教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|上巻・第十五章 ジャルジョー/ムンの橋/ボージャンシーの戦い
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アナトール・フランス著『ジャンヌ・ダルクの生涯(Vie de Jeanne d'Arc)』全文翻訳を目指しています。完訳達成。原著は1908年発行。
1920年:ジャンヌ・ダルク列聖
1921年:A・フランス、ノーベル文学賞受賞
1922年:ローマ教皇庁の禁書目録に登録
現在、禁書制度は廃止されてますが、教皇庁は「カトリック教義を脅かす恐れがある禁書だった本を推奨することはできない」という立場を表明しています。
▼総合目次・リンク集:なぜ、21世紀に『ジャンヌ伝』を完訳するのか
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15.1 ゲクランの未亡人の孫、ギーとアンドレ兄弟
6月6日の月曜日、国王はセル・アン・ベリー(現在のセル・シュル・シェール)近郊のサン=テニャンに宿泊した。[1179]
随行する貴族たちの中に、未亡人となったラヴァル夫人(アンヌ・ド・ラヴァル)息子二人がいた。彼女はかつて、土地を持たない貴族の末息子を愛するという愚行を犯した。
弟のアンドレ・ド・ラヴァルは二十歳で、当時ほとんどすべての貴族が経験した「不名誉の影(捕虜になること、騎士としての不名誉)」をかぶったばかりだった。彼の祖母(ジャンヌ・ド・ラヴァル夫人)の夫、ベルトラン・デュ・ゲクラン卿も、それを何度か経験している。
ジョン・タルボットによってラヴァル城に捕らえられたアンドレは、身代金として1万6000エキュドール(金貨)を用意するために多額の借金を負っていた。[1180]
⚠️ラヴァル家について:賢明王シャルル五世に仕えた名将ベルトラン・デュ・ゲクランの2番目の妻がジャンヌ・ド・ラヴァル夫人。二人の間に子はなく、ジャンヌ夫人は再婚して娘アンヌをもうける。アンヌは秘密裏に結婚して、ギーとアンドレ兄弟がうまれる。詳細は、上巻・第十四章「14.12 ジャンヌの崇拝者たち(2)ゲクランの妻」参照。
ようするに、ラヴァル兄弟は金目当てでシャルル七世に奉仕を申し出た。
王はラヴァル兄弟を快く迎えたが金貨は与えず、代わりに乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)を紹介すると言った。
王は彼らとともにサン=テニャンからセルへ向かう途中、聖女を呼んだ。[1181]
ジャンヌは頭以外の全身を甲冑で固め、槍を手に持ち、すぐに馬を乗り出して王のもとに駆けつけた。
ジャンヌは二人の若い貴族(ラヴァル兄弟)を心から歓迎し、彼らとともにセルへ戻った。
長男のギー・ド・ラヴァル卿を、ジャンヌは教会の向かいにある滞在先の宿で迎え、ワインを頼んだ。それが王侯貴族の習慣だった。ワインの入った杯が運ばれ、客はそれにソップと呼ばれるパンのスライスを浸した。[1182]
⚠️ソップ(soupes):中世の食習慣で、ワインにパンを浸して食べる。
ジャンヌは、ギー・ド・ラヴァルに酒杯を差し出しながら「近いうちにパリで飲ませてあげましょう」と言った。
それから、三日前にジャンヌ・ド・ラヴァル夫人(兄弟の祖母)に金の指輪を贈ったことを伝えた。さらに、親切に付け加えた。
「それは小さなものでした。ラヴァル夫人の名声を考えれば、もっと価値のあるものを贈りたかったのですが」[1183]
*
その夜のミサの時間に、ジャンヌはブサック元帥が指揮する多数の兵士および民兵とともに、セルからロモランタンに向けて出発した。托鉢修道士たちに囲まれ、彼女の兄弟のひとりも同行していた。
ジャンヌは白い鎧を身につけ、フードをかぶっていた。
大きな黒い軍馬が宿の戸口に連れてこられたが、ジャンヌが乗ることを頑なに拒んだ。ジャンヌは教会の向かいの道端にある十字架まで馬を引いていき、そこで鞍に飛び乗った。大きな軍馬がまるで縛りつけられたかのようにじっと動かないのを見て、ギー・ド・ラヴァルは驚愕した。
ジャンヌは馬の頭を教会の入り口に向けると、澄んだ女性の声で叫んだ。
「司祭と聖職者よ、神に祈りながら行列を組んで歩きなさい」
そして、大通りに出ると「進め、進め」と言った。
ジャンヌは手に小さな斧を持ち、巻いた軍旗を小姓が運んでいた。[1184]
15.2 ジャルジョーの戦い(1)軍の編成と軍資金
軍勢の集合場所はオルレアンだった。
6月9日木曜日の夕方、ジャンヌは5月8日に渡ったあの大橋を再び渡った。
11日の土曜日、フランス軍はジャルジョーに向けて出発した。[1185]
今回の軍勢は、アランソン公、ヴァンドーム伯、オルレアンの私生児卿、ブサック元帥、ラ・イル隊長、フロラン・ディリエ卿、ジャメ・デュ・ティレイ卿、ブルターニュのテュダル・ド・ケルモワザン卿が率いる騎兵隊と、各コミューンから派遣された部隊で構成され、おそらく総勢8000人の戦闘員がいた。彼らの多くは、槍、斧、クロスボウ、鉛の槌で武装していた。[1186]
