都市文明を生んだ巨大な革新と、その後の長い停滞【減速と加速の世界史7】
文・秋田総一郎(世界史研究家、著書『一気に流れがわかる世界史』PHP文庫発売中)
古代オリエントの歴史は客観的な「宇宙人の目」でみることができる
この記事は、古代オリエント文明の3000年間の歴史をみわたすものです。
紀元前4000頃~紀元前3000年頃にメソポタミアで最初の本格的な都市文明が成立してから、その文明が西アジア(≒近現代史でいうアラブ)の広い範囲に展開し、その後長期の停滞(減速局面)に入っていく過程を大まかに述べています。
メソポタミアで都市文明が成立して以降の、古代オリエント文明の3000年間は、世界史=文明以後の「最初の3000年」といえるでしょう。
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古代オリエントの歴史は、「宇宙人の目」でみることができるのが、大きな魅力であり特徴です。
シュメル人、アッカド人、ヒッタイト人、カッシート人等々の、なじみの薄い名前の人びとがくり広げる、他の惑星のような歴史世界。都市や人物の名も、ウルクとかキシュ(都市名)とか、ルガルザゲシ(王名)とか聞きなれないものばかり。そこで、今の私たちとのつながりを感じにくいのです。
そして、異世界のような、私たちからみれば奇妙な文明のあり方。青銅器や金銀のインゴットはあっても鉄器やコインはなく、馬車はあっても騎馬はほぼ行われていない。おもなメディアは文字を刻んだ粘土板で、建物の多くは石造や木造ではなく日干しレンガ造り。
しかし、人口数万規模の都市がいくつも形成され、王権や官僚機構のもとで運営されている。壮大な神殿や美しい工芸品がつくられ、何万枚という粘土板が整理・保管された書庫もある……たしかに相当な文明社会なのです。
これに対し、「最初の3000年」以降に台頭したギリシア人、ユダヤ人、漢人、アラブ人、モンゴル人、トルコ人、イングランド人等々が出てくる歴史では、一定のイメージのフィルターを通してみてしまうので、「他の惑星」という感じはまったくなくなります。固有名詞も知っているものが多々出てくる。つまり、なじみのある「世界史」になってしまう。
「宇宙人の目=他の惑星をみる感覚」というのは、「感情を排して客観的に歴史をみる」ということです。
ふつう、歴史というのはどうしても、いろいろな価値観や感情(たとえば愛国心や特定の民族に対する評価など)が入りこむものです。しかし、あまり聞いたこともない民族ばかりが登場する、今の私たちとのつながりを感じにくい歴史では、その余地が少ないのです。感情を排するというのは、科学的な実験・観察の姿勢にも通じるところがあります。
そこで、古代オリエントの歴史からは、そのなかにあるパターンや法則性を客観的に認識しやすいのではないでしょうか。科学は、対象についてのパターンや法則性の認識を重要な柱とする営みです。
そして、「最初の3000年」における社会や文明の動きのパターンには、現代にも通用する、一般性を有するものもあるはずだと、私は考えます。実際、以下で述べるように、現代世界で起こったのと似た出来事が、「最初の3000年」ではいろいろと起こっています。
だからこそ、数千年前の文明社会の歴史について、私たちはぜひととも知っておくべきなのです。
シュメル人の都市・ウルク
では、「最初の3000年」についての歴史的事実をみていきましょう(前回で述べた大枠を、あらためてより詳しく述べていくものです。はじめての方も差し支えなく読むことができます)。
紀元前3500年頃~紀元前3000年頃、今のイラクやシリアにあたるメソポタミアと呼ばれる地域で、のちの世界に大きな影響をあたえた初期の文明が明確な姿をあらわしました。シュメル人と呼ばれる人びとによって、ウルクという都市が、人間のつくった共同体として、空前の飛び抜けた規模に達したのです。
なお、シュメル人の民族系統やルーツはわかっていません(だから「彼らは宇宙から来た」などというトンデモな話も生まれる)。シュメル人という名も、1800年代後半にメソポタミアで遺跡が発見されて以降、地名(メソポタミア南部=シュメル地方)にちなんで付けられたものです。
また、「ウルク」とはシュメル語で単に「都市」という意味です。このような呼び方は、ウルクという都市の、当時のメソポタミアにおける特別な位置付けを象徴しています。

地図は拙著『一気に流れがわかる世界史』より
メソポタミアとその周辺の広い範囲を、世界史の地域区分では「西アジア」といいます。メソポタミアのほか、地中海寄りのシリア・パレスティナ、アナトリア(今のトルコ)、エジプトとその西側の北アフリカ、今のイラン、アラビア半島などを合わせた地域です。

濃い網かけ:前3000~前2000頃から文明が繁栄
薄い網掛け:前2000~前800頃文明が広がった地域
紀元前2000年頃までに、メソポタミアの都市文明は、周辺各地へ広がっていきました。西側では、シリア地方やアナトリア、東側では今のイランにあたる地域などへ。さらに、アナトリアの西のとなりのギリシア(西アジアに隣接するが、西アジアの圏外といえる)にも、都市文明は伝わりました。
また、南西のエジプト(ナイル川下流域)では、メソポタミアからの影響を受けて、紀元前3100年頃に本格的な都市や初期の王国が成立し、メソポタミアに匹敵する独自の文明に発展していきます。
メソポタミアは、その後長く西アジアの文明の「中心」として繁栄し、エジプトはメソポタミアに準ずる「もうひとつの中心」であり続けました。

「最初の3000年」の最終段階では
「西アジア」の主要地域はこの範囲まで拡がる
西アジアが圧倒的だった「最初の3000年」
そして、西アジアという地域は、世界史の「最初の3000年」において、世界の中で圧倒的に重要な地域でした。最先端の、まさに「中心」だったのです。西アジアの圏外における大規模な都市文明の成立は、メソポタミアよりも大きく遅れました。
インダス川流域のハラッパーやモヘンジョダロなどの都市は紀元前2600年頃~紀元前2500年頃、黄河流域やその影響を受けた長江流域の都市文明は、紀元前2000年頃の成立です。インドや中国では、その頃にようやく初期の(紀元前3000年頃の前後の)ウルクに匹敵する都市が出来たのです。
つまり、メソポタミアなどの西アジアは、都市文明の形成において、インドや中国よりも1000年~1000数百年先を行っていました。一定の初期の文明(かなり発達した技術や文化)は、メソポタミア以外の地域にも早い時期から複数の箇所で発展していたのですが、ウルクのような大規模な都市は、当初はメソポタミア限定のものでした。
なお、インダス川流域の文明の形成については、西アジアからの影響があったとみられます。黄河や長江の文明に対する外部からの影響は、可能性はあるはずですが、よくわかっていません。

いわゆる4大文明
