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人のマネやめたら、悩まないよ

ただの宇宙人、梅太郎です。

今日は2025年の6月18日。
最後に記事を書いてから、2ヶ月くらい間が空いてしまいました。

私は何をしていたかというと、

4月の後半から、地鳴りのようなものを感じており、その感覚に連動して、身体にいろんなエネルギーが出たり入ったりし続けていました。

地球の古いエネルギーや、降りてきている新しいエネルギー、重いエゴのエネルギーに、小さく軽いエネルギー……。さまざまなエネルギーがたくさんやってきて、森羅万象が入れ替わっていく、そんな予兆の感覚。

不快なものも、心地よいのも、奇妙なものも、
今の地球を全身全霊で味わっていました。

そんな感じの日々です。
みなさんはどうお過ごしでしょうか?

以上、日記でした。


ということで、地球の混沌も大きな峠を越えようとしています。

衝動的に画面を立ち上げてみて、まだ何を書くか決めていないのですが……数日前、こんなフレーズ↓がぽんと出てきました。

「人のマネやめたら、悩まないよ。」

ということで、そんな話をしてみたいと思います。



私たちって、誰かのマネをするように、ずっと生きてきました。
誰かのマネをすることがいいことだと、教えられてきましたね。

たとえば……を出すとキリがないですが、代表的なのが「対人関係」でしょうか。

「こういうときは、こうしなさい」という、社会的なマナー、礼儀、ルールと呼ばれるようなもの。

明文化すれば、細かいことがたくさんあります。

「こんな話し方をしましょう!」と、話し方の本もここ20年くらい、定期的に大ヒットが生まれ続けています。

こういう、「そんなの余計なお世話だよ!」という領域にまで、「こうしなさい」が出てきてしまっている世の中です。

(とか言いながら、私もそんな本、何度か関わってきました……すみませんでした)


ともかく。

そんなふうにして「ルール」や「マナー」や「規定」、最近では「コンプライアンス」なんていって、しょうもないことばかりに時間とエネルギーを奪われています。

こういう社会というのは、言い換えると「呪術社会」です。

呪術社会とは、すなわち、

「横並び」でないことは「悪」であり、物事が「理想的」でないものは、もれなく「下(げ)」である。
「下(げ)」であることは、恥ずかしいことであり、価値のないことである

そんな教えを植えつけて、人の意識を誘導する。エゴを誘発させる。
そういう社会ですよね。

ゆえに、悩みが絶えません。

いつだって他人を見て、自分との差を比べて、時に確かめながら、時に人の反応を気にしながら、おっかなびっくり暮らしているわけです。

居心地が悪く、苦悩が生まれるのは当然です。

生まれてからずっと、私たちは誰かのマネをしています。

母親のように。父親のように。親戚のように。
学校の友だちのように。
映画やアニメの中に出てくる、主人公のように。

最近で言えば、「SNSで注目を集める、あの人のように」でしょうか。

「他人の言動」を中心にものを考えるのがあたりまえになりすぎています
(それを強要させるように、「思いやり」だとか、いいように言葉を置き換えて、罪悪感をあおります)