若きアランソン公爵が指揮官に任命された。
彼は知略に優れた人物ではなかった。[1187]
だが、馬術の心得があり、当時はそれが将軍格に欠かせない唯一の技量だった。
今回もまた、オルレアンの人々が遠征の費用を負担した。
兵士の給料として3000リーブル、食料として穀物7樽分を提供した。
オルレアンの人々からの要請を受けて、国王は3000リーブルの新たな課税(タイユ税)を課した。[1188]
彼らは、石工、大工、鍛冶屋など、あらゆる分野の職人を自費で派遣した。オルレアンが所有する大砲も貸し出した。カルバリン砲、カノン砲、ラ・ベルジェール砲、そして4頭の馬に引かれた大型の臼砲を、砲手のメグレとジャン・ボワイエヴとともに送り出した。[1189]
彼らはまた、弾薬、攻城兵器、矢、はしご、つるはし、シャベル、マトック(つるはしの一種。片方が鍬(くわ)、もう片方が斧になっており穴掘りも切断もできる)を提供した。オルレアンの人々は几帳面だったので、すべての物資に印を付けた。
包囲戦に必要な物資はすべて、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)に送られた。
今回の戦いも、オルレアンの人々が指揮官と認めているのは、アランソン公でもなければ、自分たちの領主(オルレアン公)の立派な異母弟である私生児卿でもなく、ジャンヌただ一人だった。
オルレアンの住民にとって、ジャンヌは包囲戦の指導者であり、これから包囲される町(ジャルジョー)に向けて、ジャン・ルクレールとフランソワ・ジョアシャンという市民2人を派遣した。[1190]
オルレアン市民に次いで、ジャルジョー包囲戦の軍資金にもっとも貢献したのはジル・ド・レ卿だった。[1191]
この不幸な貴族は、無分別に金銭を浪費し、その一方で、裕福な市民はジル・ド・レ卿に高利で金を貸し付けて莫大な利益をあげた。彼の悲惨な財政状況は、やがて悪魔に魂を捧げて状況を立て直そうと試みるまでになる。
15.3 ジャルジョーの戦い(2)行軍と軍議
ジャルジョーの町は厳しい包囲戦の末に間もなく陥落するのだが、前年の10月5日に抵抗することなくイングランド軍に降伏していた。[1192]
⚠️ジャルジョー(Jargeau):現在はジャルゴー表記が多いが、歴史学ではジャルジョーの戦い。オルレアンの上流、約20キロ地点にあるロワール川南岸の町。
ロワール川を挟んで、ボース平野の岸辺と町をつなぐ橋には、2つの小城(要塞)が備えつけられていた。[1193]
町自体は、城壁と塔に囲まれているものの、強固に要塞化されていたわけではなかった。しかし、イングランド軍によって防衛手段が強化されていた。
フランス王の軍隊がジャルジョーの町を包囲しに来ると知らせを受け、イングランド軍のサフォーク伯は2人の兄弟とともに、500人の騎士、従騎士、その他の戦闘員、そして精鋭の弓兵200人を率いて町に立てこもった。[1194]
アランソン公爵はジャンヌとともに、騎兵600騎を率いて先頭にいた。
最初の夜、彼らは森で野営した。[1195]
翌朝、夜明けとともに、オルレアンの私生児卿、フロラン・ディリエ卿、その他数名の隊長が合流した。彼らは早くジャルジョーに到着しようと行軍を急いでいた。
そこへ突然、あのジョン・ファストルフがパリから兵士2000人を率いて、ジャルジョーに物資と大砲を運んでやって来るという知らせが入った。[1196]
これは、ジャンヌが5月4日に不安を感じていた軍隊だ。
彼女の聖人たちが、ファストルフの居場所を教えてくれなかったからだ。
隊長たちは軍議を開いた。多くの者が「包囲を中止し、ファストルフを迎え撃つべきだ」と考えた。実際、すぐに出発した者もいた。
だが、ジャンヌは兵士たちに「ジャルジョーへの行軍を続ける」よう説得した。ジョン・ファストルフの軍隊がどこにいるのか、ジャンヌは他の者たちと同じく何も知らなかった。彼女の理屈は、この世のものではなかった。
ジャンヌは「いかなる武装集団も恐れるな」と言った。
「イングランド軍を攻撃することをためらうな。なぜなら、神があなた方を導いてくださるからだ」
そして、さらにこう言った。
「もし神が導いてくださると確信できないなら、こんな大きな危険を冒すよりも、羊飼いをしていた方がましだ」
アランソン公は、オルレアンの指導者たちの誰よりも、ジャンヌの言うことをよく聞いた。[1197] 先走ってファストルフ隊を迎撃しに行った者は呼び戻され、ジャルジョーへの行軍は続けられた。[1198]
*
町の郊外は無防備に見えた。しかし、フランス王の兵士たちが近づくと、イングランド軍が建物の前に陣取っているのを発見したため、退却を余儀なくされた。
しかし、これを見た乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)は軍旗をつかんで敵に向かって突撃し、兵士たちに勇気を奮い起こすよう呼びかけた。
その夜、フランス王の兵士たちは町の郊外で野営することができた。[1199]
彼らは警戒を怠っていたが、アランソン公爵自身の告白によれば、もしイングランド軍が奇襲をかけていれば非常に危険な状況に陥っていただろう。[1200]
