内面化された他人の言葉 - 人間関係が苦手でもなんとかやっていくための本 試し読み版 3
シロイブックスより2026年1月に刊行した書籍「人間関係が苦手でもなんとかやっていくための本」の試し読み版です。
「試し読み版 3」の当ページでは、第一章「言葉のラベルを剥がす」の中盤部分を掲載しています。(前半部分を受けての話なので、前半の「試し読み版 2」がまだの方はそちらを先にどうぞ!)
安心の所在
説明は有益であり、それと同じ程度に有害である
人間性の「よい」や「悪い」をどのように定義するにしろ、この世が「いい人ばかりではない」というのは明らかに真であるし、「悪い人ばかりではない」ということも同様に真でしょう。言葉の定義は重要ではありません。誰かに対して「この人は正しい」「いや、間違っている」と言おうとすることも同様です。これを心もとなく感じるでしょうか。もっとはっきり白黒つけたいでしょうか。
本書が読者に届けようとしている贈り物の一つは「安心」というものです。しかし、言葉は事実そのものではないし、いかなる説明も事実の完全な記述にはならないので、どれほど強い言葉で安心を約束したとしても、それは偽りの安心、偽りの答えでしかありません。そこで、本当の答えはどこにあるのか、どこを探せば本当の安心にたどり着けるのかという疑問が出てくることになります。
言葉を知っているということは「理解している」こととは異なります。「客観的な答えをいつでも暗唱できる」という状態ですら、本人がそれを理解しているということを意味しません。そこにあなた自身の目と耳と手と心による理解がなければ、どのような立派な人生論にも意味はないし、表面的な人間関係のノウハウなど何の役にも立たないからです。テストの解答を丸写しで済ませたとき、それが本人のためになっていないという点は言うまでもないことでしょう。正解を知ることが重要であったとしても、目的はあくまで理解のプロセスそのもの、つまりあなた自身の変化と成長という動きの中にあります。何かの偶然で「正解っぽく聞こえる見事な説明」を見つけたとしても、それで万事解決だと思ってはならないということです。
そもそもが変化し続けている曖昧な物事(=人間関係や生き方の悩みを含めたこの世のほとんどすべての物事)を扱おうとするとき、「明確な説明がほしい」「確信できる答えがほしい」という動機や欲求はそれ自体で誤りとなります。ラベルとは説明であり、一点に固定された答えであり、その大部分は事実ではなく、誤った解釈と誤った想像でできています。それこそが、今ここで「大事に抱えていてはならない」と指摘している当の問題なのです。
さきほどの「本当に安心できる答えはどこにあるのか」という問いかけに対して、一つだけ正しい返答があるとすれば、それは「答えの説明を探そうとするな」というものです。どうか、これを意味ありげな(それっぽいだけで本当は無意味な)言い回しで読者を煙に巻こうとしているのだと解釈しないでください。用語と解説を与えられると、人はそれで物事への理解が済んだような気持ちになります。しかし、繰り返しになりますが、「説明がついた」ということはそのまま「現実にそうである」ということを意味していないし、聞き手がそれを理解したということも意味していません。誰かの発言に対して「こじつけだ、難癖をつけているだけだ」と感じる場面はときどきあるものですが、程度の違いはあれど、言葉や思考というのは常に現実からズレた位置で働いています。
誰かが喜んで布教や勧誘をしたがるような説明があったとして、それが世界の真理だったなどということが本当にあるでしょうか。私たちが今からさらに何十年か生きたあと、各々がこの世の難題にどのような答えを与えるかはまだわかっていないにしろ、今述べた点だけはすぐにでも自問できるはずです。安心のための説明を探し始めれば、そのようなまがい物を掴まされることになるでしょう。
「こう考えれば人生がうまくいく」という軽くて無責任な説明たちは、読んだ瞬間には鬱屈した悩みに解決の光を与えてくれるように感じられるかもしれません。しかし、単なる「考え方」の提唱は私たちの日々の現実を理解させてはくれないし、ましてやその現実を変えてくれるものでもありません。仮にあなたの同僚や家族が適当な有名人(SNS上のインフルエンサーや若手連続起業家、その他の教祖様など)の独特な理論に感心して「このように考えればいいんだ」と思ったとしても、そこに出てきた「このように」は現実にその人と毎日一緒に暮らさなければならないあなたや他の人たちの心をありのままに説明するものでは全然ないので、周囲としては「面倒なものに感化されてくれたな」という感じになるだけです。事実以外の説明を求めるなら、そこに解決はなく、結果の大半はむしろ有害なものとなります。
人間にとって、言葉は思考のためのほとんど唯一の道具であると同時に、あまりにも不完全な道具でもあります。この不完全さに正しい理解を与えることも、「現実に対処するために現実を理解していく」という本書の試みの一部に当たります。少なくとも、人間関係をなんとかしていくために言葉という道具の使用が避けられないとしたら、私たちはその弊害を自覚しておく必要があるのだということです。
目隠しを外す
言葉のラベルには、各人が物心ついてからの十年か二十年かの間に誤って内面化してしまった「他人の言葉」が無数に含まれており、その多くは批難と無理解の表現です。ある種のラベルは一見すると「正しい」「素晴らしい」「優秀だ」という肯定に見えるかもしれませんが、そうしたラベルはいつでも「そうでないものは正しくない」「そうでなければ認められない」という圧力とセットで存在しています。それは私たちを支えてくれるというより、ただ縛りつけて息苦しくさせるだけのものなのです。
