保管されている要塞の会計記録[72]およびイングランド行政当局の文書[73]は、この都市の防衛側と攻囲側、双方の兵力をおおよそ推定することができる。
これらの文書は、年代記作家と復権裁判の証人たちの記述のあやまりを訂正することを可能にしてくれた。
17世紀にロジエが複写したランスの公文書館の書簡からは、トロワ、シャロン、そしてランスがいかにして国王に降伏したか、その経緯を知ることができる。
これらの書簡は、ジャン・シャルティエによる「諸都市の開城」に関する記述がいかに不正確か、また、この件に関するデュノワの証言がいかに不十分であるかがわかる。証人(デュノワ)の性格を考慮すればなおさらそうだ。[74]
4〜5件の記録が、エーヌ川とオワーズ川における不幸な遠征(ジャンヌが捕らわれたコンピエーニュ包囲戦)の不明瞭な部分について、かすかな光を投げかけている。
ロビヤール・ド・ボールペール氏(M. Robillard de Beaurepaire)がセーヌ=アンフェリュール(Seine-Inférieure)の公文書館で発見したルーアン聖堂参事会の登記簿、参事会員(聖職者)たちの遺言書、その他諸々の文書は、ふたつの裁判におけるいくつかの誤りを訂正するのに役立った。[75]
*
これらの文書以外にも、歴史家にとってすべてが貴重な文書の断片を、私はどれほど多く列挙できるだろうか!
これは、虚偽または改ざんされた記録——例えばギー・ド・カイイ(Guy de Cailly)の貴族の特許状のような——を警戒すべき理由のひとつである。[76]
これらの史料の典拠(根拠)を検証する作業は急ぎ足だったが、本質的なことは何ひとつ抜け落ちていないと思う。
ようするに、ラ・ピュセルは生きていた時代でさえ、《《寓話を通じて》》以外にほとんど知られていなかったのである。
ジャンヌに関する最古の年代記作家たちは、批評的な精神をまったく持っていない。彼らは、ジャンヌにまつわる伝説を事実として語っているのだ。
最も信頼できる文書は、ルーアンの処刑裁判、公的な会計記録、いくつかの書簡、公的・私的な諸々の証書である。復権裁判もどんな方法で、どんな理由で行われたかを常に念頭に置くならば、歴史家にとって有用な資料である。
こういう記録によって、私たちはジャンヌ・ダルクの生涯とその性格について、かなり正確な知識を得ることができる。
0.14 その他の文書(2)ジャンヌが見た幻視(もの)を検証する手がかり
これらすべての典拠を研究した結果、得られた顕著な事実は「ジャンヌは聖人だった」ということである。
彼女は、15世紀の聖なる属性をすべて備えた聖人だった。
彼女は、幻視を体験したが、それは見せかけでも捏造でもなかった。
彼女は、自分に語りかける「声」が、人間の唇から生じたものではないと本気で信じていた。その声はたいてい、彼女に明瞭に語りかけ、彼女が理解できる言葉で話していた。
彼女は、森の中や鐘が鳴っているときにその声を最もよく聞いた。
彼女が目撃したその姿は、まばゆい背景に散る火花のような、無数の小さな形のようなものだったという。
その一方で、別の形の幻視を見ていたことも間違いない。彼女は、「聖ミカエルをプリュドム(prud'homme)つまり徳高き勇者の姿で、また聖カタリナと聖マルガリータを王冠を戴いた姿で見た」とみずから語っているのだから。
ジャンヌは、彼らが自分に挨拶するのを目撃し、ジャンヌは彼らの足にキスして彼らの甘い香りを吸い込んだ。
これらを「聴覚、視覚、触覚、嗅覚の幻覚」と言わずして、何といえばよい?
彼女の感覚の中で最も影響が強かったのは聴覚だ。
彼女は「私の『声』が現れる」と表現し、時にはそれを「私の評議会」と呼んだ。周囲が騒がしくなければ、彼女にはその「声」がはっきりと聞こえた。
彼女はおおむねその「声」に従うが、時には抵抗することもあった。
これらの幻覚が、本人が主張するほど明瞭なものだったかは怪しい。
なぜなら、ジャンヌはそれができなかったか、あるいはしたくなかったのか、ルーアンの裁判官たちに対して、それらについて明確で正確な説明を一度もしなかったからだ。
彼女が最も詳細に説明した天使は「王冠を持ってきた天使」だったが、後に彼女は「その天使は想像の中で見たにすぎない」と告白している。
ジャンヌがこうしたトランス状態に陥るようになったのは何歳ごろからだろうか? 正確な時期は分からないが、おそらく子供時代の終わりだろう。もっとも、ジャン・ドーロンによれば、彼女は「子供の状態」から完全に脱却することはなかった。[77]
純粋に歴史的な文書に基づいて医学的診断を下すことは常に危険を伴うものだが、何人かの科学者が、この少女に視覚と聴覚の誤認を引き起こした病理学的条件(状態)を定義しようと試みている。[78]
近年の精神医学の急速な発展を鑑み、この病理学の分野が現在到達した段階を熟知し、自らもまた重要な貢献をしている著名な科学者に意見を求めた。
私はソルボンヌ大学教授のジョルジュ・デュマ博士に、ジャンヌの症例について科学が遡及的診断を下すために十分な資料が存在するかどうかを尋ねた。
博士は私の問いに対し、一通の手紙で回答を寄せた。それは本書下巻の付録(1)として掲載している。[79]
⚠️下巻『付録(1)G・デュマ博士による医学的な所見』参照。
私には病理的なテーマを扱う資格がないが、ジャンヌ・ダルクの幻覚について、文献の研究から示唆された考察をするのは、筆者の職分(文筆家)に属している。この考察は、限りなく重大な意義を持つ。
私は、それを本書の目的と性質によって規定される範囲内に留めるよう、細心の注意を払うつもりだ。
0.15 その他の文書(3)各時代の幻視者たちの比較
神聖な使命を託されたと信じている幻視者たちは、ある特徴によって、他の霊感を受けた人々とは区別される。
この種の神秘家たちを研究し、それぞれを比較してみると、非常にこまかな点にまで類似性が見つかる。彼らの言動の中には、完全に一致するのものさえある。
実際、幻視者たちの行動を支配する信念がいかに強力であるかを認識するにつれ、同じ神秘的な存在によって突き動かされた人間という機械が、避けられない一律性をもってその機能を果たすのを見て、私たちは驚きを禁じ得ない。
ジャンヌは、こうした宗教的な人々のグループに属している。
この点に関して、彼女をシエナの聖カタリナ[80]、コルビーの聖コレット[81]、ケルアンナの農民イヴ・ニコラジック[82]、革命教会の霊感を受けた女性シュゼット・ラブルース[83]、その他多くの預言者(幻視者)や巫女(女幻視者)たちと比較してみることは興味深い。これらの人々は皆、互いに一族のような類似性を備えている。
三人の幻視者が、特にジャンヌと密接な関係にある。
時代が最も古いのは、ジャン二世(シャルル七世の曽祖父)に語る使命を帯びていたシャンパーニュ地方のヴァヴァスール(vavasour)で、この聖なる男については、本書の中で十分に述べている。
二人目はルイ14世に語る使命を帯びていたサロン地方の蹄鉄工で、三人目はルイ18世に語る使命を帯びていたマルタンという名のガラルドン(Gallardon)地方の農夫である。
幻影を見て、それぞれの王にしるしを示したこの蹄鉄工と農夫に関する論考は、本書の下巻・巻末付録に収めている。[84]
⚠️『付録(2)近世フランスの預言者:ルイ14世に謁見したサロンの蹄鉄工フランソワ・ミシェル』および『付録(3)近代フランスの預言者:ルイ18世に謁見したガラルドンの農夫イニャス・トマ・マルタン』参照。
性別の違いはあるものの、ジャンヌ・ダルクとこれら幻視者3人の間には、非常に密接かつ重大な類似点がある。それは、ジャンヌと彼女の仲間の幻視者たちの本質そのものに内在している。一見すると、後者(幻視者3人)とジャンヌを大きく隔てているように見える相違点は、美学的、社会的、歴史的なものであり、ひいては外的で偶発的なものにすぎない。
もちろん、彼ら3人とジャンヌの間には、外見と運命において際立った対照性が存在する。
ジャンヌがどんな時も発揮していた魅力は、彼ら3人にはまったくなかった。そして、彼ら3人が惨めに失敗した一方で、ジャンヌが力を増し、伝説の中で大輪の花を咲かせたことは事実である。
しかし、同じ種(グループ)に属する最も尊い個体と、最も哀れな「なり損ない」の双方において、起源の同一性を証明する共通の特徴を認識することは、科学者の義務である。
0.16 その他の文書(4)思想家に歪曲されたジャンヌ像
現代(19世紀〜20世紀初頭)の自由思想家たちは、その大半が超越主義に染まりきっているがゆえに、彼らはジャンヌの中に、この種の女預言者の行為を決定づける自動性(無意識の反応)や、絶え間ない幻覚の影響を認めないばかりか、宗教的精神の示唆さえも認めようとしない。
⚠️超越主義(transcendentalism):物質主義や合理主義に対抗する、精神性を重視する考え方。目に見える物質的な現実世界よりも、それを超越した霊的・精神的な世界を重視する。論理的な思考や科学的なデータよりも、個人の内なる声や魂のひらめきを大切にする。
⚠️補足:自由思想家たちは「自分は合理的だ」と言いつつも、心のどこかで「ジャンヌは特別な使命を持った英雄だ」「彼女の背後には何か崇高な精神がある」という超絶主義的(神秘主義的)な見方を捨てきれない。本書の著者アナトール・フランスはもっと徹底した現実主義・科学的視点で、ジャンヌを「神聖な存在」として見るのではなく、「幻覚や心理的な自動症(無意識の反応)という医学的・心理学的な現象」として冷徹に分析しようと試みている。
ジャンヌが聖性と敬虔さによって成し遂げたことを、彼らは理知的な熱狂によって成し遂げられたと見なしている。
こうした傾向は、優秀で博学なキシュラ(Quicherat)にも顕著に現れている。彼は、ラ・ピュセルの敬虔さの中に、まったく無意識のうちに折衷主義的な哲学を紛れ込ませている。
⚠️ジュール・キシュラ(Jules Quicherat):ジャンヌ・ダルク研究で知られる歴史家、考古学者。
⚠️折衷主義的哲学(eclectic philosophy):過去のさまざまな哲学(唯物論、観念論、キリスト教神学など)の対立を避け、それぞれの良い部分を組み合わせて調和させようとする、19世紀に隆盛を誇った学説。
