悪者がいないと安心できない人々 - 陰謀論、自己責任論、オートマトン
シミュレーションの世界では、「倒すべき悪役」がいなくとも高難易度のゲームが成立することがあります。ここには、私たちが現実に暮らしている社会ではどうして政治的な分断と対立が生まれるのか、それはいかにして解決されるのかという点へのヒントが含まれています。
(約8,500字、わりと長いのでお時間のあるときにどうぞ☕️)
シミュレーションの中の現実
みなさんはSimCity(シムシティ)という有名なゲームをプレイしたことがありますか?
名前のとおり、シムシティは都市運営のシミュレーションゲームです。市長であるプレーヤーには、雑草のような木々がぽつぽつ生えているだけの更地のマップが与えられます。まずはそこに住宅地・商業地・工業地という区画を適当に配置し、電力供給や道路といったインフラを整えると、それぞれの区画にぱらぱらと建物が建ち始め、人々の生活が始まります。

初代シムシティが出た1990年前後という時代に、この「画面を眺めているだけで目の前の世界が成長していって楽しい」というのは、アイデアとしても技術的にも画期的なものでした。ただ、シムシティはテレビ番組ではなくテレビゲームなので、当然そこにはゲーム性、つまり「難しい物事を乗りこなす楽しみ」というものがあります。お手玉やスケボーは簡単にコントロールできないからこそ楽しいわけで、大人が三輪車に乗ったところで別に楽しくはありませんね。
シムシティの場合、最初のわかりやすい要素はお金です。ゲーム開始時点で、ある程度まとまった金額の初期資金が与えられてはいるものの、発電所をドンと一基建てるだけでもけっこうな割合のお金が飛んでいきますし、道路や水道のようなインフラには当然のように継続的な維持費がかかります。
これに対して、シムシティでは「税率」がコントロール可能な要素となっています。財政面をなんとかしていくために、市長として取れる対応はだいたい以下の2つです。
税率を引き上げて税収を増やす
都市の魅力をアップさせて人口を増やす(人口が増えればそのまま税収も増える)
さあ、ここでジレンマです。税金が高くてハピハピになってくれる市民などというのはいるはずがないので、税率の引き上げはそのまま都市の魅力の低下に繋がり、人口流入に対してはマイナスに働きます。これは普通のお店が「値上げ」を行うときと同じです。単価を高く設定したほうが商品一つあたりの儲けは増えますが、値段が高ければ買ってくれる人が減るというのも当たり前なので、トータルでの儲けが単純に増えるわけではないんですね。
そこで、都市に人を呼び込むにはどうすればいいのかというと、警察署や消防署、それから病院をうまく配置することで生活者の安全と安心感を確保し、渋滞が発生しないように便利な交通インフラを整え、大学や図書館や公園といった市民が喜んでくれる施設を設置していくべきだということになります。特に、教育機関が不十分だとハイテク産業が育たなかったりもするので、「すぐには必要ないもの」をケチっているとあとで痛い目を見ることになります。(この辺の説明は2003年の「シムシティ4」のイメージで、シリーズが進むほど複雑な要素が導入されています)
既にお察しのとおり、これらの対策はすべてお金がかかるものです。建設費用も維持費もかかります。つまり、未来にお金がきちんと入ってくるようにするためには、今は払いたくないお金であってもそこにきちんと投じておく必要があるんです。シムシティのゲーム性は、この「避けがたいジレンマを乗りこなす」という点にあるのだと言えます。
ここで収入対支出の危なっかしい綱渡りに失敗すると、最終的には資金が尽きてゲームオーバーとなります。浪費が過ぎれば破産しますし、投資を渋ればジリ貧でやはり破産してしまうわけです。
ケーキを食べながらケーキを残せるか
ジレンマとして対立させられる要素はお金に限りません。シムシティシリーズのゲーム序盤の定番的な流れとして、発電所が引き起こす公害という問題があります。今回お話しようとしている「現実社会での政治的分断と対立」を考える上では、おそらくこちらの例のほうが適切です。