これらの成立時期の違いに注意
西アジアは「最初の3000年」において、世界のなかで、技術や文化の水準、人口、国家や民族の多様性などでその他の地域を圧倒していました。また、当時は西アジアの外部に対抗しうる大規模な文明社会がまだ存在しなかったので、西アジアは完結性の高いひとつの「世界」を形成していたともいえます。
「最初の3000年」の西アジアにとって、ユーラシアの東の端の中国はほとんど「別の惑星」であり、インドからの影響はあったとしてもかなり限定的でした。ギリシアなどのヨーロッパ南部は、西アジアとかなり密接な関係がありましたが、文明の「中心」からみれば、とるに足らない辺境でした。
つまり、西アジアの有力な国家にとって、西アジアの外側から大きな影響や脅威をあたえる存在は、ほぼ「ない」状態だったのです。
ただし、そのような西アジアの優位や完結性は、「最初の3000年」の最後の1000年〜数百年においては、しだいに崩れていきました。しかし、「最初の3000年」の大部分の期間においては、西アジアは世界全体のなかで頭ひとつ抜けた先進地帯であり続けました。
ユーラシアの広い範囲に、高度の文明を備えた大規模な国家が複数並び立ち、相互に影響をあたえ合う状況は、「最初の3000年」のあとの時代、つまり「つぎの2500年」(紀元前1000年頃~1500年頃の近代の開始まで)に入ってからのことです。
「最初の3000年」では、最後のほうを除いて「西アジアの独走状態」であり、西アジアは世界の大半を占めていたのです。
さまざまな文明の「源流」としてのウルク
なお、ウルクは、都市として「最古」とはいえません。数千人規模の都市あるいは集落の先行事例が、ほかの地域でみられます(北メソポタミアのテル・ブラク、アナトリアのチャタル・ヒュヨクなど)。しかし、「数万人規模」のスケールの都市は、ウルクが史上はじめてです。
また、のちの世界の文明に直接・間接に大きな影響をあたえたという点で、ウルクは世界史において特別な位置を占めます。
たとえば、現代に続く世界各地の文字のルーツをたどると、そのうちの「漢字を源流とする東アジアの文字」を除く大部分が、紀元前3400年頃にウルクで生まれた文字を源流としています。この文字は、エジプトでの文字の成立にも影響をあたえました。そして、のちに「楔型(くさびがた)文字」といわれるものに発展していきます。
「最古の都市」とはいえなくても、ウルクという都市を、現代につながるさまざまな文明の「源流」「元祖」ということはできるでしょう。
なお、文字については、黄河文明はメソポタミアからの影響を(少なくとも直接的には)受けずに漢字の原型を生み出しましたが、それは紀元前1400年頃のことです。つまり、ウルクで文字が生まれてから2000年も後のことなのです。
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そして、メソポタミアでは、ウルクに遅れて数百年のうちにシュメル人によるほかの大規模な都市もいくつか(10数か所)できていきました。
これらのシュメル人の都市は、チグリス川とユーフラテス川の下流(メソポタミア南部)の地域で発生しました。直径300~400キロほどの、比較的限られた範囲でのことです。そのなかでウルクは、最古でかつ最大級の都市でした。紀元前3300年頃~紀元前3200年頃のウルクの面積は100ヘクタールほどで、人口は1~2万人と推定されます。[1]
1ヘクタールは100m×100m。100ヘクタールは、1平方キロ。現代の日本の小学校の平均的な敷地面積は約1.5~1.6ヘクタールなので、100ヘクタール=1平方キロはおおまかに「小学校の敷地50~60個分」というイメージです。
そして、紀元前3100年頃にはウルクの面積は250ヘクタールほどになり、推定人口は3~5万人。土を乾燥してつくった日干しレンガによる建物が立ち並び、同様のレンガによる城壁(都市壁)に囲まれていました。「250ヘクタール」は、城壁の内側の面積です。
その後ウルクの面積は、紀元前2900年頃~紀元前2700年頃には600ヘクタールに達し、全長9.5キロメートルの城壁に囲まれていました。推定人口は6万~12万人です。[2]
ウルクのような紀元前の古い都市の人口は、「都市遺跡の面積×人口密度」という計算による推定です。人口を知る手がかりとなる史料が皆無なので、そうせざるを得ません。
紀元前の西アジアの集落について、人類学者は「1ヘクタールあたり100人程度(125人など)」として計算することが多いです。[3]また、「1ヘクタールあたり250人」とすることもあります。[4]本書では幅をもたせて「1ヘクタールあたり100~200人」として話をすすめます。ここでの議論では、その精度で問題ありません。[5]
初期のメソポタミアの都市の様子・日干しレンガの町並み
21世紀初頭現在、ウルクはまだほんの一部しか発掘されていないので、その全体像はわかっていません。[6]ただし、メソポタミアのいくつかの都市遺跡の発掘から、5000~4000年前のメソポタミアの都市の一般的な様子は、ある程度わかっています。
都市の周囲は日干しレンガの城壁で囲まれ、建物の多くも日干しレンガ造りです。大規模な建築では、竈(かまど)で土を焼き固めた焼成レンガや石材も使われています。乾燥地帯なので木材の使用は限定的です。多くの都市の中心的な区域には神殿の建物があり、大規模な都市ではその頂点の高さは数十メートルに達しました。
市街地の建物は平屋がほとんどです。住居はランダムな建て方で、びっしりと並んでいます。
ただし都市全体をみると、メインの街路や神殿や食料庫などの公共の建造物は、一定の都市計画に基づいて配置されています。住宅が立ち並ぶ居住区と、陶器や金属器などをつくる工房が集まる区域を区分することもみられます。[7]
飲み水はおもに井戸水によるものでした。川の水は、生活排水が流れこむため不衛生だったのです。[8]
そして、下水の施設も、一定のものがありました。たとえば、紀元前3300年頃の「ハブーバ・カビーラ南」という都市遺跡では、地面を掘った排水溝に土管(下水管)が埋められ、それが市街のあちこちに張りめぐらされていました。[9]
ハブーバ・カビーラ南は、メソポタミア南部から900㎞ほど離れたシリア北部にある、ウルクの衛星都市です。当時のメソポタミアとその周辺で「基軸通貨」といえる銀の入手と供給のためにつくられたと考えられています。[10]
また、市内には道路のほかに水路を設けることも一般的でした。さらに、メソポタミア南部の都市の間を結ぶ水路や運河も建設されました。[11]
このように、街路や大規模な建物、上下水のインフラ、運河などが、相当な計画性で整備されていたのです。これは、王にあたる権力者や役人、技術者集団などの専門家が存在したということです。当時の文書(あとで述べる粘土板文書)には、「王」を意味する語や、公共におけるさまざまな職業・役割を列挙したものもあります。[12]
