介護のための「身体図式」全体版~老化に寄り沿う介護~
最近、年をとったせいで、物を落としたり、知らぬ間に肘や足をどこかにぶつけて痣をつくっていたり、躓いて転びそうになったりします。そんな時、年取ったなと思うのです。
老化がもっと進むと、ADL(Activities of Daily Living:日常生活動作)やIADL(Instrumental Activities of Daily Living:手段的日常生活動作)も低下してしまうのでしょうね。
高齢者介護とは当事者一人ひとりの老化に付き合っていくことですので、「老化」についての理解が大切だと思います。
身体の老化については運動生理学、神経学、脳科学、生物学、心理学など、さまざまな分野の科学で解明されつつあります。
こうした客観的で科学的な老化の理解は、頭では理解できても実感が伴わないことが多い気がします。何しろ客観的な研究なので、主観とは無関係なのです。
例えば、BMIがどうだとか、血清アルブミン値がどうだとか、Barthel Index(バーセルインデックス)がどうだとか、MMSEがどうだとか、要介護度がどうだとか・・・介護の現場では、いろいろな客観的・科学的な数値や事実を突きつけられますが、私たち年寄りは正直、それらを実感することはできません。確かにそれらは私に関することかもしれませんが、なんとなく自分にはあまり関係のない話に感じます。
老化や人間の存在について、心理的な側面は文系の学問でも分析や理解ができるけれど、身体やADLといった身体的な側面は科学だけが扱えると考える人もいるでしょう。でも、身体には科学だけでは説明しきれない次元があるように感じます。
老化やADLの低下を主観的に理解するには、やはり現象学が最適だと思います
人間の身体、ADL等について、フランスの哲学者、メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty、1908年~1961年)の「身体図式(schéma corporel)」という概念などを用いて、私たちの身体や老化、そして介護について考えてみたいと思います。

身体図式理論では、ADLやIADLの低下は、単なる筋力低下や機能不全ではなく、「身体と世界(環境)との間の密接不可分な関係性の変化」として説明できます。
以前、この「身体図式」という概念で「よそよそしい自分の身体」という記事を書いたことがりますが、今回は、もう少し介護に引き付けて考えていきたいと思います。
Ⅰ 「身体図式」と「肉:シェール」の基礎理論
1.身体図式と時間/空間
(1)「客観的な身体」は実感できない
私たちは普段、自分の身体を「重さ60kgの物体」「身長160㎝」や「解剖学的なパーツの集まり」として感じているわけではありません。
また、人間の細胞は30兆〜40兆あると言われていますが、毎日約3,300億〜数千億個(全体の約1〜2%)が死んで新しい細胞と入れ替わっているそうです。とはいえ、そんなことを実感することはもちろんありません。
客観的科学的な事実でも私たちが実感できないことが多いのです。
私たちは主観的な世界を生きているのです。
(2)身体図式とは
身体図式とは「自分の体がどこにあり、どう動かせるかを、いちいち考えなくても把握している無意識のネットワーク」のことです。
私たちは自分の手を動かすとき、「まず肘を15度曲げて、次に指の筋肉を・・・」なんて考えません。考えなくてもそれができるのは、身体図式が常にバックグラウンドで働いているからです。
超簡単に言えば、身体図式とは、Windows、macOS、LinuxOS等と同じ身体のOS(オペレーティングシステム)のようなものです。
①「身体図式」と「身体イメージ」の違い
身体図式は、身体イメージとは異なる概念です。
身体図式は、無意識の領域で内側から感じられるものですが、身体イメージは意識の対象ですし、自分の身体を外から見たものです。
身体図式と身体イメージを比較した表を以下に示めします。

②「私はできる(I can)」の論理
メルロ=ポンティは、身体を単なる「モノ」ではなく、「世界へと投げ出された可能性」「私はできる(I can)」として捉えました。さらに、身体は志向性や空間性の基軸/基点となっていると指摘しています。
