太平洋戦争はどのようにして始まったか(2)日中戦争の長期化~日米開戦
はじめに
なぜ、日本は無謀な戦争に突入したのか? この一連の記事では、満州事変(1931、昭6)以降の経緯をたどり、どのようにして日本が太平洋戦争という破局的な戦いに突入していったかについて述べています。
この記事は第2回(後編)ですが、この記事から読み始めても大丈夫なように書いています。日米開戦に至った経緯の決定的な局面をまず知りたい方は、ここからどうぞ。
複雑で大きな出来事をざっくりとまとめてはいますが、それでも全2回で約3万文字の記事です。初心者向けの解説ではあっても、教科書のように簡潔になり過ぎず、できるだけきちんと経緯や背景を伝えたいと思っています。
前回(第1回)では、満州事変の勃発から中国側との紛争が拡大し、1937年(昭12)に日中の全面的な戦争(日中戦争)となるまでについて述べました。
この第2回では、日中戦争がさらに激しくなって泥沼化し、一方で日本の軍事行動を非難するアメリカ・イギリスとの対立が深まっていったこと、そして追い詰められた日本が1941年(昭16)12月に日米開戦へと踏み切る過程を述べます。
*前回の記事
*サムネイルの画像は、『昭和二年版 日本國勢圖會』(1983年復刻版) 所収の世界地図。赤い部分(日本列島、台湾、南樺太、朝鮮半島など)が昭和初期の「大日本帝国」ということです。
上海と南京の攻略――戦争の拡大
日本がアメリカとの戦争に突き進んでいった基本的な背景として、日中戦争(当時の日本では支那事変と呼んだ)の泥沼化があります。その行き詰まりを打開しようとする模索の中から、日本は戦争遂行のための資源確保を目指して東南アジアを攻略することを検討し、やがて一歩を踏み出しました。そして、その動きは対米関係の決定的な悪化につながっていきます。
ここではまず、日中戦争が長期化し、日本が苦しい状況に追い込まれていく経緯をみていきましょう。
***
日本と中国(当時は中華民国)との戦争、つまり日中戦争が始まった1937年(昭12)8月中旬には、華中(長江河口)の大都市・上海で、海軍を含む日本軍と中国軍の戦闘も始まりました。この上海での戦闘は、中国軍が積極的にしかけたものでした。上海での戦いが始まったことで、日本と中国の戦争は華中にも飛び火しました。[1]
国民政府(中華民国の政府)のほかに、毛沢東(1893~1976)が率いる中国共産党の勢力も、日本軍と戦いました。中国共産党は、のちに国民党(中華民国の政権党)との戦いに勝利して1949年に現在の中華人民共和国を建国しますが、日中戦争が始まった当時は一部の地域を拠点とする反政府勢力でした。
同年(37年)9月には、国民党と中国共産党のあいだで、共同で日本と戦うための協力体制が正式に成立しています。
また、日本の中国での軍事行動を、アメリカ、イギリス、フランスなどの欧米列強やソ連は強く非難しました。
同年(37年)10月、アメリカ大統領F・ルーズヴェルトは、ドイツと日本を非難して「国際社会の無法者であり、伝染病の感染者のように世界から隔離すべき」だとする演説を行っています。ただし、この時点ではアメリカの日本への態度には宥和的なところもあり、石油などの日本への物資の輸出も続いていました。[2]
一方、ソ連は同年(37年)10月に、中国に対する積極的な軍事支援を始めています。軍用機や武器のほか、パイロットなどの義勇兵を送り込んだのです。この支援はその後も続けられ、中国軍をおおいに支えました。[3]
上海では、日本軍は中国軍の強い抵抗にあいました。これに対し日本軍は内地(本土)や華北から大規模な増援を行って攻勢を強め、11月中旬には上海を制圧しています。[4]
そして、国民政府の首都・南京は、上海から遠くない位置にあります。上海とその周辺で戦う中国軍が総崩れとなって敗走しはじめると、蒋介石は首都を長江上流の内陸部の都市・重慶(じゅうけい)に移す方針を決めました。[5]
そして、同年(37年)12月上旬、日本軍は上海に続いて南京に攻め入りました。日本軍が押し寄せる直前に、蒋介石は南京から脱出しました。日本軍は12月13日に南京を制圧しました。[6]
そして、陥落後の南京において、日本軍は多数の非戦闘員の殺害や略奪行為を行いました。これは「南京事件」として知られています。その原因・経緯や被害者の人数などについては、諸説あります。
日本の外務省ウェブサイトの「歴史問題Q&A」では、この「南京事件」について《日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できない》《しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難》と述べています。[7]
戦争の長期化――徐州・武漢などの攻略
上海や南京などでの戦いの一方、日本政府は中国と優位なかたちで和平を結ぶことも摸索していました。そして、日本の求めに応じてドイツの中国駐在大使などがこの和平交渉の仲介を行いました(ドイツの大使の名をとって「トラウトマン和平工作」という)。
しかし、日本が主張する(日本側におおいに有利な)和平条件に中国側は難色を示し、日本側も譲歩しなかったのです。
1938年(昭13)1月、日本政府は「国民政府を対手(あいて、相手)とせず」という声明を発表しました。「この和平交渉は打ち切り」ということを日本側から宣言したのです。日中戦争は完全に「長期戦」のモードに入りました。
その後、日本軍は攻勢を強めて、中国の重要な都市を占領していきました。同年(38年)5月、華北と華中を結ぶ位置にあり、中国軍が多く集まっていた都市・徐州(じょしゅう)を占領しました。[8]