乙女の判断は、彼女が予想していた以上に完全に正しかった。
ジャンヌの軍隊の運命はすべて、神の恩寵にかかっていた。
翌日の朝、包囲軍は攻城兵器と臼砲を城壁まで運んだ。
オルレアンが貸し出した大砲が、ジャルジョーの町に大きな損害を与えた。
ラ・ベルジェール砲が放った3発の砲撃で、要塞(小城)の最も大きな塔が破壊された。[1201]
15.4 ジャルジョーの戦い(3)私生児とアランソン公の不和
民兵隊は、11日の土曜日にいち早くジャルジョーに到着した。
彼らはすぐに、何の相談もせずにいきなり塹壕に向かい、攻撃を開始したが、彼らの熱意は空回りした。結果的にうまく戦うことができず、正規の兵士からの援助も受けられず、混乱のうちに追い返された。[1202]
同日の土曜日の夜、戦う前に敵に降伏をすすめるのが常だった乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)は、堀に近づくと、イングランド軍に向かって叫んだ。
「天の王とシャルル王に町を明け渡し、立ち去れ。さもないと、あなたたちにとって最悪の事態になるだろう」[1203]
イングランド軍はジャンヌの呼びかけに耳を貸さなかったが、何らかの折り合いをつけて合意したいと強く望んでいた。サフォーク伯は、オルレアンの私生児卿のもとを訪れ、「もし攻撃を控えてくれるなら町を明け渡す」と伝えた。
イングランド軍は2週間の猶予を求め、その期間が過ぎたら、ただちに撤退して町を引き渡すと約束した。ただし、その時点までに救援が来なかった場合に限ることは言うまでもない。[1204]
当時、このような条件付き降伏は、双方にとって一般的だった。
以前、ジャンヌがヴォークルールに到着する直前に、ボードリクールは同様の条件で降伏文書に署名していた。[1205]
今回の場合、ジョン・ファストルフが砲兵隊と補給物資を運んで迫っている、まさにその時に、フランス軍にそのような合意を求めるのは単なる時間稼ぎの策略だった。[1206]
このとき、オルレアンの私生児卿は、サフォークの罠にかかったと言われているが信じ難い。騙されるどころか、彼はこういう策に関して非常に狡猾なことで知られている。
翌日12日の日曜日、町の攻略について軍議を開いていたアランソン公と貴族たちは、ラ・イル隊長がサフォーク伯と交渉していると知らされた。
アランソン公たちは大いに不快感を感じた。[1207]
ラ・イル隊長(傭兵隊長)は将軍ではなかったため、独断で交渉することはできない。おそらくオルレアンの私生児卿から権限を与えられていたのだろう。
私生児卿は、イングランドの捕虜となっている兄のオルレアン公のために指揮を執り、アランソン公は国王のために指揮を執っている。そのため、両者の間で意見の相違が生じた。
⚠️オルレアンの私生児とアランソン公について補足:私生児はその名が表すように、オルレアン公の異母弟(庶子の子)。アランソン公は、オルレアン公の一人娘と結婚しており、オルレアン公の娘婿である。そのため、この二人は「オルレアン公の名代」として主導権を争っていると考えられる。
⚠️アランソン公について:著者アナトール・フランスは「アランソン公は国王のために指揮を執っている」と書いているが、その後の動向(フランスを裏切りイングランドに内通する)からシャルル七世に忠誠心を持っているとは考えにくい。また、アランソン公は「ジャンヌに愛された戦友」といわれているが、オルレアンでの乙女の人気にあやかって、自分の地位を強化するために利用している可能性がある。
15.5 ジャルジョーの戦い(4)九死に一生を得る
降伏する者には常に慈悲をかけ、同時に、戦う用意もしていた乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)はこう言った。
「もし彼らが望むなら、鎧を着たまま、命だけは助けてジャルジョーから立ち去らせよ! もしそうしないなら、町を攻撃するのみ」[1208]
アランソン公は降伏の条件を尋ねることさえせず、ラ・イル隊長を呼び戻した。
彼が戻ってくると、すぐにはしごが運ばれてきた。伝令たちはラッパを鳴らして「攻撃開始」と号令をかけた。
ジャンヌは軍旗を広げ、全身武装して、頭にはシャペリンと呼ばれる軽装の兜をかぶり、王の兵士や民兵隊とともに、矢や砲弾の射程圏内にある堀へと降りていった。
アランソン公のそばに寄り添いながら、「進め! 美しい公爵さま、攻撃開始」と言った。
アランソン公はジャンヌほど勇敢ではなかったので、彼女の行動は性急すぎると感じ、そのことをそれとなく伝えた。すると、ジャンヌは彼を励ました。
「恐れないで。神が決めた時こそが正しい時です。神が望んだ時に、あなたは攻撃しなければなりません。進みなさい。神が道を用意してくれます」
アランソン公に自信がないのを見て、ジャンヌは最近、サン・フロラン・レ・ソミュール修道院で彼について約束したことを思い出させた。
「ああ、美しい公爵さま! 怖がっているの? 私があなたの奥様に『あなたを無事に連れて帰る』と約束したことを覚えてないの?」[1210]
