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【後悔したくない人へ】時を止めたサンドイッチ

冷めたパンの匂いを嗅ぐと、
今でも胸の奥がキリリと痛む。

それは、
一生消えない火傷のような痛み。

あの日、
彼はたった一つのサンドイッチを巡って、
神様が用意した残酷な脚本に足を踏み入れてしまった。

彼の家は、
決して裕福ではなかった。

母は朝から晩までパートを掛け持ちし、
彼ら兄弟を育てていた。

兄はいつも自分の感情を押し殺すような、
どこか大人びた子どもだった。

けれど、
食べ物のことになると、
少しだけ子どもらしい執着を見せた。

ある日のこと。

兄が、
懸賞か何かで当たった特別なギフトカードで、
街で一番人気のベーカリーのサンドイッチを買ってきた。

「明日の放課後、ゆっくり食べるんだ」

兄はそれを大事そうに冷蔵庫の奥にしまった。

それは、
受験勉強に追われる彼にとって、
唯一の、
そして最大の贅沢だったのだと思う。

翌日。

学校から帰った兄を待っていたのは、
空っぽの冷蔵庫の棚だった。

母は、
遊びに来ていた近所の幼い従兄弟が「お腹が空いた」と泣き出したのを見て、
ついそのサンドイッチを差し出してしまった。

母に悪気はなかった。

ただ、
目の前で泣いている幼子を放っておけなかった。

「また後で買ってあげるから」

母はそう言って笑った。

だが、
兄の堪忍袋の緒が切れた。

「あんなに楽しみにしてたのに。お母さんには、俺の気持ちなんて一生わからないんだ!」

兄は、
生まれて初めて見るような形相で母を怒鳴りつけた。

言葉は鋭いナイフとなって、
狭いリビングに突き刺さる。

母は、
小さくなって謝っていた。

「ごめんね。今すぐ、もっと美味しいのを買ってくるから」

外はすでに帳が下り、
冷たい雨が降り始めていた。

兄は、
母の背中に向かってさらに残酷な言葉を投げつけた。

「もういいよ!二度とお母さんの顔なんて見たくない!」

それが、
兄が母にかけた最後の言葉になった。

夜の8時。

母は、
少し離れた国道沿いのコンビニへ向かった。

兄のお気に入りのサンドイッチを探しに。

その帰り道、
母は車に撥ねられた。

手に、
ビニール袋を固く握りしめたまま。

病院に駆けつけたとき、
母はもう物言わぬ塊になっていた。

警察から渡された遺品の中に、
血の混じった泥で汚れたビニール袋があった。

中には、
ひしゃげたミックスサンドイッチ。

兄は、
泣かなかった。

ただ、
その場に崩れ落ち、
自分の喉をかきむしるような音を立てていた。

「俺が……俺があんなこと言わなければ」

兄の目には、
絶望という名の深い淵が広がっていた。

あの日以来、
我が家の時計は止まった。

兄は学校へ行かなくなり、
食事も喉を通らなくなった。

暗い部屋で、
ただ一点を見つめて座り続ける日々。

「時間を戻したい。戻れるなら、俺は何だって差し出すのに」

兄の言葉は、
誰にも届かない祈りのようだった。

そんな兄をただ見ていることしかできなかった。

彼らの生活は、
一瞬にして崩壊した。

けれど、
母が命を懸けて守ろうとしたのは、
兄の「笑顔」だったはずだ。

そのことに気づいたのは、
母の四十九日が過ぎた頃だった。

私は、
母が遺した家計簿を見つけた。

そこには、
自分自身の食費を削り、
私たちの学費や好物のために貯金していた細かな記録が残っていた。

最後のページの余白には、
鉛筆の薄い跡でこう書かれていた。

『子供たちの喜ぶ顔が、私の力になる』

そのページを開いたまま、
兄の部屋の前に置いた。

答えを教えるつもりはなかった。

ただ、
母が何を想って雨の中、
外へ出たのか。

それを知ってほしかった。

数日後、
兄が部屋から出てきた。

ひどく痩せていたが、
その瞳には微かな光が宿っていた。

兄は台所に立ち、
不器用な手つきでパンを切り始めた。

野菜を挟み、
ハムを並べる。

出来上がったのは、
不格好なサンドイッチだった。

兄はそれを一口食べると、
初めて声を上げて泣いた。

「お母さん……美味しいよ。ごめん。ありがとう」

それは、
絶望の淵から這い上がろうとする男の、
決別の儀式だった。

私たちは、
失ってからしか気づけない。

当たり前にある日常が、
どれほど細い糸で繋ぎ止められているのかを。

愛する人に投げつける言葉が、
永遠の別れの言葉になるかもしれないということを。

今、
あなたの隣にいる人は、
笑っていますか?

あなたが今日、
その人にかけた言葉は何でしたか?

もし、
時間を戻せるとしたら。

あなたは、
どの瞬間に戻り、
どんな言葉を選びますか?

今でも、
サンドイッチを作るたびに、
あの冷たい雨の夜を思い出す。

そして、
今この瞬間を、
精一杯の言葉で彩ろうと心に決めている。

あの日、
兄が気づいたこと。

そして、
今、あなたに伝えたかったこと。

それは、
答えとして書く必要はないのかもしれない。

ただ、
あなたの胸の中に、
温かな余白として残ってくれれば、
それでいい。




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