介護は一方通行ではない!人と人とが関わり合う相互行為(超要約版)
政府などは介護の効率化や生産性を求めていますが、介護を単なる「効率的な作業」にしてしまうと、人を物のように扱う一方的で暴力的なものになりかねません。本来の介護とは、お互いに息を合わせて体を動かすような「やり取り」です。相互行為に効率性を求めるのは恋愛に効率性を求めるようなものではないでしょうか?
では、そもそも人間の「行為(行動)」とはどういうものなのでしょうか。
1.行為とはなにか
(1)心の中の「やるぞ!」という意志で行動しているわけではない
「人間は心の中で『〜しよう』と強く思い(意志)、それが体を動かしている」という昔からの考え方(古典的意志理論)があります。しかし、私たちが水を飲むとき、いちいち「水を飲もう!」と強く心で念じてから飲んでいるわけではありません。人間の行動は、単なる「心の決断+体の動き」だけでは説明できません。
(2)「なぜ?」に理由を答えられるのが意味のある行動
あくびなどの生理現象には理由がありませんが、水を飲むことには「喉が渇いたから」という理由があります。自分の行動に理由を語れるかどうかが、意図的な行動かどうかの決め手になります。
(3)私たちは世界や道具とすでにつながって行動している
哲学者のハイデガーは、「人は頭でいちいち理由を考えなくても、道具や周りの環境の意味を体が分かっていて、自然に行動している」と考えました。
モノへの気配り(配慮):スマホやスプーンなどの道具を自然に使いこなすこと。
人への気配り(顧慮・こりょ):人を道具のように扱うのではなく、思いやりを持って接すること。
このように、人間の行動は「自分がどんな人間として生きたいか」という生き方そのものと深く結びついています。
2.認知症の方との「やり取り(相互性)」はどう生まれる?
言葉や頭での理解が難しくなる認知症の方の介護では、お互いのやり取り(相互行為)は成立しないのでしょうか?私は、頭での理解が難しくなっても、身体や気持ちのレベルでやり取りは成立すると思っています。
(1)頭で分からなくなっても「身体」が覚えている
認知症が進むと、スプーンを見て「これは食べるための道具だ」と頭(言葉や概念)で理解することが難しくなる場合があります。しかし、差し出された手触りや温かい湯気を感じて、体が自然に反応して食べようとすることがあります。頭の理解は難しくなっても、「身体のレベルでの応答やリズム」はしっかりと残っています。
(2)代わりに全部やるのではなく、相手の力を引き出す
人に対する気遣いには2つのカタチがあります。
代行的な助け:相手の代わりに何でもやってあげてしまうこと。
先行的な助け:相手が自分の力で世界を感じ、行動できるように手助けすること。
ハイデガーは、人に対する気遣いを「顧慮」と呼び、これを「代行的な顧慮」と「先行的な顧慮」の二つに区別しています。

介護では、ただ手出しするのではなく、相手が自分の力で動けるように導く「先行的な助け」(先行的な顧慮)が大切になります。
(3)言葉を超えた「雰囲気」や「気持ち」のつながり
人間は本来、一人で孤立しているのではなく「最初から誰かと共に生きている存在」です。
認知症の方は言葉や理由の理解が難しくなっても、介護する人の声のトーンや優しい雰囲気、安心感や焦りといった「気分や感情(情動)」にはとても敏感です。言葉による会話ができなくても、「気持ちを分かち合うこと」でお互いの関係(相互性)は十分に成り立ちます。
(4)「してあげる / される」を超えた関係
介護は「お世話する人(能動)」と「お世話される人(受動)」という一方通行の関係に見えがちです。しかし実際は、お互いに影響を与え合い、気遣い合いながら一つの時間や空間を一緒に作っています。
介護とは、介護者が一方的に作業をこなすことではありません。言葉や頭での理解が難しくなったとしても、身体の反応や手触り、声のトーンや温かい雰囲気などの「気持ちのつながり」を通してお互いに関わり合い、支え合っていく大切な人間関係、つまり介護とは相互行為なのです。
もう少し掘り下げたい方は以下のnoteをご覧ください。