⚠️補足:著者アナトール・フランスは、中世の純粋な信仰心・宗教観の中で生きていた本来のジャンヌに、近代の道徳や哲学を混ぜ合わせて「愛国的な英雄」として再定義したキシュラを批判している。
この点には弊害がないわけではない。
そのために自由思想の歴史家たちは、ジャンヌの知的能力を滑稽なほど誇張し、彼女に軍事的才能を帰するという荒唐無稽な挙に出てしまう。その上、15世紀の素朴な奇跡(良い意味での)を、一種の理工学的な現象にすり替えてしまった。
現代のカトリックの歴史家たちは、ラ・ピュセルを聖女に祭り上げる際、(科学者よりも)彼らの方がはるかに自然の理と真実に近いのである。
残念ながら、トレント公会議(16世紀半ば)以来、教会の聖性の概念は鈍化し、正統派の歴史家たちは時代とともに移り変わるカトリック教会の変遷を研究しようとはしない。
それゆえに、彼らの手にかかると、ジャンヌは聖人ぶった偏屈な人物になってしまう。
あまりにそうであるため、あらゆるジャンヌ・ダルク像の中で最も奇妙に歪曲されたものを探そうとすると、
キリスト教国フランスの奇跡的な守護者
将兵たちの守護聖人
サン・シール士官学校の模範生徒
ロマンあふれる女性司祭
(共和政下の)国民衛兵の霊感ある女性兵士
共和国の愛国的な砲術家
もし、イエズス会の神父が「教皇至上主義のジャンヌ・ダルク」を創作していなかったら、これらの中から(もっとも歪曲されたジャンヌ像を)選ぶのにどれほど窮したことであろうか。[85]
⚠️教皇至上主義(ultramontane):教皇が宗教のみならず政治上も絶対的権威を有するという主張。対立概念は、ガリカニスム=ガリア主義。
⚠️補足:シャルル七世の功績のひとつ「ブールジュの国璽尚書」はガリカニスム=ガリア主義を確立した。他ならぬジャンヌが教皇至上主義なわけないだろうが!という皮肉。
0.17 その他の文書(5)ジャンヌの奇跡は本当に不可能だったか
ジャンヌは誠実だったかという点に関して、私は何の疑いも持っていない。ジャンヌが嘘つきだったと疑うことはできない、彼女は自分の使命を「声」から授かったと固く信じていた。
しかし、ジャンヌが無意識のうちに誘導されていたかという点については、見極めるのがより困難である。
シノンに到着する前のジャンヌについて、判明していることは極めて少ない。
ジャンヌはある種の影響を受けていたと考えるのが妥当だろう、(他の時代の)あらゆる幻視者がそうであるように、表舞台に姿を見せない正体不明の指導者が彼らを導いている。ジャンヌの場合もそうであったに違いない。
ヴォークルールで、ジャンヌは「王太子が王国を(神に委託されて)封土として領有している(en commende)」と語っているのを目撃されている。[86] こういう特殊な用語・思想を村の人々から学んだはずがない。ジャンヌは、自身が創作したのではない、誰かがジャンヌのために捏造した予言を口にしていた。
⚠️委託(en commende):教会用語で「修道院の管理を還俗者に委託する」ことを意味する。一般人、特にジャンヌのような無学な少女が、こういった専門用語を口にすることに違和感がある。著者アナトール・フランスは、ジャンヌに特殊な思想や専門用語を教え込んだ教会関係者がいると推測している。
ジャンヌは、王太子シャルルの大義に忠実で、戦争の終結を何よりも願っていた聖職者たちと親しく交流していたのだろう。修道院は焼かれ、教会は略奪され、礼拝は途絶えていたのだから。[87]
平和を切望していた信心深い人々は、トロワ条約が平和を確立できなかったのを見て、イングランド人の追放に望みを託した。
そして、この若き農民の娘について驚くべき、また類いまれな点――聖職者や修道士を連想させる点――は、彼女がみずから馬に乗って戦場へ赴き、戦うよう召命(使命を受けた)を感じたことではない。
むしろ、両国の貴族も、両党の兵士も、戦争がいつか終わることなど予期もせず、望んでもいなかった時期に、「大きな憐れみ」をもって、王の勝利と戴冠によって戦争終結が間近だと告げたことにある。
ジャンヌが天使から託されたと信じ、みずからの生涯を捧げた使命は、間違いなく並外れて驚異的なものだっただろう。だが、前例のない行いではなかった。男女を問わず聖人たちが、人類の営みの中で達成しようとしてきたことと何ら変わりないのだ。(補足:ジャンヌがやったことは、その他の聖人たちと大差ない)
ジャンヌ・ダルクが登場したのは、カトリックの偉大な時代の衰退期だった。当時の聖人・聖性とは、一般的にあらゆる種類の奇行や狂気、幻想を伴っており、(そういう常軌を逸した振る舞いが)依然として人の心を支配する力を発揮していた。
自分自身の心の衝動と、精神《マインド》の恩寵に従って行動するとき、彼女はいかなる奇跡を起こすことができようか?
13世紀から15世紀にかけて、神のしもべたちは「驚くべき仕事(奇跡)」を成し遂げている。
聖ドミニコは聖なる憤怒に駆られて火と剣で異端を根絶した。アッシジの聖フランチェスコはさしあたり「清貧」を社会制度として確立した。パドヴァの聖アントニウスは貴族や司教の強欲と残虐さから商人や職人を守った。聖カトリーヌは、教皇をローマに連れ戻した。
それゆえに、聖なるひとりの乙女が、神の助けを得て、不幸なフランス王国に、神自身に定められた王権を再興し、聖なる民を救済するために死の淵から救い出された新たなヨアシュ王を、戴冠式へと導くことは、果たして不可能なことだったのか?
⚠️ヨアシュ王(Joash):旧約聖書『列王記』に登場するイスラエル王。ヘブライ語で「ヤハウェが与える」の意。
0.18 その他の文書(6)現代の科学と中世の宗教は同じ
1428年当時、信心深いフランスの人々はジャンヌの使命をこう考えていた。
彼女はみずからを「神の啓示を受けた敬虔な乙女」と表現した。
当時はその主張に、信じがたい矛盾などひとつもなかった。
ジャンヌが「私の主である聖ミカエルから戦争に関する啓示を受けた」と告げたとき、アルマニャック派の兵士やオルレアンの市民に勇気をもたらした。
それは、1871年の冬(補足参照)にロワール川を行軍していたフランス軍に、無煙火薬や改良型の大砲を送り込んだ共和派の技師がもたらした勇気に匹敵する大きな自信である。
⚠️1871年の冬:前年から続く普仏戦争はナポレオン三世の廃位で決着がつくかと思われたが、フランスが敗北による領土割譲を拒否したため、パリが包囲されてしまう。1月、パリ砲撃のさなか、プロイセン王はヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝に即位。1月28日、両国は休戦協定に署名。
⚠️補足:なお、パリ市民は敗戦・講和を認めずに蜂起し、革命自治政府パリ・コミューンを樹立したが、ヴェルサイユ政府軍に鎮圧された(3〜5月)。1871年のフランスは、普仏戦争とパリ反乱を経て第三共和政へと移行する激動の年だった。
1871年当時の人々が「科学」に期待したことと、1428年当時の人々が「宗教」に期待したことは同じものだ。
それゆえ、オルレアンの私生児がジャンヌを起用したのは、ガンベッタがフレシネの専門知識を頼りにしたのと同様に、極めて自然なことだった。
⚠️レオン・ガンベッタ(Léon Gambetta):普仏戦争当時、気球でパリから脱出し、ロワール川流域で臨時政府を樹立。王政・帝政・共和政が次々と入れ替わり混沌としていたフランスが穏健派共和政に進む原動力となった。
⚠️シャルル・ド・フレシネ(Charles de Freycinet):ガンベッタに見込まれて対ドイツ軍部隊を次々と送り込んだ科学者。第三共和制で首相を4期務めた上、アカデミーフランセーズ会員に選出されている。
0.19 ジャンヌの起用法(1)
フランス陣営がジャンヌを非常に巧みに起用した点について、これまで十分に研究されてこなかった。
ポワティエの聖職者たちは、ジャンヌの信仰と道徳について長々と審問をおこなう一方で、彼女を世に知らしめる役割を果たした。
これらのポワティエの聖職者たちは、世俗に疎い修道士などではない。正統な国王の議会を構成する人々であり、大学を追放されたメンバーであり、政治に深く関わり、革命によって立場を危うくし、財産を奪われて没落し、所領を取り戻したいと強く願っていた。
彼らを統率していたのは、国王評議会の中で最も怜悧な人物、ランス大司教公にして国王の宰相(大法官)ルニョー・ド・シャルトルだ。彼らはその儀式張った慎重な審問によって、驚きに満ちた人々の好奇心、興味、そして希望をジャンヌに引き寄せた。[88]
オルレアン市の防衛能力は、城壁、塹壕、大砲、兵員、資金で成り立っていた。他方、イングランド軍はこの町を包囲することも攻撃して占領することもできずにいた。彼らの堡塁(砦)の間を、輸送隊や部隊が通り抜けていた。
ジャンヌは強力な援軍とともに町に入った。
彼女は牛、羊、豚の群れを連れてきた。
町の人々は、彼女を主(神)の使いであると信じた。
その一方で、包囲側の兵士と資金は乏しくなっていた。
彼らは馬をすべて失っていた。新たな攻撃を仕掛けるには程遠く、自分たちの砦を長く維持することはできそうもない。
4月末の時点で、オルレアンの前にいたイングランド人は4000人、あるいはそれ以下だった。伝わっている話によると、兵士たちは日々脱走し、脱走兵の一団が村々を略奪して回っていたから。
対照的に、この町(オルレアン)は6000人の武装兵と弓兵、3000人を超える町民の守備隊に守られていた。
サン・ルーでは英軍400人に対し仏軍1500人、レ・トゥーレルでは英軍400~500人に対し仏軍5000人がいた。オルレアンからの退却によって、ゴドン(イングランド人に対する蔑称)はジャルジョー、ムン、ボージャンシーの小規模な守備隊を運命のもとに見捨てた。[89]
パテーの戦いは、当時のイングランド軍の状態を物語っている。それは戦いというより虐殺に等しく、ジャンヌが到着したときには勝者の残酷さを嘆くことしかできなかった。
それにもかかわらず、国王は善良な町々に宛てた手紙の中で、勝利の一端をジャンヌの功績とした。明らかに、王室評議会は、自軍の「聖なる乙女」を称揚することに重きを置いていた。
しかし、ジャンヌ起用をすすめた者たち、すなわちルニョー・ド・シャルトル、ロベール・ル・マソン、ジェラール・マシェといった面々は本心でどう思っていたのだろうか?