志向性: 私たちの身体は、常に何かの目的(リンゴを掴む、ドアを開けるなど)に向かって開かれています。
空間性: 私たちが感じる「ここ」や「あそこ」は、幾何学的な座標ではなく、自分の身体から届く距離(=行動の可能性)によって決まります。
③身体の拡張(道具の取り込み)
身体図式理論によれば、自分の身体は「自分の肉体の外側まで広がる」とされてます。
例えば、盲目の人が使う「杖」を思い浮かべると、慣れるにつれて、それは「手に持つ棒」ではなく「世界を探る指先」そのものになります。杖の先が地面に触れたとき、その衝撃は「手」ではなく「杖の先」で感じられるようになるのです。
このような観点から見ると、新しい道具(車、車椅子、歩行器、シルバーカー、等々)を使いこなすことは、その道具を自分の「身体図式」に組み込み、身体を拡張することに他なりません。
(3)身体図式と時間
身体図式は、時間経験(時間の生成)にも関係しています。
身体図式を通じて、時間が「外側から流れてくるもの」ではなく、「身体の志向性によって内側から紡ぎ出されるもの」と感じられるのです。
①「動的な現在」としての身体図式
身体は単に静止した物体ではありません。身体図式とは、常に「次に何をすべきか」という可能性に向けられた「運動的志向性[注1]」の束です。
この運動志向性の束である身体図式は、過去の保持(把持)の基盤となっていると言えます。例えば、自転車に乗る、楽器を弾くなどの習慣は、過去の経験が身体図式に沈殿し、現在の行動を支える「生きた過去」として機能しているのです。
また、身体が何かを掴もうとする時、手はすでに「未来の完了地点」を先取り(予持)しているのです。
[注1]運動的志向性とは、意識的な思考や計画なしに、身体が環境や対象に対して直接的かつ目的的に向かう「身体の知」や「自動的な能力」を指します。膝蓋腱反射などの単なる物理的な反射運動ではなく、熟練した動作や生活の習慣的動作に見られる、身体が自動的に世界と関わる能力のことです。
②時間の流れと身体図式
メルロ=ポンティは、時間がバラバラの瞬間(点)の連続ではなく、地続きの「流れ」として感じられる理由を、身体の「把持」と「予持」に求めました。
過去に身につけたスキルや習慣(記憶や経験)が、今目にしている世界に意味を与え、その結果として、次の適切な行動が自然と引き出されるのです。この身体化された過去の経験(熟練・習慣)が、現在の状況において未来の行動を導く、身体と環境との相互作用のサイクルを志向性の弧(Arc intentionnel)と言います。
私たちの感覚、知性、行動を統合するこの「指向性の弧」が、過去・現在・未来をひとつの文脈に繋ぎ止めます。身体図式が指向性の弧の基盤となることで、私たちは「今」にいながらにして、過ぎ去った直前と、来たるべき直後を同時に生きることができるのです。
③身体図式と時間との関係
身体図式と時間との関係性を整理すると、下表のようになります。この表を見ると、過去も未来も現在の身体で絡み合い浸透しあっていることが理解できるのではないでしょうか。

時間は、身体が世界と関わる方法そのものと言えるかもしれません。
時間論については以下のnoteもご参照ください。
(4)身体図式による空間の構造化と習慣
私たちは、自分が空間のどこにいるかをGPSのように座標で把握しているわけではありません。身体図式によって空間は次のように構造化されています。
①位置的空間(Positional Space)
位置的空間は、身体図式の基礎であり、目をつむっていても「自分の手や足が今どこにあるか」を把握できる空間です。固有受容感覚、前庭感覚[注2]、触覚などの感覚入力によって、脳内で常に更新される「身体マップ」のようなものです。この位置的空間があるから、暗闇の中で頭を掻くとき、正確に位置を特定できるのです。
[注2]前庭感覚とは、耳の奥にある内耳の「三半規管」や「前庭」で受容される、身体の傾き・スピード・重力・揺れを感じる感覚。平衡感覚やバランス感覚とも呼ばれ、姿勢を保ったり、目や首の動きを調整したりする、人間が動くための土台となる重要な感覚。
位置的空間は、主観的かつ無意識的なもので、姿勢の保持や正確な関節運動の調整に必要なものです。この構造が頭頂葉の損傷などで壊れると、自分の腕がどこにあるか分からなくなり、うまく動かせません。
②状況的空間 (Situational Space)
