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身体レベルの相互行為~「介護相互行為論」No3


3.身体レベルの相互行為

 フランスの哲学者、モーリス・メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty)の身体現象学、とりわけ「身体図式」や「習慣」、そして「間身体性」の概念を用いると、ハイデガーの理論(実存・世界・配慮・顧慮)以上に「認知症介護における身体レベルの相互行為」をきめ細やかに説明することができそうです。
 認知症の進行によって「頭(知的・言語的思考)」によるコミュニケーションや目的理解が困難になっても、「身体(前反省的な運動・知覚)」は世界や他者と深く繋がり続けています。
 メルロ=ポンティの視点から、認知症介護における相互行為の成立構造を紐解いてみたいと思います。

(1)「身体図式」と「習慣」~言葉を越える身体的記憶

 メルロ=ポンティは、人間の身体を単なる物質ではなく、「世界へと開き、意味を直接つかみ取る主体(知覚する身体)」として捉えました。この考えの中核には「身体図式」「習慣」という概念があります。
 身体図式とは、自分の身体の位置や周囲の空間、道具との距離感を、頭で計算することなく一括して把握している前反省的な知覚の枠組みのことです。
 習慣とは、知識や記憶(知的理解)として頭で覚えるのではなく、「身体図式の中に世界との交渉の仕方が組み込まれること(身体化)」です。

 例えば、認知症によって「お茶を飲む」「服を着る」「車椅子に移乗する」といった行為の意味(概念)が理解できなくなっても、身体図式に染みついた「習慣(身体的記憶)」は最期まで残りやすいとされます。
 また、食事の場面で、介護者が言葉で「食べてください」と促さなくても、茶碗を手に握らせて口元へ近づけると、身体が反射的に「受け取る・口を動かす」という習慣的な連続運動を開始します。
 このように、身体的相互行為の観点では、これは「意図や言葉の共有」ではなく、「介護者から与えられた身体的刺激に、認知症者の身体図式が応答する」という身体運動としての相互行為なのです。

 なお、身体図式については、以下のnoteをご参照ください。

(2)「間身体性」~身体同士の直接的な対話

 メルロ=ポンティの重要な概念の一つが「間身体性」です。人間は、言葉や頭の理解で他者とつながる以前に、「身体と身体が直接的に共鳴・同期し合う層」で他者と結びついています。
 介護者と被介護者は、意識的なコミュニケーションをとる前から、すでに「間身体的」な対話を行っています。
 例えば、赤ちゃんが大人の笑顔を見て自然と微笑み返すように、人間は他者の身体運動を自分の身体で「なぞる(シミュレートする)」能力を持っているのです。介助の際、介護者が焦って全身の筋肉を硬直させていると、被介護者の身体も即座に緊張して拒否(筋緊張や抵抗)を示します。逆に、介護者がリラックスして深い呼吸で触れると、相手の身体も緩みます。
 このように、介護における相互行為とは、「介護者の意図を言葉で被介護者者に理解させること」だけではなく、「二つの身体が触れ合い、呼吸や姿勢、筋緊張のレベルで調和・同調(アンサンブル)を奏でること」でもあるのです。

(3)「アフォーダンス(世界の呼びかけ)」と身体的応答

 メルロ=ポンティにおいて、空間や物は単なる「無機質な対象」ではなく、身体に対して特定の行為を促す「呼びかけ(意味)」を持っています
認知症者においても、この「世界からの呼びかけに身体が応じる構造」は維持されています。
 例えば、廊下に落ちているゴミを見つけると、頭で「掃除をしよう」と思う前に、身体が自然と屈んで拾い上げたりすることがあります。認知症者もテーブルの上に馴染みの湯呑みが置かれると、身体が自然と手を伸ばして包み込むことがあるのです。
 介護者が環境や道具を「身体が自然に応答しやすい形」で配置(提示)し、認知症者が身体的に応答するとき、そこには「環境−介護者−認知症者」が一体となった三者間の相互行為が立ち現れるのです。

(4)ハイデガーとメルロ=ポンティの比較(認知症介護において)

 ハイデガーとメルロ=ポンティの現象学の視点を比較すると、相互行為としての介護をより重層的に捉えることができます。

ハイデガーとメルロ=ポンティの視点の比較

 メルロ=ポンティの身体現象学からすると、認知症介護において言葉やロジックによる相互理解は失われても、身体図式や習慣、そして触れ合いを通じた「間身体性」の層において、相互行為は一貫して可能であり続けていると言えるのです。
 介護者は、認知症者を「言葉が通じない相手」と捉えるのではなく、「身体の微小なサイン(皮膚の緊張、視線の動き、呼吸のリズム、自発的な手さばき)を通じて対話を続けている主体」として捉え直すことが大切です。
 認知症介護とは、頭(意識)の対話から「身体と身体の対話」へとコミュニケーションのチャンネルを切り替えるプロセスそのものだと言えます。

(5)補論~身体図式や習慣は「行為」か?~

 行為に「明示的な反省的意図」が不可欠だとするならば、メルロ=ポンティの言う「身体図式」や「習慣」は、厳密な意味での「行為」とは呼べないのではないでしょうか。
 
確かに、心的な「意図」や「目的の表象」が原因となり、手足がそれに従って動くという因果モデルに従うと、無意識的な身体図式や習慣は「反射」や「自動的反応」に分類されるでしょう。
 しかし、メルロ=ポンティは、身体は単なる道具や機械ではなく、世界をあらかじめ理解し、状況に直接応じる「知覚する主体」と考えます。意識的な計画(何をするかという思考)がなくても、目の前の階段を上る、あるいは道具(杖や自動車)を自分の延長として使いこなすとき、身体はすでに「世界へ向かう意味の方向づけ」を持っています。
 また、「習慣」とは単なる機械的反復ではなく、状況の変化に身体が自ら適応していく「身についた技能(スタイル)」であり、そこに実践的な理解が宿っているのです。
 これらを「意図的ではないから非行為」とするのは人間の活動の一面しか見ておらず、これらこそがすべての意識的行為を支える根源的な「行為(振る舞い)」そのもの、つまり広義の「行為とみなすことができる」と思います。換言するならば、「行為は身体図式や習慣に根ざしている」ということだと思います。



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