「いただきます」は、日本人の心のセーブデータなのかもしれない
「いただきます」を読んで、昔の自分の記事を思い出した
言葉を残したいんじゃない。その言葉を生んだ心まで残したい
最近、noteで、とても心に残る記事に出会った。
Sophiaさんの、
『いただきますは家で言え!』何げない日常に潜む日本文化」
という記事だ。
タイトルを見た瞬間、気になった。
そして読み始めたら、途中で止まれなくなった。
「いただきます」。
私も毎日のように使ってきた言葉だ。
食べる前に手を合わせて、
「いただきます」。
あまりにも当たり前すぎて、そのたびに意味を考えているわけではない。
でもSophiaさんの記事には、その「当たり前」の中にあるものが書かれていた。
食材となった命。
育てた人。
獲った人。
運んだ人。
料理を作った人。
「いただきます」という短い言葉の後ろには、たくさんの存在がいる。
私はそこに惹かれた。
そして、記事を読みながら思った。
ああ。私はこういう話が好きなんだ。
「正しい日本語」の話だけではなかった
Sophiaさんの記事では、「いただきます」だけでなく、日本語の変化についても書かれていた。
「店員」と「定員」。
「延々と」と「永遠と」。
「うろ覚え」と「うる覚え」。
そして、いろいろな意味を引き受けるようになった「大丈夫です」。
言葉は時代とともに変わる。言葉は生き物だと思う。
Sophiaさんも、それ自体を否定しているわけではない。
私が強く惹かれたのは、その先だった。
変わっていくことよりも、
その言葉が持っていた意味や、その背景にある心まで知らないまま消えていくことが寂しい。
私は、そう受け取った。
日本語講師になった今、この感覚は以前よりずっと身近になっている。
外国の方と話していると、私が何十年も素通りしてきた日本語の前で、彼らが立ち止まるからだ。
「行ってらっしゃい」が、そんなに素敵な言葉だったなんて
以前、フィリピン出身の学習者と、
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「お帰りなさい」
について話したことがある。
彼女は、日本で初めてこのやり取りを見たとき、とても感動したという。
出かける人に手を振って、
「行ってらっしゃい」。
出かける人も、
「行ってきます」。
私には日常だった。
でも彼女には、そのやり取りがとても温かく見えた。
言われて初めて気づいた。
「行ってらっしゃい」って、
ただの挨拶じゃない。
帰ってくることを待っている言葉なんだ。
日本語を教えているはずなのに、外国の方から日本語の温度を教えてもらう。
最近、そんなことが何度もある。
だからSophiaさんの「いただきます」の話も、私の中にすっと入ってきたのだと思う。
そして、昔の自分の記事を思い出した
Sophiaさんとコメントでやり取りをしているうちに、ふと思い出した。
以前、私はこんな記事を書いていた。
「男の先生ではなく、名前で呼んでほしかった。」
まだ日本語講師として今ほど多くの人と出会う前に書いた記事だ。
幼稚園教諭として働いていて感じる現実。
畑での食育活動を終えたあと、子どもたちがお礼を言う場面があった。
「男の先生に、ありがとうございましたと言いましょう」
その言葉に、私は小さな違和感を覚えた。
もちろん、
「ありがとうございました」
は正しい。
子どもたちも、ちゃんと言えた。
でも私は思った。
その「ありがとう」は、誰に向いているんだろう。
「男の先生」ではなく、名前がある。
その人が畑を耕してくれた。
準備をしてくれた。
子どもたちのために時間を使ってくれた。
だったら私は、
「〇〇さん、ありがとうございました」
と伝えてほしかった。
形式としての「ありがとう」ではなく、
具体的な誰かに向いた「ありがとう」であってほしかった。
「いただきます」と「ありがとう」
ここで、二つの記事が私の中でつながった。
Sophiaさんが書いた「いただきます」。
昔の私が書いた「ありがとうございました」。
全然違う話のように見える。
でも、私には同じ場所を指しているように感じた。
「いただきます」と言えばいいわけではない。
「ありがとうございました」と言わせればいいわけでもない。
言葉だけを残しても、その向こう側にいる存在が見えなくなったら、何か大切なものが抜け落ちてしまう。
命がある。
作った人がいる。