状況的空間とは、自分の身体を基準・基点として、対象物や環境が「ここ(私)」から見て「どこ(そこ)」にあるかを判断する空間です。身体と環境の関係が織りなす空間と言っても良いと思います。
例えば、狭い隙間を通れるかを「自分の肩幅」と「壁の幅」の関係性で判断して身をすぼめたり、道具(杖や車)を使うと、その道具の先までが身体の機能的範囲として取り込まれたりするのは、この状況的空間があるからです。
③身体図式の「拡張」と「習慣」
状況的区間でも触れましたが、身体図式は肉体の境界線(皮膚)に縛られません。道具が身体の一部になる現象は日常茶飯事です。
例えば、盲人の杖ですが、盲目の人が使う杖は、もはや「手に持っている物体」ではなく、道路の凹凸を感じ取る「触覚器官」そのものになっています。杖の先が身体図式に組み込まれているのです。
また、熟練したタイピストはキーの位置をいちいち確認しません。指がキーボードという空間を身体図式として取り込んでいるからです。
そして、「習慣」とは身体図式が更新され、世界の新しい一部を自分の体として「獲得」することに他なりません。
普通は「心」が「体」を操り人形のように動かしていると考えがちです。しかし、身体図式の概念は、身体そのものに知性がある(身体的知性)ことを示しています。私たちが意識して考える前に、体はすでに世界と対話し、意味を汲み取っているというわけです。
私の身体は、世界の中に一つの点としてあるのではなく、世界に向かって開かれた一つのシステム、世界を理解するためのメディア(媒体)なのです。
空間については以下のnoteもご参照ください。
2.幻肢と身体図式
老化によって身体図式は変化しますが、これを理解するには現存的身体や習慣的身体といった概念が欠かせません。そして、それらを理解する近道は、幻肢について考えてみることだと思います。
(1)幻肢
メルロ=ポンティは、幻肢(失ったはずの手足がまだそこにあるように感じ、痛みや動きを覚える現象)は、単なる脳の不具合(神経の誤作動)でも、単なる心の思い込みでもないと言います。
彼は、私たちの身体を二つの層に分けて考えました。
一つは現存的身体(Corps actuel)で、今この瞬間に生物学的・物理的に存在している身体、つまり手足を失った後の「欠損した体」です。
もう一つは習慣的身体(Corps habitué)で、これまでの人生で培ってきた「世界と関わるためのスキル」が染みついた身体、つまり長年「手がある前提」で世界とやり取りしてきた経験の蓄積です。
幻肢が起こるのは、物理的な「現存的身体」が変化(欠損)しても、世界に応答しようとする「習慣的身体」が以前のまま残っているからです。
(2)世界からの「呼びかけ」が幻肢を作る
メルロ=ポンティは、幻肢は自分の内部だけで起こるのではなく、「世界との関わり」の中で生じると考えています。
例えば、幻肢の人の目の前にドアノブがあると、長年の習慣で体は無意識にドアノブを掴もうと構えます。このとき、まるで世界(ドアノブ)が「掴んでほしい」とこちらに呼びかけているように感じられるのです。実際にはもう手は存在しないのに、身体の感覚の中では「掴む」という動作が準備され、その動作の担い手として失ったはずの手が「世界の側」に現れ、自分でも本当に手があるかのように感じてしまうのです。
幻肢とは、「かつての自分の世界」が今もなお自分に影響を与え続け、身体がそれに反応しようとする「世界へのこだわり」の表れとも言えるでしょう。
義手を使ったり、手のない状態での生活に慣れていくことで、世界との新しい関わり方(新たな習慣的身体)が形づくられ、身体が新しい状況を受け入れ、身体図式が「書き換え」られると、幻肢は消えるか、あるいは薄れていきます。つまり、古い「世界への回路」が閉じ、幻肢も役目を終えて消えていくのです。
(3)現象学的「老化」
幻肢を現象学的に説明する際に使われる「現存的身体(今の生身の体)」と「習慣的身体(いつもの自分)」という概念を応用すれば、老化についても説明できると思います。
私たちは普段、自分の体を「ただの物体」としてではなく、「世界と関わるための道具」として生きています。
老化は生物学的には身体機能の低下ですが、現象学的に見ると、慣れた体の柔軟な適応力が落ちていく過程でもあります。
