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表現の自由研究「幸福」

どうも、プロレスとか役者さんポートレートを撮っているたかはしです。

あなたは幸せですか?

文献や動画を参考に考えをゆるくまとめる、大人の自由研究企画。
今回は「幸福」について。

人生において、幸せか不幸せかという評価軸は、常に付きまとうものです。
冒頭から怪しい勧誘文句を発しておりますが。
しかし、何をもって幸せなのか、不幸せなのか、様々な主張が日々飛び交っており、その基準が分からないでいます。

じゃあ私はどうなのかと申しますと、恵まれていて幸せだと思う面、絶望するほど不幸せだと思う面、両方持ち合わせています。
そして可能なら幸福な人生を歩みたいとも。
さもないと自ら命を絶ちかねないほど認知が歪んでおりますので。。。

本稿では歴史的名著、そしてnoteの素敵な記事から印象を交えて、「幸福とは」という問いに対しての回答を出してみたいと思います。
そのうえで、「写真で幸福は表現可能か」についてを述べていきます。

企画の概要、各回へのリンクはこちら

1.結論

最初に結論から。

人生はそもそも不幸なものであって、不幸でない「まずますの人生」が幸福な人生
「自分は何者なのか」を認識している状態が、幸福な状態

結論だけですと意味不明かと思いますので、文献の引用を参考に紐解いていきます。

2.不幸

今回、複数の幸福に関する文献を参考にしました(一覧は末尾)。
アラン『幸福論』、ヒルティ『幸福論』、ショーペンハウアー『幸福について』、などなど。
どの書物でも共通して、「どのような状態が不幸なのか」を通じて幸福を考察するという、逆説的な論証が行われていました。

つまるところ、幸福について考える前に、不幸について考えることが大事そうです。
ヒルティは著書のなかで次のように述べています。

不幸は、人間の生活につきものということである。いくぶん逆説的にいえば、不幸は幸福のために必要だというころである。

ヒルティ『幸福論』 草間平作・訳 岩波文庫
p.238 より引用

また、ショーペンハウアーは次のように述べています。

ふつうの人は、人生の楽しみに関して、自己の外部に頼る。財産や位階、妻子や友人や社交などに頼る。彼の人生の幸福はこうしたものに支えられている。だから彼がそれらを失ったり、それらに幻滅したりすると、幸福は崩れる。

ショーペンハウアー『幸福について』 鈴木芳子・訳 光文社古典新訳文庫
p.59 より引用

前提として、この世は地獄のような「不幸な世界」であって、その中に見る希望としての「幸福」が存在すると考えることが良い、という主張に読み取れます。
この考え方は仏教の思想にも似通ったものがあり、「いかに苦しいこの世の中を安らかに生き抜くか」という術が求められてきた歴史とも一致します。

最近では、マイケル・サンデル著『実力も運のうち』にて、「人生における資産・学歴・努力の才能は生まれた環境に依存し、各所得層のヒエラルキーは簡単に覆らない」と論じていました。
生まれという、自分の力でどうこうできない問題に端を発して、人生の幸せの総量も変わってしまうのかも、下手すると最初の不幸さの程度も違うのかも、と思わされます。

しかし、ショーペンハウアーは反論となる材料を提示してくれました。

3.名声と名誉

ショーペンハウアーは次のように述べています。

私たちは世間にいかなるイメージ、表象・印象を与えるか、すなわち私たちは他人の目にどう映るかは、前述したように「名誉」と「位階」と「名声」に分類できる。

ショーペンハウアー「幸福について」 鈴木芳子・訳 光文社古典新訳文庫
P.102 より引用

3つの中から、名声と名誉について抜き出します。
辞書的な説明をするなら、
名声:よい評判、立派で優れていると世間から言われること
名誉才能や努力の結果などに関する評価、光栄
とできます。

ショーペンハウアーは、名声を「獲得するもの」、名誉を「最初から持っているもの」とし、次のように対比しています。

名誉は同じ境遇にある者全員に要求されるが、名声は相手が誰であろうと要求してはならない。
名誉は、だれもが公然と自認してよいが、名声は、だれひとり自認してはならない。
名誉は、本人に関する情報が及ぶところまで及ぶのに対して、名声は、本人に関する情報よりも先走りして、名声そのものが及ぶところまで情報を運ぶ。
名誉を主張する権利はだれにでもあるが、名声は並なずれた功績がなければ得られないので、例外的人物だけが主張できる。