攻撃の真っ最中、ジャンヌは城壁に、装填方法から尻込め砲と呼ばれる、細長い臼砲があることに気づいた。それが「王の美しいいとこ(アランソン公)」が立っているまさにその場所に、石弾を砲撃しているのを見て、ジャンヌは危険を察知した。それは自分のためではなかった。
⚠️王の美しいいとこ:ジャンヌがアランソン公と初めて対面した時、シャルル七世は「いとこ」と紹介したが血の繋がりはない。
「離れて」
ジャンヌは急いで言った。
「あの砲弾があなたを殺す」
アランソン公が数ヤードも移動しないうちに、アンジューの貴族であるリュド卿が、今しがた公爵が離れたその場所に立ったために、同じ砲弾に撃たれて死亡した。[1211]
アランソン公爵は、ジャンヌの予言の才能に驚嘆した。乙女は彼を救うために遣わされたのであり、リュド卿を救うために遣わされたのではないと確信した。
神の天使は、ある者を救うために、または、ある者を滅ぼすために遣わされる。
フランス王の兵士たちが城壁に到達すると、サフォーク伯はアランソン公と交渉したいと叫んだ。しかし、彼の言うことは聞き入れられず、攻撃は続いた。[1212]
15.6 ジャルジョーの戦い(5)サフォーク伯の降伏
攻撃は4時間続き[1213]、ジャンヌは軍旗を手に、城壁に立てかけられたはしごを登った。
そのとき、大砲から発射された石がジャンヌの兜に当たり、紋章が刻まれた飾り板もろとも兜を頭から吹き飛ばした。人々はジャンヌが押しつぶされたと思ったが、彼女はすぐに立ち上がり、兵士たちに叫んだ。
「立て、友よ、立て! 神はイングランド人を滅ぼすと定められた。彼らは今や我々のものだ。やる気を出せ」[1214]
城壁は突破され、フランス王の兵士たちは町に侵入した。
イングランド軍はボース平野に逃げ込み、フランス軍は彼らを追撃した。
オーヴェルニュの従騎士ギヨーム・ルニョーは橋の上でサフォーク伯に追いつき、捕虜にした。
サフォーク伯は「あなたは紳士階級か?」と尋ねた。
「そうだ」
「では、あなたは騎士か?」
「違う」
サフォーク伯は、彼をその場で騎士に叙任してから降伏した。[1215]
⚠️紳士階級(gentleman):現在の紳士とはやや意味が異なる。階級社会において、騎士と農民・郷士の中間。そこそこ裕福で、労働階級並みに働く必要はないが、より高位の貴族に仕えていることが多い。
その後すぐに、サフォーク伯が乙女にひざまずいて降伏したという噂が広まった。[1216] 伯爵は、世界でもっとも勇敢な女性であるジャンヌに降伏を求めたとさえ言われた。[1217]
しかし実際は、彼が「悪魔に取り憑かれた魔女」だと蔑んでいる女よりも、軍の最下級の一兵卒に降伏したと考える方が自然だろう。
サフォーク伯の弟ジョン・ポールも同様に橋上で捕らえられた。三番目の弟アレクサンダー・ポールは同じ場所で殺害されたか、ロワール川で溺死した。[1218]
町の守備隊は、無条件で降伏した。いつものように、戦闘中に大きな被害はなかったが、勝利者たちは後からその埋め合わせをした。
イングランド兵500人が虐殺され、貴族は身代金目的で拘束された。
そして、彼らの処遇をめぐってフランス軍の中で争いが生じた。
貴族たちは、戦果をすべて自分たちのものにした。
民兵たちは分け前を要求したが、聞き入れてもらえなかったため、腹いせにあらゆるものを破壊し始めた。
貴族たちは、略奪から救い出したものを船に乗せ、夜の間に水路でオルレアンに運んだ。町は残らず略奪され、ゴドン(イングランド人に対する蔑称)の倉庫として使われていた古い教会も略奪された。[1219]
死傷者を含めても、フランス軍の損失は20人未満だった。[1220]
⚠️サフォーク伯の行動について補足。ジャンヌをどう認識していたか:
イングランド全般の見方は第十二章「12.8 オルレアン到着2日目(2)」参照。オルレアン包囲戦幹部の反応は第十二章「12.9 オルレアン到着2日目(3)」参照。
15.7 囚われのオルレアン公(1)贈り物と救出計画
武装を解かずに、ジャンヌと騎士たちはオルレアンに戻った。
ジャルジョーの奪還を祝うため、行政官たちは公的な祝賀行列を組織した。
ジャコバン派(ジャコバン修道院)の修道士ロベール・ベニャールが雄弁な説教を行った。[1221]
オルレアンの住民は、アランソン公にワイン樽6本、ジャンヌに4本、ヴァンドーム伯に2本を贈った。[1222]
謝意として、囚われのオルレアン公シャルルに仕える顧問(評議員)たちは、ジャンヌに緑色のマント(外套)と、深紅のフランドル織りあるいは上質なブリュッセル織りのヴェルメイユ(鮮紅色)のローブ(上着)を贈った。
⚠️ヴェルメイユ(vermeille):「金メッキを施した銀素材」を指すが、ここでは「深みのある鮮紅色」のこと。
生地を調達したジャン・リュリエは、上質なブリュッセル織り(1エルあたり4エキュドール)2エル分で8エキュ、ローブの裏地が2エキュ、黄緑色の布1エル分で2エキュ、総額で金貨12エキュを請求した。[1223]
⚠️エル(ell):長さの単位。肩から手首までの寸法。
⚠️エキュドール(écu d'or):当時、フランスで流通していた金貨のこと。紋章の盾(エキュ)が刻印されていることに由来する。
