見出し画像

教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|下巻・第一章 国王軍、ソワソンからコンピエーニュへ/詩と予言

【創作大賞2026参加中】期間限定で全体公開にします。

アナトール・フランス著『ジャンヌ・ダルクの生涯(Vie de Jeanne d'Arc)』全文翻訳を目指しています。完訳達成。原著は1908年発行。

1920年:ジャンヌ・ダルク列聖
1921年:A・フランス、ノーベル文学賞受賞
1922年:ローマ教皇庁の禁書目録に登録

現在、禁書制度は廃止されてますが、教皇庁は「カトリック教義を脅かす恐れがある禁書だった本を推奨することはできない」という立場を表明しています。

▼総合目次・リンク集:なぜ、21世紀に『ジャンヌ伝』を完訳するのか

⚠️下記プラットフォームで公開中。
- note:各章をマガジンにまとめて投稿。一部有料。
- カクヨム:各話を分割して投稿。少しずつ読みたい人向け。
- pixivFANBOX:原文付き対訳バージョン。支援者限定。


⚠️字数が多い(24,000字)ため、訳者の裁量で小見出しをつけています。

1.1 戴冠式後の行軍、ヴァロワ家の父祖の地へ

⚠️下巻・第一章の章題「ソワソンとコンピエーニュ」はヴァロワ家がフランス王位を継承する前、ヴァロワ公爵だったころの領地です。ランスでの戴冠式の後、シャルル七世は祖先の公爵家時代の領地を訪れて、各都市と臣従関係を結ぼうとしていたようです。この辺の時代背景を知っていると、第一章の流れが理解しやすいかと。

 7月22日、シャルル王は軍を率いてエーヌ川の溪谷を下り、ヴァイイと呼ばれる場所でソワソンの町の鍵を受け取った。[1]

 この町はヴァロワ公爵領の一部を構成しており、今はオルレアン公爵家とバル公爵家が共同で統治していた。[2]
 一人目の公爵(オルレアン公シャルル・ドルレアン)はイングランド軍の捕虜となっている。もう一人(バル公ルネ・ダンジュー)は義兄であるシャルル王を通じてフランス側と繋がり、義父であるロレーヌ公を通じてブルゴーニュ側とも繋がっていた。

⚠️ヴァロワ公(Duc de Valois):フランス王国カペー朝の傍系だったが、カペー家の男系男子が断絶したためヴァロワ家が王位を継承。シャルル七世の本名はシャルル・ド・ヴァロワで、ヴァロワ朝5代目のフランス王にあたる。

 そのような事情があったため、ソワソン市民の忠誠心が揺れ動くのも無理はない。

 武装した兵士たちに踏みにじられ、占領と奪還を何度も繰り返す中で、赤い帽子(イングランド方)と白い帽子(フランス方)の勢力はどちらも交互に川へ投げ込まれる危険に晒されていた。

 ブルゴーニュ軍は家々に火を放ち、教会を略奪し、有力な市民を虐げた。
 続いてアルマニャック軍が押し寄せ、あらゆるものを略奪し、男も女も子供も多数虐殺し、修道女も良家の人妻も清らかな乙女も凌辱された。サラセン人(異教徒、イスラム教徒)でもこれほど酷いことはしなかっただろう。[3]

 ブルゴーニュ兵を袋詰めにしてエーヌ川に投げ込み、町の女性たちがその袋を縫っている姿が目撃されていた。[4]

 シャルル王は、23日土曜日の朝方にその都市(ソワソン)に入城した。[5]
 赤い帽子の人たちは身を隠した。

 鐘が鳴り響き、民衆は「ノエル(万歳)」と叫び、市民たちは王にバーベル(ひげのある魚)2匹、羊6頭、そしてボン・シュレ(少し酸味のあるワイン)6ガロン[6]を献上し、その量が少ないことで許しを請うた。戦争で破産してしまったのだと言い訳した。[7]

⚠️バーベル(barbels):ニゴイ科の淡水魚。バル公(ルネ・ダンジュー)の紋章に描かれている魚でもあり、文脈的に、この献上物は領主への敬意を表す象徴的な意味合いが強い。

⚠️ボン・シュレ(bon suret):少し酸味のあるワイン。ここでは、戦争で困窮した市民が「これっぽっちしか用意できず、しかも酸っぱい安ワインですが……」と申し訳なさそうに差し出すイメージ。

 彼らはトロワ市民と同じように特権を行使し、兵士を養うだけの食糧がないという理由で、門を開けることを拒否した。軍はアンブルニーの平野に野営した。[8]

**

 当時、国王軍の指導者たちはコンピエーニュに進軍するつもりだったようだ。

 実際、フィリップ公(ブルゴーニュ公)からこの町を奪取することは重要だった。(コンピエーニュは)イル・ド・フランス地方の要衝で、公が軍を集結させる前に占領すべき場所だったからだ。

 しかし、この戦役を通じて、フランス王は武力よりも外交と説得によって町を取り戻す決意を固めていた。

 7月22日から25日にかけて、王は三度にわたりコンピエーニュの住民に降伏を勧告した。
 市民は「やむを得ず応じる姿勢を見せたい」と画策し、時間を稼いでから、ようやく交渉に応じた。[9]

 ソワソンを離れた国王軍は、29日にシャトー=ティエリに到着した。
 終日、城門が開くのを待ち続けた。夕刻、王は城内に入った。[10]

***

 クーロミエ、クレシー=アン=ブリー、プロヴァンがシャルル王に降伏した。[11]

 8月1日の月曜日、国王はシャトー=ティエリ橋でマルヌ川を渡り、その日のうちにモンミライユに宿営した。翌日にはプロヴァンスに到達し、セーヌ川の渡河地点とフランス中央部の幹線道路のすぐ近くに迫った。[12]

 軍は飢えに苦しみ、荒廃した田園や略奪された都市では食糧を何も見つけられなかった。物資不足のため、ポワトゥーへの撤退準備が進められていた。

 しかし、この計画はイングランド軍によって阻止された。

 守備兵のいない無防備な町々が陥落していく中、イングランド摂政(ベッドフォード公)は軍を集結させていた。その軍は現在、コルベイユとムランへ進軍していた。

 敵軍の接近に先駆けて、フランス軍はプロヴァンから約12マイル離れたラ・モット=ナンジを占領し、そこの平坦で均一な土地に陣を構えた。そこは、当時の戦闘様式にふさわしい、戦いを繰り広げるのに適した場所だった。

 フランス軍は丸一日、戦闘態勢を維持した。
 しかし、イングランド軍が攻撃してくる気配はなかった。[13]

1.2 ランス市民の不安とジャンヌの手紙(1)

 一方、ランスの人々は「シャルル王がシャトー=ティエリを出発し、セーヌ川を渡ろうとしている」との知らせを受け取った。

 見捨てられたと思い込んだ彼らは、イングランド軍とブルゴーニュ軍が、アルマニャック派の王の戴冠式をしたこと理由に、重い代償を払わされる(報復される)のではないかと恐れた。実際、彼らは大きな危機に直面していた。

 8月3日、彼らはシャルル王に、服従した都市を見捨てないよう懇願する使者を派遣することを決めた。使者はただちに出発した。

 翌日、彼らは良き盟友であるシャロンとラオンの市民に、「シャルル王がオルレアンとブールジュへ向かっているという知らせを聞いて、使者を送った」旨を伝えた。[14]

 8月5日、国王がまだプロヴァン[15]かあるいはその近郊にいたころ、ジャンヌはパリへ向かう道中の野営地からランス市民に宛てて手紙を送り、その中で「忠実で愛すべき友を見捨てることはない」と約束している。

 ジャンヌは、ロワール川方面への撤退計画についてまったく疑っていなかったようだ。

 したがって、ランス市当局がジャンヌに手紙を送っていないこと、またジャンヌが王の評議会(軍議)に加わっていないことは明らかである。

 ただし、ジャンヌは、国王がブルゴーニュ公と15日間の休戦協定を結んだことを把握しており、そのことをランス市民に伝えている。

 しかし、この休戦は、彼女にとって不愉快なもので、それを守るかどうか疑念を抱いている。
 仮に、ジャンヌがそれ(休戦協定)を守るとしても、それは王の名誉のためだけに過ぎず、それ(休戦協定)に策略がないと確信する必要がある。したがって、ジャンヌは国王軍を統率し、休戦期間が明ける15日後にはいつでも進軍できるよう準備しておくつもりだと述べている。

