8ヶ月で描いた○□1000個、線1000本が導いた静かな境地
第1章 原点
視覚思考という生まれつきの眼差し
社会人5年目でした、「自分が視覚的に考える人間」なのだと自覚したのは。当時、会社の研修でピーター・センゲの『学習する組織』をベースにしたプログラムに参加し、そこで「システム思考」という考え方に出会います。中でも、思考の構造を“図”で表現するという手法、システム図の存在が、強く心に残りました。
有名な例としては、Amazonのジェフ・ベゾスが描いたナプキンの図があります。

どんな因子が存在し、それが前後の要素とどう関係し、どう影響するか。その全体像を視覚的に、瞬時に理解できる。人にも説明できる。それは私が求めていた思考のあり方、表現のかたち。そう直観的に感じたのです。
それからは堰を切ったかのように図を描き続けました。
仕事では、組織内の流れや仕組み、社会構造を可視化するために。プライベートでは、言葉にできない“もやもや”を整理するために。
図を描くことは、自分の内面と外の世界をつなげる唯一の方法になっていきました。
図の種類とシステム図の可能性
図には、いろいろな形式があります。
グラフ、表、ツリー、フローチャート、……。

けれど、「構造」を見るという観点で、もっとも本質に迫るのがシステム図です。それは、要素と要素の“つながり”や“ループ”を一枚の平面で表せる、唯一の図解手法だからです。単なる要因分析や分類では見えない、全体の因果関係と構造のうねりを描くことができる。
特に、社会は一方向には動きません。
社会の構造も、コミュニケーションも、こちらの世界とあちらの世界が影響し合う関係性で成り立っています。そのループ構造を視覚化できることが、今こそ求められているのです。
今、社会はますます複雑になっています。格差社会、イデオロギー対立、SNS、環境問題、ジェンダー、教育、メンタルヘルス……。
すべては複雑につながり合い、単純な「原因と結果」では説明できないものばかりです。
そんな時代に登場してきたのが、社会課題起業家という存在です。彼らは単なる「ビジネス」ではなく、社会問題そのものを構造的に理解し、「構造を変える」ことに挑む人たち。世界の大学や、国内の社会起業プログラムでも、すでにシステム思考と社会課題の組み合わせが取り入れられています。
社会構造を“面”で捉え、「今、どこを動かせば社会が少し前に進むのか」を見つける力。それが、これからの時代に求められる構造的視点=システム思考であり、その思考を可視化するための言語が、システム図です。
ケンブリッジ大学のSystems Thinkingによるアントレプレナーシップを推進されている先生によれば、システム思考を図として描くことは、一見シンプルに見えて、実は非常に難易度が高い。図に落とし込むための思考力、構造的理解力、そして図解の技術。どれも訓練が必要であり、大学の学生でさえ、たった一度の講義では習得できないものだといいます。
実際、ただ闇雲に描けば、図はすぐに入り組んでしまい、第三者にはもちろん、自分でさえ時間が経てば理解できなくなってしまう。構造を捉えるための図なのに、その構造の軸がどこかに消えてしまうのです。
だからこそ、システム図を丁寧に、美しく描ける才能や技術、そして美しいシステム図それ自体に、これからの時代を支える可能性があるのです。
第2章 再生
崩れた心と、再起のきっかけ
システム図という武器を手にしてから、私は社会人としての年月を重ねていきました。徐々に会社の中でも中堅になり、出世も意識するようになっていました。
でも私は気づいていなかったのです。
自分の中で、知らぬ間に肥大していた自尊心に。「本当にやりたいこと」よりも、いつの間にか人との比較ばかりに心が向いていたことに。
子どものころからあがり症でした。あがり症は人の目を気にしすぎる心の動きです。大人になっても、その性質は変わらず、心の奥にじわじわと焦りや周囲への苛立ちが溜まっていきました。でも、そのうねりに、私は気づけていなかったのです。
もちろん、自分の心をシステム図にすることはありました。「自分の心が、こう動いている」。そうやって図を描きながら、自分の感情に気づこうとしていた。沸き起こる感情の乱れを抑えようとした。
けれど、今思えば、その多くは「周りがこうだから、自分はこんな気持ちになる」という周囲への不満混じりの図だったように思います。つまり私は、「心を客観的に理解する」ためではなく、「心の反応を理屈で説明する」ために、図を使っていたのかもしれません。
それでは、心のもやもやは晴れない。
どういった心の動きを目指せばいいのか
どんな感情を感じられるようになればいいのか
そういった“お手本”が、私にはなかったのです。お手本もないまま、私は心の砂漠をさまよっていたのだと思います。
そんな中、昇格試験に挑む機会がやってきました。一年がかりのプロセス。焦りと緊張は日々積もり、最終試験の頃には、心はもう限界に達していました。自分の傾向はわかっていたはずなのに、それでも、どうすることもできなかった。
そして
実力を出し切れずに落ちた試験。その瞬間、まるで人生のどん底に突き落とされたような気持ちになりました。これまで積み上げてきた自分が否定されたような感覚。心のどこかが、ぽっかりと空洞になっていました。
そんな時期でした。有名な本『嫌われる勇気』を惹かれるように書店で手に取ったのは。物語の中の青年と、自分が重なりました。そこには、こんな構造が描かれていました。
特別でありたいと願う自分
取るに足らない普通の自分を受け入れられない自分
「等身大の自分」を見失っている自分
その構造が、私の心にまっすぐ刺さったのです。
その自分に気が付けたのです。
そして、もう一冊。
偶然聴いていたPodcastで知った『ビジュアルシンカーの脳』。
そこには、自分と同じように“視覚で考える”人たちの世界が描かれていました。
「ああ、自分は、ずっとシステム図を描いてきたじゃないか」
「これが好きで、得意なんだ」
何年も描いていたのに全く意識していなかった自分。そんな自分自身にようやく出会えた気がしました。
その瞬間、
まるで雷に打たれたような感覚が走ったのを覚えています。自分の中で、何かが音を立ててほどけ、そして再び、編み直されようとしている。そんな「再発明」の前夜でした。
進化した図
雷に打たれたあの感覚のまま、「嫌われる勇気」の教えを一生モノの知恵にしたい。そう強く願いながら、私は寝る間を惜しんで図解に取り組み始めました。
これまで私が学び、使ってきたシステム思考の図は、通常、〇や□の中に「文章」を書きます。たとえば「誰々がこうなった」「こう考えるようになった」といった文の形です。けれどそれは、図が大きく複雑になるにつれて、読むのも理解するのも大変になっていく。書き手である私ですら、しばらくすると読み返せなくなる。