ジャン・リュリエは若い毛織物商で、ジャンヌを敬愛し、神の天使とみなしていた。善良な心の持ち主だったが、イングランドへの恐怖に目がくらみ、彼らに関する事柄となると二重に見えてしまう(真実がぶれて見える)人物だった。[1224]
彼の親族の一人は、1429年に選出された評議会のメンバーだった。
彼自身も、少し後に行政官に任命された。[1225]
仕立て屋のジャン・ブルジョワは、ローブとマントの仕立て代、および白いサテン(光沢のある絹織物)、タフタ(絹の平織物)、その他の生地の提供代として1エキュドールを請求した。[1226]
町は以前も、ジャンヌが「イラクサ」のガウンを仕立てるために、パリ貨35スー相当の価値がある2色の緑色の布地を0.5エル分贈っていた。[1227] イラクサはオルレアン公の意匠(device)で、緑、紫、深紅が彼の色だった。[1228]
イラクサの緑色は、以前のように明るい色ではなく、家運が傾くにつれて徐々に暗くなっていった。 最初は鮮やかな緑色で、次第に茶色がかった色合いに変化し、最終的には悲嘆と哀悼を意味する黒みを帯びた紫色、つまり色褪せた葉の色になる。
ジャンヌに贈られたものはフィユモール(枯葉色)だった。
ジャンヌは、公爵領の役人や民兵団の兵士たちと同じようにオルレアンのお仕着せを身につけた。ある意味、彼らはジャンヌをオルレアンの紋章官、あるいは紋章の天使にしたかったのだ。
⚠️フィユモール(feuillemort):『翻訳できない世界のことば』に収録されているフランス語。枯葉のように色が薄れゆくこと。
黄色がかった緑のマント(外套)とイラクサの刺繍が施されたローブ(上着)を、ジャンヌは喜んで身につけたに違いない。イングランド人がひどい扱いをしてきたシャルル公への愛ゆえに。
囚われの王子の遺産を守るためにオルレアンまでやって来たジャンヌは、イエスの名において、善良なオルレアン公のことを気にかけており、「必ず彼を救い出す」と語った。[1229]
ジャンヌの計画では、まずイングランド人にオルレアン公を引き渡すよう呼びかけ、もし拒否された場合は、海を渡り、軍隊を率いてイングランドで彼を探し出すつもりだった。[1230]
この方法がうまくいかなかった場合に備えて、ジャンヌは聖人たちの許可を得て、別の方法も考えていた。それは、国王に捕虜を捕らえさせてくれるよう頼み、ジャンヌの手でオルレアン公と交換するのに十分な捕虜を確保してみせると信じることだった。[1231]
聖カタリナと聖マルガリータは、この方法ならオルレアン公救出までに1年以上3年未満しかかからないと約束してくれたという。[1232]
これらはまさしく、村の鐘の音を子守唄にして眠りについた子供の敬虔な夢物語だ!
ジャンヌは、王子たちを苦難と疲労から救うために苦労して働くのは当然だと考えており、善良なしもべらしいことを言った。
「肉体的な安楽について、神は私よりも、国王とオルレアン公を愛しておられることを知っています。啓示によって、私はそのことを知りました」[1233]
そして、囚われの公爵に関しては、こう言うのが常だった。
「私の『声』は、オルレアン公シャルルについて多くのことを明らかにしました。彼は、私の国王を除き、生きている誰よりも頻繁に私に啓示を示してくれる対象でした」[1234]
実際には、聖カタリナと聖マルガリータがしたことは、王子のよく知られた不幸についてジャンヌに語っただけだった。
ミラノのヴァレンティーヌの息子(オルレアン公)と、イザベル・ロメの娘(ジャンヌ)は、二人の間にある海よりも広く深い溝によって隔てられていた。彼らは魂の世界の正反対の場所に住んでおり、天国の聖人すべてを動員しても、互いを理解させることはできなかっただろう。
⚠️ミラノのヴァレンティーヌ:オルレアン公シャルルの母、ヴァランティーヌ・ヴィスコンティのこと。ミラノ公の娘。
15.8 囚われのオルレアン公(2)平和のための陰謀
それでもやはり、オルレアン公シャルルは善良な君主であり、気品があり、情け深い人物だった。他の誰よりも人を喜ばせる才能を持っていた。容姿は目立たず、体質も弱かったが、その優雅さで人々を魅了した。[1235]
彼の生まれつきの気質は、その地位とあまりにも調和していなかった。
そのため、彼の人生は、生きるというより耐え忍んだと評すべきかもしれない。
彼の父親(シャルル六世の弟、王弟オルレアン公)は、ブルゴーニュ無怖公の命令によってパリのバルベット通りで夜中に暗殺された。
母親は絶え間なく涙を流し、フランシスコ会の修道院で怒りと悲しみに押しつぶされて亡くなった。彼女の紋章と哀悼を示す意匠である二つのSの文字は、ため息(Soupirs)と心配(Souci)を意味し、絶望の中でも彼女の独創的な精神が優雅に表現されていた。
アルマニャック派、ブルゴーニュ派、カボシャン派が、彼の周りで互いに殺し合う。これらはオルレアン公がまだ子供だった頃に目撃した光景だった。
その後、彼はアジャンクールの戦いで負傷し、捕虜になった。