彼らは確実に、ジャンヌを包みこんでいた幻想が「どこから来たのか」について論じる立場ではなかった。
また、教会関係者の中にも無神論者がいたとはいえ、大多数の人々にとって「大天使ミカエルの出現」は驚きではなかった。当時は、奇跡ほど自然(当たり前)に思えるものはなかったのである。
しかし、奇跡とは間近で観察するほど消えてしまうものだ。
そして、彼らの目の前に、そのラ・ピュセルがいた。
彼らは、ジャンヌがいかに善良で聖なる存在であっても、超自然的な力を行使していないことに明らかに気づいていた。
0.20 ジャンヌの起用法(2)
武装兵や一般の民衆は、ジャンヌを神の乙女、王国の救済のために天から遣わされた天使として歓迎した。
一方で、善良な貴族たちは、ジャンヌが呼び起こした信頼の感情を利用することだけを考えていた。彼ら自身は、(ジャンヌが人々にもたらした)信頼の感情をほとんど共有していなかった。
ジャンヌがこの上なく無知であることを見抜き、おそらく実際の彼女よりも知能が低いと見なしていた彼らは、彼女を思い通りに操るつもりだった。
だが、彼らは、それが必ずしも容易でないことにすぐ気づいたに違いない。ジャンヌは聖人であり、聖人とは御しがたいものだからだ。
王室評議会とラ・ピュセルの本当の関係はどうだったのだろうか? 私たちにはわからない。それは永遠に解決しない謎である。
ルーアンの裁判官たちは、ジャンヌが聖ミカエルを称する何者かから手紙を受け取っていると確信していた。[90]
ジャンヌの単純さが、時に利用されたこともあっただろう。
ランスへの進軍が、フランスで彼女に提案されたのではないと信じるに足る理由がある。だが、王国の宰相でありランス大司教であるルニョー・ド・シャルトルが、祝福されたサンレミの司教座への復帰とその恩恵(職録)を享受することを切望していたことは間違いない。
戴冠式の遠征(一連の行軍)は、実のところ、軍事力を背景とした交渉にすぎない。その目的は、善良な町々に、平和を好む聖なる王の姿を示すことにあった。もし戦うことが目的だったなら、この軍事作戦はパリかノルマンディーに向けられていたはずだ。
0.21 ジャンヌの起用法(3)軍事的才能の実態
1456年の尋問(復権裁判)では、5〜6人の証人——隊長、行政官、聖職者、そして誠実な未亡人ひとり——が「ジャンヌは戦いの技術に精通していた」と証言した。彼らは、彼女が誰よりも巧みに馬を操り、槍(ランス)を振るったと口をそろえた。
また、ある請願官(maître des requêtes)は、彼女が鞍の上に座っていられる時間の長さで軍隊を驚かせたと述べている。
ジャンヌにこのような資質が備わっていたことを否定することはできない。また、トロワの前で夜間の軍事行動をおこなった際に、デュノワが彼女の勤勉さと熱意を賞賛したことについても異論はない。[91]
だが、この少女が軍の編成と指揮に長けており、とりわけ大砲の扱いに熟練していたという意見については、にわかには信じがたい。それを確証するには、決して理性的な人物とはいえないあの哀れなアランソン公よりも信頼できる人物の証言が必要だろう。[92]
復権裁判で述べられた証言は、ジャンヌに対する奇妙な美化を十分に説明している。
ジャンヌの軍事的才能は神に由来すると理解されていた。それゆえに、軍事的才能が(個人の資質として)過剰に賞賛されすぎる恐れはなく、いくぶん無分別に(神がかり的に)褒めそやされるようになった。
結局のところ、アランソン公がジャンヌを「優れた砲術家」と表現したのは、極めて控えめな表現だった。
早くも1429年には、シャルル七世側の人文主義者がキケロ風(荘重典雅な)の言葉を借りて、「彼女の軍事的栄光はヘクトル、アレクサンダー大王、ハンニバル、カエサルに匹敵し、あるいは凌駕する」とまで断言している。
「トロイアよ、ヘクトールを回想して喜ぶなかれ。
ギリシャよ、アレクサンダーに歓喜するなかれ。
アフリカよ、ハンニバルに歓喜するなかれ。
イタリアよ、カエサルとすべてのローマの将軍たちに誇るなかれ。
ガリア(フランス)は、古より多くの英雄を有しているが、
この一人の「乙女」あるのみで満足している。
もし、あえて自らを誇り、武勲の誉れを比べることが許されるなら、
他国に勝ると称するであろう」[93]
*
実際のジャンヌは、つねに祈りを捧げ、つねに恍惚状態だった。敵を観察することもなければ、道(地理)を知ることもなく、交戦する兵士の数にも注意を払わず、城壁の高さも塹壕の幅も考慮に入れなかった。
今日でさえ、将校たちがラ・ピュセルの軍事戦術について議論しているのを耳にすることがある。[94]
ジャンヌの戦術は単純だ。それは「男たちが神を冒涜したり、ふしだらな女たちと交わったりするのを禁じる」ことに尽きる。
彼女は、男たちが罪を犯せば滅ぼされるが、恩寵の状態で戦えば勝利を得ると信じていた。危険を恐れなかったという点を除き、それがジャンヌの軍事知識のすべてだ。[95]
彼女は、誇りと優しさを併せ持つ勇気を示した。男たちよりも勇敢で、不屈で、気高く、その点では男たちを導くのにふさわしかった。
そして、これほどの英雄的精神が、これほどの無邪気さと結びついていることは賞賛に値する、稀有なことではないだろうか。
*
実際、一部の指導者、とりわけ王族の諸侯たちは、ジャンヌ以上に多くを知っていたわけではなかった。
当時の兵法は、つまるところ馬術に集約されていた。戦列を率いての合流進軍、兵力の集中、組織的に計画された戦役、大きな成果を目標とする長期的な尽力といった概念は、まったく知られていなかった。
軍事戦術とは、農民の策略の寄せ集めと、騎士道の規則にすぎなかった。
略奪者や隊長、傭兵たちは皆、その道の駆け引きを心得てはいたが、敵も味方も弁えず、彼らの唯一の望みは略奪だった。
貴族たちは名誉や称賛を重んじているように見えるが、実際のところ、彼らも自分の利益しか考えていなかった。
アラン・シャルティエは彼らについてこう語っている。
「彼らは『武器を取れ』と叫ぶが、金のために戦っている」[96]
0.22 ジャンヌの起用法(4)
戦争は人生と同じくらい長く続いたため、熟慮の上で行われた。
重装兵、騎兵や歩兵、弓兵、クロスボウ兵、そしてイングランド人やブルゴーニュ派と同様にアルマニャック派も、さしたる熱意を持って戦っていたわけではなかった。
もちろん彼らは勇敢だったが、用心深くもあり、それを認めることを恥じてはいなかった。
サンドニの唱導者にしてフランス王の年代記を編纂したジャン・シャルティエは、ある日、フランス軍がラニー近郊でイングランド軍と遭遇したときのことを次のように語っている。
「そこでの戦いは激しく熾烈なもので、フランス軍の数はイングランド軍よりもわずかに上回る程度にすぎなかった」[97]
こういう無知な人々は、人間の実力は誰もが互角だと考え、一対一で戦うことの危うさを認識していた。
彼ら(無知な人々)の精神は、革命期や帝国期の人々のようにプルタルコス(古代ローマ時代のギリシア人哲学者で著書『英雄伝』で知られる)を糧としていたわけではなかった。
彼らを鼓舞するために、ベルトラン・バレールの『カルマニョール』やマリー=ジョゼフ・シェニエの歌、ナポレオンの主力・大陸軍の公報といった、国家的な熱狂を生み出すプロバガンダ装置もなかった。
⚠️カルマニョール(carmagnoles):もともとはフランス革命中に流行した有名な革命歌とダンスを指すが、革命精神を高めるために美化・誇張された熱狂的な戦況報告(演説)をこう呼ぶようになった。
⚠️ベルトラン・バレール(Bertrand Barère de Vieuzac):フランス革命期・恐怖政治の時代に活動した公安委員会の委員。軍事的な報告を大げさに飾り立て、敗北や平凡な出来事さえも栄光の伝説に作り変え、英雄的な物語を多数創作。ルイ16世の裁判では「革命の木は王の血を注ぐことでしか成長できない」と猶予なしで処刑する風潮を作ることに寄与した。「国王殺し」「共和国の神話製造工場」の異名を持つ。
⚠️マリー=ジョゼフ・シェニエ(Marie-Joseph Chénier):革命政府のお抱え詩人・劇作家として、兵士の士気を高めるための愛国歌や賛歌を多数創作。
⚠️大陸軍(Grande Armée)の公報:帝政時代の主力軍。この軍の宣伝機関こそがナポレオンの英雄譚を生み出した原点といえる
当時、なぜこれらの隊長や武装兵たちは、他の場所ではなく特定の場所に行って戦ったのか、という疑問が浮かぶのは当然のように思われる……。
なぜなら、彼らは獲物(人の財産・報酬)を求め、それがある場所に引き寄せられていたからだ。
⚠️補足:15世紀当時、兵士の愛国心を高めるプロバガンダの仕組みは存在しない。国や派閥に関係なく、人々が戦う目的は「生計を立てる」ためだった。兵士の仕事場は戦場であり、仕事がたくさん見込める場所に群がった。
0.23 ジャンヌの起用法(5)イングランドが不幸な理由
この絶え間ない戦争は、決して悲惨なものではなかった。「ジャンヌ・ダルクの使命」と称される期間、すなわちオルレアンからコンピエーニュに至るまでの間(約1年)、フランス軍が失った兵力はわずか数百人にすぎなかった。
イングランド軍の被害のほうがはるかに甚大だった。なぜなら彼らは敗走する側で、逃げる際には、身代金を取る価値のない者を皆殺しにするのが勝者の慣習だったからだ。
しかし、戦闘そのものが稀であり、したがって敗北することも稀で、戦闘員の数もわずかだった。フランスにいたイングランド人は、ほんの一握りにすぎなかった。彼らは、ただ略奪のためにのみ戦っていたと言ってもよい。
戦争によって苦しんだのは戦わない人々、つまり市民《ブルジョア》、司祭、農民たちだった。
農民はひどい苦難に耐えていた。それゆえ、ひとりの農民の娘(ジャンヌ)が騎士道全体を通じて類を見ないほどの、戦いにおける不屈さ、粘り強さ、熱意を示したことは、十分に考えられることなのである。
だが、イングランド人をフランスから追い出したのはジャンヌではない。
彼女はオルレアンの解放に寄与したが、戴冠式の遠征によってノルマンディー征服のチャンスを失わせ、その結果、フランスの最終的な救済をかえって遅らせてしまった。
*
1428年以降のイングランドの不幸は、簡単に説明がつく。
平和なギュイエンヌで農業、商業、航海に従事し、財政を整えたおかげで、イングランドが繁栄させた地域の人たちは彼らに強く愛着を抱いていた。
しかし、セーヌ川やロワール川の流域では、事情がまったく異なっていた。そこではイングランド人が根を下ろすことは決してなく、人数があまりにも少なかったため、その地を掌握することはついにできなかった。
征服地を自分のものにしようとするならば、その土地を耕やさなければならないが、イングランド人は要塞や城に閉じこもり、必要な耕作を十分にしなかった。
彼らは征服地を荒廃させたまま放置し、傭兵たちのなすがままに委ね、その傭兵たちによって土地は略奪され、食いつぶされた。
彼らの駐留軍(フランスに駐留するイングランド軍)は驚くほど少人数で、みずから征服したにもかかわらず、いわば囚われの身だった。
イングランドは「長い牙を持っていた(貪欲さの比喩)」が、その牙は「雄牛(フランスの比喩)」を飲み込むことができなかったのだ。
クレシーおよびポワティエの戦いの後、「イングランドはあまりにも小さく、フランスはあまりにも大きい」ということがはっきりとわかった。
イングランドはヴェルヌイユの戦いで勝利したのを最後に、内紛で弱体化した。人手も資金も不足し、さらにウェールズ、アイルランド、スコットランドといった国々を服従させなければならない状況下、不安定な幼君(ヘンリー六世)の治世において、イングランドがもっとうまくやれた可能性があっただろうか?