健康なときは、その場その場で体が新しい状況にすぐ対応し、それがやがて習慣として定着するという流れがあります。でも、老化はこの流れにズレを生じさせます。
つまり、世界とつながる生身の体が衰えることで、慣れ親しんだ自分のやり方が通用しなくなり、新しい世界との向き合い方を作り直す必要が出てくるのです。
老化とは、「現存的身体の限界」が「習慣的身体の動き」を崩しながら、世界との新しい関わり方を探していく、元には戻らない連続的な身体の再構築プロセスと言えます。
例えば、つまずかないよう歩き方を変えたり、手すりを使ったりと、意識的に工夫して新しい「習慣」を作り、年を重ねてもなお世界とのつながりを築こうとするのが老人なのです。
3.「肉(chair:シェール)」としての存在論的構造
メルロ=ポンティの晩年の思想における「肉(chair:シェール)」という概念は、人間の身体性と世界が互いに絡み合い、感覚する主体でありつつ感覚される客体でもあるということを指し示す概念です。
世界を構造化する私の身体である身体図式が、「世界と同じ肉でできた身体(可逆的な存在)」へと深まったのです。機能的な概念だった身体図式は、存在論的な「肉:シェール」へと昇華し、主体と客体や空間と時間を分ける近代的な二元論を乗り越え、それらが根源的なレベルで絡み合い、相互に浸透し合う間身体性や共-現前を考える上での重要な概念となっています。
ざっくり言えば、私の身体と他者や世界の身体は、同じ「肉:シェール」という織物からできており、互いに「共-現前」することで、相互に浸透し合う関係(間身体性)を結んでいるということです。
(1)可逆性:反転可能性
「肉:シェール」には可逆性があります。たとえば、右手が左手に触れるとき、「触れる側」と「触れられる側」は入れ替わることができます。つまり、身体は主体(触れる側)でありながら、同時に物質(触れられる側)でもあるのです。この可逆的な関係は、私と世界、そして他者との間にも成り立っています。
私と世界、感覚する者(主体)と感覚されるもの(客体)を分けるのではなく、それらを結びつける根源的な要素が「肉:シェール」なのでしょう。そう考えると、身体も世界も同じ物質「肉:シェール」からできていることになります。
例えば、「触わる右手は同時に触られるものでもある」という二重性(触る=触られる)があります。これが主客分離の原経験としてあり、「肉:シェール」は、主体(自己)と客体(世界/他者)を二元論的に分かつのではなく、それらを根源的に結びつける、可逆的で感覚的な「存在の素材」なのです。
また、見る身体が同時に見られるものでもあるような、感覚する主体と感覚される対象が織りなす「間身体性」の場が「肉:シェール」なのです。
私たちもまた「肉」であるため、世界は客体として外側にあるのではなく、私たち自身が肉的な世界に「肉」の一部として含まれているのです。
(2)「肉」概念を通じた老化の解釈
メルロ=ポンティの「肉」の概念からすると、老化は単に器官が衰えることではなく、「世界と私をつないでいた柔らかな肉の回路が、自他や能動・受動の可逆性を保ちながら、別の『スタイル』へと変わっていく体験」と言えるでしょう。
「肉:シェール」の視点から見ると、老化は次の要素で捉えることができます。
①「身体図式」の縮小
私たちは「ここにある体」と「あそこにある物体」を頭で計算して動いているわけではなく、身体が世界に延びて一体化している感覚(身体的図式)で空間を捉えています。
ところが、年齢を重ねると、かつては「手を伸ばせば届く」と感じていた空間(まるで自分の一部のようだった領域)が、少しずつ「遠い場所」「よそよそしい場所」に変わっていきます。
さらに、若い頃には空間を「可能性(何かができる場)」として見ていたのが、老化とともに「負担(移動しなければならない距離)」として感じるようになります。
②世界がよそよそしくなる
自己の肉と世界の肉との「重なり」が薄れ、以前は自分の一部のように自在だった空間が、外側にある異物として現れます。これが、段差を踏み外したり、距離感をつかみにくくなったりする現象の本質です。こうして、世界は次第によそよそしい存在へと変わっていくのです。
③世界との没交渉
「肉」の理論の核心は、「自分は世界を見ていると同時に、世界からも見られている(可逆性)」という相互浸透性にあります。
