見出し画像

科学的介護の限界を超えて~共感的理解と現象学〜


1.客観的・科学的介護の限界 

 以前、私は次のように書きました。

 私は、科学的介護を否定しようとは思いません。しかし、それを絶対視する姿勢(客観性の陥穽)を警戒すべきだと思います。
 介護においては、その場その場の臨床的な判断が基本ですが、客観的なデータによって現場の知恵や直感が否定されるとき、介護は人間を扱う工学、つまり「人間工学」へと転落してしまいます。
 客観性は便利な道具ですが、それ自体が介護の目的になったとき、目の前の当事者の「声」を聞く耳を失ってしまいかねないのです。・・・

 科学的介護が目指す「標準化」とは、利用者を「欠如のない、予測可能な機械」として扱うディスクールです。しかし、ラカンが説くように、人間(主体)は常にシニフィアン(言葉・データ)の網の目から漏れ出す「余剰」を持っています。
 ・・・介護者が正解を客観的データ、エビデンスだけに求めるのをやめ、利用者という「割り切れぬ他者」を前に、同僚と共に「この人は何を求めているのだろう?」と謎に留まり続けることが求められています。
 ・・・語り手の経験を行為のスタイルと背景の社会構造として捕まえる・・・

note 科学的介護のディスクール

 ならば、この「割りきれぬ他者」をどのような方法で理解したらよいのでしょうか。
 私は、哲学者の村上靖彦さんの「現象学的質的研究」(以下「現象学的研究」)は、個々人の特異性やそれぞれの経験のリアリティを理解するための一つの方法だと思っています。

村上靖彦 2025「現象学的質的研究入門」(ナカニシヤ出版)

 人間の営みは、客観性と数値化からは見えないリアリティを持つ、現象学はそこに関わる。

村上靖彦2025「現象学的質的研究入門」p8

現象学は、
●一人の人の経験の動きを内側からその動きのまま捕まえる
●一人ひとりの経験が持つ特異性をそのまま捉える
●特異性を構造として取り出すことで理解可能かつ伝達可能なものにする
●経験のリアリティダイナミズムを記述する
現象学的な質的研究は、一人ひとりの個別の経験にこだわり、その生々しいリアリティとダイナミズムや変化を描き出す。

村上靖彦2025「現象学的質的研究入門」p10

2.傾聴(共感的理解)と現象学的研究の相違 

 福祉や介護の現場でよく耳にする「傾聴」とは、クライエントの話や感情を受け止め、その人の思いに寄り添うことを指します。つまり、傾聴(共感的理解)の目的は、「あなたの苦しみは、あなたにとってそういうものなんですね」と共鳴することです。聞き手が答えを出すのではなく、相手が「分かってもらえた」と感じることで、心の安定(カタルシス)を促します。

 傾聴(共感的理解)と比べると、現象学的研究は語り手(クライエント)の病気やケアなど特定の現象における生きられた体験の構造や本質を記述し、理解することを目的としています。もちろん、現象学的研究でも相手の話に真摯に耳を傾ける姿勢は欠かせませんが、語られた内容から「この現象の本質的な構造は何か?」を抽出する、より客観的で学術的な作業なのです。

 簡単に言えば、傾聴は対人援助における姿勢や技術であり、現象学的質的研究は経験の本質を明らかにするための学問的な方法です。
 傾聴は、理解そのものを目的とするのではなく、理解しようとする姿勢を示すことで相手を支える、非常に倫理的で実践的な態度と言えます。
 一方、現象学的研究は傾聴的な姿勢を入り口として活かしながら、さらに踏み込み「その体験が人にとってどんな意味を持つのか」を理解するための取り組みへとつなげていきます。

3.現象学的理解の可能性

 認知症ケアにおける「傾聴」が、ただの相槌や受け入れているふりで終わってしまっているのではと感じることがあります。傾聴だけでは、相手の生きてきた世界を本当に理解するのは難しいと思います。特に認知症の方は、言葉が途切れがちだったり、話の文脈が飛んだりすることが多く、表面的な言葉だけでは、その奥にある切実な思いや混乱の理由をつかみきれないものです。
 だからこそ、研究のような大げさな形でなくても、現場で現象学的な視点を取り入れて利用者を理解することに挑戦してもいいのではないかと思います。

(1)言葉ではなく「志向性」を捉える

 傾聴では、「帰りたい」という言葉に対して「そうですね、帰りたいですよね」と共感を示します。  

 一方、現象学では意識は常に何かに向かっている(志向性)と考えるため、その人が「どこへ」向かおうとしているのか、その「帰りたい」という気持ちが「安心できる場所の喪失」から来ているのか、それとも「役割への執着」なのか、その瞬間の意識の向かう先を観察し、背景にある意味を探ります。
私は、傾聴に何故かと考えることが現象学的理解につながっていくのだと思うのです。

(2)「生きられた身体」から意味を汲み取る

 言葉でのコミュニケーションが難しいとき、その人の「体の動き」が多くを物語ります。絶えず歩き回ったり、特定の物を触ったり、険しい表情を見せたりする。これらを単に「周辺症状・BPSD」として片付けるのではなく、「この身体は今、世界をどう感じ、どう応えようとしているのか?」と問い直す姿勢が大切です。

(3)括弧入れ(エポケー)

 「認知症だから徘徊している」「見当識障害だから混乱している」といった医学や介護の既成概念をひとまず脇に置き、まっさらな気持ちで「今、この人の目には世界がどう映っているのか?」を想像し、その人の主観的な現実に入り込むことが大切です。