まず、大抵のプレーヤーが最初に建てるのは石炭発電所です。これは建設コストがそれなりに安く、供給できる電力も大容量なのですが、大気汚染がめちゃくちゃにひどいです。周辺に住宅地などの区画を置いても人が寄りつかなくなるので、マップの端っこにぽつんと建てるのがお約束になります。都市の規模が小さいうちは土地も余っているので、当面はそれで問題を先送りするという形ですね。
都市が発展し、市街地が広がってくると、広大な空き地を汚染されたままに遊ばせておくということはできなくなるので、いよいよ対策を迫られることになります。そこで、クリーンエネルギーと呼ばれる太陽光発電や風力発電に取り替えてしまえば問題が解決するのかと思いきや、これらは土地とお金を食うばっかりで全然大した電力を生み出してくれません。
このような状況下で、特別高くないコストで高出力かつクリーンな原子力発電所は救世主のような存在になってくれるのですが、原発で何かあったらどうなるのかという点はみなさんもご存知のとおりです。
公害も原発事故も、「現代人は死ぬほど大量の電力を必要としている」「大量の電力を安く安全に取り出すことは技術的にものすごく難しい」という背景から生まれるものです。だいたい「発電する」だなんて、「どれだけ弊害を出してもいいから自分でやってみな」と言われても我々一般人には何がなんだかさっぱりな話でしょう。
テクノロジーがときに害をもたらすというのは、別に悪の組織が社会に害毒をばらまいているわけではないんですね。これはシムシティというゲームがたまたまそういう世界設定をしたというわけではなく、私たちの暮らしている現実の世界は元からそのようなものであり、シムシティはそれをシミュレーションゲームに落とし込んだだけです。
現代のテクノロジーはほとんど魔法ですが、「無から有を生み出せるわけではない」という点では魔法ではありません。「デメリットはいりません、メリットだけください」ということも言えません。それは「働きたくないです、でもお金はください(なぜなら私は働きたくないしお金が欲しいからです)」と言っているようなものです。
こうしたインフラや公共サービスを必要としているのは私たちだし、電気代や税金が高いと困るのも私たちです。これは誰が取り組んでも一筋縄ではいかない問題なんです。
「法則としての世界」と「物語の世界」
テレビゲームに限らず、古典的なフィクションの作中には世界を破滅に向かわせるような悪役がいるものですが、シムシティの世界には魔王も悪の天才科学者もいません。
そこには、ただ「難しい法則によって成り立っている世界」だけが存在します。シムシティというゲームでも、私たちの現実の暮らしでも、この世界ではあらゆる資源が有限であり、何かを確保するためには別の何かを犠牲にする必要があります。人はそこにベストな妥協点を見つけていかなければなりません。
「Aを優先しつつ、A以外の優先度も下げない」ということは論理的に不可能です。誰かが悪いとか悪くないとか、邪魔をするとかしないとかいう話に関係なく、必ずそうなります。後回しにされる何かがなければ、そもそも「優先」という概念そのものが成り立ちません。現実の世界はどうやってもそうなるようにできています。
私はこのような世界観を「法則としての世界」と呼んでいます。法則は論理的にも、物理的にも存在します。天災は人の命を奪うかもしれませんが、それは何の意図もない物理的な現象の連鎖によって生じたものです。自然は善意も悪意も持っていません。それが人間にとって幸運だったとしても、不運だったとしても、あらゆる現象は「そうなっているからそうなっている」「そうなったからそうなった」としか言えません。
シムシティに影響を与えた先人のアイデアとして、イギリスのコンウェイという数学者が1970年に考案した「ライフゲーム」があります。ライフゲームの世界は方眼紙のような2次元空間で、敷き詰められたセル(細胞)は「生」と「死」の2つの状態を取ります。これらのセルはごく単純なルールによって誕生と死滅を繰り返します。

こうした格子状のセルと単純な規則によるモデルは「セル・オートマトン」と呼ばれています。オートマトンとは「からくり」のことです。ライフゲームはシムシティよりもさらに単純化されたシミュレーションの世界ですが、ここから得られる視点はもっと複雑な現実世界に生きている私たちにとっても重要なものです。