ショーペンハウアー「幸福について」 鈴木芳子・訳 光文社古典新訳文庫
p.160 より引用

要約するなら、名誉は「全員が最初から100点持っていて、加点も減点もある」、名声は「0からスタートして、上限なしの積み上げ」とできるでしょう。
前項の「生まれによってスタートが変わる」という主張は、名声の初期値、ないし伸ばしやすさに差が発生している、とも取れます。

しかし、名声は真に人を幸せにしないと主張します。

名声は元来、他者との比較のうえに成り立つ。したがって名声は、本質的に相対的なものであり、相対的な価値しか持ちえない。

ショーペンハウアー「幸福について」 鈴木芳子・訳 光文社古典新訳文庫
p.174 より引用

真に人を幸せにするのは、名声ではなく、名声を得た所以のもの、すなわち功績そのものであり、もっと詳しく言えば(中略)功績を生み出す心映えと能力である

ショーペンハウアー「幸福について」 鈴木芳子・訳 光文社古典新訳文庫
p.178 より引用

名声を欠くのは、単に無名という事であり、現実に何かが失われるわけではないという消極的なものだが、名誉を欠くのは、恥であり、現実に何かが失われるという消極的な意味合いをもつ。

ショーペンハウアー「幸福について」 鈴木芳子・訳 光文社古典新訳文庫
p.108 より引用

この名声と名誉、現代のインフルエンサーを形容する言葉と捉えられないでしょうか。
何かしらで実績を上げ、他者と比較して大きな拡散力(=名声)を得た人間が、企業によって広告塔として活躍するような。
インフルエンサーの素晴らしいところは、その拡散力を得た過程にあって、それが汚い手法であったり、不祥事を起こす(=名誉を欠く)ことがあれば失墜するような。

そう、人気そのものや拡散力そのものは、資本主義社会的には価値のある資産として捉えられますが、一人の人間を評価する軸としては不適格なのです。
幸せは、SNSで多くのフォロワーを集めたり、企業からの広告依頼がたくさん来たり、そのものによって得られるものではない、と。

4.幸せになるには、幸福とは

名声と名誉についてまとめてきました。
では、実際幸せになるためには、それらをどう捉えたらいいのでしょうか。

アランは次のように述べています。

もし、あなたが自分の外部で、世界のなかで幸福をさがすなら、けっしてなにものも幸福の姿をとらないだろう。

アラン「幸福論」 白井健三郎・訳 集英社文庫
p.270 より引用

自分の外部というのは、つまり名声と言っていいでしょう。
反対に自分の内部について、ヒルティは次のように述べています。

内的なものには、やましくない良心、徳、仕事、隣人愛、宗教、偉大な思想と事業とにたずさわる生活などがある。

ヒルティ「幸福論」 草間平作・訳 岩波文庫
p.210 より引用

ここで、前回の「愛」でも出てきた「隣人愛」が提示されました。
どうやら幸福を語る上でも、愛についての知見が必要そうです。

その上で、もっとズバッと論じたのがショーペンハウアーでした。
本の冒頭にて、幸福を語る上で「三つの根本規定」を提示しています。
その一番目。

一、その人は何者であるか。すなわち最も広義における人品、人柄、個性、人間性である。

ショーペンハウアー「幸福について」 鈴木芳子・訳 光文社古典新訳文庫
p.12 より引用

「その人は何者であるか」。
言うなれば「自己愛」
でしょう。
更に引用してみます。

「人間の幸福の主たる源泉はみずからの内面にある」という真実は、いかなる楽しみも何らかの活動、すなわち、なんらかの力の活用を前提とし、(中略)「人間の幸福は、自分の際立った能力を自由自在に発揮することにある」

ショーペンハウアー「幸福について」 鈴木芳子・訳 光文社古典新訳文庫
p.51 より引用

「その人はその人自身にとって何者であるか」ということの価値を、単なる「他人の目にどう映るか」と比べて正しく評価すれば、私たちの幸福に大いに役立つだろう。

ショーペンハウアー「幸福について」 鈴木芳子・訳 光文社古典新訳文庫
p.88 より引用

名声が相対的で空虚な理由は、自分以外から認めてもらうほかに得られないからです。
インフルエンサーの例で出した通り、その結果を出したことは凄いのですが、結果そのものは「他人から見た像」に他なりません。