 また、手紙の結びで、ジャンヌは町民に対して「警戒を怠らず、必要があれば知らせてほしい」と勧めている。

 以下が、ジャンヌがランス市民に送った手紙の内容である。

「良き友であり、愛するランス市の
 善良で忠実なフランス人のみなさん。

 ジャンヌ・ラ・ピュセルは、彼女の近況をみなさんに伝え、
 王家の血筋のために彼女が守る正義の大義を疑わないよう、
 みなさんに祈り、求めます。

 そして私が生きている限り、決してみなさんを
 見捨てることはないと誓い、保証します。

 王がブルゴーニュ公と
 15日間の休戦協定を結んだことは事実です。
 これにより、ブルゴーニュ公は15日後に
 パリ市を平和的に明け渡すことになっています。

 とはいえ、私がすぐにパリに入らないとしても
 驚かないでください。
 なぜなら、この休戦は私の意に反するもので、
 私がそれを守るかどうかわかりません。

 仮に、休戦を守るとしても、
 それは王の名誉を守るためだけであり、
 もっといえば、彼らが王家の血筋を
 罠にかけることを許さないためです。

 協定が守られなかった場合、
 15日後にはいつでも出陣できるよう、
 私は王の軍勢をまとめて維持するつもりです。

 ですから、私の愛する完璧な友よ、
 私が生きている限り、不安に思わないでください。
 みなさんには、警戒を怠らずによく見張り、
 王の良き都市をしっかり守るよう求めます。

 もし害をなそうとする裏切り者がいれば
 私に知らせてください。
 私はできるだけ速やかに、
 みなさんの中から裏切り者を排除します。

 みなさんの近況を私に知らせてください。
 神にみなさんを委ねます。
 神がみなさんを守ってくださいますように。

 8月5日金曜日、プロヴァン近郊[16]の田園
 またはパリへ向かう野営地で記す。

 宛先:ランス市の忠実なフランス人へ」[17]



1.3 ランス市民の不安とジャンヌの手紙(2)

 手紙の書記を務めた修道士(パスケレル)が、口述された内容を忠実に書き留め、ジャンヌ・ラ・ピュセルの言葉そのもの、ロレーヌ方言まで再現したことは間違いない。

 ジャンヌは当時、すでに英雄的な聖人として最高潮に達していた。

 この手紙の中で、ジャンヌは自分自身に超自然的な力を与えており、国王とその顧問と隊長たちがこれに従わなければならないと宣言している。
 条約の承認または破棄する権利をみずからにのみ帰属させ、軍隊の指揮権も完全に掌握している。そして、天の王の名において命じているため、ジャンヌの命令は絶対である。

⚠️念のため補足:ジャンヌはそう思っているが、実際は違う。王も評議会も、軍の幹部たちも、ジャンヌが思っているほど権限を与えていないし、「声」の助言に影響されていない。

 神の使命を託されたと自認するすべての人に必然的に起こる現象が、ジャンヌにも生じている。

 すなわち、彼らは既存の権力を超越する「上位の精神的かつ世俗的権力」をみずからに与え、それゆえ必然的に(既存の権力に)敵対する存在となった。

 これは危険な幻想であり、衝撃を与えるものだ。
 そして、その衝撃で最も苦しむのは大抵、啓示を受けた本人である!

 聖人や天使たちと暮らし、語り合い、勝利の教会(天国)の輝きの中で過ごす日々の中で、この若い農民の娘(ジャンヌ)は、すべての力、すべての思慮、すべての知恵、すべての助言が自分の中に宿っていると信じるようになった。

 これはジャンヌが知性に欠けていたことを意味するのではない。
 むしろジャンヌは、「ブルゴーニュ公が使節団を派遣して国王を翻弄している」こと、「シャルル七世は、華麗さに偽装した狡猾さを心得た君主(ブルゴーニュ公)に欺かれている」ことを正しく見抜いていた。

 フィリップ公(ブルゴーニュ公)は平和の敵だったわけではない。それどころか平和を望んでいたが、イングランドと公然と争う事態を避けたいと考えていた。

 ジャンヌは、ブルゴーニュとフランスの事情をほとんど知らなかったが、その判断力は決して鈍くなかった。

 フランス王とイングランド王の立場については、争いの原因が「王国の領有権」にある以上、「両者の合意は不可能」だと、ジャンヌの考えは極めて単純だが正確に理解していた。

 同様に、フランス王とその最大の家臣であるブルゴーニュ公との関係についても、正確な見解を示している。「両者の和平は可能」であり、望ましいだけでなく、相互理解を築くことが必要不可欠であることを。

 ジャンヌはすでに、「ブルゴーニュとの和平」および「イングランドとの和平」について極めて率直にこう述べている。
 前者については、書簡と使節を通じて「国王と和解するように」と要求した。
 その一方で、後者と和平を結ぶ唯一の方法は、彼らが「祖国イングランドへ帰還する」ことであると。[18]

1.4 休戦協定(1)15日後にパリを明け渡す約束

 ジャンヌをひどく不快にさせたこの休戦協定がいつ締結されたのか、正確な時期はわからない。7月30日か31日にソワソンかシャトー=ティエリで、あるいは8月2日から5日の間にプロヴァンで結ばれたのか。[19]

 どうやら休戦は15日間続く予定で、その期間が終了したら、公爵はフランス王にパリを明け渡すと約束していたようだ。

 乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)が不信感を抱いたのも当然である。

 摂政が彼の前から退く(イングランド軍が迫っていると聞いていたが当面の危機が去ったため)と、シャルル王は本拠地ポワトゥーへの撤退計画を急いだ。

 王はラ・モット=ナンジから、ちょうど降伏したばかりのブレ=シュル=セーヌへ宿営総監(Quartermasters)を派遣した。

⚠️宿営総監(Quartermaster):訳語に迷っている。陸軍用語としては食料や物資などの兵站輸送を担当する輜重兵の将官のこと。海軍・水軍用語としては帆船の操舵手および船長に次ぐ副官のこと。
川沿いの行軍であることを踏まえると、兵站と宿営を差配する「宿営(設営)担当」兼「先遣隊長」といったところか。

 モントローの上流、プロヴァンから南へ10マイルに位置するこの町は、川に橋がかかっており、国王軍は8月5日または6日朝にこの橋を通過する予定だった。
 しかし、夜にイングランド軍が現れて、補給将官を倒して橋を占拠した。
 退路を断たれた国王軍は、進軍計画を諦めて引き返さざるを得なかった。[20]

 戦わないまま飢えに蝕まれつつあったこの軍隊の中には、ジャンヌが親しみを込めて「王家の血筋」と呼んだ者たちが率いる熱狂的な一派が存在した。[21]

 アランソン公、ブルボン公、ヴァンドーム伯、そして「りんご荷の戦い」から戻ったばかりのバル公(ルネ・ダンジュー)だ。[22]

⚠️りんご荷の戦い:上巻・第四章の「4.1 老ロレーヌ公と娘婿ルネ・ダンジュー」を参照。

 ヨランド夫人(ヨランド・ダラゴン)のこの若い息子は、絵を描いたり道徳的な韻文詩を執筆する前は、戦士だった。バル公でありロレーヌ公の後継者でもあったため、これまではイングランド・ブルゴーニュ軍に加わることを余儀なくされていた。

 シャルル王の義弟である彼は、王の勝利を当然喜ばないわけがなかった。
 なぜなら、その勝利がなければ、ルネは姉である王妃の側に立つことができなかったからであり、そのことを非常に残念に思っていたからである。[23]

 ジャンヌは彼を知っていた。少し前、ロレーヌ公に面会した時にルネ公もフランスへ同行させるよう頼んでいた。[24]
 ルネはみずからの意志でジャンヌに従い、パリへ向かった者の一人だったと言われている。

 その他に、ラヴァル夫人の二人の息子、セル=アン=ベリーでジャンヌがワインを差し出して「すぐにパリで飲ませてあげる」と約束した兄のギー・ド・ラヴァルと、後にロエアック元帥となる弟アンドレがいた。[25]

 これが「ラ・ピュセルの軍団」だった。ほとんど子供と変わらない若者たちの集団が、自分たちよりもさらに若く、より純真で善良な少女の旗(バナー)と並んで自分たちの旗を掲げたのである。

