「行為」とは何?~「介護相互行為論」No1
はじめに
著名な社会学者の上野千鶴子さんは『ケアの社会学 当事者主権の福祉社会へ』(太田出版、2011年)で「ケアは相互行為であり、社会的関係である」としています。介護を一方的に施す側と受ける側と捉えるのではなく、複数の人間が時間と空間を共有し、応答し合う相互行為(インタラクション)としているのです。つまり、介護を単なる労働や作業ではなく、人と人との関係性の構築プロセスとして捉え直そうということです。
私も「介護は相互行為」だと思います。介護ではお互いに息を合わせて立ったり、移乗したりすることがあります。
また、もし、介護に相互性がないとすれば、介護は、介護者が物を運んだりするような一方的な行為と言うことになってしまいます。このような一方的な介護は、業務をこなすだけの介護でしかないでしょうし、暴力的なものになりかねません。
昨今、政府によって介護事業の効率化、生産性向上が推進されてきていますが、これは、介護を一方通行の作業と見なしているからでしょう。この政府が主唱する「生産性の高い介護」に対して「介護は相互行為」であることを広く世に訴えていく必要があると思います。
ですから、今、「相互行為としての介護」について考えてみることは、とても大切なことだと思うのです。以下に、相互行為の「相互」とはどういうことなのか、「行為」とはどのようなことなのかについて整理してみたいと思います。
また、介護では、被介護者から「~してほしい」「それは止めてくれ」等々、相互的なコミュニケーションは成立していると思われますが、認知症者の介護ではコミュニケーションを成立させるのは困難な場合もあります。相互行為としての介護について考える時、認知症介護を十分考慮して考えていく必要があると思います。
1.行為とは何か
(1)古典的意志理論
まずは、哲学者の池田喬さんの「ハイデガーと現代現象学」(勁草書房2024)を参考にして「行為」について整理してみたいと思います。
朝起きてからの30分間の行為をリストアップするとして、行為と行為でないものをどのように区別するかが問題となります。起きたとき腕を上げて背筋を伸ばし欠伸をしたのは行為なのか、スマホで時間を確認したのは行為なのか、また、頭を掻いたのは行為なのか、布団を押しのけたのは行為なのか、布団を畳んだのは行為なのか、水を飲んだのは行為なのか等々。
何が行為なのか、「~しよう」という「意志」概念を用いて説明する古典的意志理論があります。しかし、私たちは「~しよう」という経験がどのくらい長く持続したのか、どの程度の強さだったのか言うことはできません。
水を飲むとき「水を飲もう」と明確に意志しているものでしょうか。そんな経験をしたとすれば、それは「自分に語る、自己に言い聞かせる」という特殊な振る舞いだと思われます。行為に先立ってはっきりと経験されているのは強い意志の存在ではなく、「自分に語るという行為」なのです。
「意志」概念を用いて行為を説明するのは無理だと思うのです。
古典的意志理論は、行為者の内面にある「意志」や心的な起因が、原因となって身体運動を引き起こすという見方です。つまり、内面的な心的状態が行為の原因であるとみなしますが、これは、先に記したように無理があるようです。
(2)意図的行為の解明:アンスコムが示した方向性
G・E・M・アンスコム(G. E. M. Anscombe)は、古典的意志理論を批判し、現代行為論の転換点となった「意図」論を提唱しました。アンスコムは、ある行為が「意図的行為」であるかどうかは、「なぜ(Why?)」という問い(理由を問う問い)が適切に適用できるかによって決まると論じました。
行為を「単なる身体運動+内面的な心的原因(意志)」に還元するのではなく、行為者が「自分が何をしているか」を観察なし(客観的な外からの観察なし)に知っていること(観察なしの知識)や、行為の「理由の文脈」のなかで把握する方向性を提示しました。
確かに、欠伸には意図はないでしょうし、水を飲むのには意図があると言えます。
(3)ハイデガー行為論の基本的発想
池田喬さんは、アンスコムらの現代行為論を踏まえた上で、『存在と時間』におけるハイデガーの日常的行為の捉え方を接続・紐解いています。(池田喬2024「ハイデガーと現代現象学」勁草書房)
ハイデガーにおいて、人間の行為は「まず理論的・内面的な意志決定を行ってから身体を動かす」といったものではありません。私たちはすでに意味づけられた「世界」の中にあり、道具を使いこなす日常的な交渉(配慮的交渉)の中で直接的に行動しています。ここでは、道具の役割や文脈のつながり(指示連関)を察知して適切に行動する(配視)」の働きが重要であり、行為は環境や状況との直接的な結びつきの中(配慮的気遣い)で成立していることが示されています。
また、ハイデガーはモノに対する関わりを「配慮」、他者に対する関わりを「顧慮」と区別しています。なぜなら、他者は道具のように、用立てたり使用したりという仕方で気遣われるのではないからです。
人間の行為のうち、道具や環境に働きかけるものは「配慮的気遣い」、他者に向かう行為は「顧慮的気遣い」になります。
※配慮的交渉:人間が日常世界の中で、道具などの事物に対して行う「実用的な関わりや使用のあり方」頭で理屈を考えて対象を客観的に観察するのではなく、手や体を動かして道具を便利に使いこなすような、生活に根ざした営みのこと。
※配視:人間が道具を日常的に使いこなす際に行っている、周囲を見渡し状況を適切につかむ実践的な知覚や目配りのことです。客観的な理論思考とは異なり、身体的な作業の中でモノの役割を瞬時に理解する能力を指します。
※配慮的気遣い:人間が世界の中で道具やモノ(存在者)に関わり、それらを利用・操作して生きるあり方のことです。人間(現存在)の根源的あり方である「気遣い」のなかで、対象が人ではなく道具や事物に向かう態度を指します。
※顧慮的気遣い:人間が他の人(他者)に向かって関わり、気をつかうあり方のことです。道具などのモノに対する「配慮的気遣い」とは区別され、共同で生きる他者との関係性を示す重要な概念。
池田喬さんは、ハイデガーの行為理解を「実存論的行為論」として次のように整理しています。
個々の行為における「何のために」という目的の連関(例:釘を打つのは、棚を作るため)を遡っていくと、最終的に「そのつどの自分自身のため」に行き着きます。
ハイデガーの行為論は、単に「いかにして個別の動作が意図的になるか」という狭い行為理論にとどまらず、「自分は誰であるのか」「どのような存在であろうとするのか」という人間の「自己了解(実存的可能性)」の構造連関に基づいて行為を説明する点に特徴があります。