1428年当時、フランスにいたイングランド人はほんの一握りに過ぎず、勢力を維持するためにブルゴーニュ公の援助を頼りにした。だが、そのブルゴーニュ公もやがて彼らを見捨てて、彼らにあらゆる災厄が降りかかることを願うようになった。
0.24 ジャンヌの起用法(6)英仏の相容れない気質
イングランド人は、新たな土地を攻略する手段も、すでに征服した土地を平定する手段も、同様に欠いていた。
彼らの君主たちが要求した主権そのものの性格や、彼らが主張した権利の本質は、両国に共通する制度に基づいていたため、被征服者(フランス)の同意および忠実な協力と親愛の情がなければ、征服地を組織化することは困難だった。
トロワ条約は、フランスをイングランドに従属させたのではなく、一方の国を他方の国に結合(合併による連合王国)させる取り決めだった。
このような統合は、ロンドンに大きな不安をもたらした。
下院は、イングランドが新王国(英仏連合王国)の単なる孤立した一地域になるのではないかという懸念を隠さなかった。[98]
そもそも、フランス側はトロワ条約に同意しなかった。両国を結合させるのはもはや手遅れだった。この「しっぽのある輩(クエ:イングランド人に対する蔑称)」[99]と戦い続けた長い年月の間に、フランス人はイングランド人を憎むようになっていたのだから。
そしておそらく、互いに相容れないイングランド人の気質とフランス人の気質がすでに存在していたのだろう。
アルマニャック派をサラセン人(イスラム教徒、異邦人)並みに恐れていたパリでさえ、ゴドン(イングランドに対する蔑称)[100]が得られた支援は、きわめて不本意なものだった。
私たちを驚かせるのは、イングランド人がフランスから駆逐されたことではなく、追い出すまでに時間がかかり過ぎていることである。
この遅れは、若い聖人(ジャンヌ)が解放の仕事において役目を果たさなかったことを意味するのだろうか? 決してそうではない。
ジャンヌはもっと気高くてもっと優れたもの、ようするに自己犠牲という役割を果たした。彼女は「至高の勇気」の模範を示し、思いもよらぬ、魅力的な形で英雄的資質を発揮した。
「王の大義」とは実のところ「国民の大義」だったが、ジャンヌは2つの方法でその大義に貢献した。彼女を幸運をもたらす存在と信じていた味方の兵士たちに自信を与え、彼女を悪魔と思い込んでいたイングランド人に恐怖を与えたことである。
0.25 シャルル七世の政府は非難されるべきか(1)
優れた歴史家たちは、1428年当時の大臣や隊長たちがラ・ピュセルを妄信・従属しなかったことを許せずにいる。
だが、彼らの言い分は、当時、アンブラン大司教がシャルル王に与えた意見書とはまったく異なり、それどころか大司教は「人間の理性に基づく手段を放棄しないように」と王に勧めている。[101]
領主や隊長たち、とりわけ「老将ゴークールはジャンヌを妬んでいた」という話がしばしば繰り返されてきた。[102]
しかし、そのような主張は、人間の本性に対する無知をさらけ出している。
彼らの嫉妬の対象はジャンヌではなく、彼らはお互いを妬み、足を引っ張り合っていた。実のところ、この感情こそが、彼らがラ・ピュセルに「戦争の指揮官」という称号を与えることを容認させた嫉妬の正体である。[103]
⚠️補足:王に仕える貴族や隊長たちは、互いに相手の下に立つことを嫌ったため、無害な第三者(貴族でも隊長でもない農民の少女)であるジャンヌを担ぎ上げたに過ぎない。
また、ジャンヌを破滅させるために共謀したと言われる、国王とその隊長たちによる秘密の陰謀について、私はその証拠をひとつも見つけられなかった。
一部の歴史家にはそれらが極めて明白に見えるようだが、私はどれほど努力してもそれを発見できない。
侍従長のラ・トレモイユ卿は高潔な人格など微塵も持ち合わせず、大法官のルニョー・ド・シャルトルは冷酷な人物だった。
だが、私の注意を強く引いたのは、ラ・トレモイユがアランソン公から「この貴重な乙女を欲しい」と求められたときに譲らなかったことと、ルニョー・ド・シャルトルが彼女を利用するためとはいえ手元に引き止めたことである。[104]
私は、ジャンヌがシュリーで囚われの身だったという意見には賛同できない。
⚠️補足:シュリーとは、最後の戦いとなるコンピエーニュへ旅立つ前にいた場所。シャルル七世とその家臣団がジャンヌを妨害していたと考える人たちの主張のこと。
ブルゴーニュ派に捕らわれるまでジャンヌを起用していた大法官(ルニョー・ド・シャルトル)のもとへ赴いたとき、彼女はラッパ吹きを従え、旗を掲げながら堂々と旅立ったと私は考えている。
聖なる少女(ジャンヌ)が去った後、ルニョー・ド・シャルトルは聖痕を持つ羊飼いの少年を起用した。この事実は、王の敵と戦って司教区を取り戻すために信心深い人物を利用する手法を、彼が後悔していなかったことを証明している。
*
優れた歴史家のキシュラや高潔なアンリ・マルタンは、1428年当時の政府を非常に厳しく非難している。
彼らに言わせれば、それは裏切りに満ちた政府だった。
彼らがシャルル七世と側近たちに突きつける非難を一言で表すなら、「彼ら自身(後世の人々)と同じようにラ・ピュセルを理解していなかった」ということに尽きる。
しかし、そのような理解を得るには400年の歳月が必要だ。
ジャンヌ・ダルクに関して、キシュラやアンリ・マルタンのような啓発された見解に到達するためには、300年にわたる絶対王政、宗教改革、フランス革命、共和制と帝制の争い、そして1848年の感傷的な新カトリック主義、それらすべてが必要だったのである。
⚠️1848年の感傷的な新カトリック主義(le néo-catholicisme sentimental de 48):二月革命の後、厳格なカトリック信仰と情緒的なロマン主義を融合させようとした思想的・宗教的な潮流が生まれた。著者アナトール・フランスは、人々がジャンヌを「民衆の魂を体現する神秘的・愛国的な英雄」として情緒的・ロマン主義的なフィルターを通して神格化したことを、皮肉を込めて「感傷的」と言っている。
ロマンチストな歴史家も、視野の広い古文書学者も、これらすべての輝かしいプリズム(歴史を通り過ぎてゆく無数の輝き)とそれに続くフィルターを通してジャンヌ・ダルクの姿を見ている。
哀れな王太子シャルル、ラ・トレモイユ、ルニョー・ド・シャルトル、トレーヴ卿、老将ゴークールなど当時の人たちに対して、数百年かけて形作られたジャンヌ像を見るように要求するのは酷なことだ。彼ら(当時の関係者)にあまりにも多くを求めすぎている。[105]
0.26 シャルル七世の政府は非難されるべきか(2)
しかしながら、次の事実は依然として残る。これほどまでにジャンヌを利用しておきながら、国王評議会は彼女を救うために何もしなかった。
ジャンヌを見捨てたという不名誉は、評議会全体が、そして評議会だけに責任があるのだろうか?
本当に介入するべきだったのは誰か?
それはどのような方法で?
シャルル王は何をすべきだったのか?
身代金を申し出るべきだったのか?
いかなる対価を払おうとも、ジャンヌの身柄がシャルル王に引き渡されることはなかっただろう。
武力で奪還するなどというのは、単なる子供の夢物語にすぎない。仮にフランス軍がルーアンに入れたとしても、そこにジャンヌの姿はなかったはずだ。ウォリック伯は虜囚を安全な場所に移送するか、あるいは川に沈めて処刑する時間がいくらでもあったのだから。身代金も武器も役に立たなかっただろう。
*
しかし、だからといって手をこまねいている理由にはならない。裁判の執行者たちに働きかけることはできたはずだ。
疑いなく、彼ら(裁判の執行者)はみなゴドン(イングランド人)の側についていた。あのカボシュ派の使徒ピエール・コーションは、彼らに深く与しており、フランス人を忌み嫌っていた。ヘンリー六世に忠誠を誓う書記官(聖職者)たちは、官職の任免権を握るイングランド枢密院(大法院)の機嫌を取ろうとするのが常だった。大学の博士や修士たちは、アルマニャック派を激しく嫌い、また恐れていた。
それでも、裁判の判事(裁判官)たちがみな、恥知らずな悪徳裁判官だったわけではない。ルーアンの参事会は、勇気も独立心も決して欠いてはいなかった。[106]
ジャンヌにあれほど辛辣だった大学の構成員の中にも、その学識と人格において高く重んじられている人もいた。
彼らの大部分は、この裁判を純粋に宗教的なものだと信じていた。
魔女を探し求めてばかりいたため、彼らはいたるところで魔女を見出すようになっていた。
彼らが「females(女性に対する蔑視語。雌、女形)」と呼んでいた女性たちを、毎日のように火刑台へ送り、そのことで感謝されるばかりだった。
彼らは、ジャンヌが自分に授けられたと信じた幻視を、彼女と同じくらい信じていたが、彼女が嘘をついているか、悪魔を見たかのどちらかだと確信していた。
司教、副審問官、そして40人以上にのぼる陪席者たちは、ジャンヌを「異端であり悪魔の使徒である」と断定する意向で一致していた。
ジャンヌに判決を下すことで、教会分裂や異端の教唆者たちに対し、カトリックの正統性と服従の統一を守っているのだと考えていた者は大勢いた。彼らは賢明に裁くことを望んでいたのである。
そして、最も大胆不敵で最も恥知らずな者たち、すなわち司教(ピエール・コーション)と推進者(検事ジャン・デスティヴェ)でさえ、イングランド人の機嫌を取るために、教会司法の規則を公然と踏みにじるような真似をあえてやろうとはしなかった。
彼らは聖職者(priests、司祭)であり、聖職者としての矜持《プライド》と形式への尊重を保っていた。
それこそが彼らの弱点だ。(フランス陣営が)この「形式を尊重する」という点をつけば打撃を与えられたはずだ。
もし強力な法的な対抗措置を講じていたならば、彼らの裁判手続きは挫かれ、あるいは停止させられて、あの致命的な判決を阻止できたかもしれない。
もしボーヴェ司教の上級聖職者であるランス大司教が裁判に介入し、権限乱用やその他の理由でその属司教(ボーヴェ司教)を職務停止にしていたならば、ピエール・コーションはひどく窮したことだろう。
もし、後に実行したように、国王シャルル七世がジャンヌの母や兄弟たちに介入を促していたならば。
もしジャック・ダルクとロメ夫妻が、これほど明白に偏った訴訟に対し、正式な書式をもって異議を申し立てていたならば。
もしポワティエの記録[107]が、裁判資料に含めるべく送付されていたならば。
もしシャルル七世に従う高位聖職者たちが、ルーアンに赴いてジャンヌに有利な証言を行うための安全通行証を求めていたならば。
そして最後に、もし国王とその評議会、およびフランス教会全体が、法的に認められた権利として教皇への上訴を求めていたならば——、裁判は別の結末をたどっていたかもしれない。
*
しかし、彼らはパリ大学を恐れていた。
多くの博学な博士たちが主張していた通り、結局のところ「ジャンヌは異端者」であり、「悪魔の主人にたぶらかされた不信心者」かもしれないと恐れたのである。
サタンはみずからを光の天使に姿を変え、真の預言者と偽の預言者を区別することを困難にさせる。
不幸にもジャンヌは、つい先日まで聖職者たちの手の中にいたにもかかわらず、見捨てられた。ポワティエの審議にかかわった聖職者の中で、18ヶ月前に公に認められたジャンヌの潔白を、ルーアンの城に出頭して証言する者は一人もいなかった。
0.27 各時代のジャンヌ評(1)ルネサンス時代/宗教改革/絶対王政期
時代を追って、ラ・ピュセルの評判を辿ってみることはとても興味深い。
しかし、それをやるにはまるまる一冊の本が必要になる。
ここでは、彼女に関する世論の最も顕著な変遷を指摘するにとどめる。
ルネサンス期の人文主義者たちは、彼女にそれほど大きな関心を示さなかった。彼らにとってラ・ピュセルはあまりにも《《ゴシック》》(中世の古臭さ)すぎた。
⚠️ゴシック(gothique):時代によって意味が異なる。本来、12世紀の建築様式のことだが、ルネサンス期の人文主義者にとってゴシックとは「古典(古代ギリシャ・ローマ)」の対義語で、「古臭くて野蛮な中世の暗黒時代」を指す蔑称。
宗教改革者たちにとって、彼女は偶像崇拝に汚染された存在であり、彼女の肖像を容認することはできなかった。[108]
現在の私たちには奇妙に思われるが、それでもなお確かなことであり、またフランス人の王権に対する感情について知っているあらゆる事柄とも合致しているのは、王政が続いている間、ジャンヌ・ダルクの記憶を生かし続け、彼女を忘却から救ったのは、シャルル七世の記憶のおかげだったということである。[109]