ルールが単純かつ明確に示されているとき、そこには「自分が割を食っているのは誰かがズルをしているからなのではないか」「ゴネればワンチャンなんとかなるかもしれない」「すべてを解決してくれる魔法が存在するはずだ」といった空想を挟む余地が存在しません。さっき述べた自然災害にしても、部分的には科学の力で予測したり制御したりすることが可能かもしれませんが、ここで「神様に頼めば全部なんとかしてもらえる」と考える人は現代では少数派でしょう。
法則としての世界では、事実に対する理解、法則に対する理解だけが問題を解決します。理解を生み出すのは、「それはいったいどういう仕組みになっているのか」という科学的・哲学的な探究の姿勢です。古典的なテレビゲームやフィクションのように「正義の力が悪を倒す」のではありません。恵みにも厄災にもなる自然現象がそうであるように、そもそも法則は善でも悪でもありません。法則は意図を持たず、ただ事実として存在するだけです。
「法則としての世界」に対義語があるとすれば、それは「意味の世界」や「意図の世界」、あるいは「物語の世界」といったものになるのかもしれません。悪人が悪意によって悪事を働き、それゆえに世の中が悪くなっていくのだという世界観です。程度が進めば、これは普通に陰謀論と呼ばれるものになります。
増殖する勇者たち
私は個人的に、今の観点がそのまま「どうして政治や社会についての議論は常に混乱するのか」の理由を説明してくれるのではないかと思っています。
「悪者を倒すゲーム」が娯楽として存在する一方で、世の中には「課題を解決していく仕事」というものがあります。この2つはそのまま「物語の世界」と「法則としての世界」に紐付くものです。私がここで指摘したいのは、「現実の仕事である後者を、誤って前者のゲームだと思い込んでしまったとき、政治や社会についての議論はほとんど無意味なものとなる」ということです。
仮にどこかの大企業や自治体がシムシティよろしく財政面でゲームオーバーを迎えてしまったなら、そこに付与される物語は単純に「トップが無能かつ怠慢だったから」ということになるのでしょう。悪いのは市長です。こいつの無能さがすべての原因なので、別の有能な市長に取り替えれば万事が解決します。完璧なプランです! 新しい市長の心は愛と正義に燃えています、裏で私腹を肥やすことしか頭になかったさっきのあんぽんたんとは大違いですね!
これこそが現実の政治について人々が主張することであり、また現実の政治で起こっていることです。悪者を探したがる人が100人いても、事実としての課題とその難しさを理解しようとする人は1人か2人しかいません。それが理解されない限り、当の問題が解決されることはないにも関わらずです。
「現にある世界の難しさ」を認識できないとき、人は「この世界がひどい状態なのは、それを引き起こしている悪い奴らのせいである」という別の認識を持つようです。インターネットで行われている政治バトルの大半はそうだと思います。魔王さえ倒せば、それで世界が平和になると思っているんです。
私はいわゆる「悪い人間」がこの世に存在しないとは言っていません。今あるような政治に問題がないとは言っていないし、あなたや私のような一市民(=一有権者)が考えるべき問題がないとは言っていません。
しかし、特定の政治家を諸悪の根源として口汚く罵るとか、そうした姿勢にちょっとでも違和感を表明する人を同じように攻撃しようとする人々には、私もうっすら「あれ、もしかして魔王って実在するのか…?」という感じで不安になったりするんですよね。自分では勇者のつもりで剣を振り回しているその人の姿に。
学者や技術者が難しい課題に向き合うとき、倒そうとしているのは課題そのものであって、たまたま議論の場に出てきた誰かではありません。課題はあくまで「私たちの課題」であり、それによって困っているのも、解決を望んでいるのも当事者である自分たちです。議論が進めば自分も助かるし、相手も助かります。