ところが、年齢を重ねるにつれ、自分の身体が以前のように「自分の一部」として自由に動かせず、次第に「外部のモノ(客体)」や「受け身的な存在」として感じられるようになります。
つまり、「見る⇔見られる」「触れる⇔触れられる」といった能動と受動の入れ替わりが起こりにくくなり、主観と客観が分離・固定化しやすくなるのです。その結果、「見えるもの」と「見るもの」の交換が行われず、世界から「見られている」という実存的なつながりが断たれ、生活世界が色あせてしまう恐れがあります。
(3)老化を「生きられた身体」として捉える
メルロ=ポンティは、身体を「客体(モノ)としての身体」ではなく、一人称の視点で感じ、知覚される「生きられた身体」として捉えています。
さらに、「肉:シェール」とは「感じるもの/感じられるもの」「見るもの/見られるもの」、つまり能動と受動が交差する原初的な存在の織物だとしています。
「生きられた身体」が「肉(シェール)」の経験(感じ、触れること)を通じて世界や他者と深く結びついていると考えるなら、老化とは単に物質的な身体が衰えること(客観的な見方)以上に、世界と交感する場としての「私の肉」が変容していく過程といえるでしょう。
年を重ねて衰えを感じることは、老いや死と向き合いながら、世界とのつながりや自分らしさを新しく形づくっていく成熟の過程であり、もしかすると実存的な旅なのかもしれません。
私は、今、ようやく自分の身体に気づき始めているところです。
若い頃、身体は「透明な道具」でした。何かをしようと思った時、体は意識にのぼることなく目的を達成できました。しかし、今、老化によって重さや、だるさや痛みによって「自分の体が、自分の思い通りにならない異物」となりつつあります。
それでも、この身体の衰えを受け入れ、「新しい習慣的身体」へのアップデートに日々取り組んでいます。
Ⅱ 老化に寄り沿う介護
よく「寄り添う介護」と言われますが、「寄り沿う介護」もアリだと思います。本来は「寄り添う」と書くのが正しいのでしょうが、ここではあえて「沿う」を使いたいです。
「添う」は離れずにそばにいる状態を表し、「沿う」は並行して進むことを意味します。老化していく人の介護では、状態を示す「添う」よりも、老化の進行に「沿って」寄り添う方がふさわしいと思います。
1.老化と身体図式
身体図式とは「自分の体がどこにあり、どう動かせるかを、いちいち考えなくても把握している無意識のネットワーク」のことです。 私たちは自分の手を動かすとき、「まず肘を15度曲げて、次に指の筋肉を・・・」なんて考えません。考えなくてもそれができるのは、身体図式が常にバックグラウンドで働いているからです。
ざっくり言えば、身体図式とは、Windows、macOS、LinuxOS等と同じ身体のOS(オペレーティングシステム)のようなものです。
身体図式の観点では、ADL/IADLの低下は「身体が物理的な機械として劣化した」のではなく「世界と私の身体をつなぐ身体図式が縮小・硬化し、環境と身体がうまく循環しなくなった状態」と捉えられます。
この身体図式概念を基軸にして老化について考えてみます。
(1)老化は「習慣的身体」と「現在の身体」のズレ
年をとると、階段の昇り降りで足がもつれたり、段差のない場所でつまずいたりすることがあります。これは、幻肢の例で紹介した「習慣的身体」と「現在の身体(今の能力)」とのギャップが、老化でも起きていると考えられます。
簡単に言えば、身体図式が更新されず、「かつてのスピーディーな自分」という感覚で世界に反応しようとするため、現実の身体との間にズレが生じるのです。
極端に言えば、一種の「全身的な幻肢状態」とも言えるでしょう。
(2)重たい荷物に変わる身体
健康で若い頃、身体はまるで「透明な存在」です。
歩くときに足の筋肉を意識することもありません。しかし、年齢を重ねて身体図式がうまく機能しなくなると、身体は「透明なメディア」から「重たい荷物」へと変わってしまいます。つまり、ADLが低下すると身体はお荷物のように感じられるのです。
これまで無意識(身体図式で)に行っていた「歩く」「立ち上がる」といった動作も、「右足を上げて、次に左足に体重を乗せて…」と頭で考えながら、あるいは介護職員の声掛けに合わせて行わなければならなくなります。
身体図式的に言えば、世界に没入することが難しくなり、意識は痛みや不調、できないことなど自分の内側に向かうようになります。