そして、同年(38年)10月には、日本軍は華中の武漢地域を占領。この占領のための「武漢作戦」に、日本軍は30万人余の兵力を動員しました。また、武漢の陥落とほぼ同じ頃、日本軍は華南の都市・広州(広東)などの沿岸部も占領しています。
当時の武漢には、南京を逃れた政府の機能の多くが集まっていました。奥地である重慶への首都移転はすすんでいなかったのです。蒋介石も武漢にいましたが、同市が陥落するときに撤退しました。同年(38年)12月に蒋介石は重慶に移り、重慶の国民政府が本格稼働を開始しました。これ以後1945年の終戦の頃まで、重慶は国民政府の臨時の首都であり続けました。[9]
そして、1939年(昭14)5月、日本軍(陸軍と海軍の航空部隊)は重慶に対し無差別爆撃を開始しました。この爆撃は1941年(昭16)まで断続的に続き、大きな被害をあたえましたが、国民政府(当時の中国政府)を降伏させるには至りませんでした。
なお、日本軍が徐州・武漢・広州を攻略した1938年は、ドイツがオーストリア併合(38年3月)やチェコスロバキアのズデーテン割譲(38年9月)など、周辺国に対する侵略を開始した年です。
*ヨーロッパにおける第二次世界大戦の経緯については、私のつぎの記事があります(全7回)。
苦境に立つ日本
1937~38年(昭12~13)の武漢や広州を占領するまでの一連の作戦で、日本軍は中国の重要都市の多くを占領下におきました。しかし、それでも各地での抵抗に苦しみ、広い範囲の支配を確立することがなかなかできませんでした。
そこで、日本は「トラウトマン和平工作」の失敗以後も、「有利な和平で戦争を終わらせる」ための摸索を続けました。日本側は、国民党の有力者で「日本と早く妥協し、共産党と戦うべき」と考える汪兆銘(おうちょうめい)に接近するなど、いくつかの工作を行いました。しかし、成果は得られませんでした。[10]
一方、重慶の国民政府は、欧米列強やソ連からの援助に支えられながら日本との戦いを続けました。上海や南京などの主要都市が日本に攻撃され、その惨状が報じられると、アメリカをはじめとする国際社会は明らかに中国に同情的になり、日本を敵視するようになっていきました。1938年末から1939年初頭にかけて、アメリカとイギリスは中国への資金援助を始めるなど、中国支援の姿勢を明確にしました。[11]
1939年以降、国民政府が支配する地域と国外の周辺地域とのあいだに支援物資の輸送路が整備されていきました。つまり、以下の3つのルートです。
①中国西南部の雲南〜イギリス領のビルマ
②雲南〜フランス領インドシナ(ベトナムなど)
③中国北西部の新疆(しんきょう)〜ソ連
これらは、「援蒋(えんしょう)ルート」と呼ばれています。[12]
こうした状況のなか、日本は日中戦争において苦境に立たされたのです。
ノモンハン事件におけるソ連との戦い
その一方、満州北部の国境地帯では日本とソ連のあいだで軍事衝突が起きました。1938年(昭13)7月に、ソ連・満洲国・朝鮮の国境が接する張鼓峰(ちょうこほう)で、日本の部隊(1個師団、ここでは1万〜1万数千人規模)が、独断でソ連軍を攻撃して撤退させたのです。
ところが、8月になると増強されたソ連軍の反撃で、この師団は大敗してしまいました(張鼓峰事件)。
だが、すぐに日本とソ連のあいだで停戦協定が結ばれ、この戦闘はおさまりました。日中戦争の最中であり、軍の中央や政府としては、ソ連と戦争になることは避けたかったのです。
しかし、これ以後、現地の日本軍のなかではソ連に対する敵対心や強硬姿勢が極度に強くなり、中央によるおさえが効かなくなっていきました。
1939年(昭14)5月には、満洲国とモンゴル人民共和国(ソ連の影響下にあった)の国境地帯・ノモンハン付近でモンゴル軍と満州国軍の衝突が起きました。それがきっかけとなって、これらの国の後ろ盾である日本軍(関東軍)とソ連軍の戦闘がはじまりました。
この戦いで日本軍は、ソ連軍の戦車部隊や砲兵部隊に歯が立たず、8月下旬にはソ連軍の大攻勢で日本軍は大打撃を受けました。軍の中央は、それでもまだ戦うつもりだった関東軍をつよく制止して、同年(39年)8月末に戦闘は停止しました。
この戦いを「ノモンハン事件」といいます。同年(39年)9月15日には、日本とソ連のあいだの停戦協定がモスクワで締結され、ソ連の主張に基づく満洲国とモンゴルの国境が定められました。
以後、日本軍の方針はソ連に対し慎重なものとなりました。日本の陸軍にとって、ソ連は最大の仮想敵国でした(なお、海軍にとっての仮想敵国は、アメリカでした)。満州事変以後、陸軍のなかには「満州を守るため、ソ連を叩くべきだ」という主張もありましたが、それはすっかり後退していきました。一方ソ連のほうにも、ノモンハン事件以後、満州に攻め入る動きはとくにみられませんでした。[13]
そして、ノモンハンでの戦いの終わり頃、世界に激震が走る出来事がありました。
まず、1939年8月下旬の独ソ不可侵条約の締結。敵対していた両国が「お互いを侵略しない」という条約を結んだことは、ドイツに接近していた日本にとってはとくに意外で衝撃的なことでした。不可侵条約はソ連にとってドイツの脅威が(少なくともとりあえずは)なくなるということであり、そうなれば、ソ連が満州に侵攻するリスクは高まります。これは日本側にとっては脅威でした。
さらに、同年(39年)9月初めの第二次世界大戦勃発。ドイツがポーランドに侵攻し、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告したことが、大戦のはじまりとされます。こうした世界情勢の激動は、日本側の「すぐにソ連と停戦し、ノモンハンでの戦いを拡大させない」という判断につながりました。