幸福に必要なのは「名誉」であり「自己愛」。
他者を通してではなく、自己愛を通じて「自分は何者なのか」を認識できてこそ、幸福なのではないでしょうか。

5.幸福は表現可能か

写真というのは、ものすごく客観的なものです。
自分が見ている光景をレンズを通して具体化する以上、得られることのほとんどが視覚情報です。
心情を表現しようとする「心情写真」というジャンルも存在しますが。

そのなかで人物撮影たるポートレートにおいて、幸福を表現する事には限界があるでしょう。
どう頑張っても「第三者の客観的な人物像」ですから。

できるとすると、友愛・恋愛・家族愛のような「愛」の形で、表情や空気から幸福感を出すことは考えられます。
では、自己愛の表現として、「幸福な一人の人間」を描けるでしょうか。
私の頭ではできませんでした。

しかしこう考えました。
その人の「自分は何者なのか」の回答に近づく手助けが可能なら、写真表現を通じた幸福の実現に繋がるのではないか、と。

ポートレート、もとい写真というのは、撮影に際して作為が発生します。
どう切り取るのか、どのような明るさにするのか、どのように編集するのか、など。
この作為を都合よく練って、「第三者の客観的な人物像」を可能な限り小さくできるとしたら、幸福や自己愛を醸成するための材料になる、と考えています。

撮影のコンセプトである『風景のように、スナップのように、小説のように、人を撮る』であったり、『「ファインダー越しの私の世界」に「私」を感じて欲しくないのです。』は、私という人間の視界とは切り離した写真にしたい、という考えの現れです。

考えの基底には、自分という存在、ひいては自分の性別への嫌悪が存在します(LGBTQ+のような考え方とは切り離しています)。
『無意識に設定していた「鑑賞者=男性」を壊す1枚の写真』で述べていますが、撮影した写真を「男性(≒自分)に見てもらう」とか、「誰か(≒自分)のフェチズムを刺激する材料にする」というものにしたくないのです。

その場での姿を、私の目線を超越した誰か、言うなれば絵本の読者のような視点で写真を見てほしい。
その読者こそ、私の写真の鑑賞者として設定したい人で、一人目はモデルさんご本人。
ご本人が「絵本を読んでいるように」写真を見ることが出来れば、自分の新たな一面を見ることに繋がって、「自分とは何者か」を探る手掛かりにできるのだと。

すごく間接的になら、写真でも幸福を表現できるのかもしれません。
そう信じてます。

そして自分に。
素敵な言葉に出会ったでご紹介を。

ずっとずっと何にも属さず、染まらず、生きてきたい。
私にはずっとつきまとう欲求もきっと
「この幸せになると不安になる」
から来ているのかもしれない。

歳を重ねるごとに寂しさが増す
心に文字通りぽっかりと穴を開けていく。
失っていく。
そう思ってたけど
もしかしたら
自分で壊しにいっているのかもしれない。

幸せになるって勇気がいる。


6.感想

疲れた。
ただ疲れました。

4月中に撮影を活発にした結果、撮影とレタッチと仕事に追われ、本を読む時間を上手く作れませんでした。
結果的に、ゴールデンウイークのうち4日間を記事執筆と参考文献を読む時間に費やしてしまいました…

なにより文字数が過去最大になっています。
創作の本質は削ぎ落すことにあると言いますが、私にはまだ力が足りていないと認識させられました。

しかし今回の記事を書いたことで、色々学びが多かったです。
特に自分の撮影コンセプトに結論を導けたこと。
歴史的名著を読んでいないコンプレックスを多少改善できたこと。
やってみて得たものが実感できているのは大きいです。

その一方、未だに「鑑賞者は誰なのか」を明確に設定できていないのは難しい点だなと感じています。
一人目をご本人にしたのはいいものの、かつて「誰かのスキにステキを」というコンセプトを立ち上げた時は「ファンの方」と言っていただけに…
かえって自己撞着に陥ってる節があるので、モデルさんとか写真仲間と話していく中で解決していきたいなと思っています。

さて、6月ですが予定通り「色」というテーマで書きます。
ただし5月が予定ツメツメなことと、本業の勉強もあるので、参考文献少なめのゆるい記事にしたいなと思っています。

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それでは。

7.参考文献


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