あたりまえすぎるので、疑うことすらできません。

「それがあたりまえでしょ!」と。

でも実は、多くの人は、意識下では気づいているのです。

「なんか違うよね」
「こんなのおかしくない?」

と、すでに気づいている。

でも、疑うことは疲れますよね。

エネルギーがすでに摩耗・疲弊している状態なので、

「くさいものにはフタ」。

日々を「やり過ごす」ことに、なけなしのエネルギーを注ぐ。

そんな状況が加速して、限界を迎えているのが、「今」なのです。


しかし、そもそも。
生物というのは、誰かのマネをするようにできています。

たとえばうちの庭には、毎年スズメが子育てにやってくるのですが、親が子どもにエサの取り方や、飛び方を教えます。

また、「ここは安全、ここは危ない」といった情報もおそらく伝えています。
ここでは遊んでいいよ、あそこは行ってはダメだよと。

ほんの数週間に満たない時間ですが、スズメが「子育て」という儀式を通して、命をつないでいく、代替わりしていく、その様子が見られます。

ヨチヨチ歩き回っていた子スズメが、
気づけば親スズメと同じ大きさになり、
自由に庭を飛び回っている。

美しいなぁ。と、毎年感慨深くなります。

そう。そうなんですよね。

そういう意味で、誰かのマネをするとは、生きものとしての根源的な機能であり、いい・悪いとかいうレベルの話ではないのです。

「なんでもありで自由」な、「愛」の領域なんです。

しかし、人間の世界は、ベースが呪術でできています。
呪術とは、コントロール(支配・強制)の世界

ゆえに、生物としての機能、愛の領域を悪い方向で超えた、「行きすぎたマネ」をさせようとします。

「あーせい」「こーせい」で、がんじがらめにする社会ですね。

こういう世界で、上手に「マネ」をできない人は、悩みます。

なんで、他人と同じようにできないのか。
どうして自分はこうなのか。
今の自分に価値はないんじゃないか。

また同時に、「マネ」がそれなりにできる人も、疲れています。

三次元的にうまくいっているとき、好ましい状況のときには調子がいいですが、すぐ隣には恐怖があります。

いいときも悪いときも、実は心が安らいでいません。

幸せなのが、怖い。みたいな状態。

そしてそのうち、精も根も尽き果てていきます。

その過程で、免疫機能も弱まります。
心身に異常が起こりやすくなります。
(身体としては、「もう限界だよ!やめておくれ!」というメッセージを送っているだけなのですが)


人のマネをするというのは、言い方を変えると、「自分とは違うエネルギー状態になる」ということです。

だから、つらく感じるんですね。

たとえば自己啓発書やビジネス書なんていうのは、基本的に「人のマネをしなさい」ということを、いろんな言い方で言っているものです。

歴史をたどれば、宗教の教えなどもそうです。

「あなたには、罪・けがれがあるので、清く美しくがんばりなさい」
「あなたは小さい存在なので、大きい存在になりましょう」

みたいなことを、言ってきました。
要するに、「もっとがんばって、マネをしなさい」ということ。

ですが、それこそが罠。

他人になろうとすることこそが、苦悩を生み出す最大の元凶だからです。

(ちなみに、「個性」とかいう話も、実は「マネごと」から生まれた概念です。本来の個性とは、ただ、そこにあるもの。他人に見せつけたり、誰かに認めてもらうためにあるものではありません)

つまり、少なからず悩みがある状態とは、「自分に合わないエネルギーをマネしている状態」。そのことをあらわすバロメーターとも言えます。

現代人が真に苦悩から解放されるには、

自分が、「しょうもないマネごと」をしている。
(あえて、「しょうもない」と書きました)

ということに、気づくこと。

そしたら、本来の自分との接続が戻ってきます。

接続が戻ってくると、自分の執着の対象も見えてきます。

でも別に、それをどうこうしようと思わないでいいのです。

自分らしさって何だっけ? とか、分析したり、考えたりするのは悪手。

思考は毒です
考えると、せっかくつながった接続が、また切れてしまいます。

ただ気づくだけ。
フラットに、ナチュラルに。

あ〜、そうだったんだなぁ。と。

1回気づけば、あとは勝手にどうにかなっていきます。


ということで、まだまだ悩みのタネは尽きない世の中ですが、そう遠くない日、どこかで「反転」していきます。

なぜなら、「エネルギーは波である」から。

これは、現代科学で伝えられている、数少ない真実の1つです。

波(エネルギー)には、必ず上下のぶれがあります。
ゆらゆら、ゆれるんですね。

ですから、エネルギーとは

ーーーーーーーーーーーーーー

と、このように↑ まっすぐな棒ではありません。

心電図と同じで、波がないのは動いていない、つまり死んでいる状態です。

だから、「波がない、平穏無事な人生がベスト」というのも、刷り込みです。

波があっていい。

あったほうがいい。

きたないも、きれいもあって、美しい。

これが本来の宇宙の理(ことわり)。

地球というのは、このぶれを、自分の身体を使って、魂を使って、全身全霊でもって感じられる貴重な場所です。

その点、「マネごとをする」(=違うエネルギー状態になる)というのは、エネルギーに大きなぶれが生まれるということ。

そのぶれを、全身で感じることも、私たちの仕事の1つです。

そういう経験をしたことで、よりたくましい自分の在り方、より美しい自分のエネルギーに還っていくことができます。

他人のマネごとを経て気づく、より美しい自分。
今の今、魂が望む、自分本来の在り方。

こうした在り方を意図した瞬間から、新しい人生、新しい世界が生まれます。

三次元の世界がおもしろいように、姿を変えていく。
環境や人が、反転していく。

そんな奇跡を体験していくようになります。

※ちなみに私の悩みは、「もう1年以上使っていないサブスクを、ケータイがないせいで解約できない(ダブル認証できなくて、ログインできない!)こと」でした。数日前、思い立って解約することができました。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました!
では、また近々!

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