⚠️補足:著者アナトール・フランスは「ほとんど子供と変わらない若者たちの集団」と述べているが、ブルボン公(当時はまだクレルモン伯)はシャルル七世よりも2歳年上。
つまり、国王も彼らとそれほど変わらない年齢だが、過酷な生い立ちゆえか実年齢よりも成熟かつ慎重な性格で、ジャンヌに対して優しさを見せつつも熱狂する様子はなく、いつも冷静に対応している印象。

 (ポワトゥーへ戻る)退路が断たれたと知ると、これらの若き王子たちは大いに満足し、喜んだと言われている。[26] これは勇敢さと熱意の表れだ。

 しかし、王室の評議会が和平を望んで交渉しているにもかかわらず騎士団は戦うことを望み、そして騎士団が「敵による戦争の長期化」と「国王軍がゴドン(イングランドに対する蔑称)に追い詰められている」ことを喜んでいる状況は、奇妙な立場であり、誤った見方だった。

 残念ながら、この好戦的な派閥には有能な支持者がいなかった。好機は失われ、摂政(ベッドフォード公)は軍勢を集め、差し迫った危機に対処する時間を与えてしまった。[27]

1.5 荒廃した国の悲惨な人々(1)ノエルの声

 (ポワトゥーへ戻る)退路を断たれた国王軍は、ブリー地方へ後退した。
 7日の日曜の朝にはクーロミエに到達し、シャトー=ティエリで再びマルヌ川を渡った。[28] シャルル王はランス市民から「もっと近くまで来てください」と懇願する使者を受け取った。[29] 10日にはラ・フェルテに、11日にはクレピー=アン=ヴァロワにいた。[30]

 ラ・フェルテからクレピーへの行軍中、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)は王とともに、ランス大司教と「オルレアンの私生児」卿の間で馬に乗っていた時のことだ。

 民衆が王の前に駆け寄り、「ノエル!(万歳)」と歓声を上げたのを見て、彼女は叫んだ。

「いい人たち! 美しい王が来たことをこれほど喜んでいる人を見たことがありません……」[31]

 ヴァロワとイル・ド・フランスの農民たちは、シャルル王の到来に「ノエル!」と叫んだが、イングランド摂政とブルゴーニュ公が通り過ぎる時も同じように歓声を上げた。

 おそらく彼らは、ジャンヌが思ったほど喜んでいたわけではないだろう。
 もし、この小さな聖女が、彼らの貧しい家の戸口で耳を澄ませば、おそらくこんな声が聞こえたに違いない。

「どうすればいいのだろう? 悪魔にすべてを明け渡そう。俺たちがどうなろうと関係ない。裏切りと悪政のせいで、妻や子供たちを捨てて、野生の獣のように森へ逃げ込まなければならないのだから。このような『不幸な踊り』を強いられてから1年や2年どころか14〜15年経っている。フランスの偉大な貴族のほとんどは剣で殺されるか、告白(懺悔)もできないまま毒殺や裏切りの犠牲となり、ようするに何らかの非業の死を遂げた。キリスト教徒に仕えるよりもサラセン人(異教徒、イスラム教徒)に仕える方がましだろう。悪く生きようと良く生きようと同じことだ。俺たちの力でできる限りの悪事を働こう。殺されるか捕らわれるよりも悪いことは起こり得ないのだから」 [32]

 土地が耕作されていたのは、都市や要塞、城の周辺に限られ、ようするに塔や鐘楼の上から見張り番の目が届く範囲のみだった。

 武装した兵士が近づくと、見張り番は鐘を鳴らすか角笛を吹いて、ぶどうの手入れや畑を耕している農夫に安全な場所へ逃げるよう警告した。
 多くの地域で、警報の鐘が頻繁に鳴らされたため、牛、羊、豚までもが鐘の音を聞くと自発的に隠れ場所へ逃げ込んだ。[33]

 特に、侵入が容易な平野部は、アルマニャック派とイングランド軍によってすべてが破壊されていた。
 ボーヴェ、サンリス、ソワソン、ラオンから少し離れた地域では、畑を休耕させ、かつて耕作地だった土地にはあちこちで低木や下草が生い茂っていた。

——「ノエル! ノエル!」

 ヴァロワ公爵領の全域で、農民たちはひらけた平地を放棄して、森や岩場、採石場などに身を隠していた。[34]

 生計を立てるために、ソワソン近郊のノワイヤンの仕立て屋ジャン・ド・ボンヴァルのようなことをする人も多かった。彼は妻子がいるにもかかわらずブルゴーニュ派の集団に加わり、国中を荒らして回って、略奪を働き、機会があれば教会に避難した人々を焼き払って追い出した。

 ある日、仕立て屋ジャンと仲間たちは穀物2樽を盗んだ。別の日には牛を6〜7頭、また別の日にはヤギと牛を1頭ずつ、また別の日は銀のベルトと手袋と靴を1組ずつ、さらに別の日は外套を作るための布地18エル(約20メートル)を略奪した。

 仕立て屋ジャン・ド・ボンヴァルは、自分の知る限りでは、多くの敬虔な聖職者も同じことをしていると語った。[35]

——「ノエル! ノエル!」

1.6 荒廃した国の悲惨な人々(2)ヴォールの木

 アルマニャック派もブルゴーニュ派も、農民たちの背中からコートを剥ぎ取り、鍋やフライパンまで奪い取った。

 (国王軍が行軍中の)クレピーからモーまではそう遠くない。
 この辺りでは誰もが「ヴォールの木」の話を聞いたことがあった。

 モーの町の門のひとつに、大きなニレの木があった。
 そこでは、王太子派のガスコーニュ貴族である「ヴォールの私生児」が、捕らえた農民たちが身代金を払えない場合にこの木に吊るしていた。

 処刑人がいない時は、彼自身が犠牲者を吊るした。

 彼は親戚のドニ・ド・ヴォール卿と一緒に暮らしており、「従兄弟」と呼ばれていたが実際はそうではなく、単に互いに優劣がないことを示すためだった。[36]

 1420年3月、ドニ卿は遠征の途中で、畑を耕している農民に出くわした。
 彼はその農民をつかまえて身代金を要求し、馬のしっぽに縛り付けてモーまで引きずって帰還すると、そこで脅迫と拷問によって、その農民が所有する財産の3倍を支払う約束を取り付けた。

 半死半生の状態で牢獄から引きずり出された農奴は、その年に結婚した妻に使いを送り、領主が要求する金銭を持ってくるよう頼んだ。

 妻は身ごもっており、出産が間近だった。
 それにもかかわらず、彼女は愛する夫のために、ヴォール卿の心を和らげたいと願ってやってきた。

 しかし彼女の懇願は叶わず、ドニ・ド・ヴォール卿は「期限までに身代金が届かなければ、男をニレの木に吊るす」と告げた。

 哀れな妻は泣きながら立ち去り、愛する夫を神の加護にゆだねた。
 夫もまた妻を憐れんで泣いた。

 妻は懸命な努力の末、要求額を調達したが、指定された期限に間に合わなかった。彼女が戻るころ、夫は猶予も容赦もなく「ヴォールの木」に吊るされていた。

 彼女は激しく泣きながら夫を呼んだが、出産直前の苦しみの中で歩いて通ってきた道端で、ついに力尽きて倒れた。

 妻は意識を取り戻すと、再び夫を呼んだ。
 身代金が支払われるまで夫に会わせないと告げられた。

 ガスコーニュ人の前にいる間、妻の目の前で、身代金を要求された職人たちが何人も連れてこられた。彼らは支払うことができなかったため、すぐに絞首刑か溺死刑に処されるのだ。

 この光景を見て、妻は夫への深い恐怖に襲われた。
 それでも、夫への愛が勇気を奮い起こし、彼女は身代金を支払った。

 手下たちは金貨を数え終えると「夫は他の農奴たちと同じように死んだ」と告げ、彼女を追い払った。

 この残酷な言葉を聞いて、悲しみと絶望に狂った妻は、呪いの言葉と罵詈雑言を吐き散らした。黙ろうとしなかったため、ヴォールの私生児は彼女を殴りつけてニレの木へ連行した。

 そこで彼女は上半身を裸にされ、木に縛り付けられた。そこには40人から50人の男たちが吊るされており、高い枝から低い枝まで様々な位置にぶら下がっていた。風が吹くたびに、彼らの死体が彼女の頭に触れた。

