「怖そうに見える」雇用統計の裏側 ― Cathie Wood氏が読む労働市場・インフレ・AI投資サイクル
7月の米雇用統計は、表面上は市場を驚かせる内容でした。ARK Investのカシー・ウッド(Cathie Wood)氏は、自身の番組の中で、この数字が「見た目ほど怖くない」との見立てを示し、その背景にあるAI・テクノロジー革命の影響を詳しく解説しています。ビジネスマン・投資家にとっては、労働市場の変化とAI投資サイクルの関係を整理する材料になりそうです。
1. 雇用統計の内訳 ― 数字が示す「静かな変化」
番組では、非農業部門雇用者数が前月比マイナス2.3万人となり、市場予想の+8万人を大きく下回ったこと、さらに、過去3ヶ月分の数値が合計10.3万人下方修正されたことが説明されています。これにより3ヶ月移動平均は月間わずか2万人程度の増加にとどまったとされ、雇用の勢いが著しく鈍化していることが示されています。
平均時給についても、前月比+0.1%と、市場予想の+0.3%を下回ったと紹介されています。前年比では、3.4%から3.2%への減速が見られたとされ、賃金の伸びも緩やかになっていることがわかります。一方で、番組では、生産性の伸びが3%程度に近づきつつあるとの見立ても示され、これにより単位労働コストは、年ベースでほぼゼロ近辺という「非常に落ち着いた状態」にあると説明されています。生産性の向上が続けば、その成果の一部は時間差を伴いつつも労働者への賃金として還元されていく可能性があるとの見通しも語られています。
1-1. 労働参加率の低下の背景 ― 二つの世代の物語
同氏は、労働参加率の低下について、単純な「労働市場の弱さ」のサインとは捉えていません。参加率の低下は、年齢層別に見ると偏りがあり、最も大きな下落要因は、退職が進む55歳以上の「ベビーブーマー世代」、次に大きいのが、16〜24歳の若年層とされています。一方で、25〜55歳の「プライム世代」の参加率は、むしろ上昇していたと説明されており、これは前向きな材料として位置づけられています。
ベビーブーマー世代が労働市場を離れる背景には、AIが自分たちの業務の多くを代替できるようになったことで、次のキャリアを追求するよりも退職を選ぶ人が増えている可能性があるとの見方が示されています。番組では、こうした退職者の資産の一部が株式に配分されていることを踏まえ、株式市場が過去最高値圏に近づいている今のタイミングは、退職後の資産形成としてもプラスに働きうると指摘されています。
もう一方の若年層については、AIの能力向上とイノベーションコストの低下が、就職活動における新たな武器になり得るとの前向きなメッセージが語られています。特定の課題や不満を見つけ、AIツールだけを使ってそれを解決する取り組み(いわゆる「バイブコーディング」)に挑戦することで、就職活動においても「主体性を示せる人材」として評価されやすくなるとされています。また社内においても、AIに精通した若手が上司やチームの成果を引き上げることで、組織内でのキャリアアップを加速させられる機会が広がっているとの見立てが示されています。
なお、雇用者数が減少したにもかかわらず失業率自体は低下したという一見矛盾する現象についても触れられており、これは労働力人口そのものが縮小している(労働市場から退出する人が増えている)ことが背景にあると説明されています。
2. AI推論コストの崩壊が意味すること
番組で特に強調されたのが、AIコストの急速な低下です。ARKのチーフフューチャリストであるブレット・ウィントン氏の分析として、ChatGPTやGrok、Claudeといったモデルへの1回の問い合わせにかかる推論コストが、年率99.99%というペースで低下していると紹介されています。
同氏は、月額200ドルや2,000ドルといった「フロンティアAI」の利用料は、最先端の知識を必要とする企業や個人にとっては意味のある投資である一方、フロンティア性能を必要としない人にとっては、はるかに安いコストでAIを活用してビジネスを立ち上げられる時代が来ていると説明しています。自身が2014年にARKを創業した際の経験を振り返り、当時は事業計画書の作り方は分かっていたものの、その他の一般管理業務のやり方が分からず苦労したと述べ、もし当時この種のAIツールがあれば、状況は大きく違っていただろうと語っています。
この「発見のコスト崩壊」は、単に大企業の効率化にとどまらず、個人が低コストでAIツールを活用して新しいビジネスを立ち上げられる環境を生み出しているとされます。同氏は、こうした環境の変化が、退職世代や若年層が労働市場を離れる一因になっている可能性を指摘し、課題や不満を見つけてAIだけで解決策を作り、それを事業化していくという「起業の民主化」が進んでいくとの見通しを示しています。実際に起業して成功する確率は10%程度に過ぎないとしつつも、AIの後押しでその確率が今後上向く可能性があるとも述べています。
3. 財政赤字と「レーガノミクスの既視感」
マクロ環境については、財政面での歴史的な類似性が語られています。番組では、現在の財政赤字が、GDP比5.6%前後にあると紹介され、これは1980年代前半、ロナルド・レーガン政権下で二桁のインフレを抑えるための厳しい金融政策と、相次ぐ景気後退を経験していた時期の水準と近いと説明されています。
同氏は、当時ニューヨークに移り住んだばかりだった経験を振り返り、当時は、「レーガノミクス」や経済学者アーサー・ラッファー氏の理論が批判の的になっていたことを紹介しています。ラッファー氏の理論は、「税率を下げれば税収(財政赤字の縮小)につながる」というものでしたが、実際には税率の段階的な引き下げ(3年間での引き下げ)が、企業に所得を先送りさせる誘因となり、結果的に景気後退を招いた一因になったとの見立てが語られています。