それ以来14年間、オルレアン公は霧の島(イングランド)の端から端まで、城から城へと引きずり回された。分厚い壁の中に閉じ込められ、厳重に監視され、長い間に2〜3人の同胞に会うことは許されたが、看守の前でなければ誰とも会話を許されなかった。
不幸に打ちのめされて、実年齢よりも老け込んでいると感じていた。
オルレアン公は、自分自身についてこう語った。
「青いうちに落ちた果実が、
牢獄の藁の上で熟成させられた。
私は冬の果実だ」[1236]
囚われの身で、彼は希望もなく苦しんだ。
死の床に伏したヘンリー五世が、弟に「どんな代償を払ってもオルレアン公を手放すな」と遺言を残したことを知っていたからだ。[1237]
他人にも自分にも優しかったオルレアン公は、誰のことも責めず、自分自身の思考の中に逃げ込んだ。心の中の隠れ家は、彼の人生が暗く悲しいものだったのとは対照的に、明るく澄み切っていた。
ウィンザーやボリングブルックの厳めしい城の暗闇の中で、ロンドン塔の中で、看守たちと肩を並べながら、彼は『薔薇物語』の幻想の世界に生き、活動していた。
ヴィーナス、キューピッド、希望、快楽、歓迎、喜び、哀れみ、危険、悲しみ、心配、憂鬱、甘い眼差しが、窓の深い窪みにしつらえた机のまわりにあった。そこで彼は、太陽の光を浴びながら、写本のページを照らす装飾画のように繊細で新鮮なバラードを書いた。
オルレアン公にとって、本当に存在したのは寓話の世界だった。
彼は「長い期待」と名づけた森をさまよい、「吉報」と名づけた船に乗り込んだ。彼は詩人であり、美が彼の恋人だった。彼は彼女について丁重に歌った。
彼の詩によれば、彼は「愛の神に囚われた虜囚」に過ぎないと言える。[1238]
オルレアン公は、公爵領の事情についてはまったく知らなかった。
もし彼が故郷に関心を持つとしたら、それはベッドフォード公爵(ヘンリー五世の弟でイングランド摂政)が買い取ってロンドンの商人に転売した、シャルル五世の蔵書を回収していたときか、[1239] あるいはイングランド軍がブロワを侵攻した際に、そこで美しいタペストリーと彼の父の蔵書をラ・ロシェルに運び出すよう命じたときくらいだった。
美の次に、オルレアン公がこの世で最も愛したのは、豪華なタペストリーと繊細なミニアチュール(細密画)だった。[1240]
フランスの明るい太陽、美しい五月、ダンス、そして貴婦人たちこそが、彼がもっとも切望したものだった。武勇伝や騎士道からは遠ざかっていた。
中には、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)の来訪の知らせが、囚われの公爵のもとに届いたと信じる者がいる。1429年5月と6月の喜ばしい出来事(オルレアン包囲戦の勝利)を、忠実な召使いがオルレアン公に知らせていたと想像するほどだ。[1241]
しかし、信憑性は低い。
それどころか、イングランド人はいかなるメッセージもオルレアン公に伝えず、英仏両国で起こっている出来事について、彼は何ひとつ知らなかった可能性が高い。[1242]
おそらくオルレアン公は、百年戦争の戦況について、人々が期待するほどには気にかけていなかった。
彼は兵士たちに何も期待していなかった。フランスの美しい従兄弟たちや、武勇伝や戦いにも期待していなかった。彼はそれらについて(フランス情勢が当てにならないことを)知りすぎていた。
オルレアン公が信頼を置いたのは、自分自身と民衆のための平和だった。
父親たち(オルレアン公とブルゴーニュ公)はどちらも亡くなっているので、息子たちは許し合い、(過去の遺恨を)忘れることができるだろうと彼は考えた。
オルレアン公は、ブルゴーニュのいとこ(実際は《《はとこ》》)に希望を託した。
そしてそれは正しかった。イングランドの運命は、今やブルゴーニュ公フィリップの手中にあったからだ。
オルレアン公シャルルは、イングランド王の宗主権を認めることにした。少なくとも、後日、認めることになるだろう。
人間の弱さを考慮するよりも、状況の力を考慮することが重要である。
そして、囚われの身である彼は、平和を得るためにできることは何でもした。
彼は、平和を「喜びの最大の宝物」と名づけた。[1243]
*
否、彼女の啓示はともかく、ジャンヌが想像した「美しい公爵(オルレアン公)」の姿は真実とはかけ離れていた。
オルレアン公とジャンヌは出会うことはなかったが、もし対面していたら、彼らの間には深刻な誤解が生じ、互いに理解できないままだっただろう。
ジャンヌの単純で直情的な考え方は、これほど偉大で高貴な礼儀正しい詩人の考え方とは、断じて相容れなかっただろう。
彼女が単純で、彼が繊細だったから。
彼女が預言者で、彼が宮廷の知識と教養に満ちていたから。
彼女が信じていたものを、彼が信じていなかったから。
彼女は庶民の娘で、あらゆる権威を神に帰属させる聖女だが、王侯である彼にとって法(の権威)とは封建的な慣習と慣例、同盟と条約で成り立っていたから。[1244]
ようするに、ふたりは人生と世界に関して、相反する思想を持っていた。
オルレアン公のために公爵領を取り戻そうと神によって遣わされた乙女の使命は、善良な公爵の心には決して響かなかっただろう。