さらに、思うように身体を使えず、自分の身体が客観的に観察する「物体」のように感じられることで、「面倒くさい」や「無理だ」という感覚が生じ、自発的な行動意欲が失われていくのです。
(3)空間の縮小
身体図式は「どこまで手が届くか」「どこまで歩けるか」といった世界の広がりを決めています。年齢を重ねると、この「広がり」はだんだん狭まっていきます。
身体の可動域が小さくなると、身体図式における「自分の世界」も縮まり、以前は「歩いて行ける」と感じていた場所が、心理的にも物理的にも「遠く」に変わります。身体図式が弱まることで、世界への働きかけが減り、その結果、世界自体が活力を失い、狭く感じられるようになるのです。
(4)老化への適応:身体図式の「再構築」
老化はただ失われるだけではありません。身体図式は「再構築」が可能です。
①道具による再構築
例えば、杖や歩行器、眼鏡などを使うことで、低下した身体機能を補完し、身体図式をそれらの道具へと拡張します。「盲人の杖」のように、使い慣れた道具は「持っているモノ」から「自分の一部」へと統合されて行きます。
②新しい習慣の獲得
また、「ゆっくり歩く」や「手すりを使う」といった新しい動作が身体図式に取り入れられ、つまり新しい習慣として身につくことで、ズレが解消され、再び世界との調和(新たな安定)が生まれる可能性もあります。
(5)老化による変化
老化とは、「身体のイメージが変わっていくこと」や「世界とのやり取りのルールが書き換わっていく過程」と言えるかもしれません。
以下に、老化によって生じる身体イメージの変化を表にまとめてみます。

身体図式の視点から見ると、介護やリハビリテーションは「筋力を回復させる」だけでなく、「新しい身体で再び世界を信頼し直す(図式を更新する)」ためのサポートでもあると言えるでしょう。
2.身体図式の再生に向けた介護
メルロ=ポンティの身体図式の理論を介護に活かすことで、「作業としての介護」を「その人の世界をよみがえらせる介護」へと変える大きなヒントになります。
(1)「機能回復」から「意味の回復」へ
リハビリでは、単に「足を30度上げましょう」といった筋肉の動き(客観的な身体操作)だけでなく、「あそこにあるお茶を自分で取りに行こう」といった目的(世界への働きかけ)を重視する方が良いと思います。
なぜなら、身体図式は「私は〜ができる」という確信によって動き、解剖学的な動きよりも「〜したい」という意図を伴う動きの方が、脳と身体のネットワーク(図式)が再構築されやすいからです。つまり、リハビリでは「ただ動かす」のではなく、環境との相互作用を通して無意識的・習慣的な身体性を取り戻すアプローチが大切です。
(2)環境のアフォーダンス(Affordance)を整える
アアフォーダンスとは、モノや場所などの環境が人や動物に与える「行動の可能性」や「行動を促す機能」のことです。
例えば、椅子は「座る」、取っ手は「つかむ」、床は「立つ」という行動を自然に促します。人は道具の形や特性から、その使い方を直感的に認識できるのです。
この考え方はユニバーサルデザインの「直感的な操作性」を支える手法でもあり、例えば取っ手なら縦長のバーは「握って引く」、板状のプレートは「押す」という行動を促します。
このアフォーダンスの観点から、施設内の環境を、身体図式が「自然に反応できる」ように整えることが大切です。ようするに、施設の環境も、体が自然に反応できるよう整えることが大切と言うことです
手すりもただ設置するだけでなく、ふらついたときに自然と手が届く位置にあるかを確認する必要があります。
身体図式に「掴めるもの」として組み込まれれば、意識せずとも体が反応し、転倒予防にもつながります。
(3)福祉用具の身体化を支援する
車椅子や杖は、ただの「外部の道具」ではなく、「身体の一部(拡張された手足)」として馴染ませることが大切です。
杖は道具でありながら、身体の延長になり得るものであることを忘れてはいけません。杖を使う感覚が、単に「地面を叩く」ではなく「地面の様子を探る指先」のように感じられるまで、ゆっくりと身体図式に組み込まれるよう支援することが重要です。
また、介助者が車椅子を急に動かすことは、その人の「身体の一部」を勝手に掴んで動かすのと同じだということも理解しなければなりません。福祉用具は利用者の拡張された身体の一部であるという理解は、介護においてとても大切なのです。