そして記憶にも残らない。
それが、私が感じていた限界でした。だから私は、図の構造そのものを見直しました。それは、「図の再発明」とも言える試みだったのです。
複雑で繊細な思考の流れを、○と□と線で、できるかぎり簡潔に表す。1つ1つの要素には、「素質」「状況」「行動」「感情」といった単語で描写し、それを線でつなぐことで、流れや因果を視覚的に捉える。けれど本質は削らない。むしろ「見えない構造を、見えるようにする」ことこそが目的。それはまるで、自分の思考回路を紡ぎ出すような作業でした。
そして、完成したのが
アドラー心理学をベースにしたシステム図、思考回路図解。

今でも、その図は記憶からすぐに呼び起こせます。それほど、私の心に深く刻まれたものになりました。図の中には、自分の心の中にある要素たち、感情、反応、無意識の願い、そして幼いころから自分の中にいた「もう一人の自分」。
たとえば、友人でさえ比べる対象にしてしまい、自分に「こうあるべきだ」と厳しく命じていた小さな声。
その存在を、図に描いたことで、ようやく肯定し、寄り添うことができたのです。
第3章 変容
描くことの意味が、だんだんと変わっていく
進化させた図の表現、知識や知恵の捉え方、思考回路の整理の仕方。それらが形になっていくにつれ、私はある思いを抱くようになりました。
「この表現を、誰かに伝えたい」
自分と同じように、心のうねりに困っている人に知ってほしい。それは自然な流れでした。私はSNSでの公開を考えるようになりました。いろいろと調べた末、たどり着いたのが、このnoteという場所でした。
けれど、ただ図を見せて「はい、どうぞ」では伝わらない。図には思考の流れが込められているからこそ、その1つ1つの電気信号のようなつながりを、紙芝居のように丁寧に伝える必要がある。図の再発明に加えて、表現の再発明。その両輪がそろって、私はようやく「他人に伝えるすべ」を手にしたのです。