(4)ケアを「相互主観的」なプロセスにする

 理解は一方的に与えるものではなく、介護者と利用者の間で生まれるものです。「自分がこう動いたときに相手の表情が和らいだ。ということは、この距離感が相手にとって安心なのだな」といったように、互いの反応や響き合い(間主観性)を丁寧にくみ取っていくことが、実質的な現象学的アプローチになると思います。

(5)腑に落ちる瞬間

 福祉・介護の現場での現象学的理解とは、ただ「話を聴く」だけではなく、「相手が見ている世界を一緒に生きようとする」プロセスです。これは単なる傾聴よりもずっと知的で、深い想像力を必要とする実践的な行為です。こうした視点を持つことで、日々のケアの中で「ああ、この人の『不安』はこれだったのか」と腑に落ちる瞬間が増えるかもしれません。

4.現象学的聴き取りのコツ

 普段の会話では原稿を準備しているわけではなく、その場で即興的に話していきます。この即興的な語りは、その人の行為スタイルの骨格を表すものです。話し手は「自分がどう行為しているか」を、自分の意図を超えて表現してしまっているのです。  

 そして、村上靖彦さんの『現象学的質的研修入門』では、現象学的分析のための聴き取りにはいくつかのポイントがあると述べられています。そのうちのいくつかを紹介しています。

①人称を表す言葉づいの変化

 人称の使い方や変化は、語り手が状況にどんな距離感を持ち、どれだけ関わっているかを示すサインになるといいます。「私」「俺」「僕」「自分」や自分の苗字など、どういう人称で自分を表すのか、その変化に注目する価値があります。
 例えば「自分」から「私」、「患者さん」から「この人」、「スタッフのみなさん」から「みんな」などのようにです。

②オノマトペや反復される言葉

「ぎったぎた」「ぼろぼろ」「なかなか」などのオノマトペはリズムを表すため、注目すべきだとされています。
 さらに、繰り返し使われる言葉や言い回しの癖も重要なポイントです。同じ言葉が繰り返されたり、異なる場面で同じ表現が登場する場合は、その理由を考えてみるとよいでしょう。

③言い淀みや言い間違え

 言い淀みや言い間違いには、話し手の無意識が表れることが多いようです。村上靖彦さんによれば、現象学的分析とは、この無意識を通して話し手の生の経験構造を掘り起こそうとする試みなのだそうです。

 本人も意図していない言葉遣いの細かな綾は、実は経験や行為の形を意図的な説明以上に描き出す。ほぼ精神分析多岐な意味での無意識がここに働いている。・・・語られた内容とは別に(たどたどしい、せっかちな、まわりくどい、話がよく飛ぶ、沈黙が多い、etc)語り方こそが、生のありさまを語り手の意図を超えてしめす。・・・現象学の分析もまた、言い間違えや口ぐせのネットワークのなかに背景に横たわる文脈の発現を探し出す。

村上靖彦2025「現象学的質的研究入門」p158,159

 村上靖彦さんの『現象学的質的研修入門』では、これらに加えて、時制や特徴的な動詞、形容詞、語尾など、実に多彩な注目ポイントが紹介されています。ぜひ一度読んでみてください。

 余談ですが、以前、私は哲学者の近内悠太さんの言葉を引用して、次のように書きました。

 当事者(お年寄り)の隠れた内面性が「心」なのではなく、その方の振る舞い、言動そのものが「心・言動」なのです。
 不正確な言い方になってしまいますが、その方の発する言葉、振る舞いそのものに「心」が宿っているのです。
 近内悠太さんは「心」を宿した振る舞い、言動を理解するということは、一つの星(振る舞い・言動)ではなく、星(振る舞い・言動)の繋がり、つまり、星座を見出すことだと説明しています。

祐川 note 「心ある介護 ―「訂正可能性」の介護1―爺のお勉強note

 私は、近内さんが当事者の言動をつなぎ合わせて星座という意味を見出す方法と、村上さんの現象学的なアプローチが、どこか似ているように感じます。

5.CADLと現象学的手法

 人間の経験は一人ひとり異なります。異なりますが、他者の個別の経験を意味あるものとして理解しうるのは、そこにはある意味で普遍的でもあるからです。

 個別の経験はそのまま普遍となる。特異な個別の経験は、それ自体として個別であるがゆえに、そして同時に誰にとっても意味を持つがゆえに普遍である。
 自分の経験でもありえたかもしれない他者の経験は、その個別の具体性ゆえに突き刺さる。読者自身は今現在、病や障害に苦しんでいるわけではないかもしれない。貧困や差別に苦しんているわけでもないかもしれない。しかし他者がこうむる苦痛は(客観的な「苦痛」の定義ではなく)具体的個別的な記述として迫ってきたときにこそ、読者に訴えかける。
 概念や統計的な数値は知識を与えるが、感情を動かし、行為へと促すわけではない。・・・

・・・このとき個別であるがゆえに普遍であるという奇妙なことがおきている。これはキルケゴールやサルトルが特異的普遍と呼んだものかもしれない。

村上靖彦2025「現象学的質的研究入門」p160

 現象学的な質的研究は、一人ひとりの個別性を構造として際立たせ、その中に普遍性を見いだすことができます。私は、この現象学的手法を、個別性を大切にするCADL(文化的日常生活活動・行為:Cultural Activities of Daily Living)理論の基本的なアプローチとして取り入れるのも良いのではないかと考えています。

 村上靖彦さんの『現象学的質的研修入門』がもっと多くの人に読まれて、福祉や介護の現場で現象学的な考え方や方法論が広まればいいなと思っています。



いいなと思ったら応援しよう!