介護の熟練技を言語化~「介護相互行為論」(No7終)
7.ケアの現象学
現象学者である村上靖彦さんらの「ケアの現象学」は、メルロ=ポンティの身体現象学を単なる抽象的な哲学的枠組みにとどめず、「看護・介護・精神医療の語り(エピソード)を微細に分析するための精密な記述の臨床的ツール」として応用・展開しています。
村上さんらがメルロ=ポンティの概念をどのように現場の分析に応用し、独自の知見へと昇華させているのか、その特徴的なアプローチと主要な概念の展開を整理します。
(1)「三人称の身体(解剖学的肉体)」から「一人称・二人称の身体」へのアプローチ
介護や臨床現場では、患者・利用者の身体は心拍数や病名、介護度、ADL評価といった「客観的・医学的なデータ(三人称の身体)」として捉えられがちです。
村上さんは、メルロ=ポンティの「生きられた身体」の概念を軸に、ケアの現場で起こっている現象を「一人称(本人が感じている世界)」および「二人称(ケア者と被ケア者のあわい(間)に立ち現れる身体的関係)」の次元から再記述します。
実践への応用
「認知症で介助が必要な高齢者」という三人称の記述を退け、「その時、その人の身体がどの方向に引っ張られ、どう空間を感じ、介護者の手にどう応答(あるいは防衛)したか」というミクロな身体的プロセスの記述へと転換させます。
(2)メルロ=ポンティ概念の臨床的展開・発展
村上靖彦さんらは、メルロ=ポンティの基礎概念をケアの文脈に合わせて以下のように深化・応用させています。
① 「間身体性」の再定義と「介護の技能」の解体
メルロ=ポンティの「間身体性」は、一般的には身体の相互同調や共鳴を指しますが、村上さんはこれを精神科看護や訪問看護、重症心身障害児の介護などの「現場の語り」から分析します。
・二つの身体が混じり合う「あいだ(In-between)」の生成
ベテランの看護職や介護職員が患者に触れるとき、介護者は「自分の身体運動」と「相手の身体運動」の境界を透過させ、ひとつの共有された運動・知覚の場を作り出します。
・ユマニチュード等の解釈
村上さんはユマニチュードなどの技法を「単なる標準化されたマニュアル」としてではなく、介護者が自らの身体の姿勢や眼差しを調整することで「相手の崩れそうな身体的自己(身体図式)を立ち上げ直す、間身体的な技(わざ)」として現象学的に解釈・評価しています。
② 「身体図式」の変容とケアによる再構築
病気、障害、老い、あるいはトラウマによって、人の「身体図式(世界と滑らかに関わる身体的な枠組み)」は破壊され、世界が脅威として立ち現れます(例:脳卒中後の麻痺、認知症による時間や空間の失認、精神科患者の心身の苦痛)。
・介護の役割の再定義
村上現象学においてケア(介護)とは、「傷つき、崩壊した相手の身体図式を、介護者の身体や環境の差し出しによって一時的に補完し、世界との繋がりを再構築する営み」と捉え直されます。
介護者が車椅子への移乗で背中に手を添える行為は、単なる物理的介助ではなく、「ここまでは安全だ」という空間の境界線を相手の身体図式に付与する行為なのです。
③ 「前反省的領域」の聴き取り(質的研究メソッドの構築)
村上さんの功績の一つは、メルロ=ポンティの哲学をベースにした独自の「質的心理学・現象学的インタビュー法」を確立した点にあります。
語り手(看護介護職や患者)に「どう思ったか(概念・意見)」を聞くのではなく、「その時、具体的に手がどう動いたか」「どのような音が聞こえ、どう身体が硬直したか」という、思考以前の「前反省的な出来事」を詳細に問います。
これにより、論文やマニュアルには残らない「介護者の無意識の身体的配慮」や「被介護者の微細な身体的苦痛」を言語化(エピソード記述)することに成功しています。
(3)村上靖彦「ケアの現象学」の独自性
ハイデガーに影響を受けたケア(介護)論が、「配慮(気遣い)」や「自己了解」「物語(ナラティブ)」といった意味や自己の全体性を重視する傾向があるのに対し、村上さんのメルロ=ポンティ的アプローチには以下のような際立った特徴があります。

村上靖彦さんらは、メルロ=ポンティの身体現象学を臨床に応用することで、以下のようなインパクトをケアの現場にもたらしています。
①言語化不能な「熟練者の技(勘やコツ)」の言語化
「なぜあの人が介助すると利用者が落ち着くのか」という謎を、言葉以前の「間身体的な視線の合わせ方」「皮膚の触れ方の圧力」「呼吸の調和」といったミクロなレベルで分析・言語化しました。
②「言葉を持たない人(認知症・重症心身障害)」の主体性の救出
概念的な自己了解が困難な人々であっても、身体を通じて世界と深く関わり、ケア(介護者)者と確かな「相互行為(間身体的対話)」を行っていることを明確に証示しました。
村上さんらのアプローチは、メルロ=ポンティの哲学を机上の空論から救い出し、「現場のケア者たちの手元で輝く実用的な解釈の道具」として見事に展開させた極めて実践的な知の試みと言えます。
村上靖彦さんの「現象学的な質的研究」については、以下のnoteをご参照ください。