そもそも都市とは、文明とは何か
では、そもそも都市とは何か。私は、「都市」を「食糧生産に直接従事しない権力者と専門家が管理・主導する、数千人規模以上の集落」と定義しています(「数千」とは、ここでは「3~7千」とする)。
考古学者のゴードン・チャイルドは、古代都市の条件としてつぎの10項目をあげています。それは、「人口集住」「第一次産業以外の職能者」「生産余剰の物納」「神殿などのモニュメント」「支配階級」「文字」「暦や算術」「芸術」「長距離交易」「支配階級に専属の工人」(表現は著者秋田が簡略化)といったものですが、上記の「都市の定義」はこれを私なりにまとめたものです。文化人類学者クライド・クラックホーンが都市の条件のひとつとして経験的に打ち出した「人口5000人」という基準も参考にしています。[13]
今から5000年ほど前のウルクなどのシュメル人の都市は、人口規模のほか「権力者と専門家が主導」という「都市」の条件をはっきりと備えているということです。
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そして、文明とは何か。それを定義するのはむずかしいのですが、あえていえば、つぎのようになると、私は考えています。
文明とは「(ここで述べているような)本格的な都市を築くレベルにまで発達した、人間の技術・経済・文化活動などの社会的な営みの総体」
「本格的な都市を築くレベル(都市文明レベル)にまで発達」ということが、この定義のポイントです。では「都市」とは何かといえば、前に定義したとおりです。つまり「数千人以上が密集して暮らす、権力者と専門家が管理・主導する大規模集落」が都市ということです。
この「文明」の定義には、以上の「都市」の定義が核として組み込まれているのです。
なお、都市文明以前の、あるいは都市を持たない人びとの「社会的な営みの総体」については「文化」という呼び方があるはずです。「縄文文化」は、その一例です。
そういうと、「それは狭い見方で、都市は文明の必須の条件ではない、都市を持たない文明も可能なはず…」といった反論があるかもしれませんが、そういう人とは議論が平行線になりそうです。私は「都市」というものを、人間の活動においてきわめて重要な、人間本来のあり方とも密接にかかわるものだと考えています。ただ、このことにはこれ以上立ち入らす、本筋の「古代オリエントの歴史」の話をすすめます。
*上記の「文明と都市の関係」について述べた記事
重要な経済活動は国家が直営
では、ウルクのコミュニティは、どのようなものだったのか。
まず、ウルクの住民の圧倒的多数は、農業に従事していました。権力者や役人の指揮に従ってウルクの城壁の外に広がる耕地を耕し、ムギ類などをつくっていたのです。
「住民の多数派が農民」というのは、私たちが一般的に抱く都市のイメージとは異なります。しかし、農民の日々の労働を国家が直接管理していたことは、上記の「都市」の定義(権力者と専門家の主導)にあてはまります。
また、農民のほかに、陶器や金属器などの工芸品の生産や商業活動を専門的に行う人びと、つまり私たちが都市住民として一般に思い浮かべる人びとも、相当な数いたわけです。
そして、文明の始まりの時代(とくにその初期)のメソポタミアでは、ひとつの都市を核とする限られた地域が国家の範囲でした。「都市国家」といわれるものです。のちの時代のように広い領域を支配する「領域国家」は、まだ存在しません。
文明の始まりの時代のメソポタミアでは、いくつかの(十数の)有力な都市国家が並び立つようになり、それが長く続きました。
なお、エジプトでは、メソポタミアのように都市が独自の発展を十分に遂げる前に、さまざまな都市や村落を束ねる王権が成立しました。そして、都市国家ではなくやや広い範囲を支配する「王国」といえる国家を形成したのです。
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そして、「文明のはじまり」の時代におけるウルクなどの都市国家は、政治権力であるだけでなく、当時の経済活動の重要な部門を運営する経済的な権力でもありました。
農民たちが耕す農地は基本的には国家所有であり、のちの時代の一般的な農家のあり方とは異なります。高度の道具や工芸品をつくる工房も、国家による直営であり、そこで働く人びとは自営の職人ではありません。また、外部との貿易についても、民間の商人ではなく、国家の管理のもとで専門の役人が担いました。[14]
ウルクなどの初期の都市国家があったメソポタミア南部は、各種の資源・原材料が乏しく、貿易による資源の入手は国家・社会の根幹を支える活動でした。メソポタミアの都市国家は、穀物や毛織物、その他の工芸品を地域外に輸出し、鉱物、木材、石材などのさまざまな原材料を輸入していたのです。青銅器にしても、原材料の銅や錫は、もっぱら輸入に頼っていました。
そして、このような交易のネットワークは、西アジアのほぼ全域に及んだのでした。とくに、かなり希少な金属であった錫については、西アジアの圏内を超える遠方からも入手することがあったようです。組織化された遠距離貿易が発達していたのです。[15]
また、当時のウルクが築いたネットワークの範囲が、西アジアとここで呼ぶ、共通の文化や経済的つながりを持つ「地域としてのまとまり」の原型となったともいえるでしょう。
以上のように、その後の国家・社会のあり方とは異なる面があるのものの、本格的な「文明」としてのさまざまな要素を備えた都市が、遅くとも5000年前(日本でいえば縄文時代中期)には成立していたということです。
ウルク的な都市文明までの道のり
ウルクのような数万人規模の都市が生まれる過程の重要な出発点として、「定住の開始」ということがあります。それまでの、移動を常態とする狩猟・採集による暮らしからの転換です。
西アジアの一部では、1万2000年前頃から定住生活が始まりました(年代については諸説があり、おおまかにいえば1万数千年前)。それが人類史上初であったかどうかはともかく、「最初期の事例のひとつ」であるとはいえます。
ただし、この初期段階ではまだ狩猟採集の比重が高く、農業が行われていたとしても、多くの場合栽培用に改良された品種によらない初歩的段階です。その後、農耕の発達・普及で定住集落が増え、その大規模化がすすみます(農耕の初期の発達史も重要ですが、ここでは立ち入りません)。
そして、紀元前7500年頃~紀元前7000年頃には、面積が10ヘクタール規模の大集落が西アジアの一部で生まれました。その推定人口は、ここで行っている方法によれば1000~2000人です。数百人規模だった可能性もあります。