のちの1941年4月に、日本とソ連は相互に侵略しないことを約束した「日ソ中立条約」を締結します。
中国で軍事行動を行う日本は、この条約で北からの脅威を避けようとしたということです。一方ソ連としては、ヨーロッパで侵攻を続けるナチス・ドイツという西側からの脅威があったので、極東での日本との戦争は、今は避けるべきという判断がありました。実際、日ソ中立条約を結んだ直後の同年(41年)6月には、ドイツは独ソ不可侵条約を一方的に反故にして、ソ連への侵攻を始めました。
このように、対立関係にある国どうしの「中立」「不可侵」の条約は、あてにならないものです。日本とソ連のあいででも、状況次第で条約が反故にされる可能性はありました。たしかにソ連は、太平洋戦争が終わる直前の1945年8月には、一方的に中立条約を破棄して満州や北方領土への侵攻を行ったのでした。このときのソ連は、ドイツとの戦争に同年(45年)5月に勝利した後でした。
日本とアメリカ・イギリスの緊張の高まり
また、1939年(昭14)を通じて、アメリカ、イギリスと日本の関係は一層悪くなっていきました。
日中戦争が始まって以降、日本側はアメリカ・イギリスと敵対する行為を重ねていました。アメリカ・イギリスが日本を強く非難し、中国側に立っているので、当然それに反発するわけです。象徴的な事件としては、1937年12月に日本の海軍機が揚子江の南京付近でアメリカの砲艦パナイ号を撃破(日本側は誤爆と主張)するといったことがありました。
また、中国におけるイギリスの租界(中国の開港都市のなかの治外法権エリア)は、日本に抵抗する中国人の避難所となっていたのですが、1938年末には、日本軍がイギリス租界への交通を規制したこともあります。
そして、1939年6月には、天津のイギリス租界に、日本に協力する中国の要人を殺した犯人の中国人が逃げ込む事件がありました。日本軍は犯人の引き渡しを要求しましたが、イギリスはこれを渋ったので、日本軍はイギリス租界を封鎖する強硬手段に出ました。[14]
この事件で日本とイギリスの緊張が高まった同年(39年)7月、アメリカはイギリスに同調して、日米通商航海条約の破棄(失効は40年1月)を通告しました。この条約は「日本に対し、必要とする物資の輸出を約束する」というもので、これを破棄するのは日本への厳しい経済制裁です。
こうした措置は、アメリカとしては日本に対する「警告」のつもりでした。ただし、1940年1月にこの条約が失効しても、アメリカがそれまで行ってきた日本への輸出をただちに停止することはありませんでした。[15]
1939年(昭14)後半から1940年(昭15)にかけて、日本にとって中国での戦争は手詰まり状態になっていました。国民政府や中国共産党を屈服させるのが容易ではないことは、明らかでした。しかし、日本軍が兵力を大きく増やすことも困難でした。1939年後半の時点で、中国(満州を除く)にはすでに当初の計画を大きく超える85万の兵士が送り込まれていたのです。[16]
また、国民政府と有利な講和を結ぶこともむずかしい状況です。列強からの支援で力を得た国民政府には、日本と妥協するつもりはありませんでした。
このような日本の「手詰まり」のなか、1940年(昭15)3月には、日本が後ろ盾となって汪兆銘(おうちょうめい、親日の元・国民党幹部)による、もうひとつの「国民政府」が南京でつくられています。日本政府は汪兆銘の政権を中国の代表として扱い、この政権と有利な交渉をすすめようとしました。
しかし、日本が後ろ盾である汪兆銘の政権に対する中国国内の支持は皆無であり、この工作は空振りでした。
日独伊三国同盟
このように日中戦争の泥沼で苦しむ日本の指導者にとって、ナチス・ドイツが快進撃を続ける1939年後半から1940年にかけての世界情勢は、すがりたくなる「希望」でした。イギリスとフランスがドイツとの戦いで追い詰められたり敗北したりすれば、中国への支援どころではなくなるはずです。アメリカもヨーロッパ情勢を優先し、中国を切り捨てるはずだ……
ところが、第二次世界大戦が勃発した1939年9月以降、1940年5月にドイツによるベルギー・オランダ・フランスへの侵攻が始まるまで、ドイツとイギリス・フランスの大規模な戦いは(一定の戦闘はあったものの)起こりませんでした。そのあいだ、ソ連、アメリカ、イギリスなどの列強による中国への支援も続きました。
そして、日本は1940年(昭15)9月に日独伊三国同盟を結びました。「三国」といっても、この同盟で重要なのはドイツと日本です。この同盟には、日本としては「ドイツという仲間をつくってアメリカ・イギリスに対抗する」という考えに加え、「戦争に勝利したドイツが、ヨーロッパの列強が支配するアジアの植民地を全部取ってしまうのをけん制する」という意図もありました。同盟を結べば、日本が今後アジアで勢力を拡大した場合、ドイツはそれを尊重しなくてはならないのです。[17]
一方、ドイツとしては「日本との同盟は、アメリカやソ連へのけん制となる」という思惑がありました。三国同盟が成立した当時、ドイツはポーランドやフランスなどのヨーロッパの広い範囲を制圧したあと、イギリスへの大規模な攻撃を行っていました。ただし、イギリス本土への上陸はドイツにとっても容易ではなかったので、もっぱら空襲による攻撃です。これに対し、イギリスは徹底抗戦を続け、ドイツとしてはイギリスとの戦争は手詰まり状態にありました。そして、当時のアメリカはまだ参戦していなかったわけですが、イギリスへの武器などの支援を積極的に行っていました。
