【母・生家のこと|ep50】軽くなったはずなのに、苦しかった
前回の話
叔父の家から帰った日。
私の体も心も、すでに限界を迎えていました。
子どもたちに背中をさすられながら、
「もう平気だよ」と笑って寝室へ向かいます。
けれど、布団に入っても、
涙すら出ないほど、心の中は空っぽでした。
翌日。
子どもたちを学校へ送り出したあと、
私はスマホを前に立ち尽くしていました。
姉に、報告の電話を入れなければならない。
姉は、
かつて私を深く傷つけた人です。
今も表面的な関係は続いているけれど、弱っている彼女と向き合うには、
あまりにも大きなエネルギーが必要でした。
迷っていると、
姉のほうから電話がかかってきました。
私は、叔母のことや親族の様子を、
できるだけ感情を乗せずに伝えました。
一通り聞き終えると、姉が言いました。
「お母さんは、大丈夫だった?」
昨夜の最後の出来事だけは伏せて、
道中での母の振る舞いを話しました。
すると、姉はため息まじりに言いました。
「あの人は本当に最低な人だね。
私が実家にいた時もそうで――」
始まった、と思いました。
姉の、自分の話。
今の私には、
それを受け止める余力がありませんでした。
早く終わってほしい。
ただ、それだけを考えていました。
けれど、姉はふと、言葉を変えました。
「お母さんは、誰にも愛を与えられない人だと思うんだ」
その一言に、空気が変わりました。
「私もずっと愛が欲しくて、今も苦しい。
でも、私はお父さんからはもらえてた。だからまだマシ。」
「……でもさ、softlyは
どっちからももらえなかったじゃん」
心臓が、大きく跳ねました。
姉は続けました。
「でもね、あのときさ。
なんでお父さんがsoftlyのこと嫌ってたのか、
私、なんとなくわかる気がするんだよね」
「だってsoftly、歯向かってたじゃん。
何も言わなくても、態度に出てたし」
言葉が、続きませんでした。
何か返さなきゃいけないのに、
うまく、息が吸えない。
姉は、少しだけ間を置いてから続けました。
「だから余計に、しんどかったと思う」
「‥それなのに、お母さんの面倒を見させて、本当に申し訳ないと思ってる」
その言葉を聞いたとき、
胸の奥に、別の感情が浮かびました。
「……私、いまだに
お父さんの仏壇のある部屋にも入れないんだ」
自分でも、驚くくらい静かな声でした。
「亡くなって10年経っても、
お墓参りにも行けない」
うまく言葉にできないまま、
それでも続けました。
「……私は、どんな状況であっても、
育ててもらったことへの恩は、
今こうして一緒に住んでいることで、
もう返したと思ってる」
「だからもし、
これから先、介護が必要になったとしても、
私は世話はしない」
「お墓参りにも行かない」
「それでいいって、受け入れてほしい」
少しの沈黙のあと、
姉は、「うん。それでいいよ」と答えました。
その言葉で、
ひとつの線が引かれたような気がしました。
けれど――
姉の話は、そこで終わりませんでした。
「ずっと言いたかったんだけど、
小さい頃、お父さんとお母さんに
暴力を受けているとき、助けられなかったこと、謝りたくて。
でも、わかってほしい。
私も子どもで、怖かったんだ」
そして、少し声を落として言いました。
「ねえ、覚えてる? 何年か前に電話で喧嘩したの」
忘れるはずがありません。
私を「偽善者」と罵り、
私の中で「姉」という存在が消えた、あの電話。
「あの時、私にはもう妹はいないと思うことにしたんだ。」
姉はそう言って、少し間を置いてから続けました。
「でもね……ごめん。
あのとき言ったこと、
考えは今も変わってない」
「softlyって、人のためにやってるように見えるけど、
本当は見返りが欲しくてやってるだけなんじゃないかって——
今でも、そう思ってる」
胸の奥が、ザワッと揺れます。
「でもね、これは本当にわたしの
わがままなんだけど」
「もしsoftlyが許してくれるなら、
もう一度、妹の場所に戻ってきてほしい」
「こんなこと言うの、卑怯だよね。
わたしがしたこと、消えないことも、
わかってる」
「それでも――病気になって、
私にはもうsoftlyしかいないとおもった。
このまま妹をいないことにして、
死んでいいのかと思ったんだ。
だから‥
おねがいだから、わたしの妹の場所に
戻ってきてくれないかな」
気づけば、私は泣いていました。
姉の言葉を、
ただ受け取ることしかできませんでした。
長い沈黙のあと、
私は、絞り出すように言いました。
「……わかった」
そのときは、思ったのです。
これで、和解したのだと。
少しだけ、
心が軽くなったような気がしました。
電話を切り、
一人、部屋の壁を見つめる。
……軽くなった?

違う。
どうして、こんなに苦しいんだろう。
さっきの言葉が、頭の中で繰り返される。
——見返りが欲しくてやっているだけなんじゃないか——
——どっちからも、もらえなかったじゃん——
違う、と思いたいのに。
否定しきれない自分がいる。
どうして、涙が止まらないんだろう。
私の本当の気持ちは、どこにあるの?
どれだけの時間、そうしていたのか
分かりません。
ノックの音もなく、
妹が部屋に入ってきました。
壁を見つめたまま泣き続けている私を見て、
一瞬、動きが止まります。
少しだけ間があって——
「ランチ……行けそう?」
それだけでした。
「どうしたの?」でもなく、
「大丈夫?」でもなく。
いつも通りの、
約束していた時間を気にするような、そんな声でした。
「あ、うん行こう」
私は慌てて涙を拭いて、
何もなかったかのように立ち上がりました。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
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