忠臣たちは君主への敬意から、ジャンヌの伝説を深く詮索することを差し控えるのが常だった。それは、聖油のアンプルや瘰癧の治癒(王の手は病気を癒すとされていた)、オリフラム、フランス王室の由緒と栄光にまつわるその他多くの俗説についても同様だ。
1609年、パリのある大学で、ラ・ピュセルがさまざまな文学的主題の題材となり、彼女が不当な扱いを受けていたとき[110]、このヒロインと同郷であることを自慢していたジャン・ホルダルという弁護士は、こうした学術的論争は王の威厳を貶めるものだと不満を漏らした。「私は非常に驚いている」と彼は言った。「フランスの、そして国王シャルル七世とその評議会[111]の名誉を公然と非難する弁論がフランス国内で行われていることに」
もしジャンヌが王権とこれほど密接に結びついていなかったら、彼女の記憶は17世紀の知性によって、甚だしく傷つけられていただろう。
カトリックかプロテスタントかに関係なく、学者たちは、聖マルガリータの生涯を単なる迷信と見なしていたため[112]、ジャンヌが見た幻視は彼女の評価を損なう(害をもたらす存在)ものだった。
当時は、パリ大学ソルボンヌ学寮の神学者たちでさえ、殉教者列伝や聖人伝を否定して削除訂正を行っていた。
その中の一人、ジャンヌと同じシャンパーニュ出身で、1600年に大学の検閲官を務めた熱烈なガリカニスム信奉者エドモン・リシェは、シャルル七世の王冠を剣で守った「ラ・ピュセル」のために弁護録を書いた。[113]
フランス教会の自由(ガリカニスム)の断固たる信奉者だったとはいえ、エドモン・リシェは善良なカトリック教徒だった。
リシェは敬虔で健全な教義を身につけ、天使の存在を固く信じていたが、聖カタリナや聖マルガリータは信じておらず、彼女たちがラ・ピュセルの前に現れたという話にひどく困惑した。
彼は、天使たちは、無知な彼女が敬虔に崇拝していた二人の聖女の姿を借りて現れたのだと仮定することで、この難題を解決した。
この仮説は、彼にとって納得のいくもので、「教会を統治する神の霊は、私たちの弱さに合わせてくださるのだから、なおさらである」と述べている。
30年か40年後、常に聖人の真偽を嗅ぎ回っていたもう一人のソルボンヌの博士ジャン・ド・ラノワが、聖カタリナ伝説の信憑性を完全に失墜させた。[114]
ドンレミの声(ジャンヌ)は評判を落としつつあった。
0.28 各時代のジャンヌ評(2)壮大な叙事詩はくだらない滑稽劇へ
たとえば、1656年に最初の詩を刊行したシャプランを例に挙げてみよう。
アカデミーフランセーズの主催者および創設者のジャン・シャプランは、無意識のうちにバルレスク(Burlesque:英雄を茶化した滑稽劇)を書き上げた、自覚なきスカロンである。
⚠️ジャン・シャプラン (Jean Chapelain):20年以上の歳月をかけて叙事詩『ラ・ピュセル、あるいは解放されたフランス』を執筆。本人は「不朽の名作」にするつもりで大まじめに、厳格なルールに従って書いたが、あまりに退屈で不自然な文体だったため猛烈な不評を買い、嘲笑された。
⚠️ポール・スカロン (Paul Scarron):シャプランと同時代の作家だが作風は正反対。バルレスク(道化風・滑稽詩)というパロディ喜劇で活躍。
⚠️バルレスク(Burlesque):英雄や神話といった「崇高な題材」を茶化して、滑稽な道化にして笑いをとる低俗な演劇。
⚠️わかりやすく補足:シャプランは壮大な叙事詩を書いたつもりだが、出来が悪すぎてくだらない茶番劇にしか見えなかった。彼は、自分がスカロンのような滑稽作家になっていることにすら気づかないまま、結果としてジャンヌ・ダルクを茶化して笑いものにした。なお、同じ17世紀には、騎士道物語の読み過ぎで現実と物語の区別がつかなくなった郷士を主人公にした『ドン・キホーテ』が刊行されており、英雄譚を茶化す作風が流行していた。
とはいえ、シャプランがこの叙事詩のテーマについて、単に「オルレアンの私生児を賛美する機会」として扱ったに過ぎないことを、彼自身の言葉から知るのは興味深い。彼は序文ではっきりとこう述べている。
「私は彼女(ラ・ピュセル)をこの叙事詩の主人公とは思っていなかった。厳密に言えば、主人公はデュノワ伯である」
シャプランは、デュノワの末裔であるロングヴィル公爵に仕えていた。(扶養されていた、つまりパトロン)[115]
つまり、彼がこの叙事詩で真に歌い上げたかったのはデュノワ伯なのだ。この善良な作家自身の表現によれば、輝かしき羊飼いの娘(ジャンヌ)は詩に「驚異・奇跡」の要素と「超自然的な仕掛け(machine)」を提供する役割を果たしているのである。
⚠️仕掛け(machine):17世紀の文学論で、神や天使が物語に介入する演出「デウス・エクス・マキナ」のこと。神や奇跡を演出する便利な舞台装置。
聖カタリナと聖マルガリータは、こういう「仕掛け」の中に含めるにはあまりに陳腐な存在だった。
シャプランは、この叙事詩を構成するにあたり、「神の恩寵によって起こったすべての事柄が、自然が到達しうる最高の高みに到達した人間の力によって行われたと信じられるように」細心の注意を払ったと語っている。
ここに、近代精神の夜明け(黎明期)を見出すことができる。
⚠️補足:15世紀の人々は「奇跡=神の恩寵」を盲目的に信じたが、17世紀の人々は「奇跡=人間の力で成し遂げた、自然のメカニズム」と考えるようになった。
0.29 各時代のジャンヌ評(3)ボシュエ著『王太子教育のためのフランス史略』
王家の家庭教師で、王権神授説を唱えたジャック=ベニーニュ・ボシュエも、聖カタリナと聖マルガリータに言及しないよう慎重を期している。
彼が『王太子教育のためのフランス史略(Abrégé de l'Histoire de France pour l'instruction du Dauphin)』[116]の中でジャンヌ・ダルクに割いている4〜5ページほどの記述は非常に興味深い。
それは、混乱した不正確な事実の記述[117]のためではない、ジャンヌに起因する奇跡的な行為を、「付随的で疑わしいもの」として表現しようと腐心する著者の配慮を感じるからである。
ボシュエの見解は、ジャン・ジェルソンの意見書と同じだ。ジャンヌにまつわる事柄は、信仰の問題ではなく教化(啓蒙)の問題なのである。
王太子を教育するためにペンを執っていたボシュエは、内容を簡略化せざるを得なかった。
しかし、ジャンヌの有罪判決について「ボーヴェ司教の仕業である」と表現しながら、司教がパリ大学の満場一致の同意を得て、副審問官と共同でこの判決を下したという事実に触れないのは、簡略化の度を越している。[118]
⚠️ジャック=ベニーニュ・ボシュエ (Jacques-Bénigne Bossuet):ルイ13世の王妃アンヌ・ドートリッシュが「王の説教師および助言者」と称賛するほど気に入られ、王太子の教師を10年以上務めた。王権神授説を提唱し、専制政治を推進した人物として知られている。
0.30 各時代のジャンヌ評(4)18世紀の啓蒙思想家/フランス革命
18世紀の哲学者(啓蒙思想家)たちは、イナゴの群れのように突如としてフランスに襲来したのではない、彼らは2世紀にわたる批判精神の結果だ。
彼らが「ジャンヌ・ダルクの物語は修道士的な迷信が多すぎる」と感じたのは、彼らが、敬虔ではあるが伝説に対しては非常に批判的だったバイエやティーユモンから教会史を学んだからである。
⚠️アドリアン・バイエ(Adrien Baillet):17世紀後半の歴史学者。それまでの聖人伝にありがちな「根拠のない奇跡や迷信」を排除し、事実に基づく記述に徹した。
⚠️ル・ナン・ド・ティーユモン(Le Nain de Tillemont):17世紀後半の歴史学者。現在の歴史学まで続く「一次資料を引用して客観的に検証する」標準スタイルを確立。
⚠️補足:18世紀の啓蒙思想家たちは、バイエやティーユモンのような『信仰心は厚いが、歴史的事実に厳しい学者』が書いた本を読んで育ったため、伝説と事実は分けるべきだと考える批判精神を持っている。ジャンヌの伝説についても同様。
ヴォルテールは、ジャンヌについて記す際、悪徳修道士と彼らに欺かれた手先たちを嘲笑した。
しかし、『ラ・ピュセル』の一節を引用するなら、『哲学辞典』の項目[119]も引用してはどうだろう。そこには、ヴォルテールを聖職者特有の隠語で侮辱している現代の膨大な著作よりも、はるかに深い真実と高潔な思想が3ページにわたって記されている。
*
ジャンヌがよりよく知られ、より正当に評価され始めたのは、まさに18世紀末のことだ。
最初は、ラングレ・デュ・フレノワ師が、エドモン・リシェの未完の歴史草稿からほとんどすべて引用した小冊子[120]によって。次に、二つの裁判に関するラヴェルディの学術的な研究によって。[121]
⚠️エドモン・リシェについては、本ページの『0.28 各時代のジャンヌ評(1)』後半参照。
それにもかかわらず、人文主義、次いで宗教改革、その後のデカルト主義、さらにその後の経験哲学は、思慮深い人々の精神から「古い信義(妄信)」を追い払ってしまった。
革命が起こったとき、ゴシック的な伝説という花はすでに色褪せていた。
フランス王家の伝統と密接に結びついていたジャンヌ・ダルクの栄光は、王政とともに消え失せ、王家の霊廟サン・ドニの遺灰やランスの宝物を散逸させたあの大嵐(革命による破壊工作)が、ヴァロワ家の聖女の脆い遺品や崇拝された像も押し流してしまうかのように思われた。
実際、新体制は、王室や宗教と切り離すことのできないジャンヌの記憶を称えることを拒否した。
オルレアンのジャンヌ・ダルク祭は、1791年に教会的な華やかさを剥ぎ取られ、1793年には廃止されるに至った。
後年、亡命貴族(エミグレ)たちにとってさえ、ラ・ピュセルの歴史は古めかしすぎると映り、シャトーブリアンでさえ著書『キリスト教精髄(Génie du Christianisme)』[122]の中にラ・ピュセルを登場させる勇気はなかった。
しかし、共和暦(フランス革命暦)11年(1803年)に政教条約を締結したばかりで、戴冠式のあらゆる儀礼を復活させようと考えていた第一執政ナポレオン・ボナパルトは、香炉と十字架によるラ・ピュセルの祭典を復活させた。
⚠️|政教条約《コンコルダート》(Concordat):ローマ教皇と国家間で結ばれる政教条約。
かつてシャルル七世が良き町々に宛てた手紙の中で称えられたジャンヌは、今度はボナパルトの官報『ル・モニテュール』の中で賞賛されるようになった。[123]
0.31 各時代のジャンヌ評(5)歴史上の人物は変化し続ける
詩や歴史上の人物は、絶えず変化することによってのみ、国民の精神の中に生き続ける。人は、古い時代の人物に対して、自分の感情や情熱を投影させなければ、関心を持つことはできない。
ジャンヌ・ダルクの記憶は、王権神授説と結びついた後、王政が成し遂げた国家統一と結びつくようになった。帝政および共和制のフランスでは、ラ・パトリ(La patrie、愛国者)の象徴となった。
イザベル・ロメの娘(ジャンヌ)は、今日考えられているようなラ・パトリの概念など——その根底にある土地所有の概念と同様に——持ち合わせてはいなかった。私たちが国民(nation)と呼ぶものも、一度も想像したことがなかった。
それは極めて近代的な概念だ。だが、ジャンヌは、王の継承(遺産相続)とフランス王家の領地については理解していた。
フランス人がラ・パトリを形成する以前に集まった場所こそが、王の領地であり、その継承(遺産)の中だったのである。
私たちには正確に突き止めることのできない何らかの影響下で、ジャンヌの中に「王太子を本来継承すべき地位に復帰させる」というアイデアが芽生えた。彼女にとってあまりに壮大で美しいアイデアだったため、その極めて純真な自負心ゆえに、彼女はこのアイデアが天国から来た天使や聖人に授けられたと信じた。
ジャンヌはこのアイデアに人生を捧げた。だからこそ、彼女は自分に苦難を味わわせたその大義よりも長く生き続けてきたのである。
いかに崇高な使命であっても、敗北すれば滅び、勝利すればなおさら確実に消え去るものだ。
だが、その使命を成し遂げるべく鼓舞した自己犠牲(献身)の精神は、不滅の模範として残り続けた。
そして、もしジャンヌの感覚を狂わせたあの幻影が、自己犠牲的な献身行為に彼女を駆り立てたのだとすれば、この幻影は、彼女自身の心が無意識に生み出した産物といえるのではないか?