その状況のなかで、ヒトラーは「イギリスが抵抗を続けるのは、アメリカやソ連がドイツとの戦いに参戦するのを期待しているからだ。それならば、まずソ連を叩いてしまおう(しかも、ソ連はナチスの世界観のなかで滅ぼすべき宿敵だった)」という考えから、1940年の夏から極秘でソ連への総攻撃を具体的に計画しはじめました(ドイツとソ連の戦争=独ソ戦の開始は翌41年6月)。
ドイツは、もともとは三国同盟にあまり関心はなかったのですが、以上のような状況や思惑のもとで、日本との同盟を積極的にすすめるようになったのでした。[18]
つまり、ドイツは、三国同盟によって「アメリカがドイツと戦争を始めれば日本ともアジアで戦うという、望ましくない事態になる」「ソ連は、ドイツによる西からの攻撃を受けながら、極東ではドイツの同盟国である日本に脅かされるリスクを抱える」という構図をつくり出そうとしたのです。
そして、アメリカ・イギリスにとって、日本がドイツという最大の敵と同盟を結んだことは、許しがたい敵対行為でした。その後、日米関係はさらに深刻な事態になっていきます。
「南進」の検討
一方、1940年(昭15)時点において、日本の指導者のあいだでは、東南アジアに侵攻するという「南進」が真剣に検討されるようになっていました。日中戦争を戦い抜くための資源獲得が、そのおもな目的です。
この時点の日本では、相当な規模の油田があるインドネシアを攻略しようという考えが、選択肢として真剣に検討されるようになりました。また、マレーシアにも油田はありました。そして、油田の支配を確実にするために、周辺の東南アジア各地も支配するということです。それができれば、石油だけでなく、東南アジアのさまざまな資源が手に入るはずでした。
当時のインドネシアはオランダの植民地であり、ほかの東南アジア各地はイギリス、フランス、アメリカの支配・勢力下にありました。
つまり、当時の東南アジアは、おもにつぎの植民地のエリアから構成され、独立国はタイ王国だけでした。
①オランダ領東インド(インドネシアなど)
②イギリス領のビルマ(ミャンマー)・マレー半島・ニューギニア
③フランス領インドシナ(ベトナム・カンボジアなど)
④アメリカの植民地であるフィリピン
そして、これらの植民地を支配する欧米列強をアジアから追い出し、中国や満州を含む日本の勢力圏を築くという「大東亜共栄圏」の構想が打ち出されました。
大東亜共栄圏という言葉がはじめて登場したのは、1940年8月のことで、当時の松岡洋右外務大臣が「当面の外交方針は、大東亜共栄圏の確立を図ること」と記者会見で述べたのが最初でした。松岡外相としては、このワードを打ち出すことで、翌月(40年9月)に三国同盟を結ぶことになるドイツに対し「東南アジアは日本の勢力圏」と主張する狙いがありました。[19]
そして、この構想を正当化する論理として、「欧米の支配からアジアを解放する」という主張もなされるようになり、それに賛同する国民も多くいました。しかし、大東亜共栄圏は、基本的には、理念的なこと以上に「資源を獲得し経済的な自給圏を築く」という、現実的な問題解決を主眼としていたとみるべきでしょう。当時の日本は、とにかく日中戦争を行うための資源獲得で苦しんでいたのです。[20]
提唱されて以後、戦時下の日本にとって「大東亜共栄圏の建設」というスローガンは、重要なものになっていきました。
日米開戦(1941年12月)の翌月(42年1月)の帝国議会(当時の国会)で、東條英機首相は「戦争を遂行しつつ、大東亜共栄圏の建設に邁進する」という基本方針を述べています。そして、このときの演説で、東條首相は「皇国の指導または統治の下、〔大東亜共栄〕圏内各国および各民族をして各々その所を得しめ道義に立脚する新秩序を確立する…」とも述べています。要するに、日本を頂点とする、日本に従うさまざまな立場の民族からなる国際秩序をアジアに築こうと考えていたわけです。[21]
アメリカは攻撃してくるか
問題は、大東亜共栄圏建設に向けて日本が東南アジアに侵攻すれば、アメリカが本格的に介入してくる可能性があることでした。そこで、先にアメリカ軍を叩いておくために、太平洋におけるアメリカ艦隊のおもな基地があるハワイの真珠湾を攻撃するという計画も、海軍において極秘で検討・準備されるようになりました。
しかし、以上で述べたように、東南アジアはおもにイギリス・オランダ・フランスが支配している地域です。アメリカの植民地であるフィリピンは、当時すでに独立を予定していました。つまり、アメリカには東南アジアに死活的な利害関係はなかったのです(これと同様のことが、中国や満州にもいえます)。そこで、日本が東南アジアの各地に侵攻したところで、アメリカがどこまで本気で介入してくるかは、未知数のところがありました。
実際、日米開戦以前において、日本が東南アジアのイギリス植民地を攻撃した場合、アメリカが参戦するかどうか、アメリカはイギリスに対し、確約はあたえていませんでした(そのことは、当時の日本側は知らなかった)。[22]
日本の指導者のなかには、アメリカによる日本への攻撃の可能性は低いとみる人びともいました。しかし、イギリスと深い関係にあるアメリカが日本を攻撃する可能性は高いとみる人も多く、その見解が主流になっていきました。