現在の状況はこれと「デジャブ」のような既視感があるとしつつも、今回の税制は、レーガン期と異なり、個人よりも企業向けの減税と大規模な即時減価償却(設備投資などを最長30〜40年ではなく1年目に100%償却できる仕組み)に重点が置かれている点が特徴とされています。この加速的な減価償却が、企業からの大規模な税還付とともに資本支出を後押ししている一方で、財政赤字自体は比較的安定して推移している点も指摘されています。あわせて、国防費の増加が政府支出の伸びを押し上げつつある一方で、連邦・州・地方政府における人員削減がAI活用による生産性向上の一環として進んでいるとの見方も示されています。
4. 円防衛、金利、そして原油の供給過剰
4-1. 日本による円防衛とドルの動き
今週の重要な動きとして、日本による円防衛の介入が取り上げられています。日本政府は、年初来で保有する米国債の約5%を売却し、円を買い支える介入を行ったと説明されています。ベッセント米財務長官が、円への介入を優先事項の一つとして挙げていたことも紹介されていますが、実際の介入手法は、ドルを売るのではなく、日本が保有するユーロを売って円を買う形で行われたとされ、日米間で「これ以上の米国債売却は行わない」という一定の合意がある可能性が示唆されています。同氏は、この動きを、日本がデフレからの脱却を懸念していた過去とは対照的に、今はインフレの再燃自体を懸念し始めているサインとして読み解いています。
米国債の主要な売り手としては、日本のほか中国、カナダ、サウジアラビアも挙げられており、サウジアラビアについては、財政運営に必要な原油価格が1バレル85ドル程度とされる中、国家予算を支えるために米国債売却という形で資金を確保している可能性が指摘されています。
4-2. インフレ指標と原油市場
インフレについては、直近1ヶ月でCPI・PPI・PCEのいずれも市場予想を下回る「低め」のサプライズが相次いだと紹介されています。CPIコアは、前年比2.6%程度で推移しており、M2マネーサプライの前年比増加率も、5.6%程度と、歴史的に見て極端な水準ではないと説明されています。これらを踏まえ、番組では労働参加率の低下と消費マインドの慎重化が相まって、インフレが再加速するリスクは限定的との見立てが示されています。
原油市場では、2008年に記録した1バレル147ドルという価格ピークを、その後の複数の戦争を経てもなお超えられていないことが指摘されています。さらに、OPECを5月に脱退したUAE(アブダビ)の原油生産量が過去最高の日量411万バレルに達したとされ、供給過剰による原油価格の一段の下落シナリオが語られています。同氏は自身がアブダビを訪れた経験から、同国がAI・自動運転・ロボティクス・暗号資産といった分野への投資を積極化させていることを紹介し、これはアブダビが、「原油価格は既にピークを付けた」との判断のもと、今のうちに最大限の収益を確保しようとしている表れではないかとの見立てを示しています。この原油価格の下落シナリオは、AI・データセンター向けの電力需要が、石油ではなく天然ガスや再生可能エネルギーによって支えられるとの見立てとも結び付けられ、世界的な「良いデフレ」(消費者にとっての実質的な減税効果)につながる可能性があるとされています。ただし、米国自体は既に大規模な原油輸出国(2015年のほぼゼロから現在は日量630万バレル規模)となっているため、原油安の恩恵は限定的で、むしろエネルギー生産地域への打撃という形で現れる可能性も指摘されています。
5. 株式・仮想通貨市場への視点
市場全体については、米国の債務総額が、40兆ドルに達し、GDPが30兆ドル規模であることへの懸念が広がっている一方で、債務をGDP(フロー指標)ではなく資産価値(ストック指標)と比較するべきだとして、過度な懸念には距離を置く見方が示されています。また、S&P500に占める主要テック企業(いわゆる「マグニフィセント6」)のバリュエーションは、2003年のITバブル崩壊直後の底値時点における主要テック5社のバリュエーションと同水準にまで低下しているとされ、2000年前後のバブル期とは状況が大きく異なるとの見立ても示されています。
家計の資産配分についても言及があり、現金と株式の比率で見ると、株式の保有比率は過去最高水準、現金の保有比率は長期的に見て低水準にあるとされています。これは高所得層が高い株式市場を背景に現金より株式を選好していることに加え、低・中所得層が生活費の不足を補うために貯蓄を取り崩していることの両方が影響しているとの分析が示されています。
ビットコインについては、ゴールドに対して底堅さを見せ始めているとの見立てが語られ、ステーブルコインとエージェント型のコマース・決済の広がりが、ドルとビットコインの双方にとって追い風になるとの見立てが示されています。同氏は、以前ステーブルコインがビットコインの役割の一部を奪うと発言したことについて、その見立てが結果的にビットコイン下落時の急落("フラッシュクラッシュ")を助長した可能性があると振り返り、自らその責任を認める発言もしています。マイクロストラテジー(現ストラテジー)についても、ヘッジファンドによる売り圧力から一時「至近距離での危機」的な状況にあったものの、その後回復していると紹介されています。
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