ジャンヌの「愚かさ」は知恵よりも賢明だった。なぜなら、殉教(自己犠牲)とは愚直さであり、それなくして人類は偉大なものも有益なものも築き上げたことはないのだ。
都市も、帝国も、共和国も、犠牲の上に成り立っている。
それゆえ、熱狂的な空想力《イマジネーション》によって変貌を遂げたジャンヌ像が、「武装したラ・パトリ(愛国者)」の象徴となったことは、理由のないことではなく、また正当性を欠くことでもないのである。
0.32 各時代のジャンヌ評(6)ジャンヌ研究の始まりとおすすめ文献(19世紀)
1817年、帝国の栄光を妬む王党派のル・ブラン・ド・シャルメット(Le Brun de Charmettes)[124]が、ジャンヌ・ダルクに関する最初の愛国的な歴史を著した。
この歴史書はよくできていた。その後、同じ精神で構想され、同じ計画に基づいて構成され、同じ文体で書かれた多くの作品が続いた。
1841年から1849年にかけて、ジュール・キシュラ(Jules Quicherat)が2つの裁判の記録と証言を出版したのを皮切りに、比類なき調査と発見の時代がみごとに幕を開けた。
時を同じくして、ジュール・ミシュレ(Michelet)は『フランス史』第5巻で、色彩豊かで躍動感あふれる記述を著しており、これは間違いなくラ・ピュセルに適用されたロマン主義芸術の最高峰の表現として、後世に残るだろう。[125]
しかし、1817年から1870年の間に書かれたすべての歴史書の中で、少なくとも私が目を通したすべての中で——私はすべてを読んだわけではない——、最も洞察に満ちているのは、ヴァレ・ド・ヴィリヴィル著『シャルル七世の歴史(Histoire de Charles VII)』第4巻である。そこではラ・ピュセルを、彼女が真に属している幻視者の群像の中に位置づけることに主眼を置いている。[126]
*
ワロンの著書は、広く読まれたとは言えないまでも広く普及した。
単調で良心的な、ほどほどの熱意を込めた著作であるが、その成功は、非の打ちどころのない正確さによるものである。[127]
もし、社交界の人々にふさわしい正統派なジャンヌ・ダルクが必要ならば、マリウス・セペによるラ・ピュセルの描写も同じくらい正確で、より優美なものと言えるだろう。[128]
1871年の戦争(普仏戦争)の後、敗戦によってむしろ高揚した愛国心と、中産階級の間でカトリック復活という二つの影響が、ラ・ピュセルへの崇拝に新たな弾みをつけた。
芸術と文学が、ジャンヌの変容を完成させたのである。
博学なカノン(聖堂参事会員)デュナン[129]のようなカトリック教徒たちは、ジョセフ・ファーブル[130]のような自由思想の理想主義者たちと、その熱意と情熱で競い合っている。
ファーブルは、2つの裁判の記録を、現代フランス語による直接話法という極めて芸術的な手法で再現することによって、ラ・ピュセルに関する最も古く、かつ最も感動的な印象を大衆に広めた。[131]
この時期から、数えきれないほどの学術的な著作が生み出されたが、中でもシメオン・リュスの著作は特筆すべきもので、今後、ジャンヌの幼少期を論じようとする者は、これを無視することはできない。[132]
また、ジェルマン・ルフェーブル=ポンタリス(Germain Lefèvre-Pontalis)氏による優れた校訂版著作や、学術的でありながら優美で正確な洞察に満ちた研究に対しても、同様に恩義を感じている。
ロマン派と新カトリック派の熱狂に包まれた時代を通じて、絵画や彫刻の芸術は、それまで非常に稀であったジャンヌの姿を多数生み出した。
今やいたるところで、甲冑を身につけて騎乗するジャンヌ、祈りを捧げるジャンヌ、囚われのジャンヌ、殉教の苦しみに耐えるジャンヌの姿が見られるようになった。
この時代の趣向や感情をさまざまな方法と価値観で表現したこれらの作品すべての中で、ただひとつ、偉大で真に迫った、驚くべき美しさを放っている作品がある。フランソワ・リュードの『幻影を見るジャンヌ・ダルク』である。[133]
⚠️補足:原著に書かれている作品名とはやや異なるが、リュード作のジャンヌ・ダルクといえばこれだろう。

0.33 ラ・パトリ(1)シャルティエによる「擬人化されたフランス」
ラ・ピュセルの時代(15世紀)にはラ・パトリ(祖国・愛国者)という言葉は存在しなかった。人々が語っていたのはフランス王国のことだ。[134]
法学者でさえ、絶えず変化するその境界がどこにあるのかを正確に知る者はいなかった。法と慣習の多様性は際限がなく、貴族たちの間では絶えず紛争が巻き起こっていた。
それでもなお、人々は、自らの郷土を愛し、異邦人を憎むという思いを、その心に抱いていた。
百年戦争がフランスの国民感情を作り出したのではないとしても、それを育んだのは確かである。
アラン・シャルティエは著書『カドリローグ・アンヴェクティフ(Quadrilogue Invectif:四対話の糾弾)』の中で、貴族、聖職者、第三身分の紋章で豪華に飾られながらも、嘆かわしいほどに汚れ、引き裂かれた衣をまとった姿でフランスを擬人化し、自分を滅亡させないでほしいと三身分に呼びかけている。
フランスは「カトリックの信仰の絆のもとに」と彼らに語りかける。「自然(摂理)は何よりもまず、汝らの郷土の救済のために、そして汝らが生まれ生活するように神が定めたその主権を守るために、汝らが団結するよう求めている」[135]
これは、古代の美徳に通じた詩人による単なる格言ではない。
名もなきフランス人たちの心にも、生まれ故郷に尽くすことが義務として刻まれていた。
1428年、ジャンヌの戦友となったロレーヌの兵士は「王が王国から追い出され、私たちはイングランド人にならなければならないのか?」と叫んだではないか。[136]
⚠️『四対話の糾弾(Quadrilogue Invectif)』:アラン・シャルティエが1422年に執筆した寓話で、中世フランス文学における重要な政治的著書。四者の立場から現状を厳しく告発し合う対話劇。女性として擬人化された「フランス」と三身分(平民、貴族、聖職者)との対話を通じて、百年戦争による人々の苦しみを訴え、イングランドの侵攻に対するフランスの団結を呼びかけた。
⚠️背景:1422年、英王ヘンリー五世と仏王シャルル六世の死去にともない、パリおよび北フランスでは幼君ヘンリー六世が英仏二重王国の王に即位し、ロワール川以南ではシャルティエが仕える王太子(シャルル七世)がフランス王に即位した。作中で擬人化されたフランスは、シャルティエから見たシャルル七世(当時19歳)の姿か、シャルル七世の想いを代弁して書かれたのかもしれない。なお、写本の絵がとても可愛いです。
⚠️補足:それまで「王への忠誠」や「キリスト教徒としての連帯」が主だった時代に「共通の祖国(パトリ)」という画期的な概念を持ち出し、シャルティエは「自然(摂理)によって、人は自分の生まれた国を救うために団結する義務がある」と説いた。これは、個々の身分の利害を超えた「国民意識」の萌芽を示すもので、フランス文学史・政治史において非常に高く評価されている。ジャンヌ・ダルクが登場する数年前に、こうした「祖国愛による団結」を訴える文学作品が知識人の間で読まれていたことは、当時のフランスにおける精神的な転換期を象徴している。

0.34 ラ・パトリ(2)ラブレー著『パンタグリュエル物語』に見られる祖国愛と敵対心
百合の紋章を戴く臣民(フランス人)も豹の紋章を戴く臣民(イングランド人)も、主君に忠誠を尽くすことを当然の義務と考えていた。
しかし、自らが帰属する領地に不都合な変化が生じたとしても、人々はその変化に甘んじる用意もできていた。なぜなら、権力や時の運、あるいは領主の正当な権利や意向次第で、領地は拡大したり縮小したりするのが常であったからだ。結婚や贈与、相続で分割されることもあれば、諸々の契約・条約で譲渡されることもあった。
ジャン二世(シャルル七世の曽祖父)の領土を著しく縮小させたブレティニー条約の際、パリ市民は通りに草や花を撒いて喜んだ。[137]
実際、貴族たちは必要とあれば、何度でも忠誠を誓う相手を変えた。
ジュヴネル・デ・ウルサンは日記(Journal)[138]の中で、「イングランドがノルマンディーを征服したとき、ある若い未亡人は、海を越えてきた王(イングランド王)に忠誠を誓うことを避けるために、3人の子供を連れて自らの領地を出ていった」という話を伝えている。
⚠️ジャン・ジュヴネル・デ・ウルサン(Jean Juvénal des Ursins):ピエール・コーションの後任としてボーヴェ司教に任命され、のちにランス大司教になる。ジャンヌの復権裁判で裁判長を務め、ルイ十一世を戴冠させた。上巻・第七章『7.1 最初にジャンヌを審理した人(1)シャルル七世の忠臣』参照。
しかし、かつての王国の敵に対して忠誠を誓うことを拒否したノルマン貴族が、彼女の他にどれほどいただろうか?