届けた人がいる。
畑を耕してくれた人がいる。
そして、その人には名前がある。
言葉の向こう側には、いつも誰かがいる。
私はそこを大切にしたかったんだ。
あの記事も、日本語教育の記事だったのかもしれない
面白いことに、当時の私は、その記事を日本語教育の話だとは思っていなかった。
保育の話。
教育の話。
感謝の話。
そう思って書いていた。
でも今、日本語講師として外国の方と話すようになって、見え方が変わった。
あの記事も、もしかしたら日本語教育の話だったのかもしれない。
「ありがとう」を教える。
「いただきます」を教える。
「行ってらっしゃい」を教える。
単語の意味だけなら、辞書で調べられる。
文法だって、教材に載っている。
でも、
なぜ、その言葉を使うのか。
誰に向かって言うのか。
その言葉を受け取った人は、どう感じるのか。
そこまで含めて初めて、その言葉は生き始める。
これは、私がずっと考えてきた、
「正しさより、通じる日本語」
にもつながっている。
だから、少しだけ違っていていい
もちろん、Sophiaさんと私の考えがすべて同じというわけではない。
そこも、私は大切にしたい。
Sophiaさんの記事から私が感じたのは、
昔から受け継がれてきた日本語や文化、その背景にある心を大切にしたいという思いだった。
ぜひ、ここで一度Sophiaさんご本人の文章を読んでみてほしい。
私がここで書いたものは、あくまで日本語講師である私が受け取ったものだからだ。
私は日本語講師として、
多少間違っていてもいい。
まず使ってみよう。
相手に届くことを大切にしよう。
そう考えることが多い。
一見すると、少し違う。
でも、不思議とぶつからない。
なぜだろう。
たぶん、見ている場所が同じだからだ。
言葉そのものではなく、言葉の向こう側にいる人を見ている。
正しい形を守ることだけが目的ではない。
かといって、何でも伝わればそれでいい、とも思わない。
その言葉が、なぜ生まれたのか。
何を伝えようとしているのか。
そこには、どんな人の心があるのか。
それを知ったうえで使う日本語は、きっと少し温かい。
noteでコメントしただけだった
考えてみれば、始まりは小さな偶然だった。
タイトルが気になった。
記事を読んだ。
心が動いた。
だからコメントを書いた。
すると返事をいただいた。
また返した。
そのやり取りの中で、自分が以前書いた記事を思い出した。
不思議だ。
人の記事を読んで、新しい考えを手に入れたと思っていた。
でも実際には、
ずっと自分の中にあったものを、別の人の言葉によって見つけ直した。
これも、セレンディピティなのかもしれない。
RPGで言えば、新しい宝箱を開けたつもりだった。
でも中に入っていたのは、知らない武器ではなかった。
昔どこかで手に入れて、いつの間にかアイテム欄の奥にしまっていたものだった。
「ああ、俺、これ持ってたんだ」
そう気づかせてくれる出会いがある。
人の言葉には、ときどきそんな力がある。
私は、日本語を残したいのだろうか
今回、Sophiaさんの記事を読んで、改めて考えた。
私は日本語講師として、何を伝えたいんだろう。
正しい文法だろうか。
語彙だろうか。
敬語だろうか。
もちろん、それらも必要だ。
でも、それだけじゃない。
「いただきます」。
「ありがとう」。
「行ってきます」。
「行ってらっしゃい」。
「お帰りなさい」。
短い言葉の中に、人がいる。
生活がある。
文化がある。
そして、その言葉を使ってきた人たちの気持ちがある。
だから私は、
日本語という形だけを保存したいわけではないんだと思う。
私は、言葉を残したいんじゃない。
その言葉を生んだ心まで、残したいと
願っている。
Sophiaさん。
素敵な記事を書いてくださって、ありがとうございました。
そして、記事で紹介することを快く受け入れてくださったことにも感謝しています。
日本語講師にならなければ、この記事の受け取り方も違っていたかもしれない。
保育者の自分。
日本語教師になった自分。
そして、誰かの記事を読んでいる今の自分。
別々の物語だと思っていたものが、また一つつながった。
人の言葉を読んでいたら、
昔の自分の言葉に出会った。
だからnoteは面白い。
次の宝箱が、どこに置いてあるのか分からないから。
あなたにも、誰かの言葉を読んで「これは昔から自分の中にあったものだ」と気づいた経験はありますか。