そして、海軍としては、アメリカとの関係が改善しないままインドネシアやマレーに侵攻するのであれば(これは陸軍が主体)、できるかぎりの手を打たざるを得ないと考えていました。つまり、その侵攻作戦や得られた資源の輸送をアメリカに阻まれないように、アメリカの海軍基地などに先制攻撃を行って大きなダメージをあたえておくということです。そして、先制攻撃を行うなら、できるだけ早いほうが効果的である(時間が経つほど、アメリカは戦争のための体制を整えるので、日本としては戦いにくくなる)ということも重視されたのでした。
一方、アメリカは日本への経済制裁を強化していきました。
同年(40年)7月、アメリカは日本への航空機用ガソリンの輸出を禁止し、さらに同年(40年)9月には屑鉄の輸出も禁止しています。
最も重要な資源である石油(原油)の輸出は続いていましたが、アメリカがいつそれを停止するかわからない……日本の指導者はそのような不安にかられるようになりました。
なお、当時はまだアラブの石油は未開発で、アメリカは最大の産油国でした(満州にも油田がありますが、当時は未発見)。そして、アメリカ以外の重要な産油地帯というと、日本の活動可能な圏内ではインドネシアだったということです。
仏領インドシナへの進駐と石油の対日全面禁輸
日本は1940年9月には、仏領(フランス領)インドシナ北部(今のベトナム北部)に進駐しています。「進駐」とは、ここでは「武力をバックにした一定の話し合いのもと他国の領域に軍隊を進め、駐留させたこと」を指します。これは、東南アジアの資源獲得にむけた「南進」の第一歩でした。
また、「南進」のより短期的な目的としては、国民政府を支援するイギリスやアメリカの物資を輸送する「援蒋ルート」のひとつを絶つことがありました。前にも述べたように、仏領インドシナからの輸送路は、重要な「援蒋ルート」のひとつでした。
フランスは、同年(40年)6月にナチス・ドイツの侵攻を受けて降伏していました。そこで、「インドシナに軍を進めるなら今がチャンス」という発想が、北部インドシナへの進駐を行った当時、日本の軍部のなかにはありました。
そして、翌41年7月には、日本軍は仏領インドシナ南部に進駐しました。さらなる「南進」を行ったのです。
その少し前、1941年6月には、ナチス・ドイツがソ連領内に300数十万の大軍で突如攻め入り(独ソ不可侵条約を一方的に破棄)、独ソ戦が始まりました。これによって、ソ連には極東で日本と戦う余裕はまったくなくなりました。日本側からみれば「北からの脅威を心配しなくて良い」状況となったわけです。それは、日本がインドシナ北部からさらに南部へと軍をすすめるうえで大きな後押しでした。
日本軍がインドシナ南部に軍をすすめたことで、油田のあるインドネシアなどの重要な地域が日本の「射程圏内」となりました。つまり、日本の戦闘機や爆撃機が行動可能な範囲にインドネシアなどがおさまるのです。これは、日本の「南進」が、新たな段階に達したということでした。
そして、日本軍による仏領インドシナ南部への侵駐をアメリカはとくに重大なことと受け止め、日本にとってきわめて深刻な経済制裁を発動しました。1941年8月に、日本の在米資産の凍結と、日本への全面的な石油輸出禁止の措置がとられるようになったのです。実際、これ以降アメリカからの石油は入らなくなります。
前にも述べたように、1930年代には、日本が輸入する石油の多く(輸入量の約8割)は、アメリカからのものでした。石油が手に入らないと、日中戦争を戦うことはできません。一定の石油備蓄は、陸海軍でも民間でも行われていましたが、備蓄だけで長期の戦争を戦い抜くことは不可能でした。
アメリカによる石油の対日全面禁輸以降も、外交交渉で日米の関係を改善し、戦争を回避しようとする取り組みはなされました。しかし、日米の主張は対立し、交渉は進みませんでした。アメリカの主張は、要するに日本は中国から撤兵せよということであり、軍部が強い影響力を持つ当時の日本としては、それはまず受け入れられない話でした(ただし「軍部」というのは一枚岩ではなく、陸軍と海軍では中国からの撤兵については立場が大きく異なります。この点については後述)。
対米開戦に踏み切った考え方
もちろん、日本の指導者のなかには「アメリカとの戦争は避けるべきだ」と考える人も多くいました。たとえば、日米開戦時に外務大臣として対米交渉にあたった東郷茂徳にしても、そうした「非戦論者」だったのです。
1941年当時のアメリカは、人口は日本の1.9倍(日本7200万、米国1.34憶)、GNP(経済規模)は日本の12倍で、圧倒的な国力を有していました。粗鋼生産量も日本の12倍、自動車保有台数は161倍、航空機生産量は5倍、原油生産高は530倍です。[23]
このようなアメリカの巨大さは日本の指導者たちの多くも当然認識しており、「アメリカを軍事力で打ち負かすことは不可能」と考えていました。
にもかかわらず、なぜ対米開戦に踏み切ったのか? そこには、おおまかに以下のような状況や考え方がありました。
*対米開戦への意識決定については、おもに森山優『日本はなぜ開戦に踏み切ったか』新潮選書、2012年による。
まず、アメリカとの戦争を回避するためには、日本が中国から撤兵するなどの大きな譲歩が必要でした。当時のアメリカ政府の考え方は「経済制裁で強硬に圧力をかければ、日本は中国侵略を断念し、日米の戦争も回避される」というものです。日本は石油をはじめ、多くの重要物資をアメリカから輸入して中国と戦争しているので、「圧力は有効なはずだ」と考えられたのです。
しかし、日本の指導者たちにとってアメリカの求める譲歩は、高いハードルでした。とくに陸軍では「中国からの撤兵など絶対に認められない(今まで何のために戦ってきたのか!)」という考えが強くありました。