王家の血縁者でさえ、国王に対する忠誠の模範をつねに示したわけでもなかった。
ブルボン公は、彼とともにイングランドの捕虜となっていたすべての王侯の名において、ヘンリー五世に「アルフルールの割譲」についてフランスで交渉するよう提案し、その際、もし国王評議会が割譲を拒否した場合はヘンリー五世をフランス王として認めると約束した。[139]
誰もが、自分のことを第一に考えていた。
領主は、所有する土地にのみ義務を負っており、隣人は敵だった。
市民は、自分が暮らす都市のことしか考えていなかった。
農民は、知らない間に主人が変わっていることもあった。
三つの身分は、現代的な意味での「国家」を形成するほどには、まだ密接に結びついていなかった。
王権は、少しずつフランスを統合していった。
王権が強力になるにつれて、この結びつきはより強固なものとなった。
16世紀から17世紀にかけて、大国(偉大な国民)を生み出す源となる、共通の思考と行動を求める傾向が、人々の間で非常に強くなった。少なくとも王家に仕える家系はそうであり、それは社会の下層階級にまで広がった。
ラブレーは自著の中で、詩人フランソワ・ヴィヨンとイングランド王を登場させているが、まるでナポレオンの擲弾兵の一人が野営の篝火を囲みながら語っているかのような、軍人的な威勢の良さに満ちあふれている。[140]
⚠️フランソワ・ラブレー(François Rabelais):16世紀の医師で風刺作家。高い教養と下ネタを融合した中世騎士道物語のパロディーを偽名で執筆。アナトール・フランスが言及しているのは大著『パンタグリュエル物語』第四巻・第67章のこと。
⚠️『パンタグリュエル物語』第四巻・第67章のあらすじ:15世紀の放浪詩人フランソワ・ヴィヨンはパリで罪を犯してイングランドに逃亡し、イングランド王(エドワード四世)に気に入られる。王がヴィヨンをトイレに案内すると、フランス王家の紋章フルール・ド・リスが掲げられていた。イングランド王は、フランスを侮辱するためにわざと不潔な場所に紋章を飾っていた。王に感想を尋ねられると、ヴィヨンはこう答えた。「陛下、これは実に理に適っております。イングランド人はフランス人を見ると、あまりの恐ろしさにすぐにお腹を下して(漏らして)しまいます。ですから、ここにフランスの紋章があれば、それを見ただけでイングランド人はすぐに用を足すことができて便利というものです」——フランスの紋章を侮辱したイングランド王に対し、詩人ヴィヨンが機知に富んだ愛国的な悪口でやり返したという、当時のフランス人の自尊心をくすぐる有名な笑い話。
⚠️わかりやすく補足:ジャンヌの時代(15世紀前半)は、領主やキリスト教への忠誠心はあれど国家への愛国心はまだ希薄だった。ラブレーの時代(16世紀)になると「フランス人としての誇り」や「イングランドへの国民的な対抗心」が明確に現れた。これを踏まえて、アナトール・フランスは、ラブレーが執筆した「ヴィヨンの不遜で愛国的なジョーク」を、19世紀のナポレオン軍の兵士みたいだと指摘している。つまり、「自国は最強であり、敵国をユーモアを交えて見下す」という態度は、近代的な「愛国心」の現れである。
0.35 ラ・パトリ(3)革命が生み出したもの
既出の叙事詩の序文で、ジャン・シャプランは「私たちの共通の母であるラ・パトリ(祖国)が、そのすべての子供たちを必要とする時」について記している。この老詩人は、まるで『ラ・マルセイエーズ』の作詞者のごとき表現を、早くも17世紀から用いている。[141]
⚠️ジャン・シャプランについては、本ページの『0.29 各時代のジャンヌ評(2)壮大な叙事詩はくだらない滑稽劇へ』参照。
旧体制(アンシャン・レジーム:王政時代のこと)のもとで、ラ・パトリへの想いが存在したことは否定できない。
とはいえ、革命がこの感情に与えた衝撃は、計り知れないほどに巨大だった。
革命は、ラ・パトリに「国民的統一」と「国家の領土保全」という概念をつけ加えた。
革命は、それまで少数にしか認められていなかった財産権(所有権)をすべての人に拡大し、それによって、いわばラ・パトリを市民たちの間で分かち合ったのである。
新体制は、農民に「所有する権利」を与えた一方で、現実または潜在的な「所有物を防衛する義務」を課した。土地財産を所有する者、所有したいと望む者、どちらにしろ武器への依存は避けられない。
フランス人が人間および市民としての権利を享受するようになり、自分の家や土地を所有し、あるいは所有したいと考えるようになった頃、対フランス大同盟の軍隊が「かつての奴隷状態へと追い戻すために」やってきた。(⚠️フランス革命戦争の勃発)
その時、愛国者は兵士となった。23年にわたる戦争は、勝利と敗北を繰り返しながら、祖国への愛と異邦人への憎しみを築き上げた。
その後、産業革命の結果として、国々の間に対抗意識が生じ、それは日を追うごとに激しさを増している。
現在の生産方式は、国家間の対立を増幅させることによって、帝国主義、植民地拡大、武装による平和をもたらした。
しかし、この恐るべき新たな秩序の形成過程において、どれほど多くの相反する力が働いていることか!
あらゆる国で商業と製造業が著しい発展を遂げ、新たな階級が生まれた。
この階級は何も持たず、未来永劫何かを所有できる希望もなく、生活の恩恵も、日の光さえも享受していない。そのため、彼ら(新しい階級の構成員)は、革命期の農民や市民を苛んでいた「外国からやってくる敵に略奪される」恐怖を共有していない。彼らは、守るべき富を持たないがゆえに、諸外国を恐怖や憎悪の対象と見なさないのである。
⚠️新しい階級の構成員:産業革命で生まれたプロレタリアート(都市労働者、無産階級)のこと。アナトール・フランスは、従来の「国境で区切られた愛国心」とは異なる、新しい価値観や国際的な連帯が生まれる可能性を示唆している。共産主義国家の誕生を予見していたといえる。
同時に、世界中のあらゆる市場で金融勢力が台頭してきた。彼らは、しばしば古い伝統を尊重する振りを見せるものの、その機能そのものが本質的に、民族と愛国の精神を破壊する存在である。
普遍的な資本主義制度は、他のあらゆる国々と同様に、フランスにおいても、労働者の国際主義と金融資本家のコスモポリタニズム(国際主義)を生み出した。
⚠️コスモポリタニズム(cosmopolitanism):世界主義・国際主義。19世紀〜20世紀初頭の時代背景に基づいた概念だが、現代(21世紀)のグローバリズムと本質的には同じ。
⚠️補足:プロレタリアート(都市労働者)は財産を持たず、土地に根ざしていない。資本家は「富の増殖」を重視する、いわば世界市民《コスモポリタン》である。両者ともにラ・パトリに縛られない、言い換えれば「伝統的な祖国・郷土愛の破壊者」である…という皮肉が込められている。
0.36 ラ・パトリ(4)献身・自己犠牲の根底にあるもの
二千年前と同じく今日においても、未来を予測するには偉人たちの事業ではなく、労働者階級の混沌とした動きに目を向けなければならない。
諸国の人々は、これほど重い負担がのしかかる「武装による平和」にいつまでも耐え続けることはないだろう。私たちは日々、労働者たちの普遍的な共同体(労働組合)が組織されていくのを目の当たりにしている。
私は、《《未来の諸国民による連合》》を信じている。それは、エピクテトスやセネカの時代にラテン人の中で形成され、ヨーロッパの野蛮さによって数百年かき消されていたものの、近代の最も気高い人々の胸の中でよみがえった、人類に対する燃えるような慈愛に満ちたものだ。
⚠️エピクテトス(Epictetus):古代ギリシャのストア派の哲学者。
⚠️セネカ(Seneca):古代ローマ帝国の哲学者。
これらは単なる欲望が見せる夢・幻想に過ぎない、という反論は無意味だ。生命を生み出すのは欲望であり、未来とは哲学者の夢を注意深く実現していくものなのだから。
⚠️補足:本書は1908年刊行。1914〜1918年の第一次世界大戦を経て、1920年に国際連盟が発足している。著者アナトール・フランスの夢(未来の諸国民による連合)や未来予測がどうなったかを知れるのは、21世紀の読者の醍醐味といえる。
とはいえ、現在、何ものにも乱されることのない平和が保証されている、などと主張するのは狂人だけだろう。
それどころか、私たちの周りで激化する恐ろしい産業上・商業上の対立は、将来の紛争を示唆しており、フランスがある日、ヨーロッパまたは世界の巨大な戦火に巻き込まれないという保証はどこにもない。
フランスの義務である「自国防衛に備える」は、生産競争と階級対立で深刻に揺れ動く社会秩序がもたらすさまざまな困難を、少なからず増大させている。
絶対的な帝国主義は、恐怖を煽ることで擁護者(支持者)を獲得するが、民主主義は、利益を与えることによってのみ擁護者を獲得する。
あらゆる献身の根底には、恐怖または利害がある。
もし、フランスのプロレタリアート(都市労働者)たちが、危機の際に共和国を英雄的に守るべきだと主張するならば、彼らは幸福でなければならないし、幸福になれるという希望を持てる状況でなければならない。
自分自身を欺くことに何の意味があるのだろうか?
今日のフランスにおける労働者の運命は、ドイツより優れているわけではなく、イギリスやアメリカほど恵まれてもいないのだ。
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これらの重要なテーマについて、私は自分に見えている真実を言語化して語らずにはいられなかった。有益で正しいと信じていることを述べるのは、大きな満足感がある。
さて、あとは、歴史を記述するという難しい技術について、読者に2〜3の考察を提示し、本書に見られる形式や言語上のいくつかの特徴について説明するだけだ。
0.37 歴史書を執筆するために必要なこと(1)視野の拡大縮小
さて、あとは、歴史を記述するという難しい技術について、読者に2〜3の考察を提示し、本書に見られる形式や言語上のいくつかの特徴について説明するだけである。
過ぎ去った時代の精神に分け入り、往時の人々の同時代人となるには、周到な研究と慈しみ深い配慮が必要である。
その難しさは、「何を知らなければならないか」ということよりも、むしろ「何を知ってはならないか」という点にある。
もし本当に15世紀に生きようとするならば、知識や技能、私たちを現代人たらしめているすべての獲得物——、どれほど多くのことを忘れなければならないことか。
地球が丸いこと、星々が太陽(恒星)であって水晶の天蓋から吊るされた灯火でないことを忘れなければならない。ラプラスの宇宙進化論(cosmogony)を忘れて、聖トマスやダンテ、中世の宇宙誌家(cosmographers)たちが説く「七日間の天地創造」や「大トロイアの滅亡後にプリアモスの息子たちが諸王国を建国した」という科学を信じていなければならない。
⚠️ピエール=シモン・ラプラス(Pierre-Simon Laplace):近代フランスの天文学者・数学者。ニュートン力学を宇宙に当てはめて、天体の万有引力と公転運動に拡張。太陽系天文学という分野を確立した。
⚠️宇宙誌(Cosmography):現代の宇宙科学(Cosmology)の語源だが、この文脈では「古代の地理・天文学を包括した中世の学術分野」のこと。
歴史学者と古文書学者は、ラ・ピュセルと同じ時代を生きた人々がどんな人格だったかを理解させる力がない。彼らに欠けているのは知識ではなく無知である。現代の戦争、現代の政治、現代の宗教に対する無知なのだ。
当時の人々と同じ視点に立つには、まず初めに「後世の出来事(シャルル七世の青年期以降)をすべて忘れる」必要がある。だが、それだけでは不十分だ。当時の人々には見えていなかった「歴史の全体像」や「因果関係」を解き明かすために、今度は「現代の知性」を総動員して、出来事を客観的に捉え直さなければならない。
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アルフレッド・ド・ヴィニーの戯曲『チャタートン』では、古きサクソン人の時代以降に起こった出来事を何ひとつ意識しないことを説明する際に、「僕は自分の地平線を狭めた」と述べた。
しかし、チャタートンが書いたのは詩や疑似年代記であって、歴史ではない。
歴史家は、自分の視野(地平線)を狭めたり広げたりを、交互に繰り返さなければならない。
⚠️トマス・チャタートン(Thomas Chatterton):18世紀イギリスの贋作詩人。中世の古文書を発見したと称して架空の詩人をでっち上げて自作を発表していたが、生活に困窮して砒素自殺した。享年17歳。「生前に認められなかった悲劇の天才」の象徴とされる。
⚠️補足:フランスのロマン主義作家アルフレッド・ド・ヴィニーは、チャタートンを主人公に戯曲を執筆。劇中で「社会に理解されない孤独な天才」として描かれた。引用にある「地平線を狭めた」という言葉は、彼が自分の魂を過去の時代に閉じ込め、現代の出来事から目を逸らして生きていたことを示している。
もし、古い物語を語ろうとするならば、歴史家は自分がよみがえらせた「過去の人々の信憑性」と最も優れた「批評家の洞察力」とを、交互あるいは同時に、併せ持つ必要がある。