その後長いあいだ、最大の集落の規模は10ヘクタール台を超えませんでした。前5000年(7000年前)頃も、西アジアで最大級の集落は、そのレベルです(推定人口は多く見積もって2000~3000人くらいか)。こうした大規模集落の遺跡は、メソポタミアではなくシリアやアナトリア(現在のトルコ)の東南部などでみつかっています。[16]
その後、おそくとも紀元前4200年頃にはメソポタミア北部で「テル・ブラク」という遺跡名で呼ばれる、人口数千~1万人規模の先駆的な都市が生まれました。そして前3500年頃~紀元前3000年頃には、メソポタミア南部でウルクがかつてない巨大都市となりました。そこにはおそらく、メソポタミア北部の影響があったはずです。
都市の成立を支えた技術革新の波
ウルクのような都市の成立を根底で支えたのは、技術革新です。紀元前5000年頃から紀元前3000年頃にかけて、西アジアでは技術革新の大きな波が起こっていました。これは現代からみれば数百年単位のゆるやかな変化ですが、当時としてはかつてない急速なものでした。
この時期(紀元前5000頃~紀元前3000年頃)には、犂(すき)、車輪、荷車、ソリ、帆掛け船などが発明されています。[17] [18]
天文観測で1年を認識し暦をつくることも始まりました。冶金の技術も発達し、紀元前3000年頃までには、青銅の製造技術が確立します。青銅は、一般的には銅に数%~十数%の錫を混ぜた合金です。それまで利用可能だったほかの金属(金や銅など)よりも丈夫で硬く、これによって金属の刃物(利器)が実用化されたのです。[19] [20]なお、鉄器の時代はまだ先です。
シュメル人がこれらの技術をすべて生み出したのではありません。たとえば青銅は、シリアあるいはアナトリアで発明されたものがメソポタミアに伝わったと考えられます。[21]
しかし、ウルクなどのシュメル人の都市で、以上のような「文明の基本」といえる技術はさかんに用いられ、発達しました。西アジア全体のさまざまな成果がメソポタミアに集まり、都市文明が開花したのです。
最初の文字はウルクで生まれた
また、紀元前3400年頃にはウルクで世界最初の文字も生まれました。ウルクは「文字を発明した都市」なのです。
この文字は、葦の茎を斜めに切ったペンで粘土板に文字を刻むという方法で書かれました。粘土板はかなりかさばるものの、きわめて低コストで、乾燥して固まると耐久性が高いという長所がありました。

初期段階の「古拙文書」の写真をスケッチした
元の写真は、前田徹『都市国家の誕生』山川出版社による
最も初期の文字は絵文字的なところがありましたが、しだいに画数も整理されて抽象的になり、複雑な文字のシステムが整っていきました。紀元前2500年頃には文字としての体系がほぼ完成します。[22]こうして発達した文字は、その形状から「楔形(くさびがた)文字」と呼ばれます。これはひとつひとつの文字が一定の事物や概念をあらわす「表意文字」の一種です。
ウルクで生まれた文字システムは、その後シュメル人のほかの都市にも広まりました。そして、西アジアではウルクの楔型文字に直接間接の影響を受けた、いくつかの新しい文字や表記システムも生まれました。さらにそれらの西アジア発の文字は、ローマ文字やアラビア文字など、現代も広く使われている文字(漢字の系統を除く)の源流となりました。
エジプトでは紀元前3300年頃~紀元前3100年頃に初期の文字が使われるようになり、のちに「ヒエログリフ(聖刻文字)」といわれる表意文字に発展しました。これにはメソポタミアからの影響があったものと考えられますが、エジプトの文字そのものは楔形文字とは別物です。[23]
また、エジプトでは紀元前3000年頃から紙に似たパピルスという記録媒体も独自につくられ、粘土板などとともに(より貴重なものとして)用いられました。パピルスは、パピルス草という水草の茎をタテに薄く切り、それをタテヨコに組んで貼り合わせたもので、そこにインクで文字を書きます。パピルス草は、エジプトとその近辺の特産品です。[24]
そして、シュメルの都市では文字記録をあつかう「書記」という専門家も生まれました。「粘土板の家」と呼ばれる、書記を養成する学校もありました。書記という専門家の存在は、エジプトでも同様です。
「文明のはじまり」の時代には、読み書きは特別な教育を受けた者だけの専門的スキルでした。王のような特権階級の人でも、多くは読み書きができなかったのです。[25]
文字の最初期から紀元前2900年(4900年前)頃までのウルク出土の粘土板を、考古学者は「ウルク古拙(こせつ)文書」と呼びます。ウルク古拙文書は、これまでに(21世紀初頭までに)断片を含め約5000枚が発見されています。そこには1000種類ほどの文字がみられます。
古拙文書の8割ほどは、穀物や家畜などを管理するための、国家による記録です。当時は、民間人が文字の記録を残すのは例外的でした。
そして、古拙文書の残り2割は「語彙リスト」と呼ばれる、書記をめざす生徒が書き残した単語帳のようなものです。そのなかには、国家組織のさまざまな職業・役割の一覧である「官職リスト」や、約90の都市名・地名を記した「都市リスト」といわれるものもあります。[26]
国家の財産を帳簿で記録する書記。エリートの“知識人”をめざし単語帳で学習する生徒――そんな人たちが、5000年近く前の世界にいたのです。そこにはまちがいなく、都市的な文明生活が存在していました。
ウルクの文字は、穀物をはじめとするさまざまな物品のやり取りを管理するツールとして生まれたと考えられています。巨大な都市が生まれ、管理すべきモノや取引がぼう大になり、従来のやり方では処理しきれなくなったとき、「粘土板に文字(当初は絵文字的な記号)を刻む」という「外部記憶」の手段が用いられるようになったのです。
「都市文明」の前段階としてのウバイド文化
そして、さまざまな技術(組織運営の技術を含む)を総合した重要な技術革新として、灌漑農業(水路で水を供給する農業)があります。灌漑農業は、都市文明の直接の基礎となった技術です。
大規模な灌漑農業によってはじめて、数万人規模の都市を養う食料生産が可能になりました。これに対し、初期の農耕は雨水に頼る「天水農業」でしたが、それでは程よく雨が降るなどの条件に恵まれた、限られた場所でしか農業ができません。灌漑農業では河川などの利用できる水があれば、さまざまな気象条件の土地で大規模な農業が可能になります。
灌漑農業は、人間が大規模かつ計画的に自然を改造することの始まりでした。
紀元前5500年頃~紀元前5000年頃、メソポタミア南部では、チグリス川・ユーフラテス川(とくに水量の安定しているユーフラテス川)の水による灌漑農業が行われるようになりました。メソポタミア南部は年間降雨量が200ミリ未満の乾燥地帯で、天水農業でのムギ類の栽培は困難でした。[27]そのためもともとは人口が少なかったのですが、灌漑農業によって多くの集落ができていきます。