ラベルを捨てるということには、そうした「内面化された他人の言葉」によって自己否定してしまいがちなあなた自身の気持ちを楽にさせるというメリットがありますし、わかりやすいラベルを貼られて嬉しいという人間は(たとえそれが褒め言葉であっても)あまりいないので、そのような注意の視点を持つことは、周囲の人々に気分よく迎えられるような人間になるということへも繋がるでしょう。これは社交上のテクニックの話ではなく、私たちが自らの内面にある歪みに気づき、長い間無自覚に抱えてきた思考と感情の誤った習慣を取り除いたあと、自然な副次的効果として最後に現れてくるものです。
安易なラベルをつけないということは、決めつけや偏見、憶測といったものを避けて現実の複雑さを客観的に理解しようとすることなので、そうした思い込みによる対人関係のこじれやすれ違いといったものも生まれにくくなると言えます。そして、実際的な話としてはこれが何よりも大切なのですが、事実を正しく観察するということは、そこに対する解決策を生み出すための必須の条件です。
つまり、自分や他人にラベルを貼らないということは、単に「気持ちを楽にしてくれる心がけ」といった程度のふんわりした話ではないし、実社会や実生活とは何の関わりもないような(悪い意味での)哲学的議論でもありません。言葉のラベルというのは、実際に私たちの他者への理解を歪め、誤解と思い込みを生み出し、毎日の無用な摩擦や衝突をうんざりするほど繰り返させる主要な要因として働いています。私たち自身の内面にあるこの病巣にメスを入れることは、そのまま現実世界の人間関係をよりよくしていくという未来へと続いています。
反対に、こうした「自分は○○なんだ」「あの人は○○な人だ」というラベルがそのまま放置され、「こう考えればよい」「こうしておけばよい」という機械的なマニュアルが捨て去られていない間には、私たちが生身の他者に出会うということは決して起こりません。表面上は誰かと会話しているように見えても、私たちは相手のことを見てはいないし、その人の話を聴いてはいないのです。あなた自身が毎日どれだけ周囲の人間と関わっても孤独感や疎外感につきまとわれているとしたら、おそらくそこには「誰も目の前の相手を見ようとしていない」という点が関係しています。部分的には、これは相手側の問題でもありますが、あなたや私の問題でもあり、どのような人間もこれを「他の誰かの問題」として片付けることはできません。「どちらが正しいのか」と言いたがることは、自分自身のものでもある当の問題から目を背けるということです。
人間関係の中に本物の安心、意義深さや尊さの感覚といったものを見つけたいのならば、そこに斬新な○○式人間関係メソッドとか、ポジティブな発想の転換がどうだとか提唱してみてもあまり意味がありません。言葉の説明の中に、生身の自己や生身の他者というのは含まれていないからです。
見るべき相手はただ目の前にいますし、向き合うべき心もあなた自身の中にあります。それを見るためには、私たちは他人の手による説明を捨てなければなりません。
おばけは存在するが、暗闇の中にではない
難しい課題に挑戦したとき、特にそれが時間と労力がかかるにも関わらず報われるかどうかわからないような課題であった場合、結果を確認するのは怖いものです。重要な試験や面接を受けたのならば、結果の通知が届くまでは不安が続くでしょう。
しかし、届いた結果は怖くとも確認すべきものであって、それを何ヶ月も開封することなく「絶対にうまくいったはずなんだ」と自分に言い聞かせたりし続けても何にもなりません。事実に向き合っていない以上、不安は解消されていないし、何よりも悪いことに、物事が実際に進むということが一つも起こっていません。一方で、それが不合格であったとしても、うまくいかない現実の確認は「うまくいくための次のステップ」を考えるための材料となってくれます。
本書の基本スタンスとして「ラベルを捨てて、現実の自己と現実の他者に向き合おう」という方針を掲げたのは、第一には現実の人間関係の改善のためですが、それと同じくらいに重要なポイントとしてお伝えしておきたいのは、「現実の認識」が「あなた自身の安心のため」でもあるという点です。暗闇から目を背けている限り、おばけが存在することへの怯えは決して消えません。問題の本体はその人の心の中にあるので、「おばけが存在しないであろう科学的で論理的な説明」もあまり役には立ちません。人間関係の不安についても同じで、立派そうに見える他人の説明や解釈に安心を求めても意味がないのです。
暗闇への恐怖を克服したいのであれば、他でもない自分自身が暗闇を直視するということが唯一の方法になります。不安は向き合うことでしか解消されません。人の心の動きや人間関係のあり方というものについて、本書で単純なパターン化や「ポジティブな考え方」の類いを否定しているのはそのためです。いかなる説明も提案も慰めの言葉も、それ自体としてあなたを心の底から安心させてくれるような力は持っていません。この点は今ここで間違いなく理解しておく必要があります。
特定の物事に対する不安や緊張というのは、それ自体が「当の物事をうまくいかなくさせる要因」として働くことが多いので、「どのようにすれば対人関係の中に安心が得られるのか」というのは重要な質問になってきます。既に述べたように、安心という感覚は本書が読者に提供しようとしている主要なアイテムの一つでもあります。ただし、これが単なる説明と説得の問題ではないという点はさきほど述べたばかりなので、本書が行えるのは「本当に向き合うべきはこちらなのではないですか」という問いかけと、あなた自身の人生の仕事に対する「できることなら一緒に頑張っていきましょう」という励ましのみです。
他人の説明は重要ではありません。事実以外は何も受け入れず、何も信じないでください。目の前の現実世界に自ら向き合い、それを自ら理解していくということだけが、あなたにとって本物の安心と平穏を生み出してくれます。他のどの場所にも、あなたにとって本当の答えというのは存在しないのです。
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