日中戦争は、陸軍が主体となって行ってきた戦争です。ここで中国から撤兵することになれば、陸軍という組織が失うもの(信頼・名誉や利権等々)の大きさは、ほかの組織とはくらべものになりません。
たとえば、1941年10月14日、当時の近衛(文麿)内閣の閣議で、陸軍大臣だった東條英機は、陸軍の立場からこう発言しています(なお、東條はその数日後の10月18日に近衛にかわって首相に就任し、日米開戦やその後の戦争で指導的な役割を担う)。
《「〔中国からの〕撤兵問題は心臓だ。……米国の主張に其侭(そのまま)服したら、支那事変(日中戦争)の成果を壊滅するものだ。満州国も危くする。更に朝鮮統治も危くなる……撤兵を看板とせば軍は志気を失う。志気を失った軍は、無いも等しいのです」》
原典は『杉山メモ』(同時代の筆記録)
要するに、「中国から撤兵すれば、大日本帝国は崩壊の危機に陥る」というわけです。これは、陸軍の利害を国家全体の利害にすり替えようとする主張だといえるでしょう。
一方、中国での戦争では脇役である海軍では、「対米戦争回避のためには撤兵もやむを得ない」という意見が有力でした。また、アメリカとの戦争は太平洋を舞台に海軍中心で行われるはずなので、「陸軍の主張が押し通されて対米戦争となり、その困難な戦争の遂行責任を自分たちが負うのは避けたい」という思いも、海軍側にはありました(ただし、海軍でも中堅・若手を中心に戦争に積極的な強硬派はいました)。
しかし、海軍は「アメリカとの戦争に備え海軍の増強が必要」と主張し予算を得てきたので、はっきりと「対米戦争など無理」とは言いにくい立場でもありました。そのことが作用して、結局のところ海軍も「戦争回避」の立場を貫くことができませんでした。その場の体面や保身のため、言いにくいことを主張しきれなかったのです。[24]
そして、当時の日本の指導者たち、つまり陸海軍の最高幹部、主要閣僚、天皇やその側近といった指導者による議論は、陸軍を中心とする強硬な立場に強く影響を受け、その主張に引きずられていったのでした。
今の私たちからみれば、「中国大陸での利権」と「対米戦争で国全体が破滅するリスク」を冷静に比較すれば、後者の「リスク」をとる選択はあり得ないと思えます。
ただし、今の私たちは対米戦争の結果として、主要都市のほとんどが空襲で焼かれ、さらに2発の原爆を落とされ、戦没者が310万人(軍人230万人、民間人80万人)に及んだことなどを知っていますが、そこまでの破滅に向かうリスクのイメージを描くのは、当時は困難だったかもしれません。しかし、対米戦争が激化すれば、軍隊が壊滅し、植民地を失い、本土にも相当な攻撃や被害があり、国家の主権が危うくなる……そういうことを漠然とでもイメージするのは、さほど無理ではなかったはずです。
しかし、当時の指導者たちは、対米戦争のリスクの大きさ・恐ろしさについての認識が不十分でした。彼らのあいだでは、以下で述べるような希望的観測がかなり有力だったのです。「曖昧な“希望”にすがろうとしていた」といってもいいかもしれません。
1941年(昭16)10月半ば、近衛内閣にかわって東條内閣が成立し、それから11月初めまで、今後の基本方針(対米戦争などについて)が、陸海軍や政府のリーダーたちによって集中的に話し合われました。これはおもに「大本営政府連絡会議(略して「連絡会議」)」という、それまでにも開催されていた国の最高レベルの会議体でのことです。
この時期の「連絡会議」では、同年(41年)12月の対米開戦に至る、決定的な判断が行われました。
このときの基本的なテーマである「アメリカと戦争を始めた場合の見通し」について、指導者たちはどのような結論に至ったのか? 対米開戦時の意思決定過程を研究した森山優氏は、つぎのようにまとめています。
《自信があるのは初期作戦のみで、長期戦化は不可避としていた。アメリカに対して武力で勝利するの手段がないことを率直に認め、戦局は「有形無形の各種要素を含む国家総力」と「世界情勢の推移」によるしかないと〔連絡会議の指導者たちは〕結論した。有形の国家総力ではアメリカに対抗しようがないことは明白なので、論理的には無形の国家総力(つまり精神力)と世界情勢の好転をあてにするかない。……ドイツ頼みの希望的観測が組み込まれ、逆の可能性は排除されている。希望的観測に根拠を置いた、判断停止の産物だった》
以上をさらにかみ砕くと、アメリカと戦争を行うにあたって、つぎのような判断を基礎においたということです。
「戦争の早い時期に、アメリカ海軍の戦力を先制攻撃で叩くことは可能。そうなれば、アメリカは戦意を喪失するかもしれない」
「ナチス・ドイツがヨーロッパで完全に勝利すれば、あるいはヨーロッパで長期にわたって戦い続けることができるなら、アメリカは日本との戦争どころではなくなるのでは? とにかく、ヨーロッパの戦争が続くことで、日本にとって有利な何らかの国際情勢の変化があるはずだ」
そして、「物量的には不利でも、精神力で乗り越えられるかもしれない」というわけです。
まさに「判断停止」(現実的に考えることの放棄)と言わざるを得ないでしょう。
全体を見渡す最高権力の空白が生じていた
また、より根本的なことですが、当時の日本では、「国全体の利益」という大きな視点に立って判断を下す主体が存在しませんでした。先ほど述べた陸軍や海軍の考え方は、それぞれの組織の利害が基本にありますが、そのようなセクショナリズムを超越した立場のリーダーはいなかったのです。[25]
当時の明治憲法下における総理大臣は、今の総理大臣のような行政府の最高責任者ではありません。たとえば、明治憲法下では総理大臣は内閣のほかの大臣を罷免する権限もなかったのです。