紀元前5500頃~4000年頃の、灌漑農業によるメソポタミア南部の社会のあり方を「ウバイド文化」と呼び、その約1500年間を西アジアの時代区分で「ウバイド期」といいます。ウバイド文化の担い手はシュメル人であった可能性もありますが、よくわかっていません。
ウバイド文化の集落では、精密な土器や石器がつくられ、原始的な機織りが行われました。銅などで初期の金属器もつくられました。穀物倉庫や神殿らしき建物もありました。そして、灌漑農業のための用水施設や耕地が整備され、集落をあげての管理がなされていたのです。ウバイド文化は、ウルク的な「都市文明」の一歩手前まで来ていました。
ただし、人びとの墓や副葬品をみるかぎり、身分や貧富の格差は大きくなかったようです。[28]また、ウバイド文化の集落の規模はせいぜい10ヘクタールほどで、それまでの集落の最大規模を超えるものではありません。[29]
そして、ウバイド期末の紀元前4000年頃からの数百年~1000年の間に、かつてない大変化が起こりました。紀元前5000年頃には、ウルクの場所にはすでに一定の集落ができていました。その大規模化が始まったのは、紀元前4000年頃のことです。[30]
その具体的な経緯はわかりませんが、ウバイド期の終わり頃から、数万人規模の都市建設を可能にする技術や組織力の大幅な向上・拡大があったようです。
そこで、紀元前4000年頃は、都市文明を生み出す大きな革新・変化の起点といえるでしょう。それは「文明のはじまり」の革新の開始であり、「最初の3000年」のサイクルのスタートなのです。
メソポタミア南部における都市文明への発展は、ウバイド文化という先行する段階を受け継いだものでした。新しい文明は、先行する社会の成果を継承することで生まれます。そして、その継承から、飛躍的な変化が起こり得るということです。数千年前の世界でも、大規模な都市を生むような急激な進歩、つまり大きな「加速」が起こるということがあったのです。
「遠い昔であっても、つねに変化がゆっくりだったわけではない」ということです。
「都市革命」とその後の停滞の始まり
前に「都市の定義」で引用した考古学者のゴードン・チャイルドは、都市文明の形成を「都市革命」と呼び、農耕の開始(新石器革命という)や産業革命に匹敵する人類史上の大変革と位置づけています。そして、この都市革命を、この一連の記事では「文明のはじまりの革新」と呼んでいます。
都市革命(文明のはじまりの革新)を支えたのは、前3000年頃までに西アジアで起こった大きな技術革新の波でした。チャイルドほか、何人もの学者がこの「大きな波」について言及しています。
《紀元前三〇〇〇年にいたるまでの約一千年のあいだは、みのりゆたかな発明、発見が行われた点で、十六世紀以前の人類史のなかでおそらくその例を見ないほどの時期だった》
《〔紀元前3500頃~紀元前3000年頃は〕人類の歴史において、基本的な意味を持つ時代である。……この時期にみられるのは、採鉄、冶金、建築の出現、車輪、船、文字の発明など、じつに近代文明の〔源流といえる〕あらゆる基本的な技術であった》
これらはかなり昔の本(日本語訳は1950~60年代)にある記述ですが、現代でもこの認識は通用します。たとえば、科学史家の山田慶兒氏は、2010年の著作で上記の学者たちを引用し、「人類の歴史には、創造的エネルギーが高揚し、その後の歴史の歩みを決定的に方向づけた時期があり、紀元前3500年頃~紀元前3000年頃はそのひとつだった」という主旨のことを述べています。(『技術からみた人間の歴史』SURE)[31]
しかし、技術革新の大きな波は、やがて減速していきます。技術史家のリリーは、都市文明を生んだ一連の技術革新についてつぎのように述べています。
《それは一つの革命であって、…紀元前三〇〇〇年以前の二千年間の大発明時代を経過し、ついで基本的な新機軸よりもむしろ技能の進歩と規模の増大の時代をもって紀元前二五〇〇年ころまで続いた》
《しかしそれ以後、足ぶみが始まった。そしてその後何世紀にもわたって、ほんのわずかな進歩しか起こらなかった》
「それ以降、足踏みが始まった」というのは、西アジアの技術革新が、紀元前2500年頃にはそれまでの「加速局面」から「減速局面」に移行したということです。ただし、その変化の具体的な時期や経緯、変化のペース(徐々になのか、急速だったか)などは不明です。今のところ確認できるのは、ごく大まかな流れだけです。
技術革新の停滞とは、たとえば道具の種類や形状、建造物の規模や構造について、新しい動きがみられなくなるということです。
紀元前2500年頃からの停滞の例を、リリーはいくつかあげています。たとえば、金属加工の職人が使うハンマーにあたる道具が、粗雑な形状のまま1000年以上変化しなかった、といったことがあります。ほかにも、船の操舵(かじとり)の機構、糸をつむぐ装置、馬が荷車などを引くときの馬具など、さまざまなことが完成度の低い、おおいに改良の余地がある状態のまま長年放置されたというのです。[32]
こうした停滞は、現象として地味なので歴史の本では積極的に取り上げられません。そこで見落とされがちですが、歴史の大きな流れとして押さえておくべきです。
要するに、都市革命の時代に人間の創造的エネルギーがとくに高揚していたなら、その前後の時期はそれほど高揚していなかったということです。
「文明の要」となる道具の停滞
西アジアにおける技術的な停滞、つまり技術革新の減速の例は、ほかにもあげることができます。それらは今の私たちからみればおおいに改善の余地がありながら、2000年以上基本的に変わりませんでした。
記録メディアとして粘土板が広く用いられることは、紀元前3400年頃の文字の発明以来2000年ほど続きました。紀元前400年代に、当時西アジアを支配したアケメネス朝が羊皮紙やパピルスをおもに用いるようになって以降、ようやく粘土板の時代が終わったのでした。
また、さきほども述べたように、ウルクなどのメソポタミアの都市で、楔型文字の体系の基礎が固まったのは、紀元前2500年頃のことでした。つまり、ウルク発祥の楔型文字のシステムには、それ以降(一定の変化・微調整はあっても)大きな革新はなかったということです。
ウルク発の文字に影響を受けた後発の民族による、新たな文字のシステムも生まれてはいます。しかし、楔型文字を流用・加工したり、似た発想によるシステムであったりで、従来の楔型文字の枠組みを超えるものではありません。ウルクにおける文字の誕生に匹敵する、その後の文字の大きな革新というと「アルファベット(音素文字の簡略な体系)の誕生」ですが、それは鉄器時代(紀元前1000年頃~)の初期のことです。
貨幣についても長いあいだ変化がありませんでした。西アジアでは、紀元前3100年頃から貴金属の粒やインゴット(塊)が「貨幣」として用いられていました。[33]