1つ1つ図を描くたびに、公開していく。そのたびに、自分の心の中にある承認欲求にも気づいていました。けれど同時に、それを上回るような衝動がありました。
「ただ描きたい」
「描くのが、ものすごく楽しい」
その純粋な気持ちに突き動かされ、寝る間も惜しんで本を読み、図を描き続けました。
もともと、SNSにはほとんど触れていませんでした。特に、知らない人とつながることには抵抗がありました。
けれど、noteに公開した図に対して、まったく会ったことのない方から「わかりやすかった」「なにか可能性を感じた」と温かいコメントをいただいたときのことは、今でも忘れられません。胸の奥が、じんわりと熱くなったのを覚えています。
そして、私が描いているようなシンプルで、余白を活かした情報密度の高い図解を、「これはこれで、とても伝わる」と肯定してくださる方もいました。
SNSの世界では、色やイラストを駆使して人目を引く表現が多い中で、私はあえて、構造そのものが立ち上がるようなシンプルさを選んでいました。その選択を、見ず知らずの誰かが「いい」と言ってくれたこと。
その一言が、今も私の背中をそっと押してくれています。
自分の内側からこみ上げる思い。
そして、背中を押してくれた誰かの言葉。
その両方に突き動かされながら、
私はこの8か月間、さまざまな知恵を思考回路の図として形にしていったのです。
図は“心の鏡”になった
2024年10月から始めた思考回路の図解、そして知恵の図解。気づけば、2025年6月には33枚を描いていました。週に1枚のペースです。
数えてみると、〇と□の数は1000個、つないだ線も1000本を超えていました。
下書きも含めるとその数倍はあるので3,4000個を超えているかもしれません。
描き続けた8か月間。図を描くことで、自分の内面を客観視できるようになっていきました。自分の心臓の鼓動にふと気づく、人との空間を意識する、人の感情の動きを、より深いレベルで想像する。
そんな変化が、静かに、自分の中に起きていたのです。
ひたすら描き続けた日々。なんとなく心の中が落ち着いていくのを感じながら、私は〇と□と線に、自分の思考と感情を託し続けていました。
そんなある日。かつて図解コンサルティングで図を差し上げた村岡さんと、6月に再会しました。
そのとき、ふとこう言われたのです。
「なんか、ちょっと変わった?」
その場では「そうですか?(笑)変わってきたんですかね?」と、軽く笑って返しました。けれど、帰りの電車の中で、私はその言葉を何度も思い返していました。
自分は、この8か月間、何をしてきたのだろう?
なぜ、描き続けられたのだろう?
〇と□と線。そこには、自分の思考の構造、心の流れ、知恵のかたちが詰まっていた。そして、気がついたのです。
「これは“写経”だったのかもしれない」と。
写経
それは、お釈迦様の言葉を綴った経典を一字一句書き写すことで、その中に込められた人間の普遍的な悩みや真理を、自らの中に沁み込ませていく行為。
私が続けてきた図解も、まさにそれに似ていました。心理学や社会の構造を一つ一つ整えながら、描くことで、それらを少しずつ自分の中に沁み込ませていたのです。
アドラー心理学が説く「等身大の自分を受け入れる」という教え。それは、仏教の教えとも重なります。
ただ生きているだけで、すでにかけがえのない存在である
人は人との“縁”によってつながっている
私は、そうした人間の心の在り方、目指すべき心理や思考回路を、描いていたのかもしれません。そしてようやく、今なら言える気がします。
これは、図解ではなく、私なりの“精神修行”だったのだと。
気づかぬうちに、私は静かに、自分を磨いていたのです。
第4章 未来
新しいプログラムの構想 〜図解写経という道〜
私がこの8か月間で積み上げてきた図解の営み。ふと振り返ったとき、それは単なる図の制作ではなく、“心の写経”のようなものだったのかもしれないと気づきました。
仏教の写経にある「静かな自己対話」
心理学が導く「心の分析」
そして、システム思考の「構造的理解」
この三つを静かに重ね合わせた、まったく新しい形の自己対話のプログラム。それが、いま私の頭の中に生まれつつある構想です。
名前は、「図解写経」。
これは、単に図を見る・読むのではありません。
「自らの手で、思考回路の図を“描き写す”」という行為。そのプロセスの中で、思考の構造をより深く理解し、心の内に静かに耳を澄ませていく時間になるのです。

