見出し画像

60代のリアル|第2幕、第29話【実録・親の本音】「燕三条の川に捨てて」という母に、務めて明るく「環境汚染になるよ」と応えた日


前回までのあらすじ

母のマイナンバーカード更新という焦りを抱える中、職場のムードメーカーだった主任が8月1日付で別部署へ異動することになりました。

15時過ぎからの席替えや引き出しの片付けの最中も、主任のオネエ言葉や冗談で包まれていた温かい職場風景と思い出が胸を駆け巡ります。

頼もしい支えとの別れを惜しみながら退勤し、最寄り駅を出ると空は一変、激しい雷雨が襲いかかりました。

心にも嵐が吹き荒れる中、タイムリミットが迫る8月がいよいよ幕を開けます。



包帯で巻かれた手と、点滴棒の「岡晴夫」

8月2日(日)

職場の異動やマイナンバーカード手続きの焦りを抱えながらも、私は母が入院している病院へとお見舞いに向かいました。

病室に入ったとき、母は静かにベッドで横になっていました。手元はタオルケットで覆われており、特に変わった様子はありません。

「お母さん、きたよー」

そう声をかけながら、持ってきたジュースを渡そうと、私はベッドの脇に回りました。起き上がりやすいようにリモコンを操作し、ベッドの頭側をゆっくりと上へ起こします。

すると、その動作に合わせてタオルケットがすっとめくれ、隠れていた母の右手があらわになりました。

「……あれれれれ!? どうしたの!?」

思わず声が裏返りました。 母の右手全体が、真っ白な包帯でぐるぐる巻きにされていたのです。 包帯の隙間から見えているのは親指だけ。ですが、その親指が2倍とまではいかないものの、関節が曲がらないのではないかと思えるほどパンパンに腫れ上がっていました。

驚いて「どうしたの?」と尋ねてみても、母は何も言わず、ただ黙っています。 転んだのか、何かに挟んだのか、何があったのか全く分かりません。

慌ただしく動き回る看護師さんたちにも声をかけづらく、お礼を伝えるタイミングもないまま、ただ困惑だけが広がっていきます。

そんな動揺の中、ふと母のベッド脇にある点滴のスタンド(点滴棒)に目が留まりました。

そこには名札が貼られていたのですが、よく見ると昭和の懐かしい歌手・岡晴夫さんの写真がくっきりと印刷されており、その余白に母の名前が書かれていたのです。

なぜ、こんなところに岡晴夫の写真……?

たぶん、「啼くな小鳩よ」を母が歌っていたから、その歌手が好きなのではないかと看護師さんが思い、印刷してくださったのだと思いました。

怪我の理由も分からず、点滴棒には昭和スターの写真。 あまりにシュールでわけのわからない状況に頭を抱えそうになっていると、黙っていた母が突然、ポツリと口を開きました。

「……新潟の燕三条の川に捨てて」

あまりにも唐突で、脈絡のない一言。 私はただただ圧倒され、その場に立ち尽くしてしまうのでした。



不条理の波と、届かない問いかけ

「新潟の燕三条の川に捨てて」

耳を疑うような母の言葉が、しーんとした病室にぽつんと落ちました。

母は新潟の出身です。だからこそふと、故郷の「燕三条」という具体的な地名が口をついて出たのでしょう。

ですが、「捨てて」というその言葉は……どこか自分自身を川に流してほしいと言っているような、切ない響きを帯びていました。

どのような様子で言っていたのかは思い出せませんが、胸がぎゅっと締め付けられるような感覚だけが残りました。


思わず私は、務めて明るいトーンでこう返しました。

「川に何かを捨てたら環境汚染になっちゃうからダメだよ」

と返したあと、私は持ってきていたあんパン(こし餡)を取り出しました。 もともと手を使えない母のために、あらかじめ家で4分割に小さく切ってきたものです。

包帯でぐるぐる巻きになっていることまでは知らなかったものの、いつものように食べやすいよう一つずつ母の口元へ運んであげました。

一口食べた母にお茶を飲ませると、
「お茶が苦い……」
とポツリと呟きます。


あんパンの甘さを噛みしめる母の横顔を見ながら、私はふと昔の記憶を思い出していました。

そういえば昔、母はよく家でおはぎを作ってくれていました。

小豆をじっくり煮て、途中で「びっくり水」を差しながら、大変な手間をかけて餡子を作っていた姿。裏ごしをしたり、時にはミキサーを使ったり……その時々でやり方は違ったかもしれませんが、あのこし餡作りには母なりのこだわりと愛情が詰まっていたのだと思い返されます。


その後、持ってきたリンゴジュースの残りを飲ませようとしましたが、母はストローの先をカチンと噛んでしまい、

「もういらない」
と横を向いて残してしまいました。

右手がなぜ包帯で巻かれているのかも、点滴棒の岡晴夫さんの謎も、忙しそうな看護師さんにお礼を言うタイミングも掴めないままでした。

面会時間が終わり、私は
「お母さん、また来るね」
と言って手を振りました。

母は返事をするわけでもなく、ただじっと私を見つめたままでした。

介護や入院生活を送っていると、時折こうして「理屈では説明のつかない切なさ」や、ふとした瞬間に蘇る昔の温かい思い出が交錯します。

分からないものは分からないまま、母の静かな視線と切ない言葉の余韻を抱えていく——それもまた、親の衰えと向き合う中で身についた、自分なりの寄り添い方なのかもしれません。

胸の中に何とも言えない愛おしさと複雑な思いを抱えたまま、私は病室をあとにしたのでした。



🌿次回予告

腫れ上がった右手と、突然飛び出した故郷への思い。 答えの出ない切なさと温かい記憶を抱えたまま、私は病室を後にします。

しかし、立ち止まっている間もなく、日常は次へと動き出していました。 母のお見舞いを終えた私を待っていたのは、職場に訪れた「新たな変化」——。

去る人がいれば、新しくやって来る人もいる。 異動の波が落ち着いた職場で、一体何が始まるのか?

職場でも新たな変化が……! 次回もどうぞお楽しみ!


▼ 第30話はこちらです。



▼ 第2幕の最初から読みたい方はこちらからどうぞ


▼ 第1幕から読みたい方はこちらからどうぞ


いいなと思ったら応援しよう!