コインという「種類や額面を示すデザインが施された、公的な権威が発行する金属の貨幣」がはじめて登場するのは、前600年頃のアナトリアでのことです。コイン以前の段階では、取引のときに金銀などの重さを天秤ではかることが基本でした。私たちからみれば不自由に思えますが、これが2000数百年続きました。
そして、実用的な金属器として青銅器がおもに使われるという状況も前3000年頃以降、2000年ほど続きました。これは考古学の時代区分でいえば「青銅器時代」ということです。その先の革新といえば鉄器ですが、そこに至る前の足踏みが長く続いたのです。実用的な製鉄技術が普及して、西アジアが鉄器時代に移行し始めたのは紀元前1100年頃~紀元前1000年頃のことでした。
紀元前4000年頃から紀元前2500年頃までは、西アジアの文明にとっていわば創業期でした。それは人類全体の文明の創業でもあります。粘土板による文字記録、その文字体系、コイン以前の貨幣、青銅器は、その「創業期」に基本が固まった技術・システムです。そして情報伝達、経済活動、生産技術を支える、文明の要となる道具なのです。
それらの「文明の要」となる道具が2000年以上にわたって基本的に変化しなかったのは、やはり都市革命(文明のはじまりの革新)がひと段落して以後の西アジアが技術的・社会的に停滞していた、つまり減速局面にあったということです。そうでなければ、これらのものはもっと早く変革されていたでしょう。つまり、紙などの新しいメディアやコインや鉄器に置きかわっていたはずなのです。
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都市革命以後の技術革新の停滞ということでは、エジプトのピラミッドは象徴的です。史上最大のピラミッドがつくられたのは、前2500年頃でした。その時点で、西アジアにおける建造物のスケールは頭打ちとなりました。
エジプトではメソポタミアとちがって石材に恵まれていたので、大規模な石造建築が発達しました。ただし、民衆の住居などの一般的な建物は、メソポタミアと同様に日干しレンガ造りです。[34]そして、もともとはエジプトでも石造建築は少なかったのです。
しかし、紀元前2600年代に、エジプト史でいう第3王朝の時代からピラミッドなどの石造建築が積極的につくられるようになりました。その技術は100数十年でピークに達して、第4王朝の紀元前2500年頃にはクフ王の大ピラミッドが建設されました。[35]
ところがその後、こうした建築技術の進歩はペースダウンしていきます。ある古代建築の研究者は、大ピラミッド以降について《石造建築のすべてのやり方は、その後2000年も変化のない、因習的な型になってくりかえされた》と述べています。[36]
大ピラミッド以降、ピラミッドの建設はしだいに衰え、エジプトでは神殿など別種類の建築が盛んになりました。そこには技術の一定の発展や、洗練がすすんだ面もみられます。
しかしそれでも、高さ140m余りで、200数十万個の石材からなる総重量数百万トンに及ぶ巨大建造物の技術を大きく超えるものではなかったのです。
ウルク以降の最大級の都市
では、この一連の記事で時代ごとの総合的な技術力、あるいは文明の水準を測る素材としている、最大級の都市の規模はどうなったのか?
前に述べたように、ウルクの規模は紀元前2900年頃~紀元前2700年頃には600ヘクタール、推定人口6万~12万人に達しました。そして、これ以降2000年数百年のあいだ、この規模を大きく超える都市はあらわれませんでした。なお、ここで「大きく超える」とは、「5~6倍」あるいはさらに大雑把に「数倍」以上の次元の異なるスケールということです。
たとえば、ウルクから数百年遅れて発展した、メソポタミア北部のキシュは550ヘクタールの規模で、成熟期のウルクと変わりません。紀元前1500~1300年代にとくに繁栄した、エジプトの首都テーベが数百ヘクタールで人口10万程度。[37]
紀元前700年頃、当時最大の国家だったアッシリアの首都ニネヴェは、全長12キロメートルの城壁で囲まれ、面積は750ヘクタール。ニネヴェは、メソポタミアの北方のチグリス川・ユーフラテス川上流の地域にありました。[38]
あとで述べる、紀元前600年頃のメソポタミア中部のバビロンは、周辺地域とあわせて1000ヘクタール。
これらの都市はシュメル以外の、のちの時代に台頭したさまざまな国家や民族が築いたのです。また、それらの国家の主流はかつての都市国家ではなく、より広い範囲(メソポタミア全域など)を支配する領域国家でした。
しかし、国家のスケールが拡大しても、都市はそれほど大きくなっていません。どの都市も紀元前2900年頃~紀元前2700年頃のウルクに対しやや大きいとしても、「一ケタ大きい」とか「数倍」の規模ではありません。都市の発展は、都市革命(文明のはじまりの革新)の頃よりもはるかにゆるやかになったのです。そしてこれは、技術革新を核とする文明全般の進歩がペースダウンしたことの反映なのです。
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ではなぜ、このような技術革新の減速が起こったのでしょうか?
先ほど引用したリリーは、「紀元前2500年頃以降の技術革新のペースダウンの原因について、都市文明が成立して以降、長い歴史の積み重ねで格差や社会の分断が著しくなったことが影響している」という主旨のことを指摘しています。つまり、特権階級が生産や技術の現場から離れ、その改善に対する関心を失い、技術革新への社会的な評価やインセンティブ(動機づけ)も低下したためではないかというのです。[39]
これはほかの時代でも(現代でも)みられることで、たしかにあり得るでしょう。しかしこの説を十分に立証するには、当時の社会のきめ細かい部分にまで立ち入る必要がありますが、史料が限られる時代なのでそれはむずかしいです。
そこで、「なぜこうなったか」という原因論には、ここではこれ以上踏み込みません。まずは「何が起こったか」という「事実」「現象」をおさえることにしましょう。
「最大級の都市の変遷」グラフ
私は、最大級の都市の規模は、技術を核とする各時代の「文明の水準」をはかる指標となり得ると考えています。
現代の巨大都市が、現代の建設、輸送・交通、保健・衛生などに関するさまざまな技術、そして食料の生産力に支えられていることは明らかです。そして、そのことは、過去の時代においてもあてはまるはずです。つまり「その時代の生産や技術の水準が都市の規模の限界を決める」ということです。
この一連の記事では、以上の考え方に基づき「最大級の都市の変遷」と題したグラフを提示しています。この数千年間の各時代における最大級の都市の規模を片対数グラフに落とし込んだものです。

©Soichiro Akita 2025