一方で、勇者様はとにかく悪者を倒したいので、自分が悪者だと感じたものは何であれかっこよく一刀両断しようとします。課題は自分の中にはなく、とにかく悪いのは悪い奴らなので、それを倒すことだけが重要です。彼らはこの世界を「Aは悪くない、だからBが悪い」または「Aが悪い、だからBは悪くない」という形でしか認識できないのかもしれません。味方でないものは敵で、正義でないものは悪で、それらのすべてはいつでも自分とは無関係な誰かです。
このとき、世界のあり方に責任を持っているのも常に自分以外の誰かであり、「責任」という言葉は他人を非難する意味合いでのみ使われます。ここには子育て中の大人が「うちの子の安全に気を遣うのは親としての自分の責任だ」と感じるときのような、積極的・自覚的な責任の意識がまったく存在していません。
当事者意識とは何だったのか
たまにこうした人々が「政治に当事者意識を持て」と叫んでいたりしますが、こんなデタラメな「当事者意識」などはないでしょう。
ここでは「私たちの課題を私たち自身で解決していく」という、本来の意味での当事者意識が完全に無視されています。ただただ分断と対立を煽るだけで、本人だけが正義の役割を果たしたと思っているんですね。
言うまでもないことですが、この「政治のせいにして話を終わらせるな」という指摘はいわゆる自己責任論のようなものとは異なります。自己責任論とは、社会の構造的な問題を個人の努力という問題に転嫁してしまうことです。社会の責任を0、個人の責任を100とするわけですね。対して、今ここで問題視している世界観では、単純にこの100が「社会」の側に転嫁されます。悪いのは為政者であり、また愚かにもそのような人間を支持してしまう(つまり自分と異なる政治的立場を持つ)誰かだということです。
「協力によって取り組むべき難題の話を適当な悪者のせいにして終わらせてしまう」という点では、この「政治への責任追及」は素朴な自己責任論と何も変わりません。「全部お前が悪い」の矛先が適当な個人から適当な政治家に変わっただけです。どちらも「責任」という言葉の歪みだけが一貫しています。
「悪者によって世の中が悪くさせられている」という世界観を取り続ける限り、本来理解しなければならなかった課題、本来取り組まなければならなかった課題は永遠に無視され続けることになります。それは社会全体が抱える課題のことでもあるし、そうしていつでも「自分が不幸である原因」を他人の中に見つけなければ気が済まない、本人の心が抱える課題のことでもあります。
ここで「本人の心」などという視点を持ち出すことは、ここまでに見てきた「法則としての世界」「事実としての難しさ」という話の流れにそぐわないものと感じられたかもしれません。しかし、実際には、我々の心も「事実として複雑であるこの世界の課題」の一部です。我々の認識が歪んでいるなら、それは現実に世論を作り出し、その世論は現実の政治を動かします。
悪者を倒してくれるヒーローが好きならば、あなたは悪者を倒すのが好きなヒーローに投票します。現に存在する「私たちの課題」には関心のない、ただ権力闘争で「悪者」に勝つことだけに関心があるその人に、です。
我々にできること
こうした無意味な争いに満ちた社会の中で、私たちはどのような態度を取るべきなのでしょうか。最後の視点として、日常生活レベルのアドバイスを少しだけお伝えしておきます。
ここ20年くらいで起こったスマホとSNSの普及によって、個人発信の影響力というのは文字どおり「歴史上一度もなかった」水準になっています。
朝目覚めてから夜眠りに就くまで、手の届く場所にはいつでもスマホがあります。そうしてネットの向こう側から届く言葉というのは、ときとして人を救うものにもなりますが、まあ大抵は憎悪と他責、そして無理解の言葉でしょう。特に、政治的話題と短文SNSとの相性は最悪と言ってよいです。
ネットという空間は、とにかく極論が拡散されやすい世界です。人の身長でもテストの点数でも、ばらつきのある数字というのは基本的に平均値や中央値に近いほど数が多いもので、逆に高すぎる値や低すぎる値ほど数は少なくなります。これは人々の考え方や行動についても同じで、大抵の人は異常に偏った思想などは持っていません。