線を引く。〇や□を置く。そこに文字を込める。
その手の動きは、まるで呼吸のように思考と感情を整えていきます。心のノイズがすこしずつ静まり、自分の本当の声に触れていける。そんな体験が、この“図解写経”にはあるのではないかと感じています。

いま、世の中には「見るだけ」「読むだけ」「薦められるだけ」の情報が溢れています。そのなかで、私たちはいつしか他人の思考を受け取ることに慣れ、自分との対話を置き去りにしてきたのかもしれません。
だからこそ。「描く」ことで、自分を取り戻す。
それが、図解写経が目指す、新しい“心の整え方”です。
古典的な写経は、漢文のお経を書き写すという行為でした。しかし、いまの私たちにとってその形は、やや遠いものかもしれません。
ならば。現代に合った、新しい写経のかたちを。図と線と構造の言語で、心を整えていく新しい修行のスタイルを。
私は、そうした仮説を胸に、「図解写経」というプログラムを構想し始めています。
現代の心に苦しむ人たちにとっての、新時代の道具、そして新しい習慣。そうなり得る可能性があるのではないかと、今、私は信じ始めているのです。
自分自身の未来へ:図解は個人の癒しを超えて
現代人の心は、日々の情報と刺激にさらされ、深く自分と向き合う機会を、少しずつ失ってきているのかもしれません。
たとえばこんな風に:
SNS時代の断片的で浅い自己表現
情報過多・選択疲れによる“内的ノイズ”
生成AI, 動画学習の加速による「受け身型思考」の定着
自己対話の機会不足
マインドフルネスの形骸化
哲学や心理学の「読みづらさ」と「孤立感」
感情の言語化の難しさによる自己理解の停滞
孤独な学びの限界
こうした環境のなかで、私たちは「等身大の自分」を見失いがちです。個人の「自己愛」があふれる社会に、大人として他者への母性的、父性的まなざしを与える存在が増えていくきっかけが、今後の私たちの社会を心地よいものにするために求められているのです。
ある人は「自分はもっと特別でなければ」と自尊心を過剰にふくらませ、またある人は「自分は人より劣っている」と不必要に自分を責めてしまう。
私自身も、そのどちらもを経験してきました。そして、きっとこれからも、そうした葛藤とともに生きていくのだと思います。
そんな現代の風景のなかで、だから「図解写経」がそれに対する挑戦になるのか。今の自分はワクワクしています。社会が劇的に変わるわけではない。もしかすると、これは友人とたまに楽しむ“ちょっとした遊び”にすぎないかもしれない。
でも
「自分が何か変わった」という静かな実感だけは、確かにここにある。
それだけは、誰かに伝えてみたいのです。
そして、これから10年もしないうちに思春期を迎える娘と、そんな未来のある日にも、一緒に図解写経を描いていたい。
そう思いながら、今日も私はまた1枚、静かに線を引いていきます。
最後に
図を描くことで、自分を知り、自分を癒し、そして他者に伝える。それはいつしか、誰かの心をほどくための“写経”になっていた。図は、知識を整理するためだけの道具ではなくなったのです。
8ヶ月で描いた〇□1000個と1000本の線。それは、私自身の心の深部を編み直し、静かな境地へと導いてくれた旅でした。
そしてこの「図解写経」の仮説が他者にも届くのかを試すために、実際にワークショップも開催してみました。
体験の記録と、そこから見えた可能性については、以下の記事でまとめています
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