天皇は、法的には国の頂点でしたが、実務的な指導力を発揮すべき立場ではないと、一般には考えられていましたし、昭和天皇も影響力の行使には慎重でした。
じつは、大正時代のある時期までは、明治維新の功労者たちやその後継者である「元老」が、国家全体を仕切る超法規的な最高権力者として存在していました(伊藤博文や山形有朋はその代表格)。しかし、大正末期までには山形などの元老は、あらかた亡くなりました。そして、昭和戦前期の日本では、全体を見渡す最高権力の空白が生じていたのです。
それでも、大正から昭和初期にかけては、議会(国会)における政党政治がある程度発展していたので、議会と政党が政治権力の中心になる可能性もありました。しかし、(ここでは立ち入りませんが)政党政治家たちは、貧困や格差などの社会問題に向き合うよりも目先の政争に明け暮れ、国民の信頼を失っていきました。そして、政党政治よりも軍部が主導する領土拡大に、人びとは期待を寄せるようになったのです。
なお、1940年(昭和15年)には、戦争のための国策を強力に推進する体制づくりの一環として、「大政翼賛会」という、国民全体を動員する組織がつくられましたが、これに呼応するかたちで、各政党はつぎつぎと解散し、大政翼賛会の活動に加わっていったのでした。政党政治家の自殺行為ともいえますが、当時の政治家たちは、そうでもしなければ存在意義を全否定されかねない状況でした。
以上の状況について、先ほども引用した森山優氏は、こう述べています。
《国を危うくしかねない対米戦と、中国からの撤兵を天秤にかければ、結果は明らかである。ところが、最大の問題は、日米戦と中国からの撤兵を天秤にかけて判断する政治的主体が、日本のどこにもなかったことである》
当時の日本の指導者たちは、目先の狭い利害(組織的利害など)にとらわれて、大きな視点で判断することができなかったのです。その結果、破滅的な方向へと進んでいったのでした。
対米開戦については、1941年11月1日午前9時~2日午前1時過ぎの「大本営政府連絡会議」(前述の、陸海軍と政府の指導者たちによって開催された、国家の最高レベルの会議体)で、重大な決定がなされました。1941年12月1日の午前零時までにアメリカとの外交交渉が成立しなければ、戦争に踏み切ることが決まったのです。
日本にとって衝撃的だった「ハル・ノート」
それでも、このとき日本は、外務省が担当省庁として、東郷外相の指揮のもとアメリカとの交渉をギリギリまで続けようと努力していました。先ほど述べた11月1日~2日の「連絡会議」では、アメリカと交渉するための、一定の妥協を含んだ案(「乙案」と呼ばれる)についても決定されています。しかし、陸軍などのアメリカへの譲歩に強く反対する勢力の影響が強く、思いきった交渉はできない状況でした。
そんな中、1941年11月26日に、アメリカのハル国務長官(日本の外務大臣にあたる)は、のちに「ハル・ノート」と呼ばれる外交文書を日本側に手渡しました。
ハル・ノートは、明らかに日本に対する非妥協的な立場を示したものでした。これまでの交渉の経緯を無視するかたちで「とにかく中国・インドシナからは撤兵せよ」「蒋介石の政府以外は中国政府として認めない(汪兆銘の政権も、満州国の政権も認めない)」ということを明言していたのです。これは、それまでに日米で議論した内容よりも、きびしい条件でした。
このとき、ハル国務長官個人としては、ハル・ノートを日本に示す直前まで、日本との交渉を、大きな困難を感じながらも真剣にすすめようとしていたとみられます。[26]しかし、アメリカ政府の中枢では「日本とは戦争をするしかない(あるいは、戦争をすべきである)」という意見が有力になっていました。
たとえば、1941年11月25日に、ホワイトハウスでルーズヴェルト大統領、国務長官、陸軍長官、海軍長官、陸海軍の制服組のトップが集まった、おもに日本への対応について話し合った会議からは、この時点におけるアメリカ政府の雰囲気や姿勢がはっきりと伺えます。その会議の重要な関心事は、「われわれ自身(アメリカ側)が過大な危険にさらされないで、最初の一撃をうたせるような立場に、日本をいかにして誘導していくべきか」ということだったというのです(会議に参加したスチムソン陸軍長官の日記より)。[27]
つまり、このときアメリカは、「自分から戦争をはじめたのではない(仕掛けたのは日本)」というかたちで日本と戦争をすることを考えていたのです。
「ハル・ノートは、日本を挑発する意図をもって渡された文書だった」という見解がありますが、その可能性は(断定はできないにせよ)たしかに否定できないと、私も思います。
しかし、「アメリカによる挑発」があったのだとしても、日本の指導者はそんなものに絶対に乗ってはいけなかったはずです。ある種の罠だとしたら、それを見抜かないといけません。国家・国民を守るために、指導者にはそうした判断力が求められるはずです。
しかし、ハル・ノートをみて、日本の指導者たちは強い衝撃を受けました。その結果、それまで戦争を回避しようとしていた人びとも含め、「やはりアメリカとの交渉は無理で、戦争をするしかない」という最終結論に傾いていったのです。
そして、11月初めの「連絡会議」での決定のとおり(12月1日までに日米の交渉がまとまらなかったので)、開戦の方針が最終的に固まりました。この方針は、12月1日には天皇が臨席する「御前会議」で確認され、より高いレベルでの権威付けがなされたのでした。
日米戦争の開始・真珠湾攻撃