歴史家は、奇妙なプロセスを経て、自分の人格を分裂させなければならない。
過去の人であると同時に現代人でなければならない。H.G.ウェルズの短編小説『デヴィッドソンの眼の異常な体験』に登場する奇妙な人物——イギリスの小さな町で暮らしながら、その間ずっと、自分が海底にいるのを見ている——ように、二つの異なる次元で生きねばならないのである。
⚠️H・G・ウェルズの短編小説『デヴィッドソンの眼の異常な体験』(原題:The Remarkable Case of Davidson's Eyes):1894年に発表された短編小説。主人公は落雷の影響で視覚に異常をきたす。体はロンドンにあるのに、目に見える光景だけが地球の裏側にある南半球の無人島の海岸や海底を映し出す。
⚠️補足:著者アナトール・フランスは「歴史家は、現代人としての知性を保ちながら、同時に過去の時代にどっぷりと浸かっていなければならない」という二つの次元の必要性を説いている。
0.38 歴史書を執筆するために必要なこと(2)足跡をたどり、目を慣らす
私は、本書で語る出来事が起きた都市や田舎を丹念に訪ね歩いた。
春の花々と香りに包まれたムーズ渓谷を見に行き、霧と雲に覆われている同じ渓谷を再訪した。
私は、名高いロワール川の麗しい岸辺を旅した。雪を頂く山々に縁取られた広大な地平の広がるボース地方を、空の澄み渡ったイル=ド=フランスを、そして石の多い丘がブドウの低木に覆われているシャンパーニュ地方を通り抜けた。伝説によれば、それらの木は戴冠式へ向かう軍勢に踏まれたが、再び葉を茂らせ実を結び、聖マルティヌス(サンマルタン)の祝日には、時期こそ遅れたものの豊かな収穫をもたらしたという。[142]
私は、荒涼としたピカルディにしばらく留まった。ソンム湾に沿って、渡り鳥が飛び交う空の下、寂寥として殺風景な荒野で過ごした。
ノルマンディーの肥沃な草原をさまよい、尖塔や塔がそびえ、古い納骨堂、湿っぽい通り、高い切妻屋根の木造家屋が今なお残るルーアンまで足を運んだ。
これらの川、これらの土地、これらの城、これらの町で、私は500年前(15世紀)の姿を思い描いた。
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私はまた、当時の生き物や物体の造形に、みずからの目を慣らした。
当時の職人たちの手によって作られ、今に残る石製・鉄製・木製の遺物をすべて調べた。現代の職人よりも自由で、それゆえにいっそう創意に富んでいた。当時の職人たちの手仕事からは、あらゆるものに生命を吹き込み、装飾しようとする情熱がうかがえる。
私は力の及ぶ限り、フランスにおいて彫刻や絵画に描かれた肖像を研究し——厳密にはフランスではない。悲惨(misery)と死(death)に満ちた時代に、芸術はほとんど実践されていなかったからだ——、フランドル、ブルゴーニュ、プロヴァンス、そこでの作風(技巧)は、しばしば気取っていると同時に素朴であり、そして往々にして美しいものだった。
古い細密画を眺めていると、彼らが私の目の前で生きているような気がしてくる。
滑稽なほど華美なエトフ・ア・トリップ(模造ベルベット)[143]を身にまとった貴族たち、角のような帽子と尖った靴を履いた、どこか悪魔じみた趣のある貴婦人や令嬢たち、机に向かう書記官、軍馬を駆る騎士、ラバが引く荷馬車に乗る商人、4月から3月まで農事暦のあらゆる作業に従事する農民、今なお修道女たちと同じ幅広の頭巾をかぶっている農婦たちの姿——を私は見てきた。
⚠️エトフ・ア・トリップ(étoffes à tripes):羊毛や亜麻をベルベットのように起毛させた織物。毛足の長さが動物の胃の内壁(tripe)に似ていることからこう呼ばれた。
同胞でありながら、私たち(現代人)とは感情や思考がこまかい部分で無限に異なっていたこれらの人々に歩み寄り、彼らの人生を生き、その心の内を読み取った。
0.39 歴史書を執筆するために必要なこと(3)真正と偽造を見極める
言うまでもないことだが、ジャンヌの真正な肖像は存在しない。
15世紀の美術において、ジャンヌに関するものはほとんど何もない——獣文様のタペストリーの小片、登記簿にペンで描かれた小さな人物像、シャルル七世、ルイ十一世、シャルル八世の治世の写本に見られる数点の彩色画——それがすべてである。
⚠️獣文様のタペストリー(tapisserie à bestions):中世のタペストリーの一種で、獅子、鹿、鳥、あるいは架空の怪物といった「小さな動物(bestions)」の図案が散りばめられた装飾布。なお、本書で言及しているのは『オルレアンのタペストリー(Tapisserie d'Orléans)』と呼ばれる断片のことで、馬に乗った女性と動物が描かれている。20世紀初頭まで「オルレアンに入城するジャンヌ」だと信じられていたが、後年の研究でジャンヌとは無関係と判明。
私は、この極めて乏しいジャンヌ・ダルクの図像資料に言及する必要があると考えた。何かを付け加えるためではなく、むしろ逆だ。当時の偽造者たちによる《《仕事》》を排除するためである。
本書の下巻・巻末付録(4)には、偽造品の数々を指摘した短い論考を収めている。偽造品の大部分はすでに古くから存在しているが、これまで一度も告発されたことのない代物だ。
⚠️『付録(4)ジャンヌの肖像および図像学』参照。
私の調査は15世紀に限定し、ルネサンス以降の調査は他者に委ねる。
ルネサンス時代に描かれたラ・ピュセルは、ドイツ騎兵(reîtres saxons)やスイス傭兵のような羽根飾りのついた帽子や切り込みの入った胴衣をまとい、ドイツ風に飾り立てた姿をしている(作家が時代を混同している)。[144]
⚠️ドイツ騎兵(reîtres saxons):直訳するとザクセン騎士だが、フランス史の文脈では「16〜17世紀ごろにフランスに仕えたドイツ騎兵(傭兵)」を指す。「粗暴な外人部隊」の比喩でもある。

これらの肖像画の原型が誰かは分からない。だが、ニコラ・マニュエルが1515年から1521年にかけて、(スイスの首都)ベルンのドミニコ会修道院の壁に描いた『死者の舞踏』の中で、傭兵たちに付き添っている女性の姿に酷似している。[145]
ルイ13世とルイ14世が統治した「偉大な世紀」になると、ジャンヌ・ダルクの姿はバレエダンサーの衣装をまとったクロリンダ、ミネルヴァ、ベローナへと変貌を遂げる。[146]
⚠️偉大な世紀(Le Grand Siècle):17世紀、特にルイ13世とルイ14世の統治時代。フランス王政の絶頂期。
⚠️クロリンダ(Clorinda):16世紀イタリアの詩人トルクァート・タッソの叙事詩『解放されたエルサレム』に登場するイスラム軍の女戦士。十字軍の騎士と悲恋を繰り広げ、騎士道物語の「戦うヒロイン」として人気を博した。
⚠️ミネルヴァ(Minerva)とベローナ(Bellona):ローマ神話の戦いの女神。ミネルヴァが「知的な戦略」を司るのに対し、ベローナはより「激しい戦闘」を象徴する。
0.40 歴史書を執筆するために必要なこと(4)作者の欲望「読者を没入させたい」
この主題(ジャンヌ・ダルク伝)を生き生きと描き出し、読者の心深くに真実を届けるには、どんな論争や議論に加わるよりも、一貫した物語として語る方が適していると思う。
もっとも、ラ・ピュセルに関する資料は、このようなやり方に馴染まないことは事実である。
すでに示したように、ジャンヌに関するほとんどすべての資料が、いくつかの観点から疑わしいと見なされる可能性があり、いたるところで異論が生じるからである。
それでもなお、これらの資料を慎重かつ賢明に用いることで、かなり真実に基づいた歴史を構築するのに十分な材料を得ることができると、私は考えている。
さらに、本書では事実の出典を常に明示し、私が拠り所とした資料の信頼性を誰でも自由に判断できるようにした。
また、本書では、ジャンヌと直接関係なくても、当時の精神や道徳や信仰がどうだったかを明らかにする出来事を多数取り上げている。これらの出来事は、たいてい宗教的な性質を帯びている。なぜなら、ジャンヌの物語は——何度も繰り返すが——コルビーのコレットやシエナのカタリナの物語と同じく、一人の聖女の物語であるからだ。
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私は、たびたび「読者を15世紀の人間や物事の中に没入させたい」という欲求に、おそらくあまりにも頻繁に身を任せてきた。
そのため、読者をその世界から不意に引き離さないよう、他の時代との比較——私の頭に何度も浮かんだが——を提示することは極力避けた。
本書は、古文書の形式と内容に基づいているが、原文そのままの引用はほとんどしていない。文体にある種の統一性がなければ、読むに堪えないものになると私は考えているし、私は読者に読まれたいと思っている。
可能な限り当時の雰囲気を保ち、読者に理解可能と思われる限り、古風な表現を好んで用いたのは、文体へのこだわりや芸術的嗜好からではない。言葉が変われば思想も変わるからであり、昔の表現を現代の言葉に置き換えてしまえば、感情や性格を変質させずにはいられないからである。
私は、シンプルで親しみやすい文体にするよう努めた。歴史はしばしば大仰な筆致で書かれ、そのせいで退屈で嘘くさくなってしまう。
なぜ私たちは、「歴史的事実」が通常の出来事から外れたもので、日常的な人間性とは異なる次元にあると思い込まなければならないのか?
歴史を書く者は、戦いの渦中に身を投じたいという猛烈な誘惑に駆られる。
昔の戦争を現代的な筆致で書くとき、執筆者が聖職者であれ大学教授であれ、耳にペンを挟んだまま、ラ・ピュセルのかたわらで参戦したいと思わない者は、ほとんどいない。
たとえ、彼女が持つ美徳の一部を明らかにできなくなるリスクを冒してでも、私は、執筆者の個性を物語の動きから遠ざけておく方が賢明だと考える。
私は、情熱を傾けつつも冷静にこの歴史を書き上げた。賢明に真実を追い求め、恐れることなく向き合った。
彼女が予期せぬ姿を見せた時でさえ、私はそこから目を背けなかった。
私は、臆病さからではなく、大胆すぎることを非難されるだろう。
0.41 関係者への謝意/悪魔ティティヴィラスの仕事
貴重な助言を与えてくれた私の尊敬する友人、ポール・メイエ氏とエルネスト・ラヴィス氏に感謝の意を表したい。
プティ=デュタイイ氏にはいくつかの親切な指摘をいただき、それらは私の考察に大いに役立てられており、深く感謝している。
また、ランス・アカデミー幹事のアンリ・ジャダール氏、リール文学部教授のE・ラングロワ氏、ロワールの文書館員だったカミーユ・ブロッシュ氏、自筆文献専門家のノエル・シャラヴェ氏、そしてラウル・ボネ氏にも多大な恩義を感じている。
ピエール・シャンピオン氏は、若くしてすでに価値ある歴史的著作の著者として知られているが、自らの研究成果を私に惜しみなく提供してくれた。その無私の精神に対し、私はいくら感謝しても足りないほどである。
彼はまた、私の著作のすべてを丹念に読み通してくれた。
ジャン・ブロッソン氏は、秘書に期待される水準をはるかに超えた洞察力をもって、私を助けてくれた。
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本書で取り扱う時代(15世紀)には、ティティヴィラス(Titivillus)という名の悪魔がいた。この悪魔は毎晩、写本師たちが日中書き漏らしたり間違えたりした文字をすべて袋に詰め込む。
それを地獄へと運び、聖ミカエルが(最後の審判で)不注意な執筆者たちの魂を天秤にかける際、拾い集めた誤字脱字を各自の過失分として罪の皿に載せるのである。
もしこの極めて几帳面な悪魔が、印刷術の発明後も生き延びていたとしたら、今は、正確さを重んじる書籍のいたるところに散らばっている「誤植を拾い集める」という重い使命を担っているに違いない。他の本にまで気を揉むのは、彼にとっても愚かなことだろう。
彼は必要に応じて、それらの誤植を校正者や著者の罪として勘定に加えることだろう。
私の出版社であり友人でもあるカルマン=レヴィ氏、そしてその優れた協力者たちには、限りない恩義を感じている。彼らが細心の注意と経験を注いでくれたおかげで、審判の日にティティヴィラスが私の背中に課す重荷はいくらか軽くなっただろう。
1908年2月、パリ。
〈完結〉
これで本当に完訳・完結です。本章は、原著ではIntroduction(前文)という位置付けですが、翻訳したら5万5000文字超え。一般的な文庫本の半分を占めるボリュームに驚かされます。
なお、上下巻合計で71万文字超え、未公開の脚注2781件を含めるとなんと100万文字!
ああ、心地よい達成感と疲労感に満たされる…✨
近いうちにKindleで刊行する予定ですが、その件はまた改めて。
具体的な日時は後日発表しますので、今のうちにフォローしていただくと、お知らせをスムーズに受け取れるのでおすすめです。
さて、次は何に手をつけましょうかね。
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