ジャンヌもまた、ブルゴーニュ公と和解してイングランドの宗主権を認めようとするオルレアン公のやり方を、到底理解できなかっただろう。
二人は、生涯会わない方がよかったのだ。
15.9 モン=シュル=ロワール(ムン橋)の戦い
⚠️第十五章の章タイトル『ムン橋』:モン=シュル=ロワールの戦い(Meung-sur-Loire)のこと。オルレアンの下流18キロ地点に位置する。ボージャンシーの戦い(Beaugency)はオルレアンの下流26キロ地点。
ジャルジョーの奪還により、フランス軍はロワール川上流の支配権を獲得した。
オルレアンの町をあらゆる危険から解放して完全に自由にするには、ロワール川下流も手に入れなければならない。下流ではまだ、イングランド軍がムンとボージャンシーを占領していた。
6月14日の火曜日、晩課(夕べの祈り)の時間に軍は出発した。[1245]
⚠️夕べの祈り(vespers):聖職者がおこなう1日8回の聖務日課のうち、日没時におこなわれる祈り。「晩課」「晩祷」「夕べの祈り」と訳される。
ラ・ソローニュを通過し、同日の夜、ムンの橋に到着した。
この橋は町の上方にあり、城壁までは広い牧草地で隔てられていた。
大抵の橋と同じように、ムンの橋も両端に小さな城塞(castlet)が設けられ、イングランド軍はさらに、オルレアンのレ・トゥーレル要塞と同様に盛り土で防塁(earthen outwork)を築いていた。[1246]
しかし、イングランド軍の防御は不十分で、フランス王の兵士たちは日暮れ前にムンの橋を占拠した。彼らはそこに守備隊を残し、城壁のすぐ下にあるボース平野まで進んでから野営した。
若いアランソン公は数人の兵士とともに教会に宿泊したが、平時のように見張りを立てなかった。彼は奇襲を受け、大きな危険にさらされた。[1247]
町の守備隊は、(オルレアン包囲戦から撤退した指揮官のひとり)トーマス・スケールズと「ウォリック伯の子」が指揮を執っていたが、わずかな勢力だった。
⚠️ウォリック伯の子(Child of Warwick):ウォリック伯爵はヘンリー六世の養育を務めたリチャード・ビーチャムのことだが、1429年当時、息子はまだ幼児で従軍可能な年齢ではなく、上には娘3人しかいない。原文では"the Child of Warwick"とカッコ付きで強調されているので、こう呼ばれる誰かがいたのは間違いない。
なお、長女マーガレットは1404年生まれ(25歳)で1425年にジョン・タルボットと結婚。次女エレノアは1408年生まれ(21歳)。三女エリザベスは1417年生まれ(12歳)。
もし三姉妹の誰かが参戦していたとしたら…、ウォリック伯はのちにジャンヌの異端審問を監督したが、男装して戦ったことを理由に有罪にしたとき、内心で何を思っていたのか。
翌日の早朝、フランス王の軍隊は、ムンの町から大砲の射程圏内を通過してまっすぐボージャンシーへ向かい、午前中に到着した。[1248]
丘の中腹に建てられた小さな古い町で、周囲をブドウ畑、庭園、穀物の畑に囲まれ、その前を緑豊かなリュー川の谷に向かって緩やかに下っていた。町の正面には、幾度となく占領されてきたにもかかわらず、どことなく誇らしげな外観の四角い塔がそびえ立っていた。
郊外には何の防御施設もなかったが、フランス軍がそこに入ると、住居や納屋に隠れた伏兵の射手によって、あらゆる種類の矢の雨に見舞われた。両軍で死傷者が出た。
最終的に、イングランド軍の伏兵は退却して城と橋の砦まで逃げた。[1249]
アランソン公は、敵の動向を監視するために城の前に歩兵を配置した。
ちょうどそのとき、ブルターニュの貴族2人、ロストレネン卿とケルモワザン卿が向かってくるのが見え、彼らはアランソン公にこう言った。
「大元帥が、包囲軍に歓待を求めています」[1250]
15.10 ボージャンシーの戦い(1)リッシュモン大元帥の参戦
フランス大元帥であるリッシュモン伯アルテュール・ド・ブルターニュは、ポワトゥーでラ・トレムイユ卿の軍隊と戦いながらこの冬を過ごした。そして今、大元帥は国王の禁令を無視して、国王軍に加わるためにやってきた。[1251]
彼はアンボワーズでロワール川を渡り、兵士600人と弓兵400人を率いてボージャンシーの前に到着した。[1252]
リッシュモンの来訪は、隊長たちに大きな困惑をもたらした。
彼について、強い意志と偉大な勇気の持ち主と評価する者もいたが、貧しい従騎士ジャン・ドーロンのように、多くの者がラ・トレモイユ卿に依存していた。
アランソン公は「国王が大元帥を受け入れないよう命じた」と主張して、撤退しようとした。
「もし大元帥が来るなら、私はここから退きます」
ジャンヌにもそう言った。
アランソン公は、ブルターニュの貴族2人に「もし大元帥が陣営に入ってきたら、乙女と包囲軍が彼と戦うだろう」と答えた。[1253]
そのように強く決心すると、ブルターニュ兵に向かってまっすぐ進軍するために、アランソン公は馬に騎乗した。
ジャンヌは、彼と国王への敬意から、アランソン公に従うつもりで準備した。
しかし、多くの隊長たちが「今はフランス大元帥と戦う時ではない」と考えて、アランソン公を引き止めた。[1254]