1941年(昭16)12月8日には、日本軍が真珠湾の米海軍の基地を奇襲攻撃して、日本とアメリカの戦争がはじまりました。この作戦の総指揮をとったのが、連合艦隊司令長官の山本五十六です(海軍には複数の「艦隊」があり、それらをまとめて指揮するのが連合艦隊司令長官)。また、真珠湾攻撃の2時間ほど前に、日本軍は東南アジア(イギリス領だったマレー半島のコタバル)への侵攻も開始しています。
こうして、日本と、アメリカ・イギリス・オランダ、そしてカナダ・オーストラリアなどとの全面戦争、つまり「太平洋戦争」が始まったのです。
真珠湾攻撃を境に、アメリカ国内の戦争に対する世論は一変しました。アメリカでは、ヨーロッパやアジアの戦争に自国が巻き込まれることに消極的な意見が強かったのですが、日本への怒りが巻き起こり、人びとは戦争に対し積極的になりました。
日本は、「真珠湾攻撃によってアメリカを本気にさせてしまった」ということです。
太平洋戦争の開戦時の攻撃というと、「真珠湾」がまず浮かびます。しかし、このときの日本軍が目的とした「本体」は、インドネシアなどの東南アジアの占領(それによって資源を得ること)です。真珠湾攻撃は、東南アジアでの軍事行動をアメリカに妨害されないために行なった、大規模ではあるが副次的な作戦です。しかし、「副次的」だったはずのアメリカとの戦いこそが、必然的に戦争の「本体」になっていきました。
日米の開戦をうけて、ドイツが日本の同盟国としてアメリカに宣戦布告し、イタリアもこれに続きました。アメリカは、日本やドイツとの戦争を始めることになったわけです。これは、イギリスをはじめ、ドイツからの侵攻を受けたヨーロッパの国ぐにとしては、待ち望んでいたことでした。
こうして、アジアでの戦争とヨーロッパでの戦争が明確なつながりを持つようになったのです。この時点で第二次世界大戦は、アジア・太平洋からヨーロッパまでの広がりを持つ、文字どおりの「世界大戦」になったといえます。
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その後、日本軍は東南アジア各地の攻略をすすめていきます。東南アジアにおけるオランダやイギリスの軍事力は限定的だったので、日本軍は比較的順調に、開戦後約半年のうちに目標としていた東南アジア各地の占領を行うことができました。つまり、マレーシア、シンガポール、フィリピン、インドネシアなどの東南アジアの広い範囲を占領し、太平洋上のいくつもの島々も、戦略上の拠点として押さえたのです。
しかし、その一方で、真珠湾攻撃によって日本との全面戦争に本気で乗り出したアメリカとの激しい戦いがはじまったのでした……
こうして、満州事変→日中戦争と展開してきた昭和の日本の戦争は、日米開戦という、これまでとは別次元の、破滅的な結果につながる段階に突き進んだということです。
*以上、これで一旦終わり。日米開戦後の経緯については、また別にあらためて。
昭和の戦争に関する関連記事。満州事変や日中戦争の社会的背景について述べています。
おもな参考文献(記述の直接の典拠にした基本書)
以下、どれも専門家による各事項の一般的な概説書で、本記事はその情報を編集・圧縮したものといえます。そして、そういう編集・圧縮は大事なことだと思っています。こういうネット記事で言うのも何ですが、昭和の戦争についてはネットの記事や特殊な関心・視点の文章ばかり読まないで、ここであげているような(ありきたりともいえる)本をもっと読みましょう!きっと得るものがあります。
太平洋戦争の概説では、これもおすすめ
[1] 波多野澄雄・戸部良一・松本崇・庄司潤一郎・川島真『決定版 日中戦争』新潮新書、2018年、67~70ページ[2] 江口圭一『十五年戦争小史』青木書店、1991年(ちくま学芸文庫版2020年)130ページ
[3] 臼井勝美『新版 日中戦争』中公新書、2000年、90~93ページ
[4] 『決定版 日中戦争』74~76ページ
[5] 『決定版 日中戦争』77ページ
[6] 『決定版 日中戦争』79~80ページ
[7] 『決定版 日中戦争』81ページ 外務省ウェブサイト「歴史問題Q&A」2022年9月16日閲覧
[8] 『決定版 日中戦争』101ページ
[9] 『決定版 日中戦争』98ページ、103ページ 江口『十五年戦争小史』133~134ページ
[10] 『決定版 日中戦争』105~107ページ
[11] 江口『十五年戦争小史』139ページ
[12] 『決定版 日中戦争』109ページ
[13] 江口『十五年戦争小史』141~143ページ 『図説 日中戦争』135~136ページ
[14] 太平洋戦争研究会編・森山康平著『図説 日中戦争』河出書房、2000年、134ページ
[15] 『図説 日中戦争』134~135ページ
[16] 『図説 日中戦争』137ページ
[17] 吉田裕『アジア・太平洋戦争 シリーズ日本近現代史⑥』岩波新書、2007年、5ページ
[18] 大木毅『日独伊三国同盟』角川新書、2021年、164~168ページ
[19] 安達宏昭『大東亜共栄圏』中公新書、2022年、ⅰページ、33ページ
[20] 安達『大東亜共栄圏』ⅲページ
[21] 安達『大東亜共栄圏』ⅰページ、53~54ページ
[22] 森山優『日本はなぜ開戦に踏み切ったか』新潮選書、2012年、186ページ
[23] 吉田裕・森茂樹『戦争の日本史23 アジア・太平洋戦争』吉川弘文館、2007などによる
[24] こうした陸軍・海軍の立場や主張については、森山前掲書、95~96ページなど
[25] 昭和戦前期の権力の空白状況については、森山前掲書第1章による
[26] 森山前掲書、194ページ
[27] 森山前掲書、198~200ページ