(4)習慣的身体へのリスペクト
認知症などで現在の状況がわからなくなっても、長年培われた「習慣的身体」は深く刻まれています。
元大工さんであれば、金槌を持つ動作によって身体図式が刺激され、普段は動かない手が自然に動くこともあります。
その人の人生に根付いた「習慣」を探り、かつて得意だった動作を日常に取り入れることで、途切れてしまった「今」と「昔」の身体をつなぎ直すことも大切です。
(5)間身体性で繋がる介護
メルロ=ポンティは、自分と他者の身体は互いに影響し合う「間身体性」があると考えています。つまり、自己と他者の身体は単なる物質的対象ではなく、相互的で循環的なつながりを持っているということです。
もともと身体は、触れると同時に触れられる存在(自己触知)であり、この仕組みは他者との関係にも当てはまります。他者の身体を見たり触れたりするとき、私と相手の身体は「肉:シェール」という共通の領域で結びついている、と彼は考えました。
介助者が「重い人を持ち上げる」ときに緊張していると、利用者の身体もこわばります。逆に、介助者が自分の身体を柔らかく使い、相手の動きの「リズム」に合わせると、利用者の身体図式も同調し、最小限の力で動けるようになります。移乗などの介助が上手な介護の達人は、この間身体性をうまく活かしているのでしょう。
(6)世界を再生する介護
若い頃の身体図式は「すぐ動ける」「バランスが取れる」という前提でできていますが、年を取って身体能力が落ちても、その図式はすぐには変わりません。そのため、思ったより足が上がらずにつまずいたり、以前はできたことができなくなったりといった「ズレ」が生じます。これが私たちが「老化」を感じる原因なのです。
高齢期は「身体と世界の関係をもう一度調整すること」が求められる時期です。だからこそ、介護者は「本人が今どんなふうに世界を感じているのか」という視点を持つことが大切です。
身体図式の理論から見ると、介護は「お世話」ではなく、その人が再び「自分の身体の主」として世界と関わるための共同作業になります。つまり、介護は単なる「作業としての介助」ではなく、「その人の世界を再び作り出すケア」なのです。

3.認知症と身体図式
認知症は一般に「記憶障害・理解力の低下・判断力の低下」に注目されがちですが、実は身体図式とも深く関係しています。
(1)身体図式が損なわれることで「世界のまとまり」が崩れる
身体図式とは、自分の体がどこにあり、どう動けるか、空間がどう成り立っているかといった、身体と世界をつなぐ基盤のことです。認知症になると、この身体図式が乱れ、その結果、さまざまな問題が起こります。
いつも通りの部屋にいても「ここはどこ?」と感じる
物の距離感をつかみにくい
自分がどの場所にどう立っているか不安
「次にどう動けばよいか」が直感的に分からない
台所での一連の動作(料理など)がうまく繋がらない
これは単なる記憶障害ではなく、「身体を通して得られる世界の体験の一貫性が崩れている状態」と考えることができます。
(2)記憶/時間構造の変質は「身体的な流れの断絶」として現れる
認知症では、見当識障害や時間感覚の変化によって「生活世界(記憶や文脈)」が分断され、身体が「今」の状況や「次の動き」とのつながりを失ってしまい、立ち止まったり、見当違いの行動をしたり、不自然な動作を繰り返すといった「身体的な流れの断絶」が起こります。
日常生活は「お茶を飲む」「入浴する」など、連続した動作の積み重ねでできていますが、その連続性が途切れると(今何をしているのか、なぜしているのかが分からなくなると)、身体は、次に何をすべきか分からなくなります。
例えば「服を脱ぐ→洗う→拭く→着る」という入浴の流れが分からなくなり、脱衣所で動けなくなったり、トイレに行こうとしてズボンを下ろす手順を忘れてしまったりします。中には排泄物を隠そうとして擦り付けるなど、社会的な文脈が行動から抜け落ちる場合もあります。
このように、認知症では生活世界の連続性が途切れてしまうことがあるのです。
(3)他者の動きの読み取り機能の低下
身体図式は、相手がどう動こうとしているかを無意識に読み取り理解するための基盤です。