 夜が訪れると、彼女は町中に響き渡るほど甲高い悲鳴をあげた。
 しかし、誰であれ彼女を解放しようと近づいた者は死刑を免れなかった。

 恐怖と疲労と苦痛が、彼女の出産を促した。

 彼女の悲鳴に引き寄せられてオオカミの群れが現れ、まだ胎内に残る赤子を食い尽くすと、その後は哀れな女性の肉体を生きたまま貪り食った。

 1422年、モーの町はブルゴーニュ派の軍隊に占領された。
 その時、ヴォールの私生児とその従兄弟は、多くの罪なき人々に恥辱の死をもたらしたあの木に、彼ら自身が吊るされて絞首刑に処せられた。[37]

**

 この不幸な土地の貧しい農民たちにとって、アルマニャック派であろうとブルゴーニュ派であろうとすべて同じだった。主君が変わっても何も得るものはない。

 それでもなお、聖王ルイと賢明王シャルル五世の子孫であるフランス王シャルル七世の姿を見たとき、人々は勇気と希望を取り戻したかもしれない。フランス王家の正義と慈悲の名声はそれほどまでに大きかったのだ。

1.7 荒廃した国の悲惨な人々(3)ジャンヌの死期と望み

 ランス大司教のかたわらで騎乗しながら、ジャンヌは「ノエル!(万歳)」と叫ぶ農民たちを優しい眼差しで見つめた。美しい王の到来をこれほど喜ぶ人たちを見たことがないと言った後、彼女はため息をついてこう言った。

「神よ、私が死んだら、この地に葬られるほどの幸運に恵まれますように」[38]

 このとき、おそらくランス大司教は、「ジャンヌの死が近づいている」ことについて、彼女の「声」から何か啓示を受けたのではないかと知りたかったのだろう。

 ジャンヌは以前からしばしば「長く生きられないだろう」と語っていた。

 大司教は、当時広く知られていた予言、すなわち「乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)はシャルル王とともに主の聖なる墓(エルサレム)を奪還した後、聖地で死ぬ」を知っていたに違いない。

 この予言は、ジャンヌ自身によるものと考える者もいた。
 彼女は告解司祭に「自分は異教徒との戦いで死ぬ」と告げており、自分の死後について「神はローマの乙女●●●●●●を遣わして後継者とするだろう」と語っていた。[39]

 そして、ルニョー卿(ランス大司教)が、そういう話をどこまで信用すべきかを(利用価値を)熟知していたのは明らかである。いずれにせよ、その理由であれ他の理由であれ、彼は尋ねた。

「ジャンヌよ、あなたはどこで死ぬつもりなのか?」

 それに対して、ジャンヌはこう答えた。

「神の御心のままに(神が望む場所で)。時間も場所も私には分かりませんし、あなた以上に何も知りませんから」

 これ以上の敬虔な模範回答はないだろう。
 この会話に立ち会っていた「オルレアンの私生児」卿は、何年も後に、ジャンヌがこう付け加えたのを覚えていると言った。

「でも、もし神の御心ならば、私は武器を置いて家に帰り、父と母に仕えて、兄弟姉妹と一緒に羊の世話をしながら暮らしたいと望みます」[40]

(⚠️補足:ジャンヌが言ったとされるこの発言は、裁判の証言集に基づいているが、実際にはジャンヌの姉(妹)は1人しかいない上にすでに亡くなっている。残る兄弟のうち2人はジャンヌと行動を共にしており、現実と矛盾が生じる。著者アナトール・フランスは、当時の事情に疎い人物が、ジャンヌを「無垢な羊飼いの少女・預言者」として印象付けるために捏造した可能性が高いと推測している)

 もし本当にそう語ったのなら、それはきっと暗い予感に悩んでいたからだろう。しばらく前から、ジャンヌは自分が裏切られていると信じていた。[41]

 もしかしたら、ランス大司教が自分に悪意を持っているのではないかと疑っていたのかもしれない。

 しかし、大司教が、これほど目覚ましい成功を収めてきたジャンヌを今さら排除しようと画策していたとは考えにくい。むしろ彼の意図は、彼女をさらに利用することにあった。

 とはいえ、大司教はジャンヌのことが好きではなく、ジャンヌもそれを感じ取っていた。

 大司教はジャンヌに相談することも、評議会の決定事項を伝えることもなかった。ジャンヌもまた、あれほど豊富に受け取っている啓示がいつも軽んじられていることにひどく苦しんでいた。

 大司教の面前で、ジャンヌが願いと不満を口にしたのは、ささやかな愚痴だったと解釈できないだろうか?

 確かにジャンヌは、不在の母を恋しく思っていた。
 だが、村の乙女に戻って、かつての平穏な生活に耐えられると思ったのは間違いだ。ドンレミ村にいた頃のジャンヌは、野原で羊の世話をすることはめったになく、家の中で家事をすることを好んでいたではないか。[42]

 王や貴族たちと共に戦いを繰り広げた後、故郷に戻って羊を飼わなければならないとしたら、ジャンヌは半年もそこにとどまっていられなかっただろう。

 もはや、「ジャンヌは神に遣わされた」と信じる騎士たちと共に生きる以外の人生は考えられなかった。全身全霊をそこに注ぎ、糸巻き棒とは決別したのである。

1.8 ベッドフォード公の挑戦状(1)決闘の申し込み

 ラ・フェルテからクレピーへの行軍中に、シャルル王は、モントローに滞在中のイングランド摂政(ベッドフォード公)から挑戦状を受け取った。場所を指定して決闘するよう求める内容だった。[43]

⚠️決闘(meeting):当初はごく普通に「会合」と訳したが、文脈にそぐわないので調べたところ、古語では「会戦、決闘」または「政治的な交渉」という意味らしい。

 ベッドフォード公は「我々は心から戦争終結を望む者として、貴殿に要求する」と述べている。

「貴殿の大義のせいで、長きにわたり苛烈な扱いを受け、虐げられ、抑圧されてきた哀れな民衆に、同情と憐れみを感じているなら、我々がいるこのブリー地方かあるいはイル・ド・フランス地方のいずれか、ふさわしい場所を指定するように。そこで我々とミーティング●●●●●●をひらこう。もし貴殿が和平を提案するなら、我々はそれに耳を傾け、良きカトリックの君主としてふさわしく、その提案について協議してやろう」[44]

 この傲慢不遜かつ侮辱的な手紙は、摂政が平和を望んで書いたものでは決してない。
 むしろ、あらゆる道理に反して、戦争が庶民にもたらしている悲惨と苦痛の責任をシャルル王に押し付けるために書かれたものだ。

 ランスのノートルダム大聖堂で戴冠した王に宛てて、ベッドフォード公は手紙の冒頭から軽蔑を込めた口調でこう呼びかけている。

「かつてはヴィエノワの王太子(Dauphin de Viennois)を自称し、今や理由もなく国王の称号を名乗る者よ」

⚠️ヴィエノワのドーファン(Dauphin de Viennois):フランス王の推定相続人の正式な称号。「フランス王太子」と訳されることが多い。

 ベッドフォード公は「平和を望む」と宣言した直後に、こう付け加えている。

「モントローの和平のような、空虚で腐敗し、偽り破棄され、誓いを裏切るようなものではない。モントローの和平のあと、貴殿の過ちと同意によって、我らが愛する亡き父ブルゴーニュ公ジャンに対して犯された、あらゆる法と騎士道の名誉に反する、あの恐ろしく忌まわしい殺害がおこなわれたのだ」[45]

 ベッドフォード公は、オルレアン公暗殺の報復として裏切りによって殺されたブルゴーニュ無怖公ジャンの娘の一人と結婚していた。(したがって、ベッドフォード公は手紙で「亡き父」と記述している)

 しかし、モントロー事件の罪を突きつける形で、シャルル・ド・ヴァロワに和平の道を説くのは賢明なやり方ではなかった。シャルルは子供のころに連れてこられて事件に巻き込まれ、それ以来ずっと、橋を渡るたびに身体が震え、消えない恐怖に悩まされていたのだから。[46]

1.9 ベッドフォード公の挑戦状(2)乙女への恐怖

 現時点で、ベッドフォード公がシャルル王に対して抱いていた最大の不満は、彼が乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)と修道士リシャールを伴っていることだった。