片対数グラフでは、成長率が同じなら線の傾きは一定になります。上記のグラフには、急な右肩上がりの時期と傾きが緩やかあるいは平坦な時期があります。
そして、ここでは紀元前2900年~紀元前2700年頃の最大級の都市ウルク(その成熟期)と、紀元前600年頃における最大の都市バビロンを比較し「2000年余り経っても、都市の規模はそれほどは大きくなっていない」ことを確認したわけです。
ここで述べた「ウルクからバビロンまで」の2000年余りは、紀元前4000年頃以降の最初の「右肩上がり」のあとの、グラフの傾きが平坦な時期にあたります。

紀元前600年のバビロン・メソポタミアの都市文明の集大成
ウルク以降の西アジアの大都市で、最も代表的なのはバビロンです。バビロンはメソポタミア北部(そのなかでは南側、メソポタミア中部ともいえる)の、ユーフラテス川沿いに位置します。
バビロンがメソポタミア、ひいては西アジアを代表する世界最大級の都市となったのは、紀元前1700年代からです。当時メソポタミアで有力だったアモリ人という民族による「バビロン第一王朝」の都として繁栄するようになったのです。「ハンムラビ法典」は、バビロン第一王朝のハンムラビ王の時代(前1750年頃)のものです。その頃にもウルクは存続していましたが、かつての重要性は失っていました。
当時のバビロンについては、遺跡の発掘があまり行われておらず、都市の規模もよくわかっていません。[40]ただしハンムラビ王の時代のバビロンに、初期の都市国家よりもかなり発達した社会があったことは、当時の粘土板文書からわかっています。この時代になると、さまざまな民間の活動が前面に出てきました。
バビロン第一王朝では、私的な取引・雇用関係・借金・家族関係にかんするさまざまな契約や訴訟が、一般的に行われていました。国王の臣下であるプロの裁判官もいました。裁判では粘土板の契約書が証拠に用いられています。[41]このような裁判は、先行する時代にもすでにあったのですが、さらに発展・普及したのです。[42]
当時のバビロンでは、民間の商人や職人、サービス業者などが多くいたとみられます。遠距離貿易に携わる民間の商人の活動も確認できます。[43]住民の圧倒的多数が国家の土地を耕す農民だった初期の都市とは、明らかに異なります。
この時代、先進地域では従来の「国家が主要な経済活動を直営するなど、いわばすべてを所有・支配する体制」から、「民間の社会を国家が政治的に支配する」という現代も続く体制への移行がすすんでいました。
その後もバビロンは、メソポタミアを制覇した歴代の国家の首都であり続けます。ただし紀元前1100年頃から数百年間は、外部勢力の影響・支配下で衰退傾向にありました。しかし、紀元前600年頃にメソポタミアを支配するようになった「新バビロニア」王朝の時代に、バビロンは復興します。
国王ネブカドネザル2世によってさまざまな建設がすすめられ、バビロンは再び繁栄をきわめる都市となりました。復興したバビロンは、それまでのメソポタミアにおける都市の伝統の集大成でした。
この時代のバビロンについては、発掘調査によってある程度のことがわかっています。紀元前600年頃のバビロンの面積は城壁の内側の中心部が500ヘクタール、周辺の市街地も含めると1000ヘクタールほどです。人口は本書のやり方で推定すると10~20万人ですが、「10万人」とする推定もあります。[44]
複数の市壁の全長は計18キロメートルで、直線の四角形で街を囲んでいました。これはウルクなどのシュメル人の都市を囲う市壁が、多くの場合円形や不規則な形だったのとは異なります。大部分の家屋は、日干しレンガによる平屋建てで、その点はかつてのウルクと変わっていません。
ただし、(やや後の時代の)紀元前400年代のギリシアの歴史家ヘロドトスによれば「町は三階建て、四階建てがぎっしり並んでいた」といいます。市街の中心部などの一部では、「高層化」された場所もあったのでしょう。[45]
そして、イシュタル門という青いレンガとレリーフで飾られた城門や、壮麗な国王の宮殿などがよく知られています。ネブカドネザル2世の宮殿は、四方の壁のそれぞれの長さが200~300メートルの規模で、杉の木材、金・銀、ラピスラズリ(青色の宝石の一種)などがふんだんに用いられていました。計画的に整備された幅20メートルを超える大通りもありました。
また市街を流れるユーフラテス川には、長さ120メートルの焼成レンガ造りの橋が架かっていました。市内には何十もの神殿がありましたが、最大級の神殿に付属するジッグラド(「塔」といわれる台形の高層モニュメント)は7層からなり、高さは90メートルほどと推定されています。[46]
紀元前600年頃のバビロンが、往年のウルクよりも明らかに立派で華やかな都市であったことはまちがいありません。
しかし、紀元前2900~紀元前2700年頃のウルクの(城壁内の)面積が600ヘクタールであったのに対し、前600年頃のバビロンが周辺地域もあわせて1000ヘクタール。どちらも各時代の最大級の都市ですが、すでに確認したとおり、2000年余りの時を経たにしては、規模がそれほどは変わりません。
巨大な革新・変化は、近代に特有のものではない
もしも、紀元前2900年時点のウルクの住民をタイムマシンで2000数百年後の紀元前600年のバビロンに連れて行ったら、その立派さや賑わいなどに感心するでしょう。イシュタル門や国王の宮殿の壮麗さ、高さ90メートルの巨大ジッグラド、ユーフラテス川のレンガ造りの大橋などに目を奪われるはずです。
しかし、バビロンの都市全体や建造物を、想像を絶する規模とは思わないでしょう。理解不能なテクノロジーに驚くこともないはずです。
ここでは、紀元前600年頃のバビロンのあり方をそれなりに描写しましたが、そこにはたしかに、紀元前2900年頃のウルクと比較しての一定の進歩・発展、都市としての充実があります。しかし、2000数百年年の時を経ているわりには、限られた変化といえるでしょう。
紀元前600年頃のバビロンのジッグラドはたしかに巨大でしたが、かつてのウルクのジッグラドにしても、少なくともその半分程度の高さはありました。また、当時のバビロンの人びとは、使用量は増えたものの、相変わらず粘土板という記録メディアをおもに用いていました。鉄器はある程度普及していましたが、コインはまだ用いられていません。
このように、変化が一定の枠内におさまっているのは、「定常状態」が長く続いた結果です。
これに対し、西暦1000年のイスラムの大都市(人口数十万のバグダードなど)の住民が今のニューヨークや東京や上海をみたら、そこは想像を絶する規模の都市であり、信じられないような驚異に満ちているはずです。これは、西暦1000年と現代のあいだに、巨大な変化をもたらした「近代の革新」という加速局面があったからです。
そして、こうした巨大な変化は、近代に特有のものではないわけです。