ところが、このいちばん数の多い「平均的な人々」の言葉がネット上で拡散されることはまずありません。なぜならそれは「面白くない」からです。仮にあなたが「芸能人の不倫の話ばっかりして何が面白いんだろう」と思ったとしても、100人中の10人がそれに強く反応してくれるなら、100人中の50人が共感はしてもわざわざ強烈に反応する人は0人である「誰も傷つけない普通の言葉」はそれに負けます。
もう一つ指摘しておきたいのは、他の人々との反応の共有という点です。たとえばの話、駅の構内でいきなり大声で演説を始めたおじさんがいれば、周囲にはすぐさま「えっあの人何…?」という空気感が生まれますし、職場で毎日元気に暴れているお局様なども、当人から離れた場面では「あれはちょっとないよね」という反応がすぐに共有されます。つまり、受け手の側に「常識的で穏当な方向に引き戻す動き」があるんですね。
そして、これはさらに重要なことですが、誰かが実際にルール違反・マナー違反に当たる行為を行ったとしても、問題の人物への批判や攻撃があまりにもエスカレートした場合には「まあまあ」という感じで誰かがブレーキをかけることが多いと思います。職場や仲間内での同調圧力というものは、悪い方向に働く面もかなりありますが、健全な働きをしている部分もちゃんとあるわけです。
ネット上には、以上のような自然な安全装置に当たるものがありません。これは当人にとっては、常識的に見て異常と言えるような振る舞いに対する自覚と歯止めがかからないということになりますし、他の人々には「すごくおかしいような気がするんだけど、みんなも本当はあんなふうに考えているのだろうか」という不安を生み出します。
スマホの画面には「普通でないもの」ばかりが映し出されます。この点を改めて自覚しておきましょう。簡単に言えば「インターネットなんかに書かれていることを真に受けるな」ということです。
この文章自体がインターネットに書かれたものですが、これは別に自己矛盾的な発言ではないです。今ここで読んだ内容も含めて、何も鵜呑みにしてはなりません。そういう「学習データ」の受け売りは出来の悪いAIとかがやることです。あなたや私はAIではなく人間なので、ちゃんと人間として物事を考えましょう。
おわりに
今回注目したのは「誰のせいでもなく、最初から難しくできている世界」という視点であり、これは学者や技術者の姿勢で向き合わなければならない課題に当たります。何も社会や科学の話に限らず、私たちが抱えている日々の悩みも大抵がそうだと思います。
想像上の悪者の話はやめて、事実に向き合いましょう。もう一度言いますが、現実の問題は現実に対する理解によってしか解決されません。これを口論の勝ち負けと捉えることは無意味なので、そういうのは単純に無視してください。SNSに疲れたなら、普通にSNSを閉じましょう。喧嘩は子どものすることです。大人には大人の仕事があります。
職場でも家庭でも、みんながそれぞれに別々の悩みや課題や困難を抱えているとは思いますが、他人というものは別にあなたの敵ではありません。困難は疑いようのない現実でも、この世に流通する敵の話の大半は現実ではないです。あなたに敵はいません。この世界に魔王はいません。
目の前にあるものを見て、自分にできる仕事を行ってください。
関連書籍
世界の複雑さという視点は、去年出した書籍「人生の意味のつくり方」でも取り上げたものです。たまたま今回の記事では「悪い意味での主観」の歪みや偏りについて指摘しましたが、この本では「人生の意味の根拠は主観の中にしかない」という別の側面を議論の中心に据えています。(つまり、今回の文中で「法則としての世界」と対比させた「意味の世界」はそれ自体で悪いものではなく、むしろあなたが幸せに生きていく上で必須の観点になります)
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「議論に勝ちたがる人は課題の解決に興味がない」という点は、以下の記事を書いていたときにふと思ったことです。今回の記事は実はこの続編みたいなものだったので、未読の方は併せて読むとより理解が進むかもしれません。
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