「貴殿は愚かな民衆を惑わし、欺いている」

 ベッドフォード公はこう述べている。

「なぜなら貴殿は、悪名高く乱れた生活を送り男装する不品行な女と、同じく背教的で扇動的な托鉢修道士のような、迷信深く堕落した者たちに支えられているからだ。聖書によれば、両者ともに神の御前に忌むべき存在である」

 敵(シャルル七世)の心にさらなる恥辱を刻み込むため、ベッドフォード公は乙女と修道士に対し、二度目の攻撃を仕掛ける。

 この手紙の中でもっとも雄弁な一節において、彼はシャルル・ド・ヴァロワを呼びつける際に、皮肉を込めて「悪名高い女と背教の修道士に引率されて現れるのを期待している」と述べている。[47]

 イングランド摂政は、上記のような挑戦状を書いた。

 ベッドフォード公は繊細で穏健で優雅な精神を持っていたが、同時に敬虔なカトリック教徒であり、あらゆる種類の悪魔崇拝や魔術を信じていた。

 シャルル・ド・ヴァロワの軍隊が、魔女と異端の修道士によって指揮されていることに、彼は心から恐怖を感じており、この醜聞スキャンダルを公表するのが賢明だと考えた。
 彼のように「アルマニャック派の乙女は異端者かつ偶像崇拝者で、魔術に耽っている」という話を安易に信じる者は少なくなかった。多くの高潔で賢明なブルゴーニュ人にとって、そのような者と付き合うことは名誉を損なう行為に違いない。

 もし、ジャンヌが本当に魔女だとしたら、
 なんと不名誉なことか! なんと忌まわしいことか!
 悪魔によって復権したフルール・ド・リス!
 王太子の陣営全体がこの醜聞によって穢されたのだ。

 しかし、こういう悪評を広める工作は、ベッドフォード公が思うほど上手くはいかなかった。

 周知の通り、ジャンヌは心優しく、精力的で疲れ知らずだった。幸運をもたらす存在だと兵士たちに信じさせることで、彼らに勇気を与えた。[48]

 その一方で、シャルル王の顧問たちは、ジャンヌの役割を理解しながらも、彼女に相談する(頼る)ことを避けた。ジャンヌ自身も長くは続かないだろうと感じていた。[49]

 では、ジャンヌを偉大な戦争指導者として印象づけたのは誰か?
 ジャンヌの超自然的な力を恐れて崇めたのは誰か?

 それは、敵である。

 この手紙は、イングランド軍がいかにして「無垢な少女」を「恐ろしく畏怖すべき不自然な存在」へと変貌させ、もっとも勇敢な者でさえも青ざめるような地獄の亡霊へと仕立て上げたかを示している。

 イングランド摂政は、嘆きの声で「悪魔だ! 魔女だ!」と叫ぶ。そして、自軍の兵士たちが乙女の前で震え上がり、彼女に立ち向かうよりも逃げ出すことに驚嘆しているのだ。[50]

⚠️わかりやすく補足:ベッドフォード公は、シャルル七世とジャンヌの悪評を広めようとしたが、結果的に自軍の兵士に過剰な恐怖を植え付けてしまった。

1.10 モンテピヨワの戦い(1)会敵とミサ

 イングランド軍は、モントローからパリへ撤退した。
 そして今、再びフランス軍と対峙するべく進軍してきた。

 8月13日の土曜日、シャルル王はクレピーとパリの間の地域を掌握した。

 この時、ダマルタンの高台にいた乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)は、風車が立ち並ぶモンマルトルの丘と、セーヌ川から立ち上る薄い霧が大都市パリを覆い隠しているのを目撃した。ああ、それは、悲しいかな、彼女があまりにも真に受けてしまったあの「声」によって約束された地だった。[51]

 明くる日曜日、国王とその軍勢はノネット川沿いのバロンという村に陣を敷いた。その川の2リーグ(5マイル/8キロ)下流にはサンリスの町がある。[52]

 サンリスはイングランドの支配下にあった。[53]

 イングランド摂政ベッドフォード公は、「サフォーク伯、タルボット卿、サンポールの私生児たちが指揮する大勢の兵士が接近中」だと伝えられた。
 亡き国王(ヘンリー五世)と摂政の叔父であるウィンチェスター枢機卿が率いる十字軍の兵士3500〜4000人も同行していた。彼らは、ボヘミアのフス派と戦うために教皇の資金で雇われていた。

 枢機卿は、彼らをフランス王にぶつける戦力として活用するのが得策と判断した。イングランドの理屈では、「フランス王は確かに『もっとも敬虔なキリスト教徒の王』ではあるが、シャルル王の軍勢は魔女と背教者に指揮されている」のだから、十字軍をぶつけるのは理にかなっているのだ。[54]

 イングランド軍の陣営には、兵士1500人を率いる隊長がおり、彼らは白い服をまとい、白い旗印(standard)を掲げていた。その旗には糸巻き棒が刺繍され、そこから紡錘(spindle)がぶら下がっていた。バナー旗の吹き流し(streamer)には美しい金文字で「さあ、美女よ来い!(Ores, vienne la Belle!")」と書かれていた。[55]

 この言葉によって、兵士たちは、もしアルマニャック派の乙女と戦えば、彼女は大変な苦労をするだろうと宣言したかったのだ。

 ザントライユ隊長は、イングランド軍がサンリスへ向かう途中でノネット川の浅瀬を渡っているのを発見した。渡河地点は、馬二頭がやっと並んで通れるかどうかの非常に狭い浅瀬だった。

 しかし、ノネット渓谷を下ってきたシャルル王の軍隊は、彼らに奇襲をかけるには間に合わなかった。[56]

 国王軍はモンテピヨワ付近で、敵軍と向かい合う形で夜を明かした。

 翌日、8月15日の月曜日、夜明けと共に、兵士たちは陣営でミサをひらき、できる限り良心を清めた。彼らは大いなる略奪者で、淫らで女好きだったが、現世の命が尽きたら天国に行ける希望を捨ててはいなかった。

 この日は、トゥールの聖グレゴリウス(Grégoire de Tours)の権威に基づき、教会が聖母マリアの肉体と霊魂の昇天を記念する厳粛な祝日だ。聖職者たちは、「人々は主と聖母の祝日を守るべきであり、捧げられた祝日に戦うことは、栄光ある神の母に対する重大な罪である」と説いた。

 イングランド摂政の陣営と同様に、シャルル王の陣営も全員がキリスト教徒だったため、異論を唱える者はいなかった。

 しかし、デオ・グラティアス(感謝の祈り)が終わるとすぐに、すべての兵士が戦闘態勢を整えて各自の持ち場についた。[57]

⚠️デオ・グラティアス(Deo Gratias):ミサの終わりに唱える感謝の祈り。

1.11 モンテピヨワの戦い(2)戦争の作法

 定められた規則に従い、フランス軍はいくつかの部隊に分かれていた。
 前衛隊、弓兵隊、主力部隊、後衛隊、そして三翼隊(three wings)である。[58]

 さらに、同じ規則に従い、必要に応じて他の部隊を援護・強化するための散兵中隊(skirmishing company)が編成されていた。指揮官はラ・イル隊長、「オルレアンの私生児」卿、そしてラ・トレモイユの異母兄弟であるアルブレ卿だ。

 この部隊に、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)も同行していた。

⚠️散兵(skirmishing):開けた地形を利用して敵を撹乱し、集結と散開を繰り返しながら主力部隊と連携する戦術。2つの中隊(company)でラインを構成、4人1組を一定間隔で配置し、後方に密集陣形の主力部隊を置く。矢・槍・石などを敵に浴びせかけ、終わったら主力部隊の後ろに退避する)

 パテーの戦いでは、ジャンヌがあれほど懇願したにもかかわらず、後衛に留まることを強いられた。
 しかし今、ジャンヌは最も勇敢で有能な者たち、すなわちジャン・ド・ビュイユ[59]が言うところの「敵の斥候を撃破し、敵の兵力と陣形を監視する」[60]任務を負う散兵隊と共に騎行していた。

 ついに、ジャンヌに正義がもたらされた。
 馬術の技量と戦場における勇気が認められ、ふさわしい地位が与えられた。
 願いが叶ったにもかかわらず、ジャンヌは浮かない様子で戦友たちについていくことをためらった。

 ブルゴーニュ騎士の年代記作家の記録によれば、ジャンヌは「口では戦いたいと言いながら、実際はあちこちに揺れ動いていた」という。[61]