これは自分の体の位置や動きを無意識に把握するマップであり、他者の動きを見たときに脳が自分の運動システムを使ってその動きを自分のマップに写し取ります。いわゆる「ミラーニューロンシステム」と連動してシミュレーションを行っているのです。
しかし、認知症が進行すると、この身体図式による動きの読み取り機能は低下・変質し、うまく働かなくなる可能性が高まります。
介護現場では次のような行動が見られるようになります。
動作のぎこちなさ(失行):相手の動きを模倣したり、道具を上手く使うことができなくなります(相手がスプーンを出してくれても、どう受け取ればいいか分からない)。
他者への急な接近や衝突:相手との距離感(パーソナルスペース)が把握できず、急に近づいたり、ぶつかったりします。
相手の意図が読めない:介護者が「着替えよう」として服を差し出しても、その意図が理解できず、拒否や混乱を引き起こします。
「身の回り」に関する認識不足:自分の身体の一部や、手の届く範囲にある他者の動きを意識できなくなります。
これは、「他者の身体=意味ある行動」として受け取る力が不安定になっているためです。
4.身体図式に基づいた「認知症ケア」
(1)言葉より身体でコミュニケーションする
認知症の方は言葉による理解が難しくなりますが、身体的な世界はまだ残っているので、介護するときは、その身体性を生かし次の点に留意しては如何でしょうか。ユマニチュードの基本と同じですが、それはユマニチュードが身体図式を基盤にしているということなのだと思います。
ゆっくり近づく
視界に入りながら声をかける
手や肩に触れて存在を伝える
一緒に動作して「身体を合わせる」
認知症ケアでは、上記のような間身体性を基盤とした身体的共鳴を用いることが有効だと思われます。
身体的共鳴(響き合い)とは、他人のあくびや動作、表情などを目にすると、自分の体でもそれが自然と再現されたり反応が起こったりする現象のことです。これは、身体が単なる物質ではなく、知覚の主体として意味を生み出す能力(身体図式)を持つためです。
(2)空間と動線を単純化する
認知症の方は複雑な空間が苦手で、身体図式がうまく働かないと空間の意味を理解できません。だからこそ、次のような点に気をつけることが大切です。
部屋のレイアウトを変えすぎない
行動の動線を一本にする(例:トイレへの道を明確にする)
戸棚は透明な扉にする、または開けておく
必要な物は見える場所に置く
座る/立つ/移動への誘導を身体的にサポートする
環境整備は認知症ケアの大事なポイントです。先に触れた環境のアフォーダンスを整えることは、とても重要です。なぜなら、本人の身体図式が安定していなくても、環境が「外部の身体図式」として機能するようになるからです。
(3)一緒に動いて、身体的な連続性を取り戻す
認知症になると、身体図式が環境にうまく適応できず、自分の体と周囲との関係を正しくつかめなくなり、日常動作(ADLやIADL)がちぐはぐになりやすくなります。
つまり、動作がバラバラ(動作の断片化)になったり、順序がわからなくなったりします。そこで、介護者は「動作の流れや順序」を実際に体で示しながら、デモンストレーションや軽く触れて誘導するなどの支援が必要になります。
歯ブラシを手渡す → 手に添えて口元へ誘導
料理を一緒にすると作業がスムーズになる
お風呂で洗う順番を身体を使って誘導する
これは「失った身体図式を補っていく」作業です。
(4)身体図式と認知症ケア
認知症を身体図式の観点から見ると、以下の点を注意深く観察する必要があります。
自分の身体で世界をどう感じているか
どんな動きができると感じているか
日々の生活の流れや習慣が途切れていないか
他者の身体の意味を理解できているか。
以上の状況を踏まえ、介護においては次のような配慮が求められます。
• 言葉より身体の動きでコミュニケーションを図る
• 環境を外部の身体図式として整える(アフォーダンスを活用)
• 一緒に動作し、身体的なつながり、身体的連続性を支える
• 行動の背景を「世界の体験が変わること」として捉える
以上、介護、認知症ケアには科学的な基盤のみならず、身体図式等の現象学的な理解も必要だと思います。
特に、客観的事実、エビデンス、つまり、介護を三人称で語る科学的介護が隆盛を極めつつある現在、一人称で語る現象学的実存論的介護も必要なのだと思います。
認知症に関しては以下のnoteもご参考にしてください。