翌日、陣営に大きな警報が鳴り響いた。
伝令たちは「武器を取れ!」と叫んでいた。
イングランド軍が大挙して進撃してくるところだと言われた。
若い公爵(アランソン公)は、大元帥を受け入れる事態を避けるために撤退したがっていたが、今度はジャンヌが彼を説得した。
「私たちは団結しなければなりません」[1255]
アランソン公はジャンヌの助言を受け入れ、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)、オルレアンの私生児卿、ラヴァル家の兄弟たちに付き添われて大元帥に会いに出かけた。
ボージャンシーのハンセン病療養所の近くで、彼らは立派な一団に出くわした。彼らが近づくと、浅黒くしかめ面で、厚い唇の小柄な男が、眉をひそめながら馬から降りた。[1256]
その人こそが、フランス大元帥リッシュモン伯こと、アルテュール・ド・ブルターニュだった。
ジャンヌは、天上と地上の偉大な人たちと話すときにいつもするように、大元帥の膝を抱きしめた。当時はすべての貴族が、自分より高位の貴族に出会ったときにこのようにした。[1257]
大元帥は、神と教会の敬虔なしもべとして、いかにも善良なカトリック教徒らしい口調で、ジャンヌにこう語りかけた。
「ジャンヌよ、あなたは私と戦おうとしていると聞いた。あなたが神から遣わされたのかどうか私にはわからない。それが事実なら私はあなたを恐れない。なぜなら、神は私の心が正しいことをご存知だからだ。もしあなたが悪魔から遣わされたなら、私はなおさらあなたを恐れない」[1258]
リッシュモン大元帥は、そう語る資格(実績)があった。なぜなら、彼は悪魔が自分に対して行使する力を断じて認めなかったからだ。
大元帥の神に対する愛は、司教や異端審問官よりも熱心に魔法使いや魔女を探し出すことによって示された。フランス、ポワトゥー、ブルターニュで、彼は他の誰よりも多くの人々を火刑に処した。[1259]
アランソン公は、リッシュモン大元帥を追い払うことも、一晩の宿を与えることもしなかった。
当時は、新参者が見張りを務めるのが慣習だった。
大元帥とその仲間たちは、その夜、城の前で見張りを続けた。[1260]
15.11 ボージャンシーの戦い(2)性急な勝利と新たな敵
若きアランソン公は、すぐに攻撃を開始した。
ここでもまた、攻撃の矢面《やおもて》に立ち、包囲戦の準備をしたのはオルレアン市民だった。
町の行政官たちは、必要な攻城兵器、はしご、つるはし、マトック(つるはしの一種。片方が鍬《くわ》、もう片方が斧になっており穴掘りも切断もできる)、そしてカメが甲羅の下に隠れるように包囲軍が身を守るための大きなペントハウス(屋根つきの小屋)を、ムンからボージャンシーまで水路で送った。
また、大砲と臼砲も送ってきた。陽気な砲手、ジャン・ド・モンテスクレール(通称メートル・ジャン)もそこにいた。[1261]
これらの物資はすべて乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)宛てに送られた。
オルレアンの行政官ジャン・ボワイエヴは、はしけ(荷運び用の平底の船)でパンとワインを運んできた。[1262]
17日の金曜日は、丸一日を通して、臼砲と大砲が包囲された町に向かって石弾を砲撃し続けた。同時に、谷と川からは、はしけを足場にして攻撃がおこなわれた。
6月17日の深夜、守備隊を指揮していたエヴルーの代官(Bailie)リチャード・ゲシン卿が降伏を申し出た。イングランド軍は城と橋を明け渡し、翌日には馬と馬具、そして各自が銀貨1マルク以下の財産を持って出ていく条件で合意した。
さらに、「今後10日間は武器を取らない」と誓約するよう求めた。
これらの条件で、翌朝の日の出とともに、イングランド兵500人は跳ね橋を渡ってムンまで撤退した。ムンでは、城はまだイングランド軍のものだが、橋はフランス軍が占拠している。[1263]
大元帥は賢明にも、ムンの橋の守備隊を増強するために少数の兵士を派遣した。[1264]
リチャード・ゲシン卿とマチュー・ゴフ隊長は、人質として拘束された。[1265]
*
実のところ、ボージャンシーの守備隊は降伏を急ぎすぎた。
守備隊が退却してすぐ、ラ・イル隊長が率いる傭兵部隊の兵士がアランソン公のところへやってきた。
「イングランド軍がこちらに向かって進軍しています。じきに我が軍の目の前に現れるでしょう。総勢1000人の兵士がすぐそこに来ています」
ジャンヌは彼の話を聞いていたが、何のことか理解できなかった。
「あの兵士は何を言っているの?」
状況を理解したジャンヌは、すぐそばにいたアルテュール・ド・ブルターニュに向き直ってこう言った。
「ああ、公正な大元帥! あなたが来ることは私の意志ではありませんでしたが、ここにいるからには歓迎します」[1266]
まもなくフランス軍が対峙しなければならない相手は、(オルレアン包囲戦から撤退したばかりの)ジョン・タルボット卿とあのジョン・ファストルフ卿が率いるイングランド軍全軍だった。
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