 ジャンヌの困惑は容易に理解できる。
 小さな聖女は、聖母マリアの祝日に戦いへ赴くべきか、それとも周囲で戦闘が繰り広げられる中で腕を組んでなりゆきを見守るべきかを決断できなかった。

 ジャンヌの「声」は迷いをさらに増幅させた。「声」たちはジャンヌ自身が悟った時を除き、決して行動を指示しなかった。

 結局、兵士たちと共に戦場へ向かったが、ジャンヌの迷いを共有した者は一人もいなかった。

 両軍は、カルバリン砲の一射程分ほどの距離しか離れていなかった。[62]

 ジャンヌは仲間数人と共に、イングランド軍が陣地を構える堤防と荷車のすぐ近くまでまっすぐに進んだ。
 ゴドン(イングランド人への蔑称)やピカルディ地方の兵士たちが陣地から出てきて、徒歩または騎馬で、同数のフランス兵と戦った。双方に負傷者と捕虜が出た。
 この白兵戦は一日中続いた。日没時には最も激しい小競り合いが起き、舞い上がった土埃で何も見えなくなった。[63]

 この日、6月17日にボージャンシーとムンの間で起きた状況が再現された。

 当時の兵器と戦術では、塹壕を掘って陣地を固めた軍隊を強制的に脱出させることは極めて困難だった。通常、戦闘を行うには双方の合意が必要で、戦闘の誓約書を送り、相手がそれを受諾した後、各軍は戦闘が行われる戦場の自軍側を平らに整地する必要があった。

 日が暮れると小競り合いは止み、両軍は互いにクロスボウの射程距離内で眠りについた。

 その後、シャルル王はクレピーへ向かい、イングランド軍は8月27日に降伏に同意していたエヴルーの町を救援するために自由行動になった。こうしてイングランド摂政はノルマンディーの支配を確実なものとした。[64]

1.12 戴冠式キャンペーンの成果、シャルル七世の台頭

 フランス軍がノルマンディー征服の機会を逃した代償は大きい。
 王の戴冠式の行軍、すなわち軍事的・政治的・宗教的性格を併せ持つ「ランス(シャンパーニュ)遠征」と引き換えに、捨てなければならなかった(失った)代償だ。

 もし、パテーの勝利後にフランス軍がすぐにルーアンへ急行していれば、ノルマンディーは再征服され、イングランド軍は態勢を立て直す暇もなく、ドーヴァー海峡へ叩き落とされただろう。

⚠️ルーアン(Rouen):パリに次ぐイングランドの本拠地で、ノルマンディー地方の首府。1年9カ月後にジャンヌの異端審問と火刑がおこなわれることを考えると、オルレアン勝利後、ジャンヌが当初計画されたノルマンディー遠征よりもランスの戴冠式をすすめたことは皮肉な運命としかいいようがない。

 あるいは、パテーからパリへ進軍していれば(イングランド摂政ベッドフォード公はその事態を恐れてパリ郊外へ避難して不在だったため)、フランス軍は抵抗を受けずにパリへ入城できただろう。

 しかし、シャンパーニュ地方をフルール・ド・リスの紋章を掲げて儀式的に巡行したこの遠征を、安易に非難すべきではない。

 いままでは残虐な反逆者と罵られていたアルマニャック派(シャルル七世を支持する勢力)、およびモントローの暗殺事件で卑劣漢におとしめられた悪名高き「ブールジュの小王(シャルル七世への蔑称)」は、ランスへ向かう行軍の過程で、メーヌ伯領とノルマンディー公領を征服するよりも、王国の首都・大都市パリを制圧するよりも、もっと大きく、もっと確かな利益を手に入れたのかもしれない。

 シャルル王は、シャンパーニュ地方とイル・ド・フランスの諸都市を流血なしで取り戻した。
 その結果、善良で平和主義の君主として、賢明で気さくな王子として、市民の友人として、諸都市の真の王として好印象を与え、みごとにその地位を確立した。

 ようするに、誠実かつ成功裡に進められた交渉および戦役(キャンペーン)を締めくくり、さらに戴冠式という荘厳な儀式を経て、シャルル・ド・ヴァロワは正当に「非常に神聖なるフランス王」としてまたたく間に台頭したのである。

⚠️キャンペーン(campaign):もともとは軍事用語で「ある目的を持った一連の軍事行動、戦役」といった意味だが、現代用語としての「大衆に向けた組織的な働きかけ、宣伝活動」といった意味を踏まえて、あえて訳さずに「キャンペーン」のままにした方がこの戴冠式遠征の状況にふさわしいだろう。


⚠️下巻・第一章はここで一区切り。
ここから先の後半は、シャルル七世の戴冠式——、言い換えれば「ジャンヌの名声のピーク」の頃に書かれた、当時の著名人たちの作品(詩や予言)の話になります。韻文や詩情をすべて正確に翻訳するのは難しいことをご承知おきください。

1.13 クリスティーヌ・ド・ピザンの賛歌(1)シャルル七世とジャンヌへの祝意

 クリスティーヌ・ド・ピザンは気高く高潔な精神の持ち主で、散文と韻文の両方で優れた作品を残した。

 ボローニャ貴族の血を引き、ピカルディの騎士の未亡人だった貴婦人は、自由七科(Liberal Arts、当時重視された教養)に精通しており、数多くの短詩レー韻文詩ヴィルレー[65]、物語詩バラッドを著した。

⚠️訳者の覚書:いずれも中世フランスの文学・音楽用語。
 - レー(lays):8音節2行連の短い詩。冒険や恋物語を扱う。
 - ヴィルレー(virelays):最初と最後が同じになる韻文詩。アラン・シャルティエにさかのぼる。
 - バラッド(ballads):歴史や伝説を組み込んだ物語詩。19世紀ヨーロッパのリバイバルブームで曲がつけられた。シューベルトの『魔王』など、日本では(原作の詩よりも)歌曲として知られているものも多い。

 フランスに忠誠を誓い、女性たちの擁護者だった彼女は、フランス人の繁栄と貴婦人の名誉を何よりも熱望した。

 晩年は、娘が修道女として暮らすポワシー修道院に閉じこもった。

 1429年7月31日、彼女はそこで、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)を讃える61連の賛歌を完成させた。
 8音節・8行で構成され、ぎこちない韻律と気取った言葉遣いで綴られたこの詩句は、神が王太子シャルルに遣わした戦いの天使(ジャンヌ)について、もっとも気高く、もっとも教養豊かで、もっとも信心深い魂が抱く思いを表現していた。[66]

 この讃歌の冒頭で、クリスティーヌは「11年間の修道院生活の中で涙に暮れてきた」と記している。

 そして実際、この高潔な心を持つ貴婦人は、自分が生まれ育ち、王侯貴族に迎えられ、博学な詩人たちに称賛され、純粋主義者のように正確な言葉を操ったこの王国(フランス)の不幸を嘆き、涙を流していた。

 11年間におよぶ悲嘆の末、王太子の勝利の知らせはクリスティーヌにとって初めての喜びとなった。

「ついに、
 太陽が再び輝き、すばらしき日々が再び花ひらく。
 長らく軽蔑され、侮辱されてきた、あの王家の御子が、
 頭上に王冠を戴き、金の拍車を着けてやって来るのを見よ。

 さあ、我らは『ノエル!』と叫ぼう。

 その名はシャルル、
 偉大な名を受け継いだ七世よ、フランス国王よ、
 乙女の助けを得て、あなたは王国を取り戻した」

 クリスティーヌはこの讃歌の中で、「シャルル王の息子であるシャルルは、飛翔する牡鹿(le cerf-volant)[67]という異名で呼ばれ、皇帝に連なるだろう」という予言を思い起こしている。

 この予言の出典については、(1)シャルル七世の盾型紋章が「二頭の有翼の鹿に支えられていた」こと、(2)1429年に書かれたイタリア商人宛の書簡に「ローマで王太子の戴冠式をおこなう」という漠然とした知らせが含まれていたこと、それ以外のことはわからない。[68]

⚠️飛翔する牡鹿(英:Flying Hart/仏:le cerf-volant):英語版の翻訳者ウィニフレッド・ステファンの注釈によると、1382年にシャルル六世は自分の鷹が飛び去る夢を見た、すると、翼のある鹿が現れて、失った鷹のもとへ運んでくれたという。出典はフロワサールの年代記・第二章。

「神に祈る。
 あなたがそのお方でありますように。
 神があなたに命を与え、子供の成長を見届けられますように。
 あなたと子供を通して、フランスに喜びが訪れますように。
 神に選ばれたあなたが、むやみに戦いを起こしませんように。

 私は祈る。
 あなたが善良で、正直で、正義の友となり、
 誰よりも偉大で、誇りがあなたの武勇を汚すことなく、
 誰よりも優しく、あなたの民に好意を持ち、
 あなたを選んだ神を、畏れる者でありますように。

 そしてあなたへ、
 最も幸福なる乙女よ、神に最も尊ばれる者よ、
 あなたはフランスを縛りつけていた
 縄を解き放ったのだ。

 戦いに打ちひしがれたこの地に、
 平和をもたらしたあなたに対し、
 十分な称賛を捧げ尽くすことなど
 誰にできようか?