もしも、都市文明に向けての革新がはじまる前夜の、紀元前5000年のメソポタミア南部の集落の住民が紀元前2900年の成熟段階のウルクをみたら、その「集落」としての規模や巨大な建造物におおいに驚くでしょう。そもそも紀元前5000年の時点では「大規模な都市」の概念がまだないのです。また、紀元前5000年の人間には車輪は未知のものですし、文字が刻まれた大量の粘土板も、にわかには理解しがたい道具です。
紀元前5000年頃と紀元前2900年頃のあいだには、千数百年間の加速局面(紀元前4000年頃~)があったので、そうなるのです。
このように、1000年2000年といった長い時間を隔てても、その間に起こる変化の大きさは、その隔てる時間が「加速局面」であるか「減速局面」であるかによって、大きく異なるということです。
減速局面が続くかぎり、遠い未来であっても「驚異の世界」にはなりません。一方、紀元前の世界であっても「未来が驚異の世界である」ということは、時代によってはあり得ることでした。
これが、一般的な常識とは異なる、重要な点です。
紀元前600年のバビロンの住人が、700年後(ここでの話では比較的短い期間)の西暦100年代の「永遠の都」ローマ(推定人口100万前後)をみたら、バビロンとはケタ違いの巨大さに驚くでしょう。
つまり、紀元前600年からみて西暦100年は「驚異の未来」です。ネブカドネザル2世のバビロンと最盛期のローマを隔てる「700年」が加速局面だった結果です。
ローマのような「最初の3000年」には存在しなかった人口「数十万~100万」の都市が出現するのは、「次の2500年」の加速局面が本格化して以降のことでした。
***
以上のことは、前に述べた「最大級の都市の変遷」グラフをみていただくと、視覚的にイメージしやすいです。ここでいう「加速局面」とは、グラフの線が右肩上がりの箇所で、「減速局面」はグラフの傾きが平坦な箇所です。
ここで述べた「2つの時代の都市の比較」をグラフに沿って述べると、つぎのようになります。
【紀元前2900年のウルク→紀元前600年のバビロン】
……両者の間の線は平坦→驚き少ない
【西暦1000年のバグダード→現代の大都市】
……両者の間に「右肩上がり」が含まれる→驚異の世界
【紀元前600年のバビロン→西暦100年のローマ】
……両者の間はほとんど右肩上がり→驚異
【紀元前5000年のメソポタミア→紀元前2900年のウルク】
……両者の間は大部分右肩上がり→驚異
そして、比較対象である「2つの時代」の間に「右肩上がり」の箇所があるかどうかがポイントとなるわけです。
「最大級の都市の変遷」グラフを再掲して、今回の記事の締めくくりとしましょう。

©Soichiro Akita 2025
(第8回に続く)次回は、減速局面に入った西アジアの文明社会で何が起こったかについて述べます。まさに「本題」といえるところ。
記事の著者そういち(秋田総一郎)による世界史の入門書
前回、前々回の記事
一連の記事「加速と減速の世界史」の全記事をまとめたマガジン
[1] 中田一郎『メソポタミア文明入門』岩波ジュニア新書、2007年、10㌻、48~49㌻。小泉龍人『都市の起源 古代の先進地域=西アジアを掘る』講談社選書メチエ、2016年、192~193㌻
[2] 大貫良夫・前川和也・渡辺和子・屋形禎亮『人類の起源と古代オリエント』世界の歴史1、中央公論社、1998年、147~148㌻
[3] 中田前掲書、44㌻
[4] 古谷野晃『古代エジプト 都市文明の誕生』古今書院、1998年、171㌻
[5] 中田前掲書、44㌻ 前川和也編著『図説メソポタミア文明』河出書房新社、2011年、17㌻
[6] 小泉前掲書、30㌻ 同書によれば、現在のイラクの治安が不安定なため、ドイツ隊による発掘調査再開のメドは立っていない。
[7] 小泉前掲書、115~119㌻
[8] 小泉前掲書、122~124㌻
[9] 小泉前掲書、125~127㌻
[10] 小泉前掲書、37~38㌻
[11] 小泉前掲書、127㌻
[12] 前川編著前掲書、18㌻、6~9㌻
[13] 小泉前掲書、16~17㌻
[14] 前田轍『初期メソポタミア文明の研究』早稲田大学出版部、2017年、30~31㌻
[15] 小泉前掲書、30㌻、20~21㌻ 大津忠彦・常木晃・西秋良宏『西アジアの考古学』世界の考古学⑤、同成社、1997、131㌻
[16] 常木晃「都市文明へ」『西アジア文明学への招待』悠書館、2014年、171~172㌻
[17] H・ホッジズ『技術の誕生』平凡社、1975年、101~102㌻
[18] デイヴィッド・W・アンソニー『馬・車輪・言語 上』筑摩書房、2018年、103㌻ J・クラットン=ブロック『図説 馬と人の文化史』東洋書林、1997年、88~89㌻
[19] 小泉前掲書、152㌻
[20] ホッジズ前掲書、105~106㌻
[21] ホッジズ前掲書、105~106㌻
[22] 小林登志子『シュメル―人類最古の文明』中公新書、2005年、40㌻
[23] ナカダⅢ期。高宮いづみ『古代エジプト 文明社会の形成』諸文明の紀元②、京都大学学術出版会、2006年、249~254㌻
[24] 高宮前掲書、254~255㌻、箕輪成男『パピルスが伝えた文明 ギリシア・ローマの本屋たち』出版ニュース社、2002年、38㌻
[25] 小林前掲書、199~200㌻、202~203㌻。小泉前掲書、166㌻
[26] 前川編著前掲書、58~59㌻、18㌻
[27] 前川編著前掲書、14~15㌻
[28] 小泉前掲書、53~57㌻
[29] 小泉前掲書、58㌻
[30] 小泉前掲書、30㌻、20~21㌻
[31] 山田慶兒『技術からみた人間の歴史』SURE、2010年
[32] リリー『人類と機械の歴史』岩波新書、1953年、23~25㌻
[33] 小泉前掲書 26㌻
[34] 古谷野前掲書、138~139㌻
[35] チャールズ・シンガー、E・J・ホームヤード、A・R・ホール『技術の歴史2 原始時代から古代東方 下』筑摩書房、1978、398㌻
[36] 前掲『技術の歴史2』398㌻ R・H・G・トムソンによる
[37] 古谷野前掲書、170㌻
[38] 小泉前掲書 194㌻
[39] リリー前掲書、26~29㌻
[40] 山田重郎『ネブカドネザル2世』世界史リブレット人③、山川出版社、2017年、84㌻
[41] 前川編著前掲書、47~49㌻ 有松唯『帝国の基層 西アジア領域国家形成過程の人類集団』東北大学出版会、春秋社、2015年、133㌻
[42] 前田前掲書、133㌻
[43] 前田前掲書、339~340㌻
[44] 山田重郎前掲書、78㌻ ベアトリス・アンドレ=サルヴィニ『バビロン』文庫クセジュ、2005年、55㌻
[45] アンドレ=サルヴィニ前掲書、60㌻
[46] 山田重郎前掲書、77~87㌻ 小泉前掲書34~35㌻