 ジャンヌよ、恵みの時に生まれし者よ、
 あなたを創造した主に祝福あれ!

 神に遣わされた乙女よ、
 聖霊があなたに恵みの光を降らせ
 あなたは神から豊かな賜物を受け取り
 今もなお、それを守り続ける
 神はあなたの願いを決して拒まなかった。

 そんなあなたに対し、
 十分な感謝を捧げ尽くすことなど
 誰にできようか?」

1.14 クリスティーヌ・ド・ピザンの賛歌(2)比較と類似点

 王国の救世主であるこの乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)について、クリスティーヌ・ド・ピザンは、イスラエルをエジプトの地から救い出したモーセと比較して賞賛する。

「乙女が乳房を差し出し、
 フランスが平和の甘い乳を吸う、
 自然の摂理を超越した事象を見よ!

 ヨシュアは偉大な征服者だった。
 彼は強い男だったのだから、
 そこに何の不思議があろうか?

 しかし今、これを見よ、
 一人の女、羊飼いの娘が現れ、
 いかなる男よりも崇敬される者となった。
 神にとってはいかなる事もたやすいのだ。

⚠️ヨシュア(Joshua):旧約聖書『ヨシュア記』に登場する指導者。モーセによってエジプトを脱出した後、後継者のヨシュアが約束の地を求めてユダヤ人たちを率いる。

 エステル、ユディト、デボラ、
 高き誉れを得た女性たちによって、
 神は虐げられた民を救った。

 偉大なる崇敬を集めた女性たちが
 いたことはよく知られている。

 だがジャンヌは、それらすべてを超越している。
 彼女を通して、神は数多の奇跡を行われた。

 奇跡によって彼女は遣わされ、
 主の天使が彼女を王のもとへと導いた。

 彼女が信じられるようになる前に、
 聖職者や学者たちのもとに連れて行かれ、
 徹底的に尋問された。

 彼女は神より遣わされたと語り、
 歴史はその言葉を裏付けた。

 マーリン、シビュラ、ベーダが
 霊視の中で、彼女を見ていたからだ。
 書物の中で、彼女をフランスの救世主と呼び、
 預言の中で、彼女についてこう告げている。

『フランスの戦いで、彼女は旗を掲げる』

 そして確かに、彼らは彼女の生涯の
 すべての歴史を記している」

 クリスティーヌが、シビュラ(女預言者)の詩を知っていたことに驚きはない。彼女が古代の書物に精通していたことはよく知られた事実だ。

 それよりも、魔術師マーリンの明らかに『改ざんされた予言』と、尊者ベーダの『偽作の年代記』が、彼女の目に留まっていたことは注目に値する。アルマニャック派の聖職者たちが広めた予言と詩は、驚くべき速さであらゆる場所に広まっていた。[69]

 クリスティーヌの乙女に関する見解は、フランス陣営の学者たちと一致している。彼女が修道院で書いた讃歌は、アンブラン大司教(ジャック・ジェリュ)の意見書と多くの類似点が見られる。

⚠️ジャック・ジェリュの意見書は、上巻・第十四章を参照。
「14.2 ジャック・ジェリュの意見書(1)神の救済が与えられた理由」
「14.3 ジャック・ジェリュの意見書(2)乙女を天使だと信じる理由」
「14.4 ジャック・ジェリュの意見書(3)王の行動指針」

 クリスティーヌの讃歌には、こう記されている。

「ジャンヌの人生の善良さこそが、
 神の恩寵を授かっている証である。

 それは、オルレアン包囲戦で
 彼女の力が明らかになった時にはっきりした。
 これほど明白な奇跡はこれまでになかった。

 神はご自身の民をかくも助けられたので、
 敵の力は死んだ犬の力のようだった。
 彼らは捕らえられ、あるいは殺された。

 女性に栄光あれ。
 神は女性を愛しておられる。

 たとえ過酷な試練に耐えるよう育てられたとしても、
 16歳の乙女が武器防具に押しつぶされることなく、
 成し遂げたことは、自然の摂理を超越した奇跡ではないか?

 敵は彼女の前から逃げ去った。
 多くの目がそれを目撃した。

 彼女は町や城を占領しながら進軍する。
 彼女は我々の軍隊の筆頭指揮官である。

 ヘクトルやアキレスでさえも
 このような力はなかった。

 だが、彼女を導く神こそが
 すべてを成し遂げる。

 そしてあなたたちへ、
 武器を手に取り、正義のために卑劣な監禁に耐え、
 命を危険にさらす兵士たちよ、忠実であれ。

 天において、あなたたちは報いと栄光を得るだろう。
 なぜなら、正義のために戦う者は、
 誰であろうと楽園を勝ち得るからだ。

 彼女によって、
 イングランド人は打ち倒されることを知らしめよ。

 なぜなら、それは彼らが滅ぼそうとした
 善良な民の声に耳を傾ける、神の意志だからだ。

 倒された(殺された)者の血が、
 彼らに向かって叫んでいるからだ」

1.15 クリスティーヌ・ド・ピザンの賛歌(3)未来へ飛翔する夢想

 修道院の陰で、クリスティーヌはあらゆる高貴な魂に共通する希望を抱いている。彼女はジャンヌに、自分が切望する「あらゆる善」を期待しているのだ。

 彼女はさらに、ジャンヌがキリスト教会に調和を取り戻すと信じている。

 当時の最も心優しい人々は、統一と服従をもたらすために火と剣に期待していた。キリスト教の慈愛が、全人類への慈愛を意味するなどとは夢にも思わなかった。

 それゆえに、女詩人(クリスティーヌ)は予言を信じて、乙女(ジャンヌ)が異教徒と異端者、すなわちトルコ人とフス派を滅ぼすことを期待している。

「聖地征服において、
 彼女はサラセン人を、
 雑草のように根絶やしにする。
 彼女はそこへ導くだろう、
 神が守護するシャルル王を!

 死を迎える前に、
 彼はその旅路を果たす。
 彼こそが、その地を征服する者だ。
 彼女はそこで生涯を終えるだろう、
 そこですべてが成就する」

 善良なクリスティーヌ・ド・ピザンは、シャルル王の戴冠式の知らせを受けた際に、喜びの中でこの賛歌を記し、上記の結末で締めくくった。その後、ランスでの神秘を祝福して、パリ陥落を予言する13連を追加している。[70]

 こうして、世間のささやかな雑音さえほとんど聞こえないような、修道院の陰鬱な静けさの中で、この高潔な貴婦人は、教会と国家に関するあらゆる夢を集約して、一人の子供(ジャンヌ)に託し、世界の中心に据えて、その夢想をどこまでも高く飛翔させ、韻を踏みながら表現した。

(⚠️訳者の覚書)
クリスティーヌ・ド・ピザン(Christine de Pisan)はヨーロッパ初、フランス初の女性文筆家(職業作家という意味で)。

1364年生まれなので、本作で登場した『ジャンヌ・ダルク賛歌』を著した1429年当時は65歳。翌1430年に亡くなり、この作品が遺作となった。

父親がシャルル五世に仕えた侍医・占星術師で、夫はシャルル六世の公証人(秘書官)だったが、二十代半ばで父と夫を相次いで亡くし、家族を養うために代筆業を始めた。その後、宮廷で流行していた恋愛詩を多数執筆。
イザボー王妃(シャルル六世の妃でシャルル七世の母)に自著を献本するなど、フランス宮廷と関わりが深く、また女性の地位向上に熱心だったため、「シャルル七世の復権とジャンヌ・ラ・ピュセルの活躍」をたいそう喜んだ。

恋愛ものやフェミニズム的な作品の印象が強いが、軍からの委嘱で1410年に『戦争と軍事技術の書(Le Livre des Faits d'armes et de chevalerie)』を執筆。
軍の教本として使われ、シャルル七世に仕えるアルテュール・ド・リッシュモン大元帥は同書から多大な影響を受けている。



なお、Wikipedia含め、日本語で読める資料や通説では「百年戦争を逃れて修道院に避難した」とされているが、これは間違い。

実際は、1413年にブルゴーニュ無怖公の恐怖政治●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●(カボシャン蜂起)から逃れる●●●●●ために修道院に避難した。

というのも、父と夫を亡くして、困窮していた時代にクリスティーヌと家族を支援したのが王弟オルレアン公やベリー公だったから。ブルゴーニュ無怖公は政敵の王弟を殺害し、ベリー公はそのことを強く非難していたため、クリスティーヌが身の危険を感じて避難したのは当然だろう。

百年戦争が再開したのは1415年なので、日本語で読める通説は、クリスティーヌが避難した「動機」と「時期」が矛盾している。
時期については、クリスティーヌの息子ジャンが無怖公のクーデターから逃れた1418年の出来事と混同しているのかもしれない。

⚠️さらに余談・後付け設定。
『7番目のシャルル、狂った王国にうまれて【少年期編】』第三章〈アジャンクールの戦い〉編で、若きリッシュモンがジャン(のちのデュノワ伯)に騎士のトレーニング本をあげるシーンがありますが、本棚にはクリスティーヌの著書もあったに違いない!


1.16 詩と予言(1)飛翔する牡鹿

 戴冠式の際に書かれた、ある非常に優れたバラッドの中で、「高貴なユリの花(フルール・ド・リス)が咲く美しい庭園」[71]への愛と敬意、そして白い十字架の掲揚を称えるために、国王シャルル七世は「高貴な牡鹿」という神秘的な名で表現されている。

 この呼び名は、クリスティーヌ・ド・ピザンの詩で初めて登場した。

 なお、このバラッドの作者は不明だが「プリアモス王の娘であるシビュラ(女預言者、巫女)のカサンドラが、この王家の牡鹿の不幸を予言した」と述べている。

 シャルル・ド・ヴァロワがプリアモス王の末裔であることを考えれば、この予言は驚くに値しない。カサンドラが「飛翔する牡鹿」の運命を明らかにした時、彼女はみずからの家系の変遷を何世紀も先まで延長したに過ぎないからだ。[72]

⚠️わかりやすく補足:一般大衆は「ジャンヌの出現が予言されていた」と驚くが、王家の祖先(カサンドラ)が子孫であるシャルル七世のことを予言・警告するのは不思議なことではない……といったニュアンス。

⚠️プリアモス王(Priam):ギリシャ神話に登場するトロイア王国最後の王。プリアモスはトロイア戦争で殺され、王国は滅亡するが、英雄アエネアスと結婚した王女とトロイア人の生き残りがイタリア半島に逃れてローマを建国。古代ローマの始祖となり、ローマ帝国滅亡後はヨーロッパ各地の建国神話で始祖とされた。
フランス王家の場合、歴史上の祖先は初代国王クロヴィスだが、神話上のルーツはトロイア王家と英雄にさかのぼる。

 フランス側の詩人たちは、シャルル王と乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)の予期せぬ勝利を、堅苦しい詩に粗末な詩的霊感(詩情)をわずかにまとわせただけの、ありふれたやり方で、彼らなりに精いっぱい称賛した。

 しかしながら、ドーフィネ地方の詩人によるバラッド[73]を見てみよう。
 冒頭の「退け、イングランドの卑怯者ども、退け!」[74]から始まる一節は、作品全体に貫かれる真摯な宗教的精神によって力強いものとなっている。
 作者である貧しい聖職者は、「イエス王と、愛しきジャンヌ・ラ・ピュセルの意志によって」[75]、敬虔にイングランドの旗が倒されたことを指摘する。

1.17 詩と予言(2)ハンガリー王の娘エンジェリデ

 ジャンヌが「庶民に及ぼした影響力」の源は、魔術師マーリンと尊者ベーダの予言に由来していた。[76]

 ジャンヌの功績が知られるようになると、それらを予言したとされる言葉が次々と発見された。

 例えば、ハンガリーの古い王の娘であるエンジェリデ[77]が、ランスでの戴冠式を遥か昔から知っていたことが判明した。実際、この王家の乙女には、ラテン語で記録された予言が帰せられている。

 以下は、その予言の文字通りの翻訳(直訳)である。

「おお、高貴なるユリよ、
 君は諸侯によって水を注がれ(潤い)、
 蒔き手によって野に植えられ、
 花々と芳しいバラに囲まれて、
 甘美なる園で咲いている。

 しかし、ああ!
 ユリの悲嘆よ、園の恐怖よ!

 様々な獣たちが、
 外から来るものもいれば、
 園の中で育つものもあり、
 ツノとツノをぶつけ合い、
 ユリを押しつぶそうとしている。
  
 ユリは水を失ってしおれかけ、
 彼らは長きにわたって踏みつぶし、
 ほとんどすべての根が断たれ、
 彼らは毒の息で枯れさせようと試みている。

 しかし獣たちは、
 残酷な毒が流れ出る地から
 来たる乙女によって、
 恥辱のうちに園から追い出される。

 その乙女は、
 右耳の後ろに小さな緋色の印がある
 彼女は優しい声で語り、首は短い。

 彼女はユリに生命の水の泉を与え、
 蛇を追い払い、その毒を
 すべての人々に明らかにする。

 人間の手によらぬ月桂樹の冠を、
 彼女はランスにて、ユリの庭師、
 シャルルという名を持つ
 シャルルの息子を
 喜びをもって戴冠させる。

 周囲の騒がしい隣人たちは服従し、
 水はうずを巻き、民は叫ぶだろう。

『ユリよ万歳! 獣よ立ち去れ!
 園に花を咲かせよう!』

 彼は島の野原に近づき、艦隊を次々と加え、
 そこで多くの獣たちが敗走の中で滅びるだろう。

 多くの人々に平和が確立される。
 数多の鍵は、それを鍛えた手を認めるだろう。

 高貴な都の市民は、偽証によって敗北し、
 多くのうめき声をあげ、
 そして[シャルルの?]入口において
 高い城壁は低く崩れ落ちる。

 そのとき、百合の花園は……[?]となり、
 長く咲き誇るであろう」[78]

⚠️[ ]部分は原文ママ。

 この予言の出所は、遠い国の王の知られざる娘のものだとされているが、筆者にはフランスの聖職者とアルマニャック派に由来するものに見える。

 フランス王家は「魅惑的な園」の姿で描かれ、その周囲では「園で育った獣たち」と「外国で育った獣たち」、すなわちブルゴーニュ人とイングランド人が争いを繰り広げている。

 国王シャルル・ド・ヴァロワは、彼自身の名と父の名で言及されており、戴冠式がおこなわれた町の名前まで完全に記されている。

 特定の町が領主によって陥落させられることが、極めて明確に述べられている。

 おそらく、この予言は戴冠式のまさにその時に作られたものだ。

 すでに成し遂げられた偉業については細部まではっきりと言及しているが、実現が遅れたり、予想とは異なる形で実現したり、あるいは全く実現しなかった出来事——例えば、激しい攻撃によるパリの陥落、フランス軍によるイングランド侵攻、和平の締結など——については、ぼんやりと曖昧な示唆にとどめている。

 「ユリの園の救い主は、短い首、優しい声、小さな緋色のあざで見分けられる」と告げた偽エンジェリデ●●●●●●●は、ジャンヌ自身の身体的な特徴を、注意深く描写していた可能性が高い。

 イザベル・ロメの娘(ジャンヌ)が、女性的な優しい声を持っていたことは知られている。[79] ジャンヌの首が太く、肩にしっかり乗っていた点は、彼女のたくましい外見に関する既知の事実と一致する。[80]

 ハンガリー王の娘だといわれるこの女性(本物のエンジェリデ)が、右耳の後ろにある目立たないあざに言及したとは考えにくい。[81]


いいなと思ったら応援しよう!

しんの(C.Clarté) 最後までお読みいただきありがとうございます。「価値がある」「応援したい」「育てたい」と感じた場合はサポート(